「おや、レッドさんは今日も仕事かい?大変だねぇ」
「……」
アドミラルの軽口に、ビッグレッドは乗ってこない。ただ、淡々と目の前の書類に目を通し、処理済みとそれ以外のものに分けていく。
「……はぁ、レッドさんも構ってくれないし、アソールトのとこにでも行こうかな」
アドミラルは自分の処理すべき書類を乱雑にファイルに入れ、それを持って保健室へ行ってしまった。
「……」
ビッグレッドの手は止まらない。いつの間にか、目の前に山のようにあった書類は全て処理が終わっていた。書類を取る手が空を切るのを感じ、彼女は初めて頭を上げる。
学園も世間も平常運転である。だが、この生徒会室とトレーナー室の一角は、そんな世間から取り残されたように静まり返っていた。新たなティアラ三冠ウマ娘、シュッドヴィの活躍は特にめざましく盛り上がった時期もあったが、ふと気を抜くといつの間にか静かになってしまっている。
彼女の抜けた穴は、想像していた以上に大きかった。そしてまた、想像していた以上に世間にとっては小さかった。アメリカ初のティアラ三冠。これまで誰もなしえなかった名誉。それを達成した者がいなくなって数か月で特に騒がれることもなく世間が落ち着いたのがその証拠だ。
「ごめんなさい、か」
手紙には一言、そう書かれていた。謝るくらいなら帰って来いと普段の私なら言っていただろう。だが、あの彼女の疲れきった顔を思い出すとその言葉は出てこなかった。私は何か間違ってしまったのだろう。
どの段階で、どれほどの、そしてやり直せたのはいつまでだったのか。疑問は尽きない。
ただ一言のその手紙は、私や彼女に深く関わった者たちにとっての呪いであった。
「久しぶりね」
扉を開け生徒会室に入ってきたのは、そんな呪いをかけられた者の一人、アソールトだ。最近また体調が悪化したため保健室ではなく病院にいたのだが昨日退院できたらしい。アドミラルが会いに行ったはずだったが彼女との話は終わったのだろうか。
「シュッドヴィちゃん、生徒会に勧誘するの?本人は乗り気らしいけど……」
「そうだな、ティアラ路線で活躍したウマ娘、それに三冠も取ったとなれば生徒会にぜひ欲しい人材だ」
私の言葉を聞き、アソールトは表情を曇らせる。ああ、やはり彼女の呪いは重い。
「そう…ね。私からも機会があれば声をかけてみるわ」
先ほどよりも明らかに声が弱弱しい。ここ最近ずっとこんな感じだ。あのアドミラルでさえティアラ三冠の話になると、少なくとも私たちの前では露骨に話題を逸らしだす。シュッドヴィもそんな私たちの雰囲気を察してか、レースの話をあまりしてくれなくなってしまった時期もあった。
実に不甲斐ない話だ。年齢が一回り以上も違う後輩から気遣われてしまうなどあってはならない。それに彼女はまだ現役の選手だ。余計な心配を掛けさせるなど言語道断。そう考えた私たちは少し遅れてシュッドヴィのティアラ三冠達成パーティを開いた。
パーティは大いに盛り上がった。まるで去年の彼女にしてやれなかった分を取り戻すかのように。
それ以降、シュッドヴィに余計な心配をさせてはいない、と思う。生徒会への参加も前向きに考えてくれているらしい。彼女が新しく加わればこの部屋も少しは賑わいを取り戻すはずだ。
(まるで、蜃気楼に浮かされていたみたいだな)
彼女がいなくとも時間は過ぎていく。その時間の中で生徒会にも新たな風が吹き込み、呪いも薄れていった。
彼女が消えて、一年が経つ。
◇ ◇ ◇
「ん?」
気づいたのは、偶然か必然か。
週末の息抜きにと訪れたレース場からの帰り道。まだ混雑しているその通路で、私は人込みに埋もれる小さな黒鹿毛のウマ娘を見つけた。足が不自由なのか杖を突き、そのせいで満足に前に進めていない。
気づいてからの行動は自分でも驚くほど速かった。私の大きな体はこういう場面でもその価値を発揮する。前にいる者たちを突き飛ばすように歩き、その黒い髪が肌に触れるところにまで近づくと、逃げようとするその手を握りそのまま人込みを抜けだした。
「な、な……」
