リンクは翌朝一番にエポナを連れてボウの家に行ったが、ボウからは旅への出発前にまずファドの放牧を手伝うようにとの指示があった。怪訝な顔をしたリンクにボウは説明した。昨日山羊を逃がしたことについてファドに責任をとらせるため、朝一番の放牧が終わったら群れを一旦すべて小屋に入れて牧場を閉め捜索に行かせることにしたのだ。ボウとしては、逃げた山羊が見つかっても見つからなくてもそれ以上の懲罰は与えないことを心に決めてはいたのだが、彼が仕事への責任感をより強く持ってくれるようにと願っての措置であった。
山羊たちがひとしきり自由に歩き回ってじゅうぶん草を食んだあと、リンクは早速エポナに跨って山羊追いを開始した。一昨日と違って群れ全体が外に出ているので山羊の数は二倍だ。リンクはまず慎重に群れの背後を左右に回り始めた。そして小屋の方向を向いている個体だけを煽るのだ。明後日の方向を向いている山羊を煽ったところで、むしろ小屋から離れていってしまうことを知っているので、そういう奴らは小屋の方を向くまで辛抱強く待ち、時にはエポナをそうっと近寄せるなどしてさりげなく方向転換を促した。
動物の群れには集団心理というものがあるのか、全体が動き始めると次々と山羊たちは小屋に入っていった。ほぼ全ての個体が小屋のほうを向いたことを確認したリンクは盛大に声を張り上げて煽りはじめた。山羊たちは大挙して小屋になだれ込む。仕上げに、リンクは取りこぼした二、三頭が遠くに逃げる前にエポナを使って通せんぼし、宥めるような細やかなやり方でその方向を変えさせてどうにか小屋まで導いた。
「お前はいつも手際がいいなぁ」
ファドは感心して言った。だがその顔はしょげ返っているのがリンクにも分かった。
「ありがとなリンク。これから出発だってな。楽しんで行って来いよ」
リンクはファドが村から文字通り一歩も出たことがないことを知っていた。というより、彼の生活のほとんどはこの牧場と自宅の往復のみで成り立っていたのだ。
「ファド、何か土産に欲しいものはあるかい?」
リンクは尋ねた。
「土産?いやあ、そんなものを貰ったら悪いよ。普段俺のほうがお前に助けてもらってばかりだからな。まあそれよりお前が無事に帰ってくれさえすれば俺は十分だよ」
そこまで言うとファドは慌てて付け加えた。
「いや、またお前に手伝ってほしいって話じゃなくってな。お前のいない間も俺はしっかりやるつもりだよ」
ファドがそう力強く言い切ったその言葉の裏にある、どこかやるせないカラ元気のようなニュアンスを感じたリンクは少し顔を曇らせた。本当ならリンクも毎日手伝ってやりたい。だがリンクにも他の仕事があるし、第一それではいつまでたってもファドが成長しないと、ボウからも繰り返し聞かされていた。
ファドに別れを告げると、リンクはエポナを駆って牧場からボウの家に向かった。坂を下っているとイリアが向こうから歩いてくる。
「リンク!」
イリアが手を振った。リンクが手を振り返して馬を並足にすると、彼女はエポナの横に並んでリンクを見上げた。
「いよいよ出発ね。気を付けてね。無理は禁物よ」
「わかってるって」
リンクは笑った。十六の歳になってもまだイリアはリンクのことを自分の弟だと思っているのか、何かあるたびに同じことを言う。
坂を下り切るとボウも家の戸口から降りてきた。軒先には、二人が用意してくれたのか、食料品の袋や畳んだテントなどが積まれている。リンクが馬から降りるとボウはその肩を抱いて労った。
「ご苦労だったな。一息ついたら出発してくれ。献上品の用意もできてるからな」
ボウが指さすほうを見ると、軒先に積んだ旅行用の物資の間に、鞘に収まった剣が置いてある。その脇には分厚い木でできたガッチリとした作りの盾もあった。自分のものではないにせよ、それらを持ち運んで旅をすることを想像したリンクの目は輝いてきた。
