この回は特に独自設定多めなのでご注意ください。
最低限の予備知識として
・冷戦
第二次世界大戦後、連合国がアメリカ合衆国を中心とした資本主義陣営(西側)とソビエト連邦を中心とした共産主義陣営(東側)に分かれ激しく対立した。
核兵器の抑止力によるものか両陣営の間で直接大規模な軍事衝突が発生することはなかったものの、各地で行われた代理戦争などを通した対立が続いた。
現実では1989年に終結し、その直後の1991年に共産主義陣営の中心であったソビエト連邦は崩壊した。
・NATO(北大西洋条約機構)
西側(資本主義陣営)の国家を中心とした集団安全保障機構。
日本のように資本主義陣営に属していても加盟していない国家も存在する。
現在でも存続している。
・WTO(ワルシャワ条約機構)
東側(共産主義陣営)の国家によって結成されたソビエト連邦を盟主とする軍事同盟。
現代では解散済み。作中の年代ではまだ存続しています。
冷戦期の北欧には、NATO(北大西洋条約機構)発足時からの加盟国であり資本主義陣営(西側)の構成国として振る舞うノルウェーやデンマーク、名目上は東西両陣営の間で戦前から続く武装中立政策を維持するスウェーデン、民主主義と資本主義を守りながら外交的にはソ連寄りの姿勢を取るフィンランドによるノルディックバランスと呼ばれる均衡が存在した。
しかしこの均衡はBETAの侵攻によって急速に崩壊していった。
中立政策をとっていたスウェーデンは、BETAの地球侵攻以前、EC(欧州共同体)がEU(ヨーロッパ連合)へと発展するのと前後して、NATO諸国との協力関係を急速に深め始めた。
一方で当時のフィンランドの外交姿勢には表面上大きな変化はなかった。
フィンランドがソ連寄りの姿勢をとることには、当のソ連からの侵略を免れるためという面があり、迂闊な行動はソ連地上軍による軍事侵攻を招きかねなかったからだ。
しかしその姿勢もソビエト連邦がBETAに対して敗北を繰り返すにつれ徐々に変化していくことになる。
フィンランドにとって、BETAの侵攻を防ぎきれず領土と軍事力を失っていくソビエト連邦の脅威は急速に低下していった。
そしてフィンランドは、入れ替わりに新たな脅威として現れたBETAに対抗するためにNATO諸国と手を結ぶことを選んだ。
正式に条約などが結ばれたわけではないが、パレオロゴス作戦時にはすでにフィンランドとNATO諸国は協力関係にあったとされている。
パレオロゴス作戦失敗後のNATO軍が東欧諸国から急速に戦力を撤退させたのと対照的に、フィンランドには戦力を展開し続けていたからだ。
NATO諸国がフィンランドと東欧諸国に対して対照的な対応を取ったのには二つの大きな理由があった。
理由の一つは外交的なものだった。
WTO(ワルシャワ条約機構)の加盟国であり、冷戦期には西側と軍事的に激しい対立を繰り広げ、破壊工作やスパイ活動まで行っていた東欧諸国に比べ、
フィンランド化という単語が生まれるほどにソ連寄りの外交姿勢を取ってはいたが、WTOに加盟せず名目上は中立的な立場を維持していたフィンランドは外交的に手を結びやすい相手だった。
もう一つの理由は軍事的なものだ。
フィンランド軍がBETAの侵攻を阻止することに失敗した場合、無秩序に流れ込むフィンランドからの難民とBETAによって北欧諸国が連鎖的に崩壊する可能性があり、その場合はスカンディナビア半島とデンマークを通過したBETAによって西ドイツが北方からの侵攻を受ける可能性が高かった。
しかしフィンランドの南東、レニングラード州とカレリア自治ソビエト社会主義共和国にまたがる地域に防衛線を敷けば、フィンランド湾とオネガ湾に挟まれた狭い陸地に戦力を集中して効率的な防衛体制を築くことができた。
もちろんこの地域はソ連領にあたるが、BETAの侵攻によって首都を極東のハバロフスクに移転することを強いられるまでに追い詰められたソビエト連邦は欧州における軍事的プレゼンスを大きく低下させており、特にパレオロゴス作戦後は東欧諸国を通した間接的な干渉以外はほとんど不可能になっていたから、外交交渉によって軍事的なフリーハンドを得ることは難しくなかった。
実際に、フィンランド湾とオネガ湾に挟まれた地域に防衛線を敷いてから、パレオロゴス作戦以来続いていたNATO軍の戦線の後退は停止していた。
東欧でも完全に停止こそしていないが、それでもBETAの支配領域の拡大は明らかに停滞しているらしい。
