永遠の別れ
どのくらい意識を失っていたのだろう。リンクは誰かが自分の額に手を置いたのを感じて目を開けた。
ゼルダ姫だった。リンクの傍らに膝をつき顔を覗き込んでいる。
「姫様‥‥」
リンクはやっとの思いで声を絞り出した。途端に肋骨を折られたほうの胸からゴボゴボと音がして、血が喉から溢れでてきた。リンクは激しく咳き込んだ。
「姫様‥‥僕はもう十分です。馬で城にお戻り下さい」
そう言いながらもリンクの口からはみるみる血が溢れてきた。あれほど激しい戦いをしたにも関わらず自分の体が冷え始めているのがわかった。血を失い過ぎたのだ。
リンクはかろうじて溜め息をついた。イリアの悲しむ顔が目に浮かんだ。それが胸に痛みを生じさせた。
だが、これでいい。これでいい。務めを果たしたことに悔いはない。リンクはもう一度ゼルダ姫の顔を見た。ガノンドロフが死んだことで魔法結界は消えただろう。だがそれでも平原は危険な野性動物も多く安全とは言い難い。
「姫様‥‥お早く」
リンクがかろうじてかすれ声で言う。だがそのとき、ゼルダ姫はリンクの手をとりそれを自分の胸の上に押し当てた。しばらくすると、彼女の左手の甲の印か輝きを発し始め、光の粒のようなものがそこから浮かび上がってきた。
光の粒はゼルダ姫の手の甲からリンクの手に流れ込むように空中を漂った。それを見たリンクは思わず声を上げた。
「姫様、いけません。そんなことをなさったら‥‥」
「動かないで」
ゼルダ姫はリンクの手を離さないまま言った。光の粒が体に流れ込むにつれて、傷の痛みが引いていく。リンクは驚きの目をもってその様子を眺めていた。
「ひとまずはこれでいいでしょう」
やがてゼルダ姫はリンクの手を離すと少し微笑んだ。リンクは呆気に取られていた。右手を上げて額に触ると、血はぴたりと止まったようだ。籠手を取り、シャツを捲って左手の前腕の傷を確かめたが、あれほど出血していたのに既に塞がっている。
「姫様‥‥大丈夫なんですか?」
リンクは上体を起こすと、半信半疑でゼルダ姫の顔を見た。
「私は心配ありません」
彼女はもう一度微笑んだ。それでもリンクは信じられず尋ねた。
「でも、ミドナの時は‥‥」
「ミドナの命の火はあのとき消えかかっていたのです。ですから私は私の命の力を全て注ぎ込む必要がありました。しかしリンク、それに比べあなたの怪我は‥‥」
彼女は少し言い淀むと言葉を継いだ。
「あなたの怪我は大したものではなかったので」
リンクは目を丸くした。額を割られ、胸を二度斬り裂かれ、左前腕の動脈を切断され、肋骨を折られ、肩をしたたかに打たれた怪我が、大したものではない?次の瞬間、リンクは可笑しくなって笑いだしてしまった。すると、傷が塞がったとはいえまだ治りきっていない脇腹がたちまち痛み、リンクは思わず顔をしかめた。受け答えが庶民の感覚から完全に外れているという点では、ゼルダ姫にもミドナを思わせるところがあった。リンクは痛みに呻きながら笑いをこらえる羽目になってしまった。
だが、ぼやけた目の焦点が合い始めゼルダ姫の背後にあったものを見た瞬間、リンクは背筋が凍った。
倒れていたガノンドロフがゆっくりと立ち上がったのだ。
リンクは驚愕のあまり顔がこわばった。まだ生きてるのか?胸を聖剣で刺し貫いたというのに?