「何しろハイラル王家から直々に頼まれた物だからな。遅れたりしたら困る」
その時、エポナの首筋を撫でながら話しかけてやっていたイリアが小さな声を上げて動きを止めた。腰をかがめ馬の前足を注視していたが、やがてリンクに顔を向けた。
「どういうこと?怪我してるじゃない」
イリアの口調は平静だったが、その目の色がすっかり変わっているのをリンクは気づいた。これは不味い。リンクは身が竦む思いがした。昨夜はクタクタに疲れていてリンクは気づかなかったのだ。だが見ると、確かにエポナの片方の前足の後ろ側には固まった血がこびりついていた。
「リンク、またエポナに無茶をさせたの?」
イリアは立ち上がってリンクに向き直った。その目は据わっている。リンクは言い訳をしようとしたがまったく言葉が出て来ない。
「まあまあ、そんなにカッカせんでも」
ボウが仲裁に入った。だがこれがかえってイリアの怒りに火をつけてしまったようだ。
「いつもそうやって適当なことばっかり。村長なんだから父さんもしっかりしてよ!」
ボウもまた金縛りに遭ったように動けなくなってしまった。リンクとボウが目を見合わせていると、イリアはエポナを慰めるようにその首を抱きかかえ何事か話しかけていたが、やがて手綱を引いて行ってしまった。
「おい、イリアや。どこへ行く?」
ボウが呼びかけても答えず、イリアとエポナの姿は中央集落の北ゲートを抜けて見えなくなってしまった。
「困ったのう。エポナがいなければ献上品を届けられなくなってしまう」
だがリンクには、イリアは泉にエポナを連れていったのだろうと見当がついた。イリアは、トアルの泉には治癒効果があると以前話していたからだ。幼いころ年寄りから聞いた話だということだったが、ボウが迷信だといって気に留めていなかったのに対して、意外にもイリアはその効果を信じており、リンクが遊んでいて小さな怪我を負ったときなどはいつも泉でその傷を洗ってくれたものだ。
リンクは小走りで村の目抜き通りを北に向かい中央集落から自宅のほうへ向かった。家の前の広場に着くと、いつものようにタロ、マロとベスが遊んでいる。コリンは仲間に入れてもらえないのか、端っこのほうで何をするでもなく草をつついていたが、リンクに気づくと駈け寄ってきた。
「ねえリンク、イリアがエポナ連れて泉に行ったよ。リンクも行くの?」
そうだと答えるとコリンは両手を後ろで握り、もじもじした様子で呟いた。
「僕も行きたいんだけど、あいつらが....。ねえリンク一緒に行こう?」
リンクがコリンの手を引いて泉へ続く小道に向かうと、タロとマロがやってきた。
「ねえリンク!昨日すっげえ楽しかったよな!一緒に猿捕まえたりしてさ!」
タロが言う。いつの間にか昨日の話の内容がすり替わってしまっている。だが天才児たるその弟は早くも本当の事情を気づき始めていたようだった。
「本当は猿に捕まってたりして....」
マロが呟くのを無視して、タロは今度はコリンを睨みつけた。
「へん!この告げ口野郎。こいつが父ちゃんなんか呼ぶから全部親にばれちゃったじゃねえか。おかげで死ぬほど怒られたんだぞ」
コリンはリンクの手を握ったまま俯いた。告げ口などするつもりはなく、ただ危険があるといけないと思って父親に話しただけなのに。
「どうせイリアのところに行くつもりなんだろ?絶対通してやらねえからな」
リンクが取りなそうとすると、タロの話題は早くも次の関心事に移った。
「なあリンク、リンクの木刀貸してくれよ。昨日だって木刀さえあれば俺一人で大丈夫だったんだ。だから貸してくれよ!」
木刀は昨夜よく洗ったあと、家の軒先に吊るして干しておいてあった。
「頼むよなあ、貸してくれよ」