私の顔を見て声も出ない様子の彼女をお姫様抱っこのような形で運び出し近くのベンチに座らせる。
そしてその時初めて私はつばあり帽子に隠されたその顔を見ることができた。間違いない、彼女だ。
「久しいな。……このセリフをお前に向けて言うのは二度目か」
「あ、あの……人違いでは……」
「……お前のように小さい奴が二人もいてたまるか」
観念したのか、彼女は涙をその眼に浮かべるとうなだれて杖に体重をかける。そして消え入るような声で、ごめんなさいと、そう呟いた。
それはまるで、ジュニア期の終わりに路頭に迷っていた彼女を見つけたときの再現のようで、なのにあの時とは何もかも変わってしまっていた。
「付いてきてくれるか?何、特に何をするわけでもない。一緒にドライブでもしよう」
怯えるように肩を震わせている彼女を支え、私は自分の車へ向かう。仕事としてレースを見に来ていなくてよかったと、半日前の自分の判断に感謝していた。
その後、約束通り何をするわけでもなく町中を車で巡り、小さな雑貨店で時間をつぶすと、彼女を近くのバス停まで送る。別れ際、次会う日と場所の予定を強引に伝え追って連絡するとだけ言ってその場を離れた。
自分の強引な行動を今になって考え直す。が、彼女を見つけたとき、何もせずその背中を見送っていたらおそらく私は後悔していた。彼女には悪いことをしたかもしれない。次の約束の日に来なければまあそういうことだ。
そして約一週間後の約束の日。私は集合場所として指定した喫茶店で彼女の到着を待っていた。来てくれるかどうか不安だったが、集合時間の約5分前に扉が開き、少しおしゃれした彼女が現れる。顔色も前回会った時より少し良くなったように見えるのは化粧のせいだけではないと思う。
「こっちだ。何か頼みたいものがあれば言ってくれ」
「お待たせしました。……そうですね、ではカモミールティーを一つ」
数分後、カモミールの香りが卓上に広がる。優しい香りだ。アドミラルの奴も確かこの紅茶が好きだった。
紅茶を飲んでいる間も特に会話はない。10分ほど経ってゆっくりと紅茶を飲み終えた彼女を確認すると、私は席を立ち外に止めている車に向かった。お金は支払わなくていいのかと彼女が心配しているようだが、この店のマスターと私は昔からの知り合いで代金は基本求められない。逆に支払いを行うときはたっぷりとチップをおまけしている。
車に乗り込むと、私たちは前回と同じように目的のないドライブに出かけた。この前は町を中心に回ったので、今回は田舎の方に行ってみようかと思い立ち、収穫を終えた小麦畑が続くまっすぐな道をただひたすらに走る。
ミラージュの黒い髪が車の窓から入ってくる風を受けて優しく揺れている。その髪の隙間から見える彼女の顔は、まだ無表情のままだ。
◇ ◇ ◇
今日もビッグレッドさんの車に乗って、約半日、目的のない旅をする。行きついた先で少し時間をつぶし、帰りは適当なバス停で降ろしてもらう。そんな何とも言えない不思議な時間は、少しずつ私にとってかけがえのないものとなっていった。
最初にあのレース場の帰り道で彼女に会った時は、突然の再開に驚きこれまでの自分勝手な行動を責められると委縮してしまっていた。辛かった思い出と、楽しかった思い出がごちゃ混ぜになって、謝罪の言葉しか口にできなかった。
謝って許されることじゃない。そんなこと、分かっていたはずなのに。
「よし、今日はここに寄ろうか」
ビッグレッドさんが車を止める。車を降りずとも分かる。私はここを知っている。
「チャーチルダウンズ…レース場……」
二本の尖塔はあの時と変わることなくそこに佇んでいる。私がここに来る時はいつもレースが行われていたため賑わっていた印象しかなかったが、レースのない今日のような日は人の姿もまばらであり、何か違う場所に来てしまったような感覚さえ覚える。
立ち止まってレース場の方を眺めている私を、ビッグレッドさんが少し離れたところから呼んだ。どうやらレース場は目的地ではないらしい。そうとなるとここにあるのは…