リンクは必死で自分も立ち上がった。だが頼みの聖剣は手元にない。リンクは反射的にゼルダ姫を守ろうとしてその前に立ち塞がった。
「リンク、心配にはおよびません。彼にはもう力が残されていませんから」
ゼルダ姫は静かな声で言うとリンクの陰から進み出て呼び掛けた。
「ガノンドロフ殿」
魔王は浅い呼吸を必死に繰り返していた。リンクに割られた頭からも、口からも血が止めどなく流れている。リンクはその顔をよく見てようやく警戒を解いた。あれほど強かった魔王の目の光が今では全く消え去っている。
「何か言い残すことがおありならお聞きします」
ゼルダ姫は言った。
「勝者の‥‥余裕‥‥と‥‥いうわけか」
ガノンドロフはゼルダ姫を睨み付けた。その顔は屈辱と憤怒と憎悪に満ちていた。最初に会ったときに見せた気品と威厳はどこかにかなぐり捨てられたらしい。
「これで‥‥全てが終わった‥‥などと‥‥思うなよ‥‥‥」
魔王は口から込み上げる血に噎せ返りながら呟いた。もはや呼吸をするのも苦しそうだった。
「これが‥‥‥光と闇の‥‥血塗られた歴史の‥‥‥始まりだ‥‥と‥‥思え‥‥‥」
押し出すような声で魔王がようやく呻いた。
「結構です。あなたがそうおっしゃるなら私たちは何度でも戦いましょう」
平静な声ではあったが、ゼルダ姫はぴしゃりと言い返した。
「私は学びました。そして以後二度とあなたたちの脅しに屈することはしません。耳を貸すことさえ」
ガノンドロフが何かを言う前にゼルダ姫は続けた。
「たとえ私たちが死んでもこの戦いは後世まで語り伝えられ、それを聞く人びとを勇に駆り立てるでしょう。ひとりづつの力は弱いかも知れません。ですがどれほどの力があろうと、勇を行うと心に決めた者たちの魂をあなたがたは支配することはできません。絶対に」
「小賢しいことを‥‥」
ガノンドロフは歯を剥き出した。
「まだわからんのか‥‥我らの悪は‥‥お前たちの‥‥善から出た‥‥ということを‥‥」
「ならばお尋ねします」
ゼルダ姫は遮った。
「私たちの善から悪が出たというのはその通りでしょう。ならば、なぜあなたがたの悪から善が出ないのですか」
相手が黙っている間にゼルダ姫は言葉を継いだ。
「人は善と悪のはざまで揺れ動き、もがき戦うもの。しかし誰でも善と悪のいずれもなすことができるのです」
「たわけた‥‥ことを‥‥。絶対の力を求め競うは‥‥人の‥‥定め‥‥」
ガノンドロフは口からますます血を流しながら呟いた。
「その『力』とはどこより始まるとお思いですか、ガノンドロフ殿?」
ゼルダ姫は顎を上げて相手を見据えた。魔王が答えられずにいる間にゼルダ姫は言った。
「選択です。ひとは正しいこと、なすべきことを知り、しかし誘惑に遭い揺れ動き、最後に選択をします。その選択こそが力です」
リンクはゼルダ姫の横顔を見つめていた。その顔はまるで大軍の将のように厳しくまた勝ち誇っていた。
「しかしあなたがたは既に永遠の選択をしてしまいました。あなたがたは抵抗することなく悪に自らを引き渡したのです。自らと戦うことさえ放棄したあなたがたがどうして何かに勝利することができるでしょうか?」
ガノンドロフはもはや口を開く力も残っていないようだ。ゼルダ姫はきっぱりと言った。
「あなたがたは生まれながらの敗者です」
魔王がゆっくりと目を閉じた。もはや息は止まり、口から止めどなく流れていた血も止まった。
リンクは注意深くガノンドロフに近づいた。その胸に刺さった剣の柄に手を掛け引き抜こうとすると、驚いたことに魔王の体は既に硬直していた。ガノンドロフの死体に足をかけ、やっとの思いで剣を引き抜いた。魔王の身体はまるで巨大な丸太のように地面に倒れた。
血払いして剣を鞘に納めると、リンクはミドナのことを思い出した。彼女はガノンドロフと戦った。そのあとどうなったのだろうか?