タロはそう言い張って梃でも動きそうにない。リンクも、今回の旅には本物の剣を携えて行くのに、大して威力のない木刀を一緒に持っていってもあまり意味がないことに気づき、結局貸してやることにした。家の玄関に通じる梯子に向かうとベスが声をかけてくる。
「リンク、城下町に行くんでしょ?いいなぁ、私も行きたい。きっとおしゃれな服一杯あるんだろうなぁ」
リンクは適当に返事をしながら考えた。服のことは分からなかったが、髪飾りか何かをお土産に買ってやったらベスも喜ぶだろうか。梯子を登って、屋根から吊り下がった木刀を取りながらふと横をみると、手の平二つ分ほどありそうな、見たこともない巨大な昆虫が壁にとりついている。見た目からしてあまり人間に友好的な種類ではなさそうだ。まるで鎧のようないかつい背中が紫の混じった白銀色をしており、いかにも毒々しい。そういえば昨日パチンコで遊んでいるときにも同じ奴を見かけた。森からやってきたのだろうか?山羊といい、猿といい、小さなものではあるが最近の異変続きにリンクはやや怪訝を感じた。ともあれ、ベスが見たら悲鳴を上げて失神するかも知れない。リンクはそいつを素早くつかみ上げると家の裏手の木立のほうに放り投げた。
下に降りて木刀をタロに渡すと、タロは歓声を上げた。
「うおおやったぜ!これさえあれば!」
タロは広場の中央のほうに行くと見様見真似で木刀を振り回し始めた。だが重いのでなかなか思い通りには行かない。リンクは、木刀がマロに当たってしまうんじゃないかと冷や冷やしたが、賢明な弟は近づかずに、心なしか冷たい視線で遠巻きに眺めていた。
コリンの姿はない。タロの監視を無事にかいくぐったのだろう。リンクも泉に急ぐことにした。出発があまり遅くなると旅程が狂ってしまうかも知れない。
ところが、走って泉の入り口に辿り着いたリンクは、いつもなら開いているはずの門に阻まれてしまった。イリアが閉めたのだろうか。門の向こうでは泉の中央でイリアがエポナを洗っている。傍らにはコリンもいた。
「エポナを連れ戻しに来たのならダメよ!反省するまでそこは開けないから」
リンクに気づいたイリアが言った。コリンはリンクのほうにやって来ると、手招きし、門に顔を近寄せてささやいた。
「イリア姉ちゃん昨日のことまだ知らないみたいなんだ。僕に任せて?その間リンクは裏からこっちに来てよ」
コリンがイリアに説明してくれるとは有り難かった。リンクはとって返すと、途中の小道沿いにある穴に向かった。何かの動物が捨てていった巣穴だったものを、以前リンクと子供たちが面白がって掘っているうち泉のほうにまでつながってしまったのだ。この穴はリンク以外は子供たちしか知らなかった。しばらく小道を戻ったあと脇の叢をかきわけて土の壁にぽっかり空いた穴を見つけ、リンクは体をかがませてどうにか中に入り込んだ。両肘をついて這いつくばればやっと前進できる程度の大きさしかない。穴の中を進んでいくと、ところどころ地面が崩れ落ちたのか上から光が差している。真っすぐ進んでから左に折れ、新たに掘り進めた部分に入った。リンクの体格ではところどころが狭過ぎて服が土まみれになってしまったがなんとか泉まで辿り着いた。穴から出るとリンクは自分の体の土を払ってどうにかきれいにした。
泉の中央あたりでイリアとコリンが話している。(リンクは知らなかったのだが、コリンは昨夜父モイが酒の肴にリンクの冒険譚を仔細に話して聞かせてくれたので、起きたこと全てをイリアに説明することができた。)イリアがリンクに気づいたと同時に、エポナが鼻を鳴らしてリンクのほうに歩いてきた。リンクはエポナの頭を撫でて心から謝った。
「ごめんなエポナ、気づいてやれなくって」
イリアは何ひとつ事情を知らなかった自分にややバツの悪さを感じたらしく、目を逸らしながらリンクのほうに歩いてきて、誰にともなく呟いた。