「しばらく中に入っていなかったが、展示品は増えているだろうか」
そう、ケンタッキーダービー博物館。アメリカのウマ娘たちの軌跡の詰まる、この国最大級の知識の宝庫。私も中に入るのはあの時以来、二度目である。
中に入って受付を済ませると、ビッグレッドさんはエントランスホールにあるソファを示し、少しそこで待っているようにと言った。不自由な私の足を気遣ってくれたのだろうかなどと思い私はホールの隅にあるソファに腰を掛ける。
そして数分後、ビッグレッドさんは一人の男性を連れて帰ってきた。
「……久しぶり」
「とッ……トレーナーさん……」
見間違うはずもない。私を二年以上そばで支えてくれた人がそこに立っていた。
「彼が君に会いたいと言っていたからな。今の君になら、彼と会っても大丈夫だと判断した」
ビッグレッドさんはそうとだけ言うと、私たちを置いて展示場の方へ行ってしまった。
二人きりとなった私と彼の間になかなか会話は生まれない。
さっきはつい口に出してしまったが、今の私に彼をトレーナーと呼ぶ資格はない。忠告も聞かず、勝手にレースに出て、心配をかけて、それでも彼は私を支えようとしてくれて。そしてそんな彼の努力を、私は悉く無碍にした。そんな私に、彼をトレーナーと呼ぶ資格など。
叱ってほしかった。なんであんなことをしたんだと、怒鳴ってほしかった。それが甘えであることは分かっている。それでも、弱い私はまだ彼に甘えていた。
「……ありがとう」
「え?」
永遠にも思える長い沈黙の後、彼は静かにそう言った。予想外の言葉に面食らう私を見て、彼は言葉を続ける。
「今日、会ってくれてありがとう。もう、会えないんじゃないかと思っていた。言いたいことも、聞きたいことも色々ある。でも、まずはこのことを君に伝えたかった」
そこで彼は言葉を切り、私の左足を見る。現役のころよりも一回り以上細くなってしまった足はその機能を十分に果たせていない。一目見て彼はそれを見抜いたのだろう。押し殺すような声が小さく響き、彼は席を立った。
「ま、待ってください!あの……ごめんなさい、私はあなたの思いを裏切って、自分勝手な行動をとってしまった。謝って許されることではないけれど、でも、どうかもう少し話をしませんか」
「……そうだな」
そう呟くと、彼は黒のハットを深くかぶり直して表情を隠す。再び席に着いた彼は軽く息を吐き、固い表情をこちらに向けた。
「改めて……ごめんなさい。あの時、あなたの制止を聞いておくべきだった。もう少し、冷静になるべきだった」
「いや、謝るのは俺の方だ。レースに向かう君を止めることが……支えることができなかった」
彼の顔をまともに見ることができない。吐き出されるように、所々詰まりながら紡がれる言葉からここ一年の彼の心の一端を思い知らされる。きっと、後悔したのだろう。きっと、やり直したいと願ったのだろう。
気がつくと、彼から言葉は聞こえなくなっていた。また嫌な沈黙が場を支配する。私は何か話そうとして、でも考え付くのは彼への謝罪だけで、それを言葉にすることができなかった。
「なあ、ミラージュ」
またしても沈黙を破ったのは彼からだ。緊張していた私は少し身を震わせて、続く言葉を待つ。
「まだ、話したいことはたくさんある。君も、それは同じだと思う。だけど……今日は、このまま話していても……何というか、同じ話題ばかりになってしまいそうだ」
言いたいことを吐き出したからか、彼の言葉には少しだけ明るさが戻っていた。私はそれにつられるように顔を上げ、彼の顔を見る。まだ少しこわばったままの表情。だけど、間違いなく、私を最後まで支えてくれた彼がそこにいる。
……ああ、なぜ気づけなかったのだろう。
「だから、だからさ。また、いつでもいいから、会ってくれないだろうか。昔みたいに、君のそばにいることはもうできないけれど。それでも君と会って、少しでも君を支えたいんだ。きっとそれが、俺にできる唯ッ……」
彼の言葉はそこで止まる。きっとそれは、握りしめられていた彼のこぶしに手が添えられたのが無関係ではない。