「ミドナ!いるのかい?」
リンクは叫んだ。リンクの声は平原に虚しく響いた。
「ミドナ、もう終わったんだ。出てきてくれ!」
何の返答もなかった。ただ平原を風が吹き過ぎていく。
ミドナは生きているのだろうか?まさか‥‥
「ミドナ!いるんだろ?」
絶望的な声を上げながらリンクは辺りを見回した。まさか、ミドナが。リンクはがっくりと膝をついた。下を向くと呆然と宙を見つめた。
ミドナは死んだのだろうか。あのミドナが?この冒険を始めたときから一緒に戦ってきた。勝利も苦しみも共に味わってきたのだ。そのミドナを失うなど想像もつかないことだった。
「ミドナ‥‥ミドナ‥‥?」
嘘だと言ってくれ。リンクはそう思った。だが、その奪われた冠が魔王の手で握り潰されたところをリンクは見たのだ。リンクはハイラル城のシルエットを仰ぎ見た。魔王がミドナから冠を奪って生かしておくことなど考えられない。
リンクは立ち上がり草むらを歩いた。魔王が投げ捨てたミドナの冠が落ちているのはどこだろう。歩いていくと、ガノンドロフが馬に乗って現れた場所が近づいてきた。落雷のような爆発があった場所の草が焦げていた。
ミドナの冠はゴミのように捨てられていた。リンクはそれを拾い上げた。
「ミドナ‥‥」
リンクの目から涙が、口から嗚咽が流れ出た。リンクは力なく座り込んだ。ミドナはもういないのだ。悔しさと寂しさに胸が引き裂かれるような思いがした。いまやミドナとの冒険の全てがリンクにとっては愛おしい記憶だった。そのミドナがいなくなったなんて。
ミドナの冠を握り締め泣きじゃくっていたリンクは、自分の肩に誰かの手が置かれたのを感じて振り向いた。ゼルダ姫だった。
「リンク、泣いてはなりません」
ゼルダ姫はリンクの顔を見下ろした。
「姫様‥‥」
リンクはゼルダ姫の顔を見上げながらかろうじて言った。
「私の思うところミドナはまだ生きています」
ゼルダ姫はそう続けた。リンクはにわかには信じられず、言葉に詰まった。だが同時に、ゼルダ姫が口から出任せの気休めを言うとも思われなかった。
「でも‥‥姫様、なぜ?」
半信半疑でリンクは尋ねた。
「リンク、思い出しませんか?あなたがガノンドロフと戦ったとき、彼はほとんど魔法を使うことができませんでした」
ゼルダ姫が言った。リンクは思い出した。ガノンドロフとの戦いの殆どは剣によるものだった。
「彼の魔力は本来あの程度ではありません。軍を滅ぼし国を焼き尽くすほどの力を持つ彼がなぜあなたと尋常に剣で戦ったと思いますか?私の推量ではそれはミドナの力によるものです」
戦っている最中リンクはそれを疑問に思わなかったが、魔盗賊と呼ばれるガノンドロフがもっと強力な魔法を使わなかったのは思い返せば確かに不思議だった。
「ミドナが彼の力を出させないよう縛りをかけていたのです。束縛術が解けるには術を掛けた本人を殺さねばなりません。最後まで術がかかっていたということはミドナは死んでいないということです」
「じゃあ‥‥姫様‥‥ミドナは今も?」
リンクはゼルダ姫の顔を見上げた。彼女は微笑むと、平原の向こうを指さした。
あれほど暗く垂れ込めていた黒雲がいつしか晴れ始めていた。西の空は美しいオレンジ色の夕焼けに染まっている。
草むらを横切ってこちらに歩いてくる人影があった。背が高く、黒い薄布のケープを纏った女だった。その肌の色は青灰色に近いほど白く、茜色の長い髪の毛を高く結い上げていた。誰だろう?リンクは怪訝に思ったが、その女の大きなオレンジ色の瞳に見覚えがあった。