「酷い目にあったのにやっぱりご主人様のほうがいいのね」
リンクはイリアにも謝ろうとしたが、その前に彼女が口を開いた。
「この子ならもう大丈夫。怪我も大したことなかったみたい。旅にも連れていけるわよ」
ほっとして微笑んだリンクにイリアは向き直った。いつにない彼女の真剣な眼差しにリンクは困惑した。
「ねえリンク....これだけは約束して欲しいの」
エポナのことだろうか?リンクは文字通り胸が潰れる思いがした。あんなにイリアと約束しておいて、またリンク自身もエポナを妹のように大事に思っていたのに、それでも怪我をさせてしまった。だが昨日はタロを救いたいという一心で、エポナの状態まで気が回らなかったのも確かだ。自分の未熟さがもどかしかった。
「私、心配なの。あなたがすごく無理してるんじゃないかって」
「無理?」
イリアの意外な言葉にリンクが聞き返すと彼女はエポナの首筋に手を置きながら続けた。
「私、納得がいかないの。お父さんもモイも、あなたが剣士になるものだってすっかり決めてかかってる。でもあなたが何になるかをあなたに一言も相談しないでどうして大人たちだけで決めてしまうんだろうって」
言われてみるとリンクは将来何になりたいかと聞かれた記憶は一度も無かった。
「あなたが村の役に立ちたいって一心なのもわかる。でも昨日だって自分でなんとかしようとして森に一人でタロを助けに行ったり、あなたがまるで早く自分自身を証明するために無理に頑張ってるみたいに見えるの」
リンクは自分を振り返ってみたが、無理をしたなどという自覚はなかった。だがタロがいなくなったと気づいたとたんに、自分の中に言葉にできないような激しい衝動と感情が燃え上がり、まるで何かに突き動かされるように行動しただけなのだ。同時に、自分のやりとげたことにリンク自身も実感があまりなく、何か奇妙な気分でもあった。
「もしあなたが貰い子だから他人より余計に頑張らないといけないって思ってるんなら、私はそれは違うと思う。お父さんはいつもいつも村の人たちにどう見られるかを気にしてるけど、私は人の人生ってそんな風に決められるべきじゃないって思うの」
リンクは黙って聞いていた。そもそも彼はそんな風に考えたことは一度も無かったからだ。自分の人生を自分で決められるというその考え自体、リンクには初めて耳にするものであった。
「ねえ、あなたは一度引き受けたことはどんなことをしてでも絶対にやり遂げる、それが正しいことだって思ってるでしょう?だから私は心配。あなたが危険なことをしたり、無理なことをしたりするんじゃないかって。私はいつもエポナだけじゃなくってあなたのことも心配だったの」
「僕のことが?」
自分はエポナのことで怒られるとばかり思っていたのに、イリアの心のうちにあったものはリンクにとっては意外だった。リンクの心にある記憶が突然に蘇ってきた。幼い頃蜂の子を取ろうとして崖から転落したリンクを見てイリアが激しく泣き出してしまった、その時の光景だ。イリアはリンクの肩に手を置いた。その手は柔らかく、暖かかった。
「約束して?無事に帰って来るって。ね?」
リンクはイリアの青色の瞳を見て、やっと彼女が言おうとしていることが分かった。それと同時にそれはリンクを激しく困惑させた。今イリアが教えてくれたことはリンクが当然のこととして捉えてきた考え方と真っ向から対立する。リンクは村のために骨身を削って働くことを厭わしいと思ったことなど一度もなかった。むしろ、仕事をやり遂げるたびに何とも言えない充実感を感じたものだ。だが一方で、昨日魔物と戦ったときには本物の危険を肌身で感じた。失敗すれば怪我では済まされない。しかし、なおも考えると、一体自分が剣士をやらなければ誰がやるのだろう?という思いも湧いてきた。モイだって、いつまでも若いままでいるわけではないのだ。リンクは剣士となることを選ぼうと思ったことはない。剣や剣技の練習は好きだったが、むしろ馬や山羊たちと関わっているほうが楽しい。農作物が育っていくのを眺めるのもそうだ。だが、もしこの村に危険が迫ったら自分が立ち上がって何としてでも守るのだという決意は、自分が好きか嫌いかという領域をはるかに越えて強いものだった。まるで自分の体を守る本能と同じくらい、リンクの心の深い部分に根付いていた。