「……ありがとうございます。大丈夫です、それ以上言わなくても。あなたが、そう思ってくれているだけで」
彼の固く握られた手がゆっくりと開かれる。
今更、本当に今更だ。私はあの時、一人なんかじゃなかったんだ。
「トレーナーさん、博物館を見て回りませんか。あの時みたいに」
添えていた手を離し、私は真っすぐ彼を見据える。彼は私に何かを見たのか、数秒固まった後、決まっていたであろう答えを伝えた。
「……ああ、そうだな」
◇ ◇ ◇
彼女が初めて勝負服を着たときのことを思い出す。“あの笑顔を覚えている限り、前を向いて歩いて行ける”、そう思ったあの日のことを。
(ああ、また、彼女を見ていたい。遠くからではなく、その横に立って)
トレーナーとその担当のウマ娘という形には戻れない。あの輝かしい日々は過去のものだ。それぞれに日常があり、距離は開いていくだろう。
しかし、だからこそ時折交わるその道の中で彼女を助けていきたい。小さな背丈に似合わぬ重りを無意識に抱える少女の負担を時に分散し、時に一緒に抱えてあげられるような、そんな未来を築きたい。
それはきっと、彼女のためだけではなくこれから関わるウマ娘たちへの糧にもなる。
今度こそ大丈夫だ。俺はそう思い、前を歩く小さな背中を追いかけた。
◇ ◇ ◇
「楽しそうだったな」
帰りの車の中で、私は瞼を重そうにしている彼女に話しかける。心苦しくもあるが、もう少しで目標のバス停だ。起きていてもらわなければ困る。
「ええ、とても」
車の窓から入り込むネオンの淡い光が彼女の表情を映し出す。話しかけられたことで目が覚めたのか、彼女の声ははっきりとしていた。
「ありがとうございます、彼と会わせてくれて。今日、会えてよかったです」
「……そうか」
信号で止まっていた車が再び動き出す。私としても、彼といつ会わせるかは測りかねていたのだ。彼女がいなくなってからの彼は、それまでにも増して絶望していた。長期休職こそしなかったが、いつそうなってもおかしくない危うさを私含め皆が感じていた。実力はあるとはいえまだ若手、夢破れて学園を去る者たちを見慣れていない。ベテランだとしても辛いその現実を体験し、すぐに乗り越えろというのはあまりに酷である。
それでも彼は大人だった。半年もすると、少なくとも表面上はこれまで通りに振舞うようになりサブトレーナーとして様々なウマ娘を成長に導いていた。
今回彼を会わせたのも、アドミラルからそんな彼の状況を聞いていたからに他ならない。ミラージュだけではなく、彼にも今なら会わせることができると、会っても互いに前を向くことができると、そう思えた。
そしてそんな私の予想は当たってくれたらしい。二人の会話を遠くで見ていたわけだが、最初こそ謝罪合戦になるのではと心配したものの、それらしい様子もなくお互いの表情が明るくなったところで大丈夫だと確信した。
「ビッグレッドさん」
「なんだ?」
「今更ですが、あなたとの約束、守れませんでした。いつか言ってくれた、戦争をするという約束」
「ああ、そんなことも言ったな。……残念だが、これも一つの結果だ。偶然、私の道と君の道が交わらなかった。それだけだ。何か負い目に感じる必要もない。それはそれとして残念ではあるのだが」
私の言葉が終わるのとほぼ同時に、目的にバス停に到着した。彼女はいつも通り今日一日のお礼を言ってから下車し、私の車が見えなくなるまで見送ってくれている。そんな彼女にブレーキランプを数回点灯させると、私は学園への帰路に就いた。
楽しい日々だ。だが、いつまでも彼女にかまってもいられない。そろそろこの生活も終わりにしなければ。
◇ ◇ ◇
「久しぶりです」
「ああ、久しぶり」
ビッグレッドさんとの交流も気づけば始まって半年以上経つ。このカフェで顔を合わせるのも何度目だろうか。彼女との旅は特別な何かを味わうというものではない。日常の延長線上に少しだけ楽しみを見つけることができる。素朴で、とても素敵な旅だ。
いつまでもこんな日常が続くとは思っていない。けれど、少しでも長く続いてほしいと願っていた。
