黄昏の姫と緑の勇者   作:nocomimi

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ドサンコフ夫人の執着

「あの女、ひょっとしてお前を殺そうとしてるんじゃあないのか?」

 

ミドナは言った。リンクはそれを聞いてしばらく絶句したが、慌てて反論した。

 

「そ....そんなわけないじゃないか、いったい何を言っているんだ?」

 

「一度のみならず二度までもお前を魔物の潜む部屋に誘導した。そうだろ?」

 

ミドナは意識を集中するように顎に手を当てて目を細め、宙を見つめた。

 

「間違いにしちゃあ出来過ぎてる。それに普通、他人を危険な場所に行かせるとわかっていたら警告するはずだ」

 

そう言われたリンクは少し考えたが首を振った。

 

「いくらなんでも考えすぎだよミドナ。彼女は高熱を出して記憶が錯乱していたんだ。きっとそうに違いないよ」

 

まだ言い足りず、リンクは言葉を継いだ。

 

「彼女は素朴なひとだよ。城下町の人たちとは違う。僕にこの館にいて欲しくないと思っているならはっきり言うはずだよ。出ていってくれってね」

 

溜め息をついてリンクは続けた。

 

「ミドナ、いくら君の推理でもこればっかりは賛成できない。君はもしかして彼女に偏見があるんじゃないのか?」

 

「リンク、私はお前を心配して言っているんだ。私が最も見たくないのはお前が犬死にするところだ」

 

ミドナはリンクを見ると言った。

 

「それはありがたいけど....」

 

リンクは言葉に詰まった。

 

「リンク、お前に分かりやすい言葉で説明しよう」

 

ミドナは腕を組んだ。

 

「あの女は既に鏡の魔力に魅入られていると思う。取り憑かれていると言ってもいい。それならお前にもわかるだろう?」

 

「取り憑かれている...」

 

リンクの心にゴロン族の族長ダルボスの姿が浮かんだ。あの義理堅く男気のある族長も、影の結晶に魅入られている間は怪物になってしまっていたのだ。

 

「だけど、ミドナ」

 

リンクは反論した。

 

「マトーニャは僕と普通に会話できていたよ。鏡の魔力に魅入られていたらもっと攻撃的になるんじゃないのかい?」

 

「そこが難しいんだ」

 

ミドナは認めつつも、手を広げて説明した。

 

「人間はときとして表層意識と深層意識では違うことを考えることがある。あの女も表層では自分は善い人間でありたいと願い、はるばる旅してきたお前を良く接遇したいと考えているが、深層意識ではお前が鏡を奪いに来たと思って憎んでいる。そういうこともあり得ると私は思っているが、どうだ?」

 

「そんな難しい話は僕にはわからないよ」

 

リンクはまた首を振った。

 

「リンク、現にあの女は目線を送るだけで扉を塞いでいた金網を操作することができた。そんなことは普通の人間ではありえないぞ?」

 

確かにそうだった。リンクはそのとき感じた何とも言えない違和感を思い出した。

 

「だが魔力に魅入られて自らも魔力を身に着けたというなら説明はつく。あの女はもともとは善良だったのかもしれない。だがいずれにせよもう元の彼女ではないんだ」

 

ミドナにそう言われリンクはマトーニャの態度を思い返した。そして考えれば考えるほど、あの柔和な言動の裏には秘められた悪意があったのではないかという疑念が湧いてくるのを感じた。だがリンクは頭を振ってそれを強く打ち消した。

 

「ミドナ、君の助言はありがたいよ。だけど僕は人を疑いながら接するなんてことには慣れていない。それにいまこの家では彼ら夫婦が主なんだ」

 

「だが鏡の破片を取り戻すという目的はどうする?」

 

ミドナが尋ねる。

 

「もちろん忘れていないさ。だから僕は彼女が言うとおりに寝室の鍵を取りにいくよ。そして鏡を返してもらえるよう丁寧にお願いしてみる。それだけさ」

 

リンクは言った。

 

「そんなシンプルに事が進めばいいんだがな」

 

ミドナは呟いた。二人はそこで話し合いを終え、リンクは人造巨人兵士が残していった鎖と鉄球を引き摺りながら、錬成場の北側の扉を開けてドサンコフ夫人に示された部屋に進んだ。そこには左手の壁際に例の巨大鎧が二体飾ってあった。右手の壁際には大きな戸棚、正面は一面に硬い氷の壁がある。

 

リンクは無性に腹が立っていた。鉄球を取り上げると、鎖を持って振り回し、鎧に叩きつけた。手前側の鎧がバラバラに崩壊し、中から骸骨に羽が生えた化け物が飛び出してきた。そいつにも鉄球を叩きつけて始末すると、今度は奥側に置いてあった鎧も破壊した。するとオレンジルピーが転がり出てきた。

 

「おい、大儲けだぞ!収納しておくからな」

 

ミドナが言った。だがリンクは返事をしなかった。そのまま鎖を振り回して鉄球を正面の氷の壁にぶん投げた。氷の壁は粉々に砕け、部屋の突き当たりに立派な木の箱があるのが見えた。

 

疑念に苛まれるのはもう沢山だ。これで寝室の鍵を手に入れ、鏡を回収しこの館を離れよう。そう思ったリンクは鎖と鉄球を床に置くと、箱に歩み寄って蓋を開けた。

 

中身はチーズの塊だった。切られていないホールの塊だ。

 

リンクはそれを持ち上げるとしばらく呆然としていた。これはマトーニャの間違いなのだろうか。それとも故意なのだろうか。自分が嘲られているような気がして、怒りと同時にやるせない虚しさも湧いてきた。そして、素朴で疑うことを知らなかった自分に余計な知恵を与えたミドナに対しても腹立ちを覚えた。

 

ミドナは何も言わなかった。リンクに自分で考えさせるつもりらしい。リンクはチーズを抱えると、来た扉から部屋を出、錬成場を通って中庭に出た。

 

雪の積もった中庭には、また幽霊狼が二匹ほど出てきている。リンクは頭上にチーズを抱えると、一気に南の壁の扉までダッシュした。最初は快速に走れていたのが、扉に近づくと積もる雪で脚を取られる。

 

だが幽霊狼に絡まれる前にどうにか扉に到達できた。リンクは扉を開くと居間に入った。暖炉の前にいたマトーニャに歩み寄る。彼女はリンクが近づくとすぐ目を開いた。

 

「えっ....チーズ?」

 

彼女に示された部屋にあったと告げるとマトーニャはまた戸惑った声を上げた。

 

「どうしてかしら...ひょっとして主人が移し替えたのかしらね。じゃあ一体どこの部屋にあるのかしら」

 

ドサンコフ夫人は首を捻ったあとリンクに言った。

 

「ごめんなさい。どうしてもまだ思い出せないわ。そのチーズ主人のところに持っていってくださる?その間になんとか思い出してみるから。ね?」

 

リンクは丁重に頭を下げると、その場を辞して台所に向かった。西側の扉を開けて台所に入ると、ドサンコフは相変わらず竈の前にいた。何をするわけでもないが、鍋の様子を見ていないと落ち着かないようだ。

 

「おじさん、チーズ持ってきました」

 

リンクは近づいて声をかけた。だが身長差がありすぎるせいなのか、耳が遠いのか、一度二度話しかけただけでは反応がない。何度も声をかけるとやっとこちらを向いたが、今度はリンクの頭の上にチーズがあるのを認めると、獣人は突き飛ばさんばかりの勢いでそれをかっさらった。

 