だかリンクには、生まれて初めて心の中に生まれた、このような異なる考えどうしの葛藤を上手く言葉にする力はまだなかった。
「わかったよ。無事に帰ってくる。約束するよ」
頭の中をぐるぐる回る様々なことどもを無理やり片付けてリンクがそう請け合うと、イリアは微笑んだ。リンクは考えた。これから取りかかる任務を果たすため危険を冒す場面はどれくらいあるだろうか?モイも、その前にはボウだって、何度も何度もやってきた仕事だ。もしもリンクにとって荷が重すぎるなら、この仕事の成否は村の名誉にも関わることだから、決して彼一人に任せようとはしないはずだ。リンクはイリアとのこの約束は絶対果たせると思った。行って、献上品を届けて、土産を買って帰る。それだけだ。
「大丈夫。約束する。土産は何がいい?」
リンクは繰り返した後そう尋ねた。イリアが何か答えようとした瞬間、聞いたこともないような異様な地響きが泉の外の小道、フィローネの方面から聞こえてきた。二人が振り返ると、泉の前の閉じた門が大きな音を立てて勢いよく破られたところだった。驚くほど大きな猪の上に悪鬼が二匹乗っている。緑色の皮膚をしたブルブリンだ。後ろに乗った悪鬼が弓に矢をつがえて放つ。次の瞬間イリアが膝から崩れ落ちた。リンクが彼女の名を叫んで助け起こそうとした瞬間、後頭部に激しい衝撃を感じ、自分もドウとうつ伏せに倒れてしまった。
リンクは必死で両手を突っ張って体を起こそうとした。だが猪から降りてきた悪鬼の一人がその頭をもう一度殴ったうえ腹を容赦なく蹴り上げて来た。今度は引っくり返される形で仰向けに倒れたリンクはほとんど気を失いかけてしまった。
泉にさらなる数の悪鬼たちがドヤドヤとなだれ込んできた。ある者たちは徒歩だが猪に乗っている者たちもいる。幾人かが泣き叫ぶコリンを取り囲む。そうこうしているうちに、ひときわ大きな猪に一人で乗った、これまたひときわ巨大な体躯をした緑色の鬼が、リンクのぼんやりした視界に入ってきた。その巨大鬼は、首から紐で下げた角笛を口に当てると吹き鳴らした。騎兵たちはイリアとコリンを抱え上げると、泉の出口からもと来た方向に引き返していった。
その後の記憶はしばらく途切れていた。気を失っていたのかどうか、リンクにもわからない。だが、イリアとコリンを鬼どもから取り戻さなければ、という渇望に似た激しい焦りが、リンクを立ちあがらせた。頭がズキズキ痛む。それでもリンクは足を踏みしめ、自分が歩けることを確認すると、泉の出口に向かって走り出した。右に折れ、吊り橋を渡ってフィローネのほうに向かう。だが奇妙なことに気づいた。周囲が薄暗いことはいつも通りだったが、森に向かう小道の先に黒い雲のようなものが立ち込めている。周囲の光の色も、まだ昼にもなっていないのにまるで夕暮れどきのようなオレンジ色だった。そして、岩壁の切れたフィローネの森の入り口に着くと、目の前にはまるで黒い壁のように黒い雲が濃く立ち込めているのがわかった。森の入り口を一杯に塞いでいる。一体なんだこれは?リンクは当惑したが、よく見てみるとそれは黒雲ではなく、本物の壁のように硬く、ツルツルして見えた。奇妙な見たことのない文様のようなものがついており、それがオレンジ色に妖しく光っている。