「ミラージュ。突然だが、こうやって会うのは今日で最後だ」
だから、覚悟していたはずなのに。その言葉を聞いたとき、私は自分の足元にひびが入るような、そんな気がした。でも大丈夫だ。私はもう十分彼女に与えてもらっている。前のように絶望しながら一人で過ごすことはない。
たまには学園に顔を出し、友達や後輩と交流するのもいいだろう。何か悩みが出来た時はトレーナーさんや先輩たちに頼ることもできる。
「……」
車に乗り込んでから、私とビッグレッドさんはお互いに話そうとしなかった。今までも車内が無言だったことは多々あったけれど、こんなに静かに感じたことはない。今までの旅は、次の楽しみへとつながる一過程で、素敵な日常の途中でしかなかった。でも、今日の旅は明確に一つの終わりへと向かっているのだ。寂しく感じるのも仕方ない。
景色は移り変わり、いくつか町を抜け、農地の真っすぐな道を通り、車は進んでいく。いつもなら集合場所からそう遠くはない場所が目的地となるのだが、今日はそうではないらしい。
長い移動時間は、私にとって物悲しい静かな時間が続くという辛いものであると同時に、まだこの素敵な日常を続けるために終わらないでほしいと思わせてくる。ビッグレッドさんも同じように思ってくれているだろうか。あまり表情の動かない彼女からその考えを読み取ることは容易ではない。
西日が差し始めた頃、ついに車は速度を落として止まった。着いた場所は私の通っていた中学校。私とビッグレッドさんが初めて会った場所である。
◇ ◇ ◇
グラウンドを見下ろすことのできる小高い丘に立つ。私たちは言葉を交わすこともなく、あまり人もウマ娘もいないその場所を見下ろした。まだ少し肌寒いがこれから春を感じさせる風が吹き私たちの髪を揺らす。
「……ここに来るのも、久しぶりです。懐かしいですね」
沈黙に耐え切れなくなった私は周りの目を気にしながらも話しかける。この丘の頂上付近はちょっとした茂みもあるため周りからは見え辛いが、長居すると騒ぎになってしまうかもしれない。特にビッグレッドさんは背が高いこともありとても目立つ。
そんな私の心配を察してくれたのか、ビッグレッドさんは意を決したようにこちらを向き、私をまっすぐに見つめた。
「ここで会ったことが間違いだったかと疑ったこともある、でもそうは全く思えなかった、私は君に出会えてよかった」
「え?」
急な話に驚きを隠せない。しかしそれも一瞬で、彼女のいつになく真剣な表情に私の背も自然に伸び言葉を受け止める準備をする。
「小さい君に私たちは期待し、君にはそれに応える力があった。期待しすぎてしまったかと自分を責めたこともあった。しかしやはり、それも正解ではないような気がする」
私は首を縦に振る。期待をしてくれと願ったのは私で、彼女たちの期待は私の背中を押してくれた。確かに彼女に付いて行ったことで生まれた苦しみも大きかった。でも、あの場所に行かなければよかったとはもう思わない。
ビッグレッドさんはそこまで話すと、少しだけ間を開けた。そしてゆっくりとひざを曲げ、私に視線を合わせる。きれいな薄茶色の瞳は私の姿を映しながら宝石にようにきらめく。
「もう一度、私は君に期待する。今度こそ、君の蜃気楼ではなく、君自身を見る。あの時寄り添ってやれなかった、頼ってもらうことのできなかった自分が言うのかと思ってもらっても構わない、どうか頼む」
初めて、彼女の後悔を聞いた。初めて会った時から今に至るまで、彼女は一度も間違えたことなどなさそうに見えていた。覇道を突き進み、戦場の勝者として常に君臨し続けていた。
間違えることのない者などいない。そう頭では理解していても目の前の彼女は例外だと思わせる強さを持っていた。
(でも……)
違ったのだ。
私は今、彼女に出会った。
すぐ横のグラウンドに目を移すと、かつてそこで全てが始まった日のこと、その後の様々な出来事が思い浮かんでくる。
どれだけの時間が流れただろうか、ビッグレッドはまだこちらをまっすぐと見て答えを待っている。