見ていると、獣人は一抱えあるチーズの塊を片手でバラバラにして鍋に放り込み、リンクに向かって言った。

 

「これでグツグツ煮込めば完成だべ。おめも出来たら食べていいど!」

 

しばらくすると、カボチャとチーズの食欲をそそる匂いが漂ってきた。リンクは自分のガラス瓶を取り出して一杯掬い取り味見した。実に旨い。身体が暖まり、すっかり疲れが取れた気がした。獣人にも勧めて飲ませると、今度は納得顔だ。

 

「うん。うめえのお」

 

「奥さんも気に入ると思いますよ。僕が運んであげましょうか?」

 

リンクが申し出るとドサンコフは首を振った。

 

「いんや。オラが後で運ぶべのお。おめさん先に食っとってええぞ」

 

そう言われリンクはありがたく食事にすることにした。城下町で買い込んだパンをミドナに出してもらい、床に座って極上のスープとともに頂いた。パンの塊を獣人にも一つ勧めると、彼は菓子でもつまむように一斤をペロリと食べてしまった。

 

「おんや珍しいのお。白パンでねか。町で買うてきたのけ?」

 

ドサンコフは食べてしまってから今さら気づいたかのように声を上げた。

 

「これだけじゃお腹いっぱいにならないですよね?」

 

リンクは笑いながら尋ねた。人間の三倍もありそうな獣人の体格を考えれば当然だ。

 

「いんや。オラはもうええんじゃ。ただ‥‥」

 

ドサンコフはそう言うとモジモジして小声で言った。

 

「嫁さんに食べさせたいんじゃ。もうひとつくれんかのお?」

 

リンクは結局もう一斤のパンを獣人に与えた。これでこの雪山登山のために買い込んできた分をあらかた使ってしまった。だが、ドサンコフが大事そうに調理台の隅にパンを置くのを見て、リンクはなんとも言えない胸の痛みを感じた。獣人が慣れない手つきでパンを薄切りにし、スープを器によそっている間、リンクは立ち上がってそっと台所を出た。

 

居間に入ってマトーニャに歩み寄り、その傍に膝をかがめると、リンクは彼女に話しかけた。

 

「奥さま、いまご主人がスープを持ってきてくれますよ」

 

「あら、うちの人が?」

 

ドサンコフ夫人は目を開いてリンクを見た。

 

「はい。頑張って作ってらっしゃいました。僕も味見させてもらいましたけどとっても美味しかったです。奥さまも気に入ると思います」

 

「あら、それは楽しみね」

 

彼女は少し微笑んだが咳き込んだ。

 

「僕、城下町で買った白パンを持ってきたんです。スープに浸せば食べやすいと思うのでそれも是非召し上がってください」

 

「ありがとう、ご親切なのね」

 

マトーニャは言った。

 

「そうだわ、寝室の鍵の場所、やっと思い出したのよ」

 

リンクが取り出した見取り図の、二階の東奥の部屋を指さすとドサンコフ夫人は続けた。

 

「忘れないように近くの部屋に置いておいたのに。それで忘れちゃったんだから恥ずかしいわ」

 

「いいえ、思い出して頂いてありがとうございます」

 

リンクは礼を述べた。

 

「あっちの扉から行けると思うわ」

 

マトーニャが目線を送ると、居間の東側の壁の扉についていた金網が自動的に上がった。

 

「忘れるといけないと思って近くの部屋に置いておいたの。なのに忘れちゃったんだから恥ずかしいわ」

 

「いいんです。それではごゆっくり」

 

リンクはたった今開いた扉に歩み寄って居間を出た。向こう側は壁も床も石材が剥き出しの殺風景な場所だった。見取り図によればここから始まる螺旋状の通路が二階に通じているはずだった。目を上げると、左手に扉がある他、奥の方には大きな動物を飼育するための檻のようなものがあり、その右側から登りのスロープが始まっている。スロープはその檻を中心にして螺旋形になっているようだ。

 

「今回あの女は嘘は言っていないみたいだな」

 

ミドナが姿を現して言った。

 

「これまでも嘘をついていたわけじゃあないよ。ただ間違えただけさ」

 

「それはどうかな。だが今回は本当だとわかる」

 

「なぜ?」

 

リンクは尋ねた。

 

「女の勘ってやつだ。リンク、お前にはわからないだろうが女は男よりはるかに敏感だ」

 

ミドナが答えた。

 

「だが油断するなよ。あいつが今回寝室の鍵の本当のありかを言ったのも、もしかするとお前が魔物の部屋に送られても平気で戻ってくるからやり方を変えようとしているのかも知れない。例えば....」

 

「ミドナ、その話はもう一旦やめにしないか」

 

リンクは遮った。

 

「彼女が万が一襲ってきたとしても、僕は自分の命くらいは自分で守れるさ」

 

ミドナは何か言いたそうにしていたがリンクが話すのを聞いていた。

 

「もし寝室の鍵のありかが本当なら、あとは取りに行くだけだろ?寝室も近くにあるのなら、こっそり鏡を頂いて挨拶もせず立ち去ることにするよ。礼儀には反するけどね」

 

「無論それが最善のシナリオだ。だが違うシナリオも想定しておけ」

 

「違うって、どんな?」

 

「あいつら二人が敵に回る。最悪だがそんな展開もあり得ないわけじゃあないぞ」

 

リンクはまた溜め息をついた。顔を上げて歩き始め、奥のスロープに向かった。だが近寄ってみるとそのスロープはいきなり分厚い氷の壁で塞がれていた。おまけに、大型動物飼育用の檻の中には、巨大氷塊の怪物が立っている。

 

手ぶらではとても通れない。リンクは踵を返して居間に戻ると、北側の右手の扉から中庭に出た。中庭を急ぎ足で横切り、北の突き当たりの扉から錬成場を抜け、チーズのあった部屋に置いてきた鎖と鉄球を拾った。だが持って運ぼうとしてみると凄まじい重さだ。

 

「リンク、私が持ってやろうか?」

 

ミドナが申し出た。

 

「いいのかい?君の部屋が道具だらけになって悪いよ」

 

リンクは言った。

 

「リンク、今はそんなことを言ってる場合じゃあない。この場所から陰りの鏡の破片を持って生きて帰るって仕事は簡単には行かないぞ」

 

そう言うとミドナは言葉を継いだ。

 

「私は今はお前を死なせるわけにいかないんだ。だがその代わり私の忠告も少しは聞け。わかったな?」

 

ミドナは真剣な口調だった。

 

「わかったよ」

 

リンクは渋々頷いた。ミドナに鎖と鉄球を収納してもらい、再び錬成場を通って中庭に出ると、幽霊狼に絡まれないようダッシュして居間に戻った。

 

居間の扉を開けると、暖炉の前でドサンコフがマトーニャの傍らに座って、懇ろに話しかけながらスープを飲ませているところだった。リンクはそっと東側の扉から外に出た。

 

螺旋通路を塞いでいた氷の壁の前に立つと、ミドナに鎖と鉄球を出してもらった。それを振り回して氷の壁を粉砕する。

 

すると、巨大氷塊の化け物がこちらに気づいたようだ。そいつが口をバックリと開けるのを見ると、リンクは慌てて後ろに飛び退いた。化け物が口を開けて吐き出した白い霧が間一髪でリンクの横をかすめた。

 

だが、巨大氷塊にはこちらの位置は正確には見えていないらしい。リンクが通路をさらに後退りすると、白い霧を吐き出しながら身体を左右に大きく振り始めた。

 