いつの間にこんな壁が?だが悪鬼どもは確かにこっちのほうに来たのでは?混乱したリンクがそれでも前に進もうと足を踏み出した途端、壁から大きな長い腕がにゅっと飛び出してきた。そう、腕だった。その腕は細く、きわめて長く、そして真っ黒だった。そいつは鷲や何かの鳥類のような節張った長い指と長い爪がついた途方もなく大きな手でリンクの体を丸ごと捕まえると、有無をいわさずリンクを壁の中に引きずり込んだのだ。
リンクは混乱のあまり逃げる暇もなかった。彼を捕まえたのは、背の高さが人の三倍ほどもありそうな、異様な姿をした何かだった。悪鬼だろうか。しかしこんな大きな悪鬼がいるとは、どんな昔話でも聞いたことがない。肌の色は真っ黒、そう、炭のように真っ黒で、体中に文様のようなものが描いてある。髪の毛はぼうぼうで長く垂れさがっているが、顔には仮面のようなものを被っていた。だがそこには前を見るための穴もついておらず、ただ正面に渦巻のような模様が掘り込んであるだけののっぺりしたものだった。
黒く背の高い悪鬼はリンクを捕まえたままためつすがめつ眺めるようにして自分の顔を近づけてきた。我に返ったリンクは必死で暴れ、その手から逃れようとしたが、そいつは万力のような力でリンクを握り締めてきて放さない。その指が首にかかっており、リンクは呼吸ができず息が詰まりそうになった。その時何かの力に弾かれるように悪鬼はリンクから手を放した。放り出されたリンクは草の生えた地面にうつ伏せに倒れた。両手をついてなんとか立ち上がろうとしたとき、リンクは体中に走る何ともいえない違和感に気づいた。体組織の中を小さな雷のようなものが物凄い速さで行き来しているような感じがする。次の瞬間、口から絶叫が漏れた。体が勝手に弓なりに反る。自分の体が言うことを聞かない。今度は大きな雷に打たれてしまったかのような激しい衝撃がリンクを襲った。一瞬だが、自分の前腕に青灰色の濃い毛が生えているのが見える。一体何が起こったのかできないままリンクは完全に気を失った。
フィローネの森を覆うようにして広がった黒雲の内部に引きずり込まれてしまったリンクはその後どうなったのか。しかし、これを説明する前に、ひとまずトアル村を襲撃した悪鬼どもの行状と彼らを撃退したモイの活躍について記さねばなるまい。
緑の悪鬼どもは、騎兵たちがイリアとコリンを連れ去ったあと、徒歩の者たちだけで村を荒らすことに決めた。彼らはまず泉の脇の小道を南下し、リンクの家の前の広場で遊んでいたタロ、マロ、そしてベスを難なく捕まえ、それから目ぼしいものを探してリンクの家に押し入った。しかし彼らのうち二匹ほどは、仲間がリンクの家を荒らしている間に、自分たちの取り分はもう無いだろうと早々に見当をつけ先に中央集落に向かった。野良仕事をしていた村人たちが川のあたりで彼らを発見し、慌ててモイを呼びに行き、家で妻とともに昼食をとっていたモイは剣だけを携えて駆け付けたのである。
モイは剣を抜くと、二匹の悪鬼たちを大声で威嚇した。だが悪鬼どもはヘラヘラと笑って顔を見合わせると、歯を剥き出して喚きながら棍棒を構えた。舐められたことに激高したモイは、片方の悪鬼の胴を斜め下から斬り払い、返す刀でもう片方の首を一撃で刎ねてしまった。
だが、二匹の鬼を退治してしまってもモイの心に強い違和感が残った。ブルブリンはボコブリンと違って悪賢い生き物だ。敵が武装していて自分より強そうな場合や、負けそうになったときには背を向けて逃げ出すこともある。彼らの余裕たっぷりの態度から、他のブルブリンの群れが近くに来ているかも知れないと推測したモイはゲートを抜けてリンクの家のほうに向かった。予感は的中し、モイは十匹ほどの群れが家の前の広場にたむろしているのにばったり出くわしたのだ。彼らはリンクの家を荒し終え、いましも集落に向かってくるところだった。(子供たちを捕らえた連中は、戦利品は十分と判断したのか既に引き上げていた。)