もう、答えは決まっていた
「はい、分かりました。私にもまだできることがあるのなら、その期待に応えて見せます。皆と共に、力を合わせて」
薄茶色の目、日が当たり真っ赤に燃えるような髪。彼女も私を一人のウマ娘として見てくれたのだ。だから私もそれに応えよう。
「ビッグ…いえ、───さん」
◇ ◇ ◇
「あ、でも私退学してますからすぐには行けないですね」
「いや、お前の退学届けを受け取りはしたがサインはしてない。お前はまだ休学扱いだ」
「え……?」
「アドミラルとアソールトもお前を待ってる。行ってびっくりさせてやれ」
◇ ◇ ◇
とある病院のとある病室で、一人の男性が目を覚ました。ここはどこだろうかと、かろうじて動く眼球を動かし周囲を探る。やがてあわただしい足音が聞こえ、誰かが視界の中に入ってきた。ぼやけていてよく見えないが服装などから看護師だろうと当たりを付けた。
眠気に抗ったり従ったりして幾ばくかの時間が流れる。次に意識が覚醒したとき、目の前には見知った顔が二つあった。
「……ただいま」
◇ ◇ ◇
ある日、私はとあるウマ娘たちと会う約束をしていた。待ち合わせ場所はニューヨークはセントラルパーク、その中にあるベルヴェデーレ城の前である。公園を見渡せるように作られたこの城は、待ち合わせの時間つぶしを兼ねた場所としては最適であろう。
「お待たせー」
「お待たせしました」
「どのくらい待った?」
「こんにちは」
現れたのはレディカード、ゲイマテリアル、ヴィジタールーム、そしてシリアンオーシャンだ。ティアラ路線で私と戦った元ライバルたちである。
「私たちの方から誘ったのに待たせちゃってごめんね」
「いえ大丈夫ですよ。このお城をしっかり見る時間が出来てむしろ良かったです」
「それじゃあ、歩きながら話そうか」
ニューヨークの中心地を目指し、私たちは歩き出す。しばらくはセントラルパークの自然の中だ。曲がりくねった道を歩き、ベセスダテラスでいったん休憩をする。大きな噴水を見ながら、ゲイマテリアルが口を開いた。
「ミラージュさん、足の痛みなどはありませんか?何かあればすぐに言ってください」
「我慢は体に悪いぞ」
「……それは痛感しております……」
体をしぼませながら言う私を見て四人はけらけらと笑う。その一連の流れにより、少しだけ残っていた私と彼女たちの間の取っ付きにくい雰囲気は無くなった。
「……あまり詳しくは聞いていないけれど、大変だったみたいね」
「私たちにできることあんまりないけど、悩みを聞くくらいなら全然オーケーだからこれからも気軽に頼ってね」
朗らかに笑う彼女たち。後から聞いた話だが、彼女たちは私のために時間を割いて何度もパーティーや外出の計画を立てていたらしい。私は幸せ者だ。こんな友人たちに恵まれたのだから。
「ミラージュちゃん⁉」
いつの間にか私の目から大粒の涙が溢れていた。必死に止めようとするが中々涙は止まってくれない。
「ごめん、ちょっと……」
口元に笑みを浮かべながら泣く私をやれやれという風になだめながら、四人は私が泣き止むのを待ってくれた。目の下が少し赤くなってしまったが、街へ着くころには落ち着いていることを願おう。
四人はその後も私の足を定期的に心配しながら街を案内してくれた。マンハッタンの街は正直ごちゃごちゃしていてあまり好きになれない場所だが、こうして友人たちと過ごすと普段とは全く違った、魅力溢れる場所に変わる。
その日の終わり、もう日が沈んで街灯が明るく道を照らす街中で私たちは別れた。四人とも両手にいっぱいの荷物を持ち、にこやかな表情で去っていく。今日一日、その笑顔にどれだけ私が救われたか彼女たちはきっと知らないだろう。
その恩を返すためにも、今度は私が彼女たちを誘ってみよう。場所は地元でもあるオハイオのシナンシティ辺りがいいかもしれない。歴史を感じるオーバーザライン地区にヨーロッパを感じさせる食べ物の数々、あの町の発達したバス網に詳しい私なら彼女たちを満足させられる。