安全な場所から化け物がいる檻をよく観察すると、一ヶ所だけ、二メートル四方ほど格子がかかっておらず開いている場所がある。あそこから鉄球を叩き込めば倒せるかもしれない。

 

リンクは鎖を手繰り寄せて鉄球を持ち上げると、白い霧を吐く化け物の身体の角度とその回転の周期をよく見極め、敵が向こうの方に身体を向け始めたときを狙って摺り足で檻の開いている口に近づいた。

 

化け物が螺旋通路の奥の方に白い霧を吐きかけている隙に、リンクは鎖を振り回すと檻の開口部分に鉄球を叩き込んだ。鉄球が激突し、巨大氷塊の化け物に大きな亀裂が入る。

 

だがまだだ。リンクは素早く鎖を手繰り寄せてもう一度鉄球を振り回し叩きつけた。巨大氷塊の化け物はとうとう砕け散り、檻の内部の床には小さな氷塊の化け物がいくつか残された。

 

リンクは鉄球でその小氷塊どもも片付けると、鉄球を持って上に向かった。通路を少し上ると同じような檻がもう一つあり、その中にも巨大氷塊の化け物がいた。

 

同様の方法でそいつも片付けて先に進むと、通路は二階部分に出た。見取り図によれば正面に大きな出窓があるはずだが、そこは氷の壁で塞がれている。左手、すなわち北側には扉がある。右手を見ると、ちょうど螺旋通路の終端からUターンして西側に伸びる待合室のような部屋がある。その突き当たりにも扉があったが、そちらには鍵がかかっていた。また、螺旋通路室の上端の西側には衣装ケースが二つ、壁にピッタリ嵌まっているが、こちらからは動かせないようだ。

 

リンクは北側の鍵のかかっていない扉を試してみることにした。そこを開けて向こうに出ると、入ってきた扉と平行に幅五メートルほどのバルコニーが右手に伸びるようにしつらえられており、北方向は下の部屋を見渡す吹き抜け構造になっている。

 

だが、バルコニーの奥のほうに氷柱兵士が一匹いるのに気づいたリンクは素早く身構えた。相手もこちらに気づいたようで槍を構えた。リンクは背中から盾を下ろすと剣を抜いた。盾を上げたまま用心深く近づく。だが一計を案じて、相手の間合いに入る前に立ち止まり、盾を下げて敵の攻撃を誘った。

 

思った通り、氷柱兵士は槍を肩の上に振り上げて投げてきた。チャンスだ。飛んできた槍を盾で逸らすと、リンクはダッシュして相手に殺到した。敵は床から氷の柱を引き出して再武装する暇がないことを見てとったのか後退りして逃げようとした。だがリンクは素早く接近してジャンプ斬りを叩きつけ、さらに左右袈裟斬りを放った。氷柱兵士は粉々に砕け散った。

 

剣を納め、盾を背負ってから改めて周囲を見回した。吹き抜けの部屋のちょうど向こう側には、同じような幅と大きさのバルコニーがしつらえられている。その上には木製の大きな箱が置いてあった。天井の中央からは鉄製のシャンデリアが下がっている。鉄製の頑丈そうなもので、天井からそれを吊っているのも細い鎖ではなくしっかりした鉄棒だ。それを伝っていけば、向こう岸に行けるかもしれない。

 

「リンク、下を見てみろ」

 

ミドナが言った。リンクが何気なく視線を下に移すと、一階部分の部屋は床があらかた抜け落ちており、その下は底も見えないような深い奈落だ。

 

「気を付けろよ。渡るのに失敗したらお陀仏になりかねん」

 

「そうだね」

 

リンクも冷や汗をかきながら答えた。

 

「それにしてもこの部屋だけ妙だな。手入れが悪くて傷んだんじゃなくってまるで引き払うときに意図的に何もかもを破壊していったみたいだ」

 

「その....見られるとまずいものがあったってことなのかな?」

 

「そうかも知れんな。今となってはわからんが。とにかく落ちるなよ」

 

ミドナが言う。リンクはミドナに鎖と鉄球を出してもらうと、バルコニーの中央部分に陣取り、鎖を振り回して鉄球をシャンデリアめがけて投げつけた。

 

鉄球が当たってシャンデリアがガツンと音を立てたあと、大きく奥に揺れ、ついで反動でこちらに揺り戻されてきた。リンクは鉄球をミドナに仕舞ってもらうと、バルコニーからジャンプしてシャンデリアの上に飛び移った。さらにシャンデリアが向こうに揺れた瞬間を見計らって跳躍し向こう岸に飛び乗った。

 

箱に歩み寄って蓋を開けると、中身は小さな金属の鍵だった。それをポーチに仕舞っていると、天井のほうから蝙蝠の羽音が聞こえた。反射的に剣を抜いて目を上げると、白い霧に包まれた蝙蝠がいましもこちらに飛び掛かろうとしている。剣でそいつを叩き落とすと、リンクはもう一度鎖と鉄球を振ってシャンデリアを揺らし、もといたバルコニーに戻った。

 

螺旋通路の終端の部屋に戻り、待合室の奥の扉にかかった錠前に鍵を差し込んでみた。ピッタリだ。鍵を捻ると錠前が外れた。リンクはドアノブを回して扉を開け、向こう側に出た。

 

そこは玄関の間の二階部分の踊り場だ。階段が途中で崩壊していたので最初この館に来たときは登れなかったのだ。

 

リンクは見取り図を見た。目的の部屋に行くには、シャンデリアを間に挟んで向こう岸の踊り場に渡る必要がある。だが、その踊り場には例の氷柱兵士が一体立っているのが見えた。

 

渡っている途中に槍を投げつけられると具合が悪い。リンクはミドナに爆弾袋を出してもらうと、爆弾の底面に矢尻を差し込んで爆弾矢を作った。それを弓につがえると、導火線に点火して構え、氷柱兵士を狙って撃った。

 

飛んでいった爆弾矢が命中し、魔物の槍が砕け散った。だがまだ本体は死んでいない。リンクはもう一発の爆弾矢を作ると、点火して弓につがえ、後退りして退避行動をとり始めた敵に目掛けて放った。二発目の爆弾が命中し、氷柱兵士の身体が砕け散った。

 

リンクは装備を仕舞うと、鎖と鉄球を振るってシャンデリアを揺らした。その上を伝って向こう岸の踊り場に渡り、その突き当たりにある扉を開けると、そこは二十メートル四方ほどもある広くガランとした部屋だった。舞踏室だったのか、家具はなにもない。床は一面凍りついており、その中央部分にはあの小氷塊の化け物が一群れたむろしていた。

 

リンクは鎖と鉄球をミドナに出してもらうと、慎重な足取りで敵の群れに近づいていった。予想通り、距離を詰めていくと、向こうのほうからひとりでに氷の上を滑ってこちらに寄ってくる。リンクは鎖を振り回すと鉄球を敵に叩きつけた。先頭の敵が一撃で砕け散る。威力てきめんだ。リンクは鉄球を振り回しながら残りの敵に近づき、片端から打ち砕いた。

 

敵を片付けてしまうと、リンクは部屋の中を調べた。西側には凍りついた出窓があり、入ってきた扉から見てやや奥側の東の壁には錠前のかかった扉がある。北側にも扉はあり、こちらには錠前はかかっていない。

 