リンクは立ち上がって女に歩み寄った。彼は女の美しさに心から感嘆した。リンクはゼルダ姫に初めて会ったとき、想像もつかないほどの美しさとはこのようなものかと感じたが、この女の顔を見たときも同じことを思った。
「どうした、リンク?」
呆然と突っ立っているリンクを見て女は口を開いた。その声と語調にも聞き覚えがあった。
「私が美し過ぎて言葉も出ないか?」
間違いない。ミドナだ。呪いが解けて姿が元に戻ったのだ。リンクはミドナに駆け寄った。
「ミドナ‥‥ミドナかい?」
リンクはそれ以上言葉も出なかった。嬉し涙が溢れ、嗚咽で喉が詰まりそうだった。
「よかった‥‥ミドナ‥‥生きてて‥‥」
かろうじてそう言いながらリンクはミドナの手を取ろうとしたが、彼女はそれを振り払うとそっぽを向いて冷たく言った。
「まったく、レディに近づくときは鼻くらい拭けと言ったろう」
彼女はリンクに背を向けたままハンカチを取り出し差し出した。リンクはそれで顔を拭いた。ハンカチを返そうとするとミドナはまた言った。
「お前の鼻のついたハンカチなどいらん。お前にやる」
リンクはただただすすり上げていた。ミドナは生きていたのだ。そして呪いからも自由になったのだ。ゼルダ姫がゆっくりと近づいてきて、優雅なしぐさでミドナに一礼した。
「奴に勝てるなんて最初から思ってなかったよ」
ミドナはしばらく時間を置くとようやくこちらを振り返って言った。
「だけど騙す必要があったんだ。せめて束縛魔法で奴の力だけでも削るために冠だけ本物の私のダミーを作ってやられたフリをしてたってわけさ」
「ミドナ、あなたの勇敢さを私は忘れません」
ゼルダ姫は言った。
「正直自分でも自分のやったことを信じられないね」
ミドナは両手を広げて肩をすくめた。
「私はこいつほど向こう見ずじゃない。できればこんなことは二度とやりたくないね」
ゼルダ姫はそれを聞くと微笑んで答えた。
「その一度が大きく私たちの命運を変えたのです。それがどれほど重要か、十分言葉に表すことはできないでしょう」
リンクもいつしか泣くのをやめて微笑んだ。ガノンドロフと一騎討ちで戦っているときは、ミドナの助けなくひとりで戦っていると思っていた。だが実際は違ったのだ。
「皆様、私もお礼を言いたい」
その時、リンクの腰のベルトに挟んだブーメランから声がした。リンクが驚いて見やると、ブーメランの象牙質の表面にみるみるうちに亀裂が入っていった。
数秒経つと、ブーメランは完全に細かな破片と成り果てた。何が起こったのだろう?途端にリンクたちの前に渦巻き型のつむじ風が起きた。
「ゲイル、君なのかい?」
リンクは尋ねた。
「ガノンドロフが死んだ今、私にかけられた呪いも解けました。自由になったのです!」
ゲイルは答えた。つむじ風は次第に大きくなり、やがて嵐のような強烈な風が平原に吹き回った。ゼルダ姫とミドナの服が煽られ、二人とも裾を押さえた。だが、それは不思議なことに不吉な風ではなかった。何かこれから楽しいことが起きる、そんな予感を感じさせるような風だった。
「ゲイル、今までありがとう。君は本当は凄い精霊だったんだね」
リンクは言った。これほど大きな風の精霊を使役してきたことがなんだか恐れ多く感じられてきた。
「いいえ、私などはラネールといった精霊たちに比べたら位格は低いですよ」
つむじ風の中から声がした。
「しかし、私には彼らにはできないことがひとつできます。それはこのハイラルの大地を思うままに飛び回ることです」
リンクたちが見ている間に、巨大なつむじ風は空に浮上し、放たれた鳥のように飛び回った。
「さようなら、勇者よ!君と冒険をともにできて楽しかった。またいつか会いましょう!」
