アメリカの最小のウマ娘   作:SKT YKR

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一つ目のティアラ

 

 何かが割れた。途端、私の世界が広がった。

 朦朧としていた意識は今やはっきりとしすぎているほどに冴えている。

 

 体の動きも異常なほどに滑らかだ。全身が淀みなく、最も効率の良い動きをしている。地面に触れる時間も短くストライドが長くなり、まるで飛んでいるようにも感じた。

 

『なッ…⁉何という加速‼2バ身程度にまで近づいていた後続を完全に引きちぎる‼残り100メートルでフォンセミラージュとんでもない速度だ‼』

 

『あのまま流すと思っていましたがこれは…!』

 

 速度はまだ上がる。足は一度地を蹴るたびに私の体を遠くに運ぶ。もはや後ろから迫る音は聞こえない。完全に私だけの世界だ。

観客は皆私を見る。そう、それでいい。最強はこの私だ!

 

『後続はもう追いつかない!差は3…4バ身‼もはやだれもがその小さな影から目を離せない!そして今ゴール‼』

 

 ゴール板を過ぎて、私の体はやっと減速を始める。思考も徐々に普段のものに戻っていき、10秒ほど経つともう完全に元の状態に戻っていた。観客の声が聞こえる。離れたところにいる私にも大きく聞こえるのだから、近づけば鼓膜が痛くなるほどの大歓声に違いない。

 

「見事な勝利だったぞ!この調子で三冠レースも頑張ろうな!」

 

 大きな百合のレイを重そうに抱えながら、トレーナーさんは嬉しそうに話しかけてくる。その笑顔につられて、私の頬も自然と緩む。今の私は間違いなくティアラ路線世代最強だ。でも、まだ足りない。世代最強程度で満足はしていない。私が目指すのは歴代最強だ。

 

「トレーナーさん。そのレイ重いでしょう?私が持ちますよ。体が小さいとは言ってもトレーナーさんよりは力持ちです」

 

「ああ、そうだな。それに俺が持つよりミラージュが持った方が似合う」

 

 トレーナーさんからレイを受け取り、私は帰りのバスへ向かう。一瞬黒い影が懐かしそうにそのレイを見ていた気がするが気のせいだろう。

 

「あ、そうだ。このまま帰るのもあれだし、観光していかないか?ほら、博物館とかいろいろあるだろ?」

 

「それはいいですね。私も興味あります」

 

 レイをトレセンの担当の人に渡し、着替えるために部屋を出る。長い廊下を歩いていると、前の方に誰かが佇んでいるのが見えた。

 

「フォンセミラージュ、今少しいいか」

 

「こんにちはビッグレッドさん。今日いらしてたんですね。明日の視察ですか?」

 

「それもあるが、彼女は君のレースを見に来たんだよ」

 

「そちらは…バートン卿!初めまして、お会いできて光栄です」

 

 かしこまらないでくれ、とバートン卿は笑う。彼女は学園にいることがほとんどなく、色々なところを飛び回って活動をしている。一応トレセンの生徒ということになっているが、ビッグレッドさんと同じく実質職員として認められているらしい。

 

「まずは優勝おめでとう。これで君はティアラ路線世代最強格だ。引き続き、三冠レースも頑張ってくれ」

 

 そして、とビッグレッドさんは続ける。

 

「ついに君は私たちと同じく、完全な領域に至った。伝える必要もないとは思ったが、今後君にはより大きな期待が寄せられることとなる。一般人からはもちろん我々のような者たちからもだ。だが、気負いすぎる必要はない。今まで通りしっかりと走ってくれれば結果は自ずとついてくる」

 

「ありがとうございます。心配は無用です」

 

 私はビッグレッドさんの目の前に立ち、その眼をまっすぐに見据える。

 今回領域に入ってみて、これまで領域だと思っていたものが発展途上なものであったことはすでに理解していた。レースが終わった後、一緒に走った皆や一部のベテラントレーナーたちの見る目がはっきりと変わったのを覚えている。

 

「いくらでも、私に期待してください。私はそれに応えて見せます。そして皆の瞼の裏に焼き付いて離れない、そんなウマ娘になります」

 

「……そうか。なら、もう私から言うことはないな。時間を取らせて悪かった」

 

 ビッグレッドさんはそう言うと、建物の奥のほうに歩いていく。何となく嬉しそうに見えるその足取りに私も自然と笑顔がこぼれた。

 

「フフッ、彼女、君に凄く期待しているんだよ。勿論私もね。ティアラ路線が整備されてもう長いが、いまだ二冠の姫はいても三冠の女帝はいない。民衆の間にも、無理なんじゃないかって声が広がっていてね。その価値も疑問視され始めている。ここで知名度を上げてその名誉を証明しないと……まあ、残念なことになるんだ」

 