リンクは北側の扉を開けて向こう側に出た。そこは、衣装ケースを動かしてスイッチを操作した倉庫の二階部分だ。いま立っている場所から左右に広がったバルコニーの西の端から北に向かって幅の狭い足場が途中まで伸びている。バルコニーの東側には金網のかかった扉がある。どうやら一階のスイッチを操作することで金網を上げる必要がありそうだ。

 

バルコニーの西の端から北に伸びている箇所に行くと、大きな衣装ケースが終端に置いてある。戻ってくるときの足場になるかも知れない。リンクがその衣装ケースを押すと、それは滑ってゴトンと一階に落ちた。その向こう側には二メートルほどの間隙を開けて、狭い足場が突き当たりの壁まで続いている。

 

これからパズルをやらないといけない。リンクは一階に飛び降りると、鎖と鉄球を振るって、床板が剥がれ凍り付いた部分の中心にあるスイッチの周辺の氷に叩きつけた。氷が砕け散り、スイッチが剥き出しになる。リンクがそのスイッチの上に乗ってみると、二階のほうから金網が引き上げられる音がした。間違いない。

 

だが、そのスイッチも足を離すともとに戻ってしまう。やはり衣装ケースを動かしてスイッチに乗せなければ。リンクは次に、南側のスイッチの上に置いてあった衣装ケースの裏に回ってそれを北に押した。そのケースは床板が外れた領域の北側の端に当たって止まった。

 

次いで、リンクは氷の領域の北側の右端に凍りついていた衣装ケースに鉄球を叩きつけた。凍てついて動かなくなっていたケースが動くようになった。その箱を南側に押しやり、端で止まったところで今度は西側に押した。その箱は、最初のスイッチから見て北西の方角にある箱に当たって止まった。リンクはその箱も北に押しやった。北側の縁から南に向けて二つ箱が並んだ。だが、中央部分のスイッチを押すにはあと一つ箱が必要だ。

 

どの箱を動かすか?だがリンクはすぐ気づいた。北側の端にある箱を動かせばいい。リンクはその箱の西側に回り込み、それを東側に押した。次いで、止まったところを南側に、また止まったところを西側に押した。

 

その箱が最初のスイッチの北西にある箱に当たって止まった。さらにそれを北側に押す。箱は見事中央部分のスイッチに乗った。

 

リンクは先ほど二階から落とした衣装ケースがちょうど床の上に開いた穴に嵌まっているのを見た。その上に乗ると、北側に積み上げてある木箱の上によじ登れる。

 

木箱の上から、西側の張り出しの北側の端によじ登ると、間隙を飛び越えて、二階部分の南側のバルコニーに移り、そこから東側の扉を開けて出た。

 

扉の向こう側は中庭の二階部分だ。いま立っている足場の、中庭方向に行ったところの終端から、崩壊した壁の跡が北に向けて数メートル伸びていて、その端から再び足場が再開している。天気が急に崩れ始めたのか、雪がちらつき始めている。雪雲のせいで辺りがやや暗くなっていた。

 

崩壊した壁の上を渡れないかと思いよく見てみると、そこに氷柱兵士が一体いて、北側の向こう岸の足場にも同じ魔物が四匹ほどいる。突っ込んでいった時に集中で狙われたら面倒だ。リンクはミドナに爆弾袋を出してもらうと、爆弾矢を作って点火し、弓につがえて壁の上にいた氷柱兵士を狙って撃った。爆弾矢が命中し爆発した。

 

槍が折れた魔物が慌てて後退りした。リンクはすかさずもう一つ爆弾矢を作って撃った。魔物の身体が粉々に砕けた。

 

リンクは爆弾矢を幾つか作って床の上に並べると、向こう岸にいる氷柱兵士の一小隊に向かって撃った。八本の爆弾矢を費やして敵を全滅させると、リンクは装備を仕舞い弓を背負って前進を再開した。

 

壁の上を伝って向こう岸に行くと、北側を塞ぐ壁に大きな亀裂が入っており、その向こうに見える内壁の上のほうに金属を浮き彫りにした大きな紋章があった。

 

リンクは腰につけたクローショットを右手につけると、その紋章を狙って撃った。鉤爪が引っ掛かり、リンクの身体が引き上げられた。

 

鉤爪を開いて壁の向こう側に降り立ち前進すると、左手にある扉を開けた。向こう側は狭いバルコニーで、ちょうど最初に氷柱兵士と戦った場所の二階だった。正面にシャンデリアがあり、その左側にもシャンデリアがある。左手、すなわち南側の壁の二階部分にもバルコニーがあり、そこに大きな木の箱が置いてあった。

 

リンクはミドナに鎖と鉄球を出してもらうと、それを振るって正面のシャンデリアに当てた。シャンデリアが大きく揺れる。鎖と鉄球を仕舞うと、リンクはシャンデリアがこちらに揺れ戻ったタイミングで飛び移った。

 

次いで、リンクは南側のシャンデリアも同じように揺らして飛び移り、さらにそれが揺れたタイミングで南のバルコニーに渡った。木の箱を開けてみると、中身は小さな金属の鍵だ。

 

鍵を仕舞って目を上げると、南側にも扉があることに気づいた。扉を開けて向こう側に出ると、そこは衣装ケースを動かしてスイッチを操作した倉庫の二階部分の北側だ。リンクは一旦下に飛び降りると、衣装ケースと木の箱を伝って西側の張り出しによじ登り、間隙を飛び越えて南側のバルコニーに移った。

 

そこから南側の扉を開いて、氷の舞踏室に入った。先ほど倒したはずの小氷塊の化け物どもがまた復活している。リンクは鎖と鉄球を振るってそいつらを根絶やしにすると、錠前のかかった東側の扉に向かった。手に入れた鍵は錠前にピッタリ合った。

 

錠前を外し扉を開けると、そこは第二の居間のようだ。右手の壁に、かつては暖炉だったと思われる穴があるが、今は塞がれている。

 

だが、部屋の中に巨大氷塊の化け物が二体もいた。一体は左手の中ほどに、もう一体は右手の奥にいる。近くにいる一体がリンクに気づいたのか、こちらに向かって口を大きく開いた。リンクは慌て後退りして壁際に身を寄せた。化け物が白い霧を吐いたが、かろうじてリンクのいる場所には届かない。化け物は一旦息を吐くのをやめた。

 

この化け物ども二体を手早く倒さねばならない。リンクは頭の中で作戦を練った。化け物の横に素早く回り込めば、敵がこちらを向く前に攻撃を仕掛けられる。だが少しでももたもたしたらアウトだ。

 

リンクは深呼吸すると、左手にいる化け物に向けてゆっくり歩いた。相手が口を大きく開け、息を吐きはじめた途端に右に横飛びして回避し、そこから回り込むようにして化け物の背後に走る。

 

動きについてこられない化け物は息を吐きながらこちらに身体を向けようとしている。攻撃のチャンスと思ったリンクだったが、もう一体が口を開けてこちらに息を吐きかけようとしているのが肩越しの視界の隅に映った。

 

咄嗟に作戦を変更し、リンクはもう一体の巨大氷塊の左手から裏に回り込んだ。その化け物も息を吐きかけながらこちらを向こうとしている。リンクはミドナに合図して鎖と鉄球を持つと、振り回して化け物にぶち当てた。一回。二回。化け物は砕け散り、あとには小氷塊どもが残された。

 

小氷塊どもとこちらの距離はいくらもない。敵の群れがゆっくりと迫ってくる。鉄球攻撃が間に合わない。そう思ってリンクが本能的に後退りした瞬間、壁だと思っていた背後が開いているのに気づいた。

 