ゲイルの声が空に響く。つむじ風は空高く飛んでいき、やがて見えなくなった。
リンクはゼルダ姫をエポナの背に乗せ、手綱を引きながらハイラル城に向けて歩いた。ミドナにも乗るよう勧めたが、彼女は自分で歩くと言った。本来の身体で動けるのがよほど嬉しいようだ。
しばらく歩くと一行は城下町の西門に通じる橋にたどり着いた。以前ゴロンが言ったとおり、工事は既に始まっており、大枠は出来上がっていた。リンクは工事中の立て札の後ろの柵をどけると、エポナの手綱を引いて出来かけの橋を注意深く渡った。
橋を渡り、その先のトンネルをくぐると西門が見えてきた。リンクはゼルダ姫の乗ったエポナを引き門を通り抜けた。ちょうど門を抜けたところは例の診療所で、店じまいをしようとして出てきていた老医師が馬上のゼルダ姫に気づいて口をあんぐりと開けた。
西通りを行き交う群衆の間でたちまち騒ぎが広がった。誰かが突然、「ゼルダ姫、万歳!」と叫んだ。すると波紋が広がるように、周囲の町民が口々に万歳を唱え始めた。
一行が西通りから中央噴水広場に到着するころには、町中が上を下への大騒ぎになっていた。ゼルダ姫を一目見ようと大勢の群衆が広場に詰めかけた。ミドナはいつの間にか魔法空間に姿を消していた。
目抜き通りの花屋がありったけの花を持ってくると、群衆はひとりづつがそれを手にとってゼルダ姫を乗せたエポナの前方に置いた。中央噴水広場から城への柱廊は花で埋め尽くされた。
ゼルダ姫はこうしてハイラル城に入城した。
彼女は城に入ると、真っ先に地下牢に降りていき、ガノンドロフへの協力を拒んで投獄された忠臣たちを救い出した。彼女は自らの手で彼らの汚れた顔を拭くと、厨房に赴いて彼らのために食事を作った。リンクは彼女を手伝いながら、許可を受けてつまみ食いし空っぽだった腹を満たした。
助け出された者たちの世話があらかた済むと、ゼルダ姫は後々沙汰があるまで町内で待つようにと言ってリンクを解放した。
リンクはモイたちの無事を一刻も早く確かめたかった。前庭をゼルダ姫と通ったときは彼らの姿はなかったからだ。リンクはエポナを引いて目抜き通りを下り、裏通りに折れてテルマの店に向かった。
居酒屋に入ると、ちょうどラフレルたち四人が怪我の手当てをしていたところだった。モイ、アッシュおよびシャッドはリンクを見ると歓声を上げた。四人は再会を喜びあった。ラフレルは仏頂面だったが、ようやく口を開いた。
「リンク殿、この老輩の目が曇っておりました。度重なる無礼、どうか許して下され」
リンクは微笑むと一も二もなく謝罪を受け入れラフレルと握手しようと進み出た。
その途端に、それまで身を隠していたミドナが現れた。一同はあまりのことにしばらく言葉を失っていた。
「おい爺さん。誰が信用できないって?」
ミドナが言うと、ラフレルは額に汗を浮かべながらしどろもどろで言い訳を始めた。だがミドナは愉快そうに笑うと相手の肩を叩いた。
「まあよい。その後のお前の働きに免じて不問にしてやる」
ラフレルは生きた心地のしないような顔をしていたが、やがて大きく溜め息をついた。アッシュは丁寧に頭を下げると挨拶を述べた。
「影の国の姫君よ、この度は我が国の存亡の掛かった戦いに馳せ参じて頂きこのアッシュお礼の言葉もありませぬ」
「堅苦しい挨拶はいらない。全てはこいつに乗せられてやったことさ。何しろ危なっかしくて放っておけなかったからな」
ミドナは親指でリンクを指差した。リンクは苦笑いした。
「姫様、お願いがございます」
今度はシャッドが口を開く。
「私は考古学に生涯を捧げようと決意した者です。どうか姫様のお国の歴史をお教え頂けますでしょうか?」