そういえば、メディックファーガーさんにもお茶に誘われたな。そっちも準備をしておかないと。彼女も私の命の恩人だ。
楽しい妄想が現実に変わる日を私は夢見る。たとえ計画通りにいかなくても悲観する必要はない。きっとその先、未来があるのだから。
◇ ◇ ◇
「はぁ……」
とある河川敷で、ウマ娘がため息をついていた。その体は大きく、いかにも競技者といった風格だ。実際、彼女は最強とも噂されるほどのウマ娘だった。デビューから快勝を重ね、無敗でティアラ三冠を制覇。連勝記録は10になり、その内8レースでレコードを更新した。
その人気もすさまじく、クラシック路線で活躍したウマ娘とのマッチレースが組まれ、そのレースの視聴者はアメリカだけでも数千万人に及ぶと言われている。レース場にも5万を超える観客が集まり、まさに全米が熱狂していた。
だが、そのレースで観客たちが見たものは、彼らが期待していたものではなかった。
『故障発生か!?』
力なく足を引きずり横にそれていく彼女を、観客たちは悲鳴を上げながらただ見ていることしかできなかった。最後のレースは初めての敗北であったと同時に、その競技人生を終わらせたレースであった。
病院で治療を受け、杖を突いて一人で歩くことができるようなりはしたが、もうあの頃のように走ることはできない。学園も様々なサポートをしてくれるが、変わったばかりの生徒会長の補助でも忙しいため、学園に居座り続けるのも気が引けてしまう。
世間も大波乱が生まれ、マッチレースを今後行わないようにするという考えが浸透しつつあった。街中はどこへ行っても自分の話題で持ち切り。心を休める暇がない。
「……」
両ひざに顔をうずめてからどれほど時間が経っただろうか。いつの間にか辺りは暗くなり、街灯がともり始めていた。
(帰らなきゃ)
彼女は立ち上がろうと足に力を入れる。だが少し焦っていたからか、怪我をしている方の足を前に出してしまったためバランスを崩し転倒してしまった。
「……ッ」
全身に痛みが走り、這って移動することもままならない。本当に嫌になる。
そんな彼女に、少し息を切らした誰かが手を差し伸べた。
「大丈夫、ゆっくりでいいから左足を立てて」
闇に溶け込む誰かの手を借りて、やっとの思いで元の座っていた姿勢に戻る。小さな影は少し安心したように息を吐き、彼女の横に座った。
横に並んでみると彼女は異常に小さい。見下ろさなければ顔を見ることもできないほどだ。そして彼女はその誰かに見覚えがあった。
「ありがとうございます、ミラージュさん」
「どういたしまして」
フォンセミラージュ、現在、生徒会で活躍中の初代ティアラ三冠ウマ娘。にもかかわらず世間での知名度はそれほどなく、名前を聞けば思い出される程度のものとなっている。
だが、彼女からしてみればミラージュは恩人であり、忘れられない存在である。過渡期の最も忙しい時期に生徒会をとりまとめ、個人的な繋がりを駆使して新生徒会長の負担を軽減していたことは記憶に新しい。また、怪我をしたウマ娘たちのケアも担当し、彼女も何度か世話になっていた。色々嫌になっていた時期に荒れずに済んだのも目の前の彼女の存在が大きい。
そして何より、小さい頃からの憧れのウマ娘だ。
ミラージュはまだ包帯の巻かれた大きな足に触れる。時間を縫ってスポーツ医学の勉強もしているらしいが、今やっているのはそういった類のものではないらしい。ただ優しく、ゆっくりとその足を撫でている。
少しこそばゆくなって足を動かすと、ミラージュはそれ以上何かしようとはしなかった。空に少しだけ残っていたオレンジ色も消え始め、街灯の明かりは存在感を増していく。
「ミラージュさん。私、少し遠くへ行こうと思っています」
「気分転換にはちょうどいいかもね。申請すれば学園も拒否しないよ」
「……」
「……」
え、理由聞かないの?と彼女は沈黙の中首を傾げた。確かに在学中に旅をするのは珍しくないが、ミラージュが無関心だとも思えない。その証拠に、横に座るミラージュは何か悩んでいるように見える。