ちょうど螺旋通路室の西側の衣装ケースがあった場所だ。鉄球を振り回したことで衣装ケースが動いて向こう側に落ちたらしい。リンクは数歩後ろに下がると、鉄球を振り回して小氷塊どもを片端から打ち砕いていった。

 

残り一体だ。リンクはミドナに合図して鉄球を仕舞うと、化け物の右から回り込むと見せかけて、相手が口を開けた瞬間に左に横飛びした。大きく横から裏手に回り込むと、ミドナに合図して鎖と鉄球を出し、それを振るって二度叩きつけて化け物を打ち壊した。さらに鉄球を振り回し、残された小氷塊どもの群れを全滅させた。

 

ようやく部屋が片付いた。最初の一体の巨大氷塊が立っていた場所の裏に扉がある。リンクはそれに歩み寄って開けてみた。向こう側は中庭の二階部分だ。東西二つの中庭の真ん中を隔てる壁の中ほどに向かって張り出した舞台の上に大砲が据え付けてある。

 

見取り図を取り出して改めて眺めると、目的の部屋への入り口は中庭に接する野外の二階部分の北東の隅にあることがわかった。扉がここから見える。だが、扉の前にはまた例の巨大氷塊が立っている。

 

ここからは、東の中庭から壁一つ隔てた廊下の北端の梯子を登れば行ける。だがその前に大砲で巨大氷塊を倒す必要がありそうだ。

 

リンクは、その廊下に砲丸がいくつか落ちていたのを思い出した。もう一度見取り図を見ると、ここに来るまで登ってきた螺旋通路室の一番下にある扉がその廊下に繋がっていることがわかった。

 

リンクは扉から室内に戻ると、衣装ケースが動いてできた開口部から螺旋通路室に降り、そこから一階に戻った。だが一階の北側の扉を開けて進むと、突き当たりすぐが衣装ケースで塞がれている。行き止まりだろうか?そう思いながら衣装ケースを押してみると、それは簡単に動き、その先の廊下にあった穴に落ち込んでゴトンと音を立て、動かなくなった。

 

こうしてできた開口部を抜けて廊下の向こう側に行くと、リンクは落ちていた砲丸を一つ抱え上げ、もと来た経路を引き返した。廊下の南の突き当たりに砲丸を壁越しに移す装置があるのを見つけ、リンクは樋の上に砲丸を乗せた。扉を開けて向こう側に出ると巨大ハンドルを引き下げて樋を傾け、転がってきた砲丸を回収し、それを抱えて螺旋通路を登り、上端まで行った。

 

だが、衣装ケースを動かしてできた開口部の位置が高すぎて、砲丸を投げ上げるのも難しい。どうしたものだろう?

 

「リンク、あの出窓を塞いでいる氷の壁を破ってみたらどうだ?」

 

それまで黙っていたミドナが口を開いた。

 

「何か役に立つものがありそうかな?」

 

リンクは尋ねた。

 

「私がこの館の主なら出窓に大砲を置くぞ」

 

ミドナは言った。

 

「館が攻められたときのためだね」

 

リンクが言うと、ミドナは答えた。

 

「ビンゴだ。そこに大砲があれば、それで砲丸を撃って隣の部屋に移せるというわけだ」

 

リンクは氷の壁の前に砲丸を置くと、鎖と鉄球を振るって壁を打ち壊した。果たしてそこには大砲があった。だが、出窓の天井に白い霧をまとった蝙蝠が二匹ほどくっついていて、リンクが近づくとすぐに羽ばたきを始め攻撃態勢をとった。リンクは鎖を手放し素早く剣を抜いて、蝙蝠どもを叩き落とした。

 

ミドナに鎖と鉄球を預けると、リンクは大砲の横についたハンドルを押して回転させた。中央の第二の居間に大砲を向けると、砲丸を拾い上げて投入口に入れ、さらに爆弾袋から爆弾を一つ出して点火し放り込んだ。

 

両手で耳を覆って数秒すると、爆発音がして砲丸が飛び、開口部を通って第二の居間の中に落下した。リンクは出窓を出て、螺旋通路室の上端の開口部によじ登り、第二の居間に移った。落ちていた砲丸を拾って、北側の壁についた砲丸移送装置の樋に乗せ、扉を開けて外に出た。

 

外の壁についたハンドルを押し下げ、樋の上を転がってきた砲丸を拾い上げると、中央舞台の大砲のところに持って行った。大砲の投入口に砲丸を入れると、大砲の横のハンドルを押して向きを変えた。砲口を野外二階部分の北東の隅にいる巨大氷塊に向ける。爆弾袋から爆弾を一つ出して点火し大砲の投入口に入れると、耳を塞いで待った。

 

爆発音とともに砲丸が飛び、目標としていた巨大氷塊を見事破壊した。寝室の鍵はもう少しだ。

 

「こんな場所に大砲があって助かったな」

 

ミドナが言う。

 

「そうだね」

 

リンクが応じた。

 

「施設内を攻撃するための大砲なんて普通はありえないよな。中庭の大砲は訓練用で説明がつくかも知れんが」

 

ミドナがひとりごちたのをリンクは引き取った。

 

「人造兵士が反乱したときのためかもしれないってことかい?」

 

「ああ。それが一番合理的な説明だ」

 

だがリンクにはミドナの推理に付き合う心の余裕はなかった。マトーニャが自分の命を狙っているかも知れないということについて恐怖はあまり感じなかったが、悲しさと何とも言えない不快感が迫ってくる。早く鏡の破片を回収してここを出たかった。

 

まわりを見渡すと、もともと入ってきた南側の舞台は二メートルほどの間隙を経て東に伸びている。さっき倒した巨大氷塊の化け物の足元に至る梯子へは東側の廊下の北端からアクセスできるはずだと思い出したリンクは、舞台の南端に戻り、そこから間隙を飛び越えて東の端まで進んだ。

 

北の方に向いて下を見下ろすと、やはりさっき砲丸を取りに行った廊下がすぐ下にある。梯子も見えた。リンクは飛び降りて北に進み、突き当たりの梯子を登った。

 

登り切る寸前に二階の床を見ると、巨大氷塊が立っていた場所に小氷塊どもが一群れ漂っているのに気付いた。リンクは慌て梯子を下がり頭を引っ込めた。そこから再びそうっと頭を出すと、化け物どもはまだリンクに気づいていないようだ。リンクは氷塊どもが梯子から離れた隙に梯子を登り切り、足早に東の壁に近づいて扉を開けた。

 

扉の向こうに出て一息つくと、リンクは室内を見回した。都会風の礼拝室だ。北向きに木製のベンチが二列になって並んでいる。北の突き当たりには扉があり、その脇にある室内窓からは向こう側の部屋に木製の立派な箱が置いてあるのが見える。

 

だが、前に進もうとしたリンクは何ともいえない本能的な違和感を感じた。危険信号だ。盾を背から下ろし、剣の柄に手を掛けながら用心深く歩を進め、木製ベンチの並びの間にできた通路に向かった。

 

その瞬間リンクは気配を感じて目を上げた。

 

上だ。

 

高い天井から垂れ下がっていた氷柱がリンクの背後に落下して音を立てた。振り向くと、氷柱兵士が立ち上がろうとしている。それと同時に、扉の遮断装置が作動して入ってきた扉の上に金網が降りてきた。

 

リンクは剣を抜くと突進し、裂帛の気合いとともに近くにいた相手にジャンプ斬りを叩きつけた。攻撃を防ごうとした氷柱兵士の槍が折れる。そこに回転斬りを放って相手の胴を真っ二つにした。