「私は忙しい。手短かに今教えてやる」
ミドナは答えた。こうして六人はテーブルを囲み歓談した。途中で様子を見に来たテルマがびっくりした声を上げた。
「こりゃ驚いたね!この別嬪さんは一体どこから来たんだい?」
リンクがミドナを紹介するとテルマは破顔一笑し挨拶した。
「姫さん、遠いところからよく来なすったね。こんな狭い店だけど寛いでいっておくれよ」
「気遣いは無用だ。私もこういう居酒屋は嫌いではない」
ミドナが答えた。夜が更けるまで皆と語り合うと、やがて彼女は魔法空間に姿を消した。ラフレルたち四名は帰宅し、リンクはテルマの閉店作業を手伝ったあと店に泊まった。
その後しばらくの間、リンクは給仕や皿洗いなどをしてテルマを手伝いながら店に泊まり込んでいた。風の噂によれば、城の占領中ガノンドロフに協力していた官吏どもが追放処分となり(本来反逆罪で死罪のところをゼルダ姫の意向で罪一等を減じられたのである)、牢から救出された忠臣たちの健康が回復するまで城の事務を運営する人材が不足しているとのことであった。
それでも、一週間ほどすると城から使者が来た。叙勲をするので城まで来いという。リンクは急いで馳せ参じた。城に上り、ゼルダ姫の前まで通されると、姫からは改めて労いの言葉がかけられ、また勲章と恩賜金が与えられる旨が官吏から伝えられた。
それを聞いたリンクは慌てて姫に対し上奏した。今回の勝利は自分ひとりの功績とは言い難く、特に城への突入時にはラフレル、モイ、アッシュそしてシャッドの援軍がなければ到底成功はなしえなかったということを説明したのである。ゼルダ姫は即座に了解した。
改めて使者が立てられ、ラフレルたち四人が城に呼ばれた。こうして五人がゼルダ姫の手で直々に勲章を授与され、また感謝状と恩賜金を与えられた。恩賜金の袋を覗いたリンクは心の底から仰天した。想像もしたことのない額が入っていたからだ。
表彰が終わると、リンクはゼルダ姫から個人的に呼ばれ別室に通された。何だろうと怪訝に思っていると、ゼルダ姫はぜひミドナと親しく話がしたいと希望しているとのことであった。ミドナが姿を現し、リンクは退出して城を出てテルマの店に戻った。
リンクにしてみれば、ミドナが自分ではなく他人と一緒に過ごしているということが何か奇妙にも思えたが、相手がゼルダ姫であれば特段異存を持つものでもなかった。実際、後に聞いたところではゼルダ姫とミドナはこのとき固い友情を結んだということなのである。この二人の姫は服装も喋り方も対照的であったにも関わらず驚くほど互いに響き合う部分を持っていた。彼女たちは種々の事柄について語りあい、また互いに良い治世をすることを誓いあった。
(ところで、リンクは受け取った恩賜金をそのままテルマに渡そうとしたが彼女は頑として受け取らなかった。そこでその日の夜は全ての客の飲食代をリンクが払うということで話が落ち着いた。ハイラル城解放から一週間後のその日は、今現在でも「勇者リンクの日」とされており、城下町の飲食店では各種割引を行うのが通例のようである。)
テルマの店で居候しながら、リンクは今後のことを考え始めていた。モイはカカリコ村に行ってコリンと合流し、それからトアル村に帰るための計画を立てていた。彼は恩賜金に物を言わせて新品の馬車を注文するとともにコリンのための剣を鍛冶屋に造らせてもいた。刃こそついていないが立派な鉄製だ。息子が上達したら刃をつけてやる心づもりなのだ。モイはリンクも一緒に連れ帰ろうとしていたが、リンクには心残りがあった。ミドナと別れの挨拶をしていない。だが城に行って会わせてくれと頼むわけにもいかない。ミドナは異国の王女として、その並外れた美貌と堂々たる態度、機知に富んだ受け答えがゼルダ姫の臣下たちの感嘆の的となっており、城では賓客として相応の扱いを受けていたのだ。