 バートン卿はこれ以上話せないから、とビッグレッドさんの後を追う。

 残念なことというのが少し引っかかるが、私が気にする話ではないのだろう。着替え終わった私は急いでトレーナーさんのもとへ戻り、その流れで博物館に向かった。

 

「久しぶりに来てみたがやっぱりすごいなここは。何時間居ても飽きない自信があるぞ」

 

「トレーナーさん本当にこういうの好きですよね」

 

 その後、私は3時間程度で博物館を出たが、トレーナーさんは閉館時間まで中から出てこなかった。私がレース場周辺の観光を終えてもまだ退館していなかったときは、中で倒れているんじゃないかと本気で心配した。

 

「ごめん。つい夢中になっちゃって…」

 

「構いませんよ。最近忙しいみたいですし、息抜きが大事なのは分かってますから」

 

 ああ、いい一日だった。三冠レースが始まると休みもほとんどなくなるだろうし、こんな息抜きの日も大事だ。私も明日は久しぶりに実家に戻り、両親に顔を見せる予定である。今日のレースも見ると言っていたし、きっと勝利を喜んでくれるだろう。

 

「そういえばミラージュ。今更だがレースの後、足とかに不調はないか?検査の結果は正常だったんだが、ジュニア期のころよりも明らかに運動量が上がっている。負荷が大きいようだと、フォームの変更とかしなきゃいけないからな」

 

 帰りの車の中、トレーナーさんが検査結果の書類を渡してくる。観光していたせいで帰りが遅くなり、トレセンのバスではなくトレーナーさんの車で帰ることになった。運転が下手だと言っていたがそんなことはなく、気を使わなくていい分その辺のタクシーよりも居心地がいい。

 

 それにしても体の負担か。クラシック期に入り筋肉がついてきたためその運動量も上がってきているのだろう。確かに過剰な負荷はよくないが、私の走り方からは仕方がない部分もあり、今のところ正常の範囲内ではあるという。それに私自身特に不調は感じていない。

 黒い影を見た後、たまに左足が震えているがそれは無関係だと思う。

 

「うーん、不調はないですね。私は専門家ではないので、トレーナーさんの判断に従いますが……」

 

「いや、特に不安がないようであれば今のままでいこう。最近、練習・本番のレース問わず君の走りは絶好調だ。今の走り方が一番君に合っている。できるなら変えたくないんだ」

 

 その話が終わると、トレーナーさんは夕食でも食べようかと近くに店に立ち寄ってくれた。想像していたよりもしっかりとしたレストランだったので奢ってもらうのは遠慮したかったのだが、トレセン所属のウマ娘には割引があるからと、結局押し切られてしまった。

 

「ミラージュは生徒会のメンバーと仲がいいよな。ビッグレッドさんは君を紹介してもらった時にいろいろ聞いているから分かるが、アサルトやウォーアトミックとかはどこで知り合ったんだ?」

 

「ああ、それはですね……」

 

 私は彼女たちに出会った時のことを少しだけ説明する。勿論、恥ずかしいためあまり細かくは話さない。

 

「へぇ、そんな経緯だったのか。……なあ、これちょっと失礼かもしれないけど……いいか?」

 

「……モノによりますが」

 

 まあトレーナーさんのことだ、そこまで倫理観に欠けたようなことは言わないだろう。

 

「ミラージュが同級生と遊んだりするところ全く見ないんだが……」

 

「うッ……!」

 

「何かうまくいってないとかなら……」

 

「と、友達は、い、います……!ゲイマテリアルさんとか……プレアサントネスさんとはこの前話しましたし!フォワードパスワードさんとかアイアンレフェリーさんとか……」

 

 いや、仲が悪いわけじゃない。単純に話が続かないのだ。練習する時間も違うし、お互いにライバルだから手の内をさらしたくはない。勿論高め合うためのアドバイスとか併走とかはしている。だから別に友達がいないわけではないのだ。そのはずなのだ……。

 

「おぉう、ならいいんだ……。同年代のライバルってのも重要だからな。ライバルがいるときにいつも以上の力を発揮できる者も多い。これも時の運だからいなければならないとは言えないし言わないけどね」

 

 食事を終え、私たちはトレセンに一直線に向かった。あまり遅いようだと寮の門限を破りかねないし、同室の子にも迷惑がかかる。

 

(今度、いろんな子と話してみよう)

 

◇  ◇  ◇

 

 翌々日、私はエイコーンSに向けてスタートの練習をしていた。特別スタートが苦手というわけではないし、どちらかというと上手な部類ではあるが、私にとっては生命線の一つである。いくら練習したって過ぎることはない。

 ゲートが締まり、一瞬の静寂が観客を含めレース場を支配する。クイッ、と首を少し落としたと同時にゲートが開き、足に溜まった力を流れるように地面に伝える。

 

「……よし」

 

 スタートを切った後は第三コーナーに入るまで少しずつ速度を上げていき、第三コーナーからは前に走っているウマ娘を捉えられるように速度を調整する。今日は併せをしてくれるウマ娘がいないのでその姿を想像しながら走っているが、これはこれでレース中に思考を切らさない練習になる。