 

だが、礼拝室の奥のほうからも次々と氷柱が落下してくる音が聞こえてきた。用心深く盾を構えながら振り返って確認すると、新手の魔物達が二体、こちらに近い右手のベンチの列の間で立ち上がったほか、真ん中の通路の中ほどにも二体が槍を構えていた。

 

さらに天井に目を上げると部屋の奥のほうの天井からも何本か氷柱が下がっている。しゃにむに突っ込んでいっては包囲されてしまう。リンクは手近のベンチの裏に身を隠した。

 

幸い、ベンチの背もたれは高く、リンクの姿を隠すのに十分な大きさだ。魔物どもはリンクの位置を見失ったのか、武器を構えたまま左右を見回し始めた。

 

「ミドナ、合図したら鎖と鉄球を出してくれないか」

 

リンクはベンチの影で身を縮めながら小さな声で囁いた。

 

「あいつらの近くまで忍び寄ってから一気にぶちかましてやることにするよ」

 

「了解だ」

 

ミドナは答えた。

 

リンクは盾を背負い、剣を納めて四つん這いになると、素早くベンチの列の間の通路を横切った。

 

右手の列のベンチの間に降り立った氷柱兵士二体の位置に見当をつけ、ベンチの下を覗き込む。敵の足が見えた。リンクはベンチの下に潜って一列奥のベンチの裏に進み、身を低くしたままチャンスを待った。

 

氷柱兵士たちの足音が左右に移動する。一体の足音が目の前を通りがかった瞬間、リンクは合図した。

 

「今だ!」

 

リンクの手に鎖が握られた。立ち上がるとリンクは鎖を振り回し、目の前のベンチもろとも、向こう側にいた氷柱兵士に鉄球を叩きつけ、粉々に粉砕した。その右側にいたもう一体がこちらに向き直って槍を構えた。だがリンクは再び鎖を振るうとそいつにも鉄球を投げつけた。命中し、二体目も砕け散った。

 

だが、真ん中の通路にいた二体のうち一体が槍を肩の上に高く構えるのが見えた。鎖を手繰り寄せていたリンクは、咄嗟に鉄球を拾い上げて目の前にかざした。飛んできた槍が鉄球に当たって逸れた。

 

もう一体も槍を投げようと構えている。リンクは鎖を握ったまま鉄球を手放し、壊れたベンチの横にあった無事なベンチの裏に身を隠した。

 

素早く鎖を手繰り寄せながら敵の様子を伺う。一本槍が飛んできたが、頭上を逸れて背後の壁に当たった。だが時間差からすると一体目はもう再び武装しているだろう。

 

「ミドナ、鎖と鉄球を頼む。もういちど奇襲攻撃してみるよ」

 

リンクは囁いた。鎖と鉄球がたちまち収納される。リンクは立ち上がると、わざとゆっくりした足取りで中央の通路に歩み寄った。二体の氷柱兵士たちはたちまちこちらに向き直り武器を振り上げた。

 

相手に向かっていくと見せかけ、リンクは横に飛んだ。投げられた槍が二本、風を切ってリンクの身体の横を通り過ぎていく。リンクは前転して敵の前に飛び込み、一挙に距離を縮めた。

 

「ミドナ!」

 

リンクが叫ぶとたちまち鎖がその手に握られた。鎖を振るって鉄球を投げつけ、武装しようとしていた二体の氷柱兵士を一息で叩き潰した。

 

だが、新手の氷柱兵士たちが部屋の奥に降り立ってきた。真正面の、通路の突き当たり近くに一体。その左右のベンチの列の先頭近くに一体づつ、合計三体。

 

リンクは咄嗟に鎖を振るうと、正面に降り立った敵に投げつけた。鎖が伸びきって、ギリギリのところで鉄球が当たり魔物は砕け散った。だが、左右に降り立った敵がすぐに槍を構える。リンクは鎖を持ったまま左手のベンチの裏に走り込み、身を低くしながら鉄球を手繰り寄せた。

 

頭を下げてベンチの下を覗き込み、裏にいる氷柱兵士の位置を確認すると、リンクはやにわに立ち上がって鎖を振るい鉄球を叩きつけた。氷柱兵士が崩れ落ちる。残り一体だ。リンクは鎖を手放し、盾を背から下ろして剣を抜いた。

 

盾を構えながら、右のベンチの列の前にいた一体に近づいて距離を詰めた。敵の突きを盾で受けると、強烈な盾アタックをぶちかまし、跳躍してぐらついた相手の頭を叩き割った。

 

ようやく部屋が片付いた。突き当たりの扉のあたりから機械の作動音がして目を上げると、扉の上にかけられていた金網が自動的に引き上げられていく。

 

リンクは剣を納めて盾を背負い、鎖と鉄球をミドナに収納してもらった。突き当たりの扉を開き奥の部屋に入ると、正面に置いてあった大きな木箱を開けた。

 

中にはしゃれた形状で青緑のめっきがしてある金属の鍵が入っていた。どうやら寝室の鍵のようだ。リンクは大きく溜め息をつくと、その鍵を手に取った。

 

「これで終わりだといいな。だが最後まで気を抜くなよ」

 

ミドナが言った。

 

「わかってるよ。でもマトーニャは熱で具合が悪いからこんなところまでは来れないさ」

 

リンクは答えた。扉を開けて礼拝室に戻り、ベンチの列の間の通路を通って部屋の西側の扉を開け、外に出た。

 

マトーニャはそこに立っていた。

 

リンクは驚きのあまり少しの間絶句してしまったが、慌てて声をかけた。

 

「奥様、大丈夫なんですか?」

 

「主人のスープを飲んだらだいぶ元気になったのよ。それにあなたの持ってきてくださったパンも頂いたわ。とってもおいしかったわ。ありがとう」

 

ドサンコフ夫人は微笑んで言った。

 

「仰ったとおり寝室の鍵がありました」

 

リンクは鍵を示した。

 

「奥様にご足労いただくなんて申し訳ないです。でも僕一人でご夫婦の寝室に勝手に入るのも気が引けるし‥‥」

 

「いいのよ。私がご案内するわ。せっかく遠方からお客様が来てくださったのに寝てばっかりじゃ申し訳ないし」

 

ドサンコフフ夫人はそう言うと、扉の前の踊り場の北側へ伸びた螺旋状の通路を指し示した。

 

「寝室はすぐそこなの。こっちにいらして?」

 

マトーニャはリンクを伴ってゆっくりと歩き始めた。螺旋通路は館の建物の中でひときわ高くそびえる尖塔の周囲にしつらえられている。寝室は尖塔の中にあるらしい。天候は悪化してきていた。空がますます暗くなり、降雪が激しさを増している。

 

リンクはマトーニャと腕を組み、万が一彼女がめまいを起こしたとき支えられるよう備えた。ドサンコフ夫人の歩調はごくゆっくりだったので、通路を登るのには時間がかかった。

 

リンクの心の中には疑念と混乱が渦巻いていた。この女性は本当は何を考えているのだろうか。本当に自分を殺そうとしているのだろうか。いや、熱のせいで錯乱していただけだろう。リンクはそう思いたかった。

 

だが、鏡の破片には想像を絶する魔力があると賢人たちは警告していた。そしてマトーニャが見せた、目立たないが不自然な力。

 

やがて二人は寝室の扉の前に到達した。マトーニャはリンクの手から鍵を受けとると、扉の錠前に差し込んで解錠した。

 