だがそんな折、機会は向こうからやってきた。ゼルダ姫から再び使いが来たのである。リンクが城に上ると、ゼルダ姫はミドナの出発が近いことを伝えた。ザントは倒れたとはいえ、混乱に陥った影の国の再建という責務を捨ておくわけには行かないからだ。だが、ゼルダ姫はどうしてもミドナを見送りたいという願いを持っていた。それでリンクに声がかかったのである。
ゼルダ姫は、砂漠の処刑場の最上階にある鏡の間までミドナとともに行く計画を立てていた。その計画は、ハイリア湖畔からゲルド砂漠に行き、そこで天幕を張って夜半に砂漠を横断するというものだった。無謀に思える計画であったがゼルダ姫は本気だった。
ミドナは気楽なもので、自分はいざとなればいくらでも魔法が使えるうえに、ゼルダ姫に対しては「もっと庶民の営為を経験したほうがいい」などと助言し、冒険をけしかける始末であった。それで結局その計画は日を移さず実行されることになった。
まず百名ほどの兵士たちが招集され(彼らの大多数はガノンドロフによるハイラル城占領中何も知らされていなかったためお咎めなしであった)、ゼルダ姫とミドナをハイリア湖までものものしく護衛した。リンクはミドナの特別護衛係という立場であった。そして湖を見下ろす崖の上に急遽リフトが建造され、兵士たちを乗せての上下で安全が確認されると、ゼルダ姫、ミドナとリンクも湖畔に降りた。その後、兵士たちのうち選りすぐりの数名がトビーの大砲小屋からゲルド砂漠に飛ばされた。幸運なことに彼らはこの決死の任務をやり遂げ、砂漠の上の岩からロープを渡してもう一つのリフトを拵えることに成功した。
かくして、兵士たちと二人の姫、そしてリンクはゲルド砂漠にまで登り、そこで天幕を張った。だが骨が折れる夜間の強行軍を兵士たちにさせるより、ゼルダ姫はお忍びで行くつもりでいた。その天幕の中で本当の計画を改めて知らされたリンクは心から仰天した。なんと兵士たちを魔法で眠らせている間にゼルダ姫、ミドナとリンクの三人で処刑場まで移動するというのだ。
ゼルダ姫とミドナがその気だったのでリンクとしては手伝わないわけにいかなかった。歩哨も含め兵士たちが皆寝てしまうと、三人は月明りの下出発した。ゼルダ姫は髪を結い上げ、真鍮のプレートを施した胸当てと肩当てをつけ、丈夫なブーツを履き、さらに長剣まで腰に提げていた。万が一魔物に出くわしたときの備えとのことだったが、リンクはゼルダ姫が妙に生き生きとしていることに気づいた。
ミドナは途中で荒地をうろついていた巨大猪を見つけ魔法で手なづけた。どうやらブルブリンたちが捨てていったものらしい。リンクが手綱を取って、ゼルダ姫が後席に乗り、ミドナは魔法空間に引っ込んで随行することになった。
道中ゼルダ姫は色々な話をリンクにしてくれた。
「ラフレルは子供の頃の私に武術と戦略を教えてくれたのです。しかし何年かすると父王は平和な時代には不要なことと言って彼に暇を出してしまいました」
彼女は話した。
「でも彼はその中でも私に弓術の才能があると言ってくれました。それを覚えていた私は大人になっても暇を見つけては弓の練習をしていたのです」
ゼルダ姫はそう言って自身の右手をリンクに見せた。その人差し指と中指の腹にはタコができていた。リンクは深く納得した。リンクの弓は反発が強く、素人に引きこなせるものではない。ゼルダ姫の腕はもともと本職の弓兵並みだったのだ。ゼルダ姫は知れば知るほど最初の印象とは違う人物だとリンクは思った。夜中のお忍び旅行を心から楽しんでおり、また処刑場には魔物がいるかも知れないとリンクが警告するのを聞いて怯えるどころかその目に期待の光を宿すほどであった。