しかし戦線を縮小し戦力を集中することができたとはいえ、世界最強の陸軍だったソ連地上軍をわずか数年で追い詰め、ソビエト連邦の政治的経済的な重心であるウラル山脈以西のヨーロッパロシアの放棄を決断させたBETAの侵攻をこの程度の戦力で押し留めることができているのはある意味では奇妙なことだった。
その原因の一つはBETAの戦略的機動性の高さにあった。
BETAが梯団を形成した場合、梯団全体の移動速度は鈍足の要塞級や重光線級の速度に制約される。
通常、梯団内では移動速度の違いにより複数の集団が形成されるが、長時間の移動を行っても集団間の距離が一つの梯団と見なせなくなるほど開くことはなかった。
つまり梯団の移動速度は時速30~40km程度ということになる。
これは装軌車両の路外速度と同程度だから、遅くはないが極端に高速というわけでもなかった。
問題はBETAは何らかの抵抗に突き当たらない限り基本的に停止しないということだった。
人類の軍隊の場合、常識的には条件がよくても数時間ごとに人員の休息や食事、睡眠、あるいは車両等のメンテナンスのために停止する必要があり、また長期的には後方からの補給物資の輸送手段によって進撃速度や範囲を制約されていた。
一方でBETAはそのような制約に悩まされることなく文字通り無停止で進撃することが可能だった。
結果として、ソビエト連邦のように中央アジアから北上するBETAに対する長大な戦線を抱えた場合、広大な範囲に分散した多数の都市や拠点を防御する必要があった。
それにこれほど戦線が長くなると、戦線全てでBETAの侵入を防ぐように防衛線を敷くことはできず、重要な都市や拠点の周囲を防衛する形になるから、戦力が薄い、もしくは存在しない場所を経由して後方の都市にBETAが殺到する可能性もあった。
BETAの移動を観測して目的地をしぼり込み、鉄道や河川を利用して部隊を機動させて戦力を集中することも行われたが、効果は限定的だった。
BETA到達までの猶予時間が短すぎ、戦力を機動させられる範囲が戦線の長さに比べて狭すぎたのだ。
結果的にソ連地上軍は膨大な戦力を薄く広く展開せざるを得ず、逆に戦力を集中して投入してくるBETAによって各個撃破される形になった。
航空機やミサイルのような機動性の高い、もしくは長射程の兵器を投入することができれば、BETAがいかに高速で移動しようとそれに合わせて火力を集中させることができるはずだった。
だが当時のソ連の(というよりは人類の)持つ航空機では、航続距離や積載量に劣る回転翼機以外がBETAに接近すること自体が自殺行為だった。
また、長射程のミサイルを集中的に投入することで光線属種による迎撃を飽和させる戦術も行われたが、通常弾頭の場合それによって撃破できるBETAの個体数は高価なミサイルを大量に消費するコストに見合うものではなかった。
だからこそソ連軍は弊害を承知で戦術核の使用を選択することになったのだと言える。
そしてこの奇妙な現象を成立させているもう一つの原因は兵器と戦術の進歩にあった。
その筆頭は戦術機だ。
中央アジア戦線での戦闘が行われていた時期は衛士に対する教育も戦術機そのものの運用も手探りのまま戦場に投入されていた。
しかし現在では各国の軍隊で専用の教育課程が整備され、蓄積された戦訓を反映したドクトリンも形になりつつあった。
戦術機自体の性能も、抜本的な向上こそされていないが、実戦での運用状況を元に改修が行われた機体が投入されるようになり、実際の戦闘能力は大きく向上している。
数量についてもパレオロゴス作戦時と比較しても顕著に増加していた。
後発の兵器である77式軽攻撃機「隼」もおおむね似たような状況にあった。
特に数量面における増加は驚異的な速度で進行していた。
これは隼が戦術機どころかBETA大戦前のジェット戦闘機と比較しても機体規模が小さく生産コストが抑えられていたことと、パレオロゴス作戦における実戦投入以前から開発元である富嶽重工以外に複数のメーカーを巻き込んだ大規模な生産体制の構築が行われていたことに原因がある。
この生産体制は帝国空軍の非常識と言えるほどの規模の拡大を支えるために構築されたものだが、パレオロゴス作戦後の欧州戦線での活躍を受け、EU諸国などに対する輸出も始まっていた。
もちろん戦術機以外の陸戦兵器についてもBETA戦への対応は始まっている。
こうしたさまざまな変化が積み重なり、BETA大戦の戦況が転換しつつあったのが1980年代初頭の北欧戦線だった。
この辺りから大局的な変化が表れていきます。