リンクが扉を押し上げ、二人は中に入った。内部は荒れ果てた館のほかの部屋と違い、王族や貴人が使っていた寝室はかくやと思わせるのに十分な美しさを保っていた。

 

直径五十メートルほどの尖塔の内部がそのままひと部屋になっており、床には赤い絨毯が敷かれ、周囲の壁には美しい蔓草模様の格子が嵌まった窓が各所にあり外光をふんだんに取り込めるようになっている。天井が極端に高い。

 

左手には特大サイズの天蓋つきベッドが据えてあった。無論、獣人とマトーニャの体格を考えたら十分な大きさではないかも知れないが、かつての持ち主は毎晩ゆったりとした眠りを楽しんだであろうことが想像された。

 

「こちらですわ」

 

マトーニャはリンクの手を引くと寝室の奥に向かった。奥の壁まで行くと、そこには黒い鏡の破片が吊るされていた。間違いない。陰りの鏡の一部だ。

 

「あなたもよくご覧になって。これ、とても綺麗でしょう?」

 

ドサンコフ夫人は歌うような声で言った。

 

「そうですね」

 

リンクは相槌を打った。だが、頭のなかでは、失礼のないように鏡をもらい受けて早々にここを立ち去るための口実を忙しく考えていた。

 

「綺麗な鏡。とても素敵でしょう?」

 

マトーニャは同じことを繰り返し、鏡の破片に映る自分の顔を見つめた。

 

「あの、奥様」

 

リンクは咳払いした。

 

「僕、実はその鏡の持ち主から頼まれてここに来たんです」

 

気の進まないのを押して切り出すとリンクは続けた。

 

「奥様には申し訳ありません。でも、本当の持ち主に返すために、それを僕に渡してくださいませんか?」

 

「とっても綺麗な鏡。主人が私にプレゼントしてくれたの」

 

マトーニャは聞いていなかった。こちらのほうを見もせず、鏡を一心に見つめている。

 

「綺麗でしょう?私、この姿になってから初めて自分のことを綺麗だと思えたの。百年ぶり?もっとかしら」

 

「奥様。お気持ちはわかります。ですが‥‥」

 

リンクは食い下がった。だが、心の中に急激に違和感が広がってきた。おかしい。絶対に何かがおかしい。

 

「キレイ‥‥ナ‥‥カ‥‥ガ‥‥ミ」

 

マトーニャの声が急激に低くなっていった。

 

「奥様?」

 

リンクが尋ねると、彼女はゆっくりと振り向いた。

 

その目は真っ赤な憎悪の光をギラギラと放ち、唇からは長い犬歯が突き出ていた。

 

「ワタサナイ。ゼッタイニワタサナイ」

 

マトーニャの口から出てきた声はもはや本人のものとは似ても似つかない低くザラザラした声だった。途端に部屋の窓という窓が割れ、外の冷たい吹雪が流れ込んできた。吹雪は引き寄せられたようにドサンコフ夫人の周囲で渦を巻く。

 

吹雪の激しい渦がマトーニャを包み込み、数秒間が経過したかと思うと消え去った。

 

だが、リンクは目の前に現れたものを現実と信じられず、息を呑んだ。

 

高さ二十メートルほどはあろうかという氷の塊だ。マトーニャの体型を模するかのようなやや下膨れの円筒で、各所から鋭い氷の棘が突き出ている。

 

妙に足元が滑る。下を見ると、さっきまで絨毯の上だったのが完全に凍りついていた。超巨大氷塊はリンクにのしかかってくるようにゆっくりとこちらに滑ってきた。

 

リンクが呆然としてマトーニャの変わり果てた姿を見上げていると、ミドナが叫んだ。

 

「リンク!何ぼうっとしてるんだ!戦え!殺されるぞ!」

 

リンクの手の中に鎖と鉄球が現れた。反射的に鎖を振り回し、氷塊に叩きつける。氷塊の表面に亀裂が入って砕けた。だが氷塊はやや小さいサイズになったがまだ健在だ。リンクの攻撃により、反動で向かい側の壁に向かって滑っていったが、壁に当たるとまたこちらに戻ってきた。今度は高速だ。

 

リンクは無我夢中で鎖を振るって再び鉄球を投げつけた。命中した鉄球が氷塊の表面を割った。だが、氷塊は小さくはなったがまだ高さ十メートルほどもある。しかも、小さくなった氷塊は壁に当たりながら速度を増して動き回り始めた。

 

頭上で鎖と鉄球を振り回しながら、リンクは氷塊が壁に当たり反射する方向を見極めた。相手がこちらに真っ直ぐ向かってきたタイミングで鉄球を投げつける。また鉄球がぶち当たり、氷塊の表面が崩れもう一段階小さくなった。

 

だがその瞬間、マトーニャだった魔物は小氷塊の化け物を四方八方に放出した。咄嗟に間に合わず、リンクは小氷塊の体当たりを正面から食らってよろけた。途端に身体が全く動かなくなった。呼吸もできない。今攻撃されたらやられる。マトーニャだった氷塊が迫ってくる。高さはまだ七メートルほどもある。

 

リンクは必死でもがいた。口から声が出た。大声を上げて両手足を広げる。動けるようになったときにはマトーニャは目の前にやってきていた。リンクは鎖を握ったまま横っ飛びに回避した。

 

鎖を手繰り寄せ、再び鉄球を頭上で振り回す。もはや寒いなどと言っていられない。不規則に壁に反射して動き回る元マトーニャの氷塊の動きに目を凝らした。相手が高速で目の前を斜めに横切る。まだだ。後ろの壁に反射し、その横に跳ね返って離れていく。まだだ。

 

マトーニャが正面奥の壁に当たり、斜めに移動してリンクの右手にやってきた。軌道が読めた。リンクは鉄球を床に落とし、右に向いて前転すると立ち上がって鎖を振るった。

 

横から飛んでいった鉄球がマトーニャを直撃する。氷塊が卵のように割れ、中からマトーニャの身体が出てきた。

 

だが終わってはいなかった。マトーニャは宙に浮遊すると、目をランランと光らせながらこの世のものとは思えない絶叫を上げた。

 

再び彼女の身体が氷に包まれた。さらに、氷でできた一抱えもある太く短い杭が十本ほども彼女の周囲に現れた。マトーニャと氷の杭は部屋の中高くに浮上した。

 

上から押し潰そうとしているらしい。マトーニャだった魔物はリンクの上空に迫ってきた。

 

「鎖と鉄球を頼む!」

 

ミドナに叫ぶとリンクは走り出した。氷塊と杭は上から追ってくる。杭が一本落下してきて、リンクのすぐ後ろの床に突き刺さった。必死でダッシュして部屋の中を逃げ回るリンクの背後に次々と杭が刺さる。

 

十本の杭が落下してくるのを辛うじて回避すると、リンクは荒い息をつきながら足を止めて振り返った。だが、マトーニャの魔力のなせるわざなのか、杭はまた次々と宙に浮き始めた。

 

全ての杭が空中に浮上する。また追いかけられる。リンクは敵群が上空にやってくるのを待ち、再び走り始めた。

 

だが足元を見ると、ツルツルに凍りついた床に上空の様子がはっきりと映っている。リンクは追いかけてくる杭の位置を確かめると、それが自分の頭上に来た瞬間にダッシュした。

 

一本、二本、三本。次々と落下してくる杭をかわす。十本目が背後に刺さった瞬間リンクは叫んだ。

 

「ミドナ!鎖を!」

 