猪の背中に揺られた旅の末一行は夜半無事に処刑場に辿り着いた。処刑場建物内も、案に相違して魔物はほとんどいなかった。せいぜい蝙蝠が二、三羽飛んでいたくらいである。(ゼルダ姫がほんの少し失望の表情をしたのをリンクは見逃さなかった。)
三人は建物の奥まで進み、最上階にまで登ると鏡の広間に入った。その頃には夜明けが近くなり、遥か彼方の地平線に接した東の空が白みかけていた。陰りの鏡は以前と変わらずそこにあった。鏡から発する光が、その真正面に置かれた岩盤に当たって不思議な円形の文様を生じさせていた。
「これでお別れだな」
ミドナは鏡を据えた台座の上に登ると呟いた。
「所詮光と影は交わってはならないものなんだ。だけど...」
彼女はそう言うと振り向き、後ろから登ってきたゼルダ姫とリンクのほうを見た。
「だけどこの世にはもう一つの世界がある。それをお前たちが知っていてくれるだけで私は嬉しい」
ミドナは微笑んだ。
「光と影は表裏一体のもの。どちらが欠けても成り立ちません」
ゼルダ姫は答えた。
「神が陰りの鏡をこの世に置かれたのは私たちの出会いを繋ぐため。私はそう信じます」
ミドナはそれを聞くとしばらく黙って、茜色に染まり始めた遠くの空を見上げていたが、やがて口を開いた。
「ありがとうゼルダ。ハイラル人が皆お前みたいならきっとうまくいくだろうな」
リンクは言葉を探しながらミドナに近づいた。
「ミドナ、君のことは忘れないよ」
結局ありきたりのことしか言えず、リンクは少し顔を赤らめた。そして考え、付け加えた。
「影を見たときはいつでも君のことを思い出すことにするよ」
ミドナは微笑むと何も言わずに鏡の前に進み出た。光線の降り注ぐ先に足を踏み入れると、半透明の階段がゆっくりと浮かび上がってきた。彼女は再びリンクを見ると言った。
「ありがとうな、リンク」
ミドナは少し間を置くと続けた。
「鏡があれば私たちはまた会える。だけど...」
彼女は俯いた。その右目の下に光るものが見えて、リンクは驚いて目を見張った。
「いつか‥‥またな」
彼女がそう言うと、ミドナの目から零れ落ちた涙の粒が空中に浮かび上がった。彼女がそれを右手でそっと押しやると、涙の粒はごくごく小さな光の粒子を発散させながら陰りの鏡のほうにゆっくりと浮遊していった。やがて涙の粒が鏡の中央に付着すると、そこを中心として鏡の表面にたちまち亀裂が走り始めた。
亀裂音に驚いたゼルダ姫とリンクは鏡の方を見やった。そしてミドナのほうに向き直ると、彼女は既に半透明の階段を駆け登っていた。階段の上の円形の台座の上に立つと、ミドナは再びリンクのほうを向いた。
ミドナの顔には何とも形容できない表情が浮かんでいた。だがすぐに彼女は微笑んだ。いや微笑もうとしていた。しかし見ているうちに、鏡と台座から眩いばかりの光線が発せられ、ミドナの身体を包んだ。
彼女の身体がやがて霧のようになり、鏡からの光に照らされた岩盤に浮かんだ文様の中に少しづつ吸い込まれていった。リンクもゼルダ姫も息を呑んだ。ミドナの身体が全て吸い込まれて消えてしまうと、亀裂の入った鏡が突然割れた。それは文字通り木端微塵の割れ方だった。鏡の発する光が無くなったことで、岩盤に浮かんだ文様も半透明の階段も円形の台座も全てが消え去った。
東の空が朝焼けに染められる中、リンクは立ち尽くしていた。それがミドナとの永遠の別れだった。