そして悩んだ末なのか、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「昔ね、私も一人で遠くへ行っていた時期があった。前向きな何かじゃなくて、私のは自暴自棄っていうのが正しいかな。いろんな人に迷惑をかけて、心配させて、でもそんなことも分からなくなるくらいに自分のことでいっぱいだった」
いつの話だろう、あまり話したがらない引退直後のことだろうか、と彼女は想像を膨らませる。
「誰かの期待に応えたくて、少し夢が叶ったかと思ったらまたその目の前に壁があって、でもその壁を超えるとみんなが今まで以上の期待を私に寄せてくれた。私を見てくれた」
その感覚は彼女にもよくわかる。勝つたびに声援が大きくなり、人気も高まっていく。それはとても嬉しいことだ。
「本当はいくつか壁を越えたところで気が付くべきだった。一息入れた方がいいって。でも私は……色々あってブレーキが壊れちゃったのかな、いつの間にか自分の視界には自分以外がいなかった。自分を罰して、背負いきれない罪を勝手に作って背負って……期待という自分にとって都合のいい記号に変換した。自分一人でできるって勘違いしちゃったんだよね」
そこまで話し終わったミラージュは、余計なことを話してしまったかと恥ずかしそうに髪をいじる。確かに今のところ聞いていてスッキリする類の話ではないが、何かを伝えようとしてくれているのは彼女にも分かっていた。
「……今のミラージュさんからは想像もつかないですね。何か立ち直るきっかけが?」
だから、続きを聞いてみたくなった。彼女にとってミラージュはひとつの目標であり、道標であった。かつて圧倒的な強さで三冠を制し、その経験をもとにウマ娘たちを見守る姿は皆の憧れだ。そこたどり着くまでにどんな紆余曲折があったのか、気にならない方がおかしい。
「ビッグレッドさん……あ、今のじゃなくて先代の方だけど、彼女が私を連れ出して、閉じていた視界を広げてくれたんだ。そこで私はやっと、自分が何をしてきたのか知ることができた。そしてそれと同時に、私を見てくれる人がいることにも気づかせてくれた」
「私にとって、期待は重りだった。その重りの感触が心地よくて、もっと期待してほしいと……重りを通して私を見てほしいと願った。それ自体は悪くなかったんだけど、本来その重りは一人で抱え込むものじゃない。私はそのことに気付くのが遅かった。あなたはそんなこと言われずとも分かってたみたいだけどね」
彼女はティアラ三冠を達成し終わった頃にミラージュから話しかけられたことを思い出す。“これからの予定は決まってる?”、“疲れがたまってると思うからトレーナーさんとも相談してしっかり休暇も取らないといけないよ”、“お祝いに来週遊びに行こうよ”等々、ミラージュがあまり積極的に話をするタイプでないことを知っていた彼女としては不思議だった。
「……長くなっちゃったね。結局何が言いたかったかというと、今のあなたは一人で旅をしても大丈夫だっていうことだよ。むしろ、一旦抱え込んだ重りを下すために羽を伸ばした方がいいかも。言い出されなかったら私の方から遊びに誘うつもりでもいたからね」
ミラージュはそこまで言うと、背筋を伸ばしてゆっくりと立ち上がった。表情は夕闇に隠れよく見えない。今どんな顔をしているのかとても気になるが、彼女はあえてそこから目を逸らした。
「とりあえず、今日は帰ろうか」
「はい……私もあなたを見ていますよ」
「へ?あ、はは、急にどうしたの。恥ずかしいな」
そうして、大きなウマ娘と小さなウマ娘は並んで歩きだす。お互いに、不自由な足をかばいながらゆっくりと。
彼女たちの背中がだんだん小さくなっていく。木の陰からひょっこりと現れた小さな黒い影は、ただ静かに微笑んでいた。
読んでくださりありがとうございます。
是非史実も調べてみてください。アメリカ競馬は歴史が長く色々な馬がいます。きっとお気に入りができるはずです。
感想に交えて自分はこの馬が好きとか貰えると嬉しいです。