リンクは振り向くと、手に握られた鎖を思い切り振り回し、床に刺さった杭の列に向かって鉄球を放った。極太の氷の杭がたちまち三本ほど砕け散った。だが、残りの杭が再びふわりと浮き上がる。

 

ミドナに合図して鎖と鉄球を仕舞うと、リンクはまた走った。足元を見ると、七本の杭がリンクを上から包囲しようとしているのが鏡写しに見える。リンクは咄嗟に立ち止まると、先程のこちらの攻撃で杭が欠けて包囲網の空いた場所に身を投げ出した。

 

杭の群れが降り注いで床に突き刺さり、その円の中心に元マトーニャだった氷塊が音を立てて落下してきた。だがリンクは間一髪のところで包囲網の穴にいた。助かったのだ。

 

「ミドナ、頼む!」

 

リンクが言い終わるか終わらないかのうちに鎖と鉄球が現れた。リンクは鎖を振るって鉄球をマトーニャに向けて投げつけた。マトーニャの周囲を覆っていた氷が割れてその姿が半分ほど現れた。だが氷塊の大部分は残っている。

 

マトーニャがぞっとするような声で絶叫した。周囲の杭の数がまた十本に増えた。敵群は再び空中に浮かび上がると、リンクの上空に迫ってきた。

 

リンクはまた走りだした。冷たい空気が肺に入る。息が切れ、胸が痛む。足元を見ると、また杭の群れが頭上に飛んできているのが見えた。ギリギリまで引き付けたあと、ダッシュして攻撃をかわした。一本、二本、三本。十本の杭をかわしたところでミドナに合図した。

 

だが振り向いたところでリンクは足を滑らせ転倒した。脚に疲労が溜まって思うように動かない。それでも必死に立ち上がり、手の中に現れた鎖を振るった。床に刺さった杭に向かって鉄球を放つ。だがタイミングが遅かった。浮上し始めた杭の群れの足元を鉄球がかすめ、最後の一本にのみ当たってこれを打ち砕いた。

 

リンクはミドナに合図して鎖と鉄球を仕舞った。これ以上長引いたら負けだ。走り始めると、九本の杭とマトーニャがこちらの上空にやってきた。頭上に円形の包囲網が形づくられた。杭は一本を除き揃っている。穴はどこだ?

 

見えた。その刹那、杭が一斉に落下してきてリンクの周囲に刺さった。リンクは死に物狂いで杭の欠けた箇所に飛び付いた。背後すぐにマトーニャの氷塊が落下してきて床に激突する。リンクが立ち上がるとミドナがその手に鎖を出現させた。

 

鎖を振るって鉄球を投げつける。飛んでいった鉄球がマトーニャを覆っていた氷塊の残りの部分を打ち砕いた。

 

完全に身体が露出したマトーニャは金切り声で絶叫しながら一旦部屋の天井近くまで浮上したが、すぐに落下し床に落ちた。それと同時に、周囲の床に刺さっていた氷の杭も砕け散った。

 

床を覆っていた硬い氷が溶け始めた。マトーニャの魔力が消え去ったのだ。リンクは鎖を手放すと、膝に手をついて肩で呼吸した。

 

マトーニャは床に仰向けに倒れていた。微動だにしない。殺してしまったのだろうか?

 

リンクはしばらく荒い呼吸を鎮めながら、胸のうちの激しい慚愧の念と戦っていた。もしマトーニャを殺してしまったのだとしたら、ドサンコフにはどう申し開きをすればいいのだろう?

 

「ミドナ、ごめん」

 

ようやく呼吸が落ち着いてくるとリンクは言った。

 

「君は最初から正しかった。僕は君の警告をもっと真剣に受け止めるべきだったんだ」

 

「リンク、しかたないさ」

 

ミドナは答えた。

 

「王族でもなく魔法使いでもない十六歳の農夫のお前がこんなことを予想できるはずがないんだ。生き残れて鏡を手に入れられただけ上出来さ」

 

彼女はそう言うと、寝室の壁際にかかっていた陰りの鏡の破片の前まで浮遊していき、それをどこかに収納した。

 

「陰りの鏡はあと二つだ」

 

ミドナはリンクに言った。リンクは頷くと、ようやくのことで立ち上がり、マトーニャのほうに歩み寄った。

 

「それにしてもこの鏡にここまでの魔力があるとは私も知らなかった」

 

ミドナが呟いた。

 

「この女にも悪いことをしたな。いくら取り憑かれていたとはいえ」

 

リンクはマトーニャの傍らに膝をついた。その首筋に手を当てると脈が感じられ、リンクは大きく安堵の溜め息をついた。

 

その時寝室の扉が開く音がして、リンクは顔を上げた。

 

ドサンコフだ。獣人はその黒い目を大きく開けてこちらを見ていた。リンクは申し開きをしようと口を開いたが、獣人は館全体が揺れるほどの叫び声を上げてこちらに走り寄ってきた。

 

獣人はリンクを片手で払いのけるとマトーニャを抱き上げた。凄まじい勢いで飛ばされたリンクは数メートルも吹っ飛んで床に転がった。

 

リンクがどうにか上体を起こすと、獣人はポロポロと涙を流しながらその妻をかき抱いていた。

 

「マトーニャ、オラのマトーニャ‥‥」

 

「‥‥あなた‥‥」

 

ドサンコフ夫人は目を開けると蚊の鳴くような声で言った。

 

「あなた‥‥私ってばどうしたのかしら?途切れ途切れにしか覚えてないの」

 

獣人は安堵の息を漏らすと何も答えず妻を抱き締めた。

 

「ごめんなさい‥‥あなたのくれた鏡‥‥」

 

マトーニャは壁際に目をやって言った。鏡はすでにそこにはなかった。

 

「いんや。そんなもん要らねえべ」

 

獣人は鼻をすすると妻に言った。

 

「オラのでっかい目を見てみい。べっぴんさんが映っとるから。の?」

 

マトーニャはそれを聞くと、クスリと笑って頷いた。

 

「お前、愛しとるだ」

 

「私もよ、あなた」

 

獣人夫妻が睦言を言い合うのを聞き、リンクの心はようやく落ち着いた。

 

リンクはその後館に一泊してドサンコフを手伝った。マトーニャの体調が心配だったからだ。だが、リンクの心配をよそに彼女はみるみる回復した。ミドナが鏡の破片を収納してしまったせいか、館の周囲の天候も好転し、魔物の数も減少した。

 

翌日、全快したマトーニャはリンクに手料理を振る舞ったあと雪滑りに誘った。ドサンコフと初めて会った斜面まで登り、そこから館まで滑る速度を競うのだ。リンクにとってドサンコフを負かすのは容易だった。ところが、マトーニャは意外なことに雪滑りの名手だった。涼しい顔をして岩棚や崖の上を自由自在に飛び移り、決してリンクを寄せ付けず大差をつけてゴールするのだった。

 

夫妻とこうして時間を過ごしたあと、リンクは斜面の上で二人に別れを告げた。麓まで見送るとドサンコフが言うのを固辞して、リンクは斜面を下って館に帰っていく夫妻を自分のほうが見送った。

 

あの館は何のために作られたのだろうか。ドサンコフと妻は、誰に、なぜ姿を変えられたのだろう?リンクの胸のうちにはまだ沢山の疑問があった。

 

だが二人の後ろ姿を見送っているうち、リンクにとってそれらのことはどうでもよく感じられてきた。今はただ、あの夫婦にできるだけ長い間平和に仲睦まじく暮らしてほしい。リンクはただそのことだけを願うのだった。

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