モイは一番近くにいたブルブリンを袈裟斬りに斬り倒し、さらに横切りで隣にいた奴の胴を払った。しかし次の瞬間肩に激痛を感じて動きを止めた。矢が刺さったのだ。矢が来た方向を見ると、集落からの小道にかかっている柵の裏の死角に、弓を持った悪鬼が二匹いた。一匹はモイの顔が苦痛で歪むのを見てニタニタと笑い、もう一匹が矢をつがえて狙ってきていた。モイが咄嗟に身を低くして突進すると、その頭の上を矢がかすめる。モイは自分を射た一匹に殺到してジャンプ斬りを叩きつけその頭を割った。身の危険を感じたもう一匹の弓兵がくるりと向こうを向いて逃げようとするのに追いすがり、その背中に剣を深々と突き刺す。しかし、モイは剣をそいつの体から引き抜くのに手間取っている間に多数の悪鬼どもに取り囲まれてしまった。
悪鬼どもは滅多矢鱈に棍棒を振り下してきた。モイは頭と肩と背中にしたたかな打撃を喰らってよろけた。だが左腕で頭部を庇いながら身を低くしてこらえ、乾坤一擲の回転斬りを放つと、二人の悪鬼が腹をバッサリと割られて倒れ、もう一人が太ももに深傷を負って尻餅をついた。だがモイは、鋭く長いトゲが仕込んまれたブルブリンの棍棒で打たれた傷からみるみるうちに血が流れてくるのを感じた。まだ悪鬼どもが三匹ほど無傷で、棍棒を構え直して再びモイに迫ってきた。
「この村から出ていけ!叩っ斬るぞ、化物どもめ!」
矢傷の激痛で左腕は上がらず、頭から流れる血で視界がぼやけ始めたモイの頭にウーリとコリンの顔が浮かんだ。一方で悪鬼どもはようやくモイのことを一筋縄ではいかない相手だと認識したようだった。悪鬼どもが棍棒を掲げて威嚇して来つつもこの勇猛な剣士を攻めあぐねている間、彼はしばらくの間必死の力を振り絞って同じことを叫び続け、剣を振り回し続けた。やがてブルブリンたちは、時間の無駄だと思ったのか、それとも仲間の数が急激に減ってしまったことに今更気づいたのか、互いに顔を見合わせると一目散に逃げてしまった。
モイがよろよろとした足取りで中央集落に戻ると、ついさっき切り捨てた悪鬼ども二匹の死骸の周りに村人たちが集まってきたところだった。血だらけのモイの姿に飛び上がるほど驚いた雑貨屋のセーラは、転がるばかりの勢いでボウの家に走っていった。知らせを受け駆けつけたボウは、モイに肩を貸して家まで連れていき、夫の無惨な姿を見てパニックに陥ったウーリをどうにかして宥め、傷の手当てを手伝ってやった。手当てが済んでウーリがようやく落ち着くと、ボウは村中を走り回って情報を収集した。タロ、マロ、ベス、そしてコリンが家に戻っていなかった。イリアとリンクは行方不明だった。その時ちょうどファドが藪に角を引っ掛けて立ち往生していた山羊を見つけて戻ってきたが、もはや山羊の頭数を気にする者など村のどこにもいなかった。
剣士が深傷を負い、四人の子供がいなくなり、村長の娘と若者が一人、姿を消した。トアル村始まって以来の危機にボウは慄然としながらも、村人たちには即座に農作業をやめ、家に避難し施錠するよう指示した。というのも、モイの話では魔物たちは退散したということなのだが、フィローネの森の方に垂れ込めた不気味な黒雲が村からも見えるようになっており、昨今の異変も含め、もはや山羊や猿がどうのといった話をはるかに超えた何か想像もつかない恐ろしいことが起きつつあるように思われたからだ。
これがトアル村で現在まで語り継がれている誘拐事件の顛末である。しかしそれと同時に、黄昏の姫と緑の勇者の冒険譚全体とその時間軸を照らし合わせると、この出来事は田舎村に化物が出たという単なる怪談話にとどまらず、ハイラル王国全体を襲った国家存亡の危機の始まりとまさにぴったり符号するのである。