 そして第四コーナーに入る前、外を回って前に出てもいい頃合いだ。だが、今度のエイコーンSは恐らく速いレースとなり外を回る余裕があるか不安が残る。速度を落としたら私に追いつけなくなることは皆学習済みだ。アナザーエレンさんが逃げ、ゲイマテリアルさんもそれに追いつこうと大きく下がることはないだろう。

 

「うーん……」

 

 同世代の皆も成長している。トップスピードで前を行かれ、そのまま道を塞がれてしまうと私の選択肢が減少してしまう。6ハロンという短距離でそれは命取りだ。いかに私が速かろうと立て直す前にゴールしてしまう。

 

「速いレース……ねぇ……」

 

 今いくら悩んでもレース本番にならないと展開は読みようがないが、できる限りの対策はしておこう。それに体の小さな私は他のウマ娘にはできない芸当も可能である。常識にとらわれず思い切って行くのも大事だ、とトレーナーさんからはよく言われていた。

 

「外から……、中から……縫うように前に出るのもありか?」

 

 試行錯誤はエイコーンS直前まで続いた。その中で分かってきたことが、おそらく今の私の実力であれば、よほど下手な作戦を打たない限り負けることはないだろうということだ。多少の不利があってもそれが負けにつながらない程度には実力に差がある。

 だが、私が目指すのは観客の目に焼き付くようなレースだ。僅差で競るという芸当は私の小さい体ではできない。競り合いではない方法で印象を与えるとなると、やはり大差での勝利が思い浮かぶ。

 

「意識しすぎるのもよくないかな。足を大切にしなきゃいけないし。よし、あと3日で本番!最後の調整頑張るぞ!」

 

◇  ◇  ◇

 

 ティアラ三冠、正確に言えばニューヨークティアラ三冠、そう呼ばれるレースがある。

クリル、バーグ、ボウルオブブロッサム、ケシット、スバイシーステイ、ガールピット、アウトセイルと数多くのウマ娘たちが活躍したものの、いまだ三つのレースを制したものはいない。

 三つのレースはすべてベルモントパークレース場で行われる。ベルモントパークレース場はニューヨークの中心地、マンハッタンから約30キロ離れた場所に位置している。外回りのダートコースは一周2400mとアメリカのレース場の中では最大級のレイアウトであり、当然カーブも長い。また直線は330mと比較的短く、第三コーナー以降いかにコース取りをうまくできるかが勝利につながってくる。ティアラ三冠レース以外にも、クラシック三冠最終戦であるベルモントSが行われるレース場でもある。

 

 私はついに始まるティアラ三冠レースにそわそわしながら控室で準備をしていた。袖を通すのは二回目となる勝負服を着て、何かおかしなところがないかと鏡を見る。胸に輝く三つのティアラもレースを今か今かと待ち望んでいるように輝いていた。

 

「ミラージュ、着替え終わったか?」

 

「あ、はい。入って大丈夫ですよ」

 

 気づかぬ間に結構時間が経っていたようだ。トレーナーさんが最終調整のために控室にやってきた。最終調整とはいっても、することはアンケート用紙に書かれていることを読み上げ、問題ないとチェックしていくだけであとは自由時間だ。

 アンケート用紙への記入が終わると、勝負服に話題が移った。

 

「うんうん、いつ見てもいい勝負服だ」

 

「ええ、用意していただいてありがとうございます。……でも少し怖いですね。胸に三つのティアラをつけながら負けた時のことを考えると…」

 

 明日の朝刊に『思い上がり』なんて見出しで小さく書かれている記事を想像し、肩を震わせる。ウマ娘のレースは国家レベルのお祭りだ。勿論注目度も高く、期待を煽って注目されたウマ娘が新聞やテレビで叩かれることも少なくはない。そうなったときはトレセンやトレーナーたちが庇ってくれはするが、本人が受ける精神的なダメージはやはり大きいと言わざるを得ない。

 私も心が特別に強かったりするわけではないので、もしそんなことになったら耐えられる自信がないのだ。

 

「レースの前から弱気になってどうする。大丈夫、君なら絶対に勝てるよ。それに勝敗はともかく、一生懸命走ったウマ娘に心無い言葉を投げかけるのは世論からの反対も大きい。君が心配するようなことを、分かっている人たちは絶対にしないさ」

 

 彼の目は私が勝つという自信に満ち溢れていた。その眼の光は私にも伝染し、下がっていた顔はいつの間にかまっすぐと前を見据えていた。

 ああ、その眼だ。私に期待を寄せる目、それが私の力になる。

 

「……ありがとうございます。力が湧いてきました」

 

「ああ、俺だけじゃなく観客からも元気をもらってこい!君にはそれができるはずだ」

 

『5月も終わりが近づき、夏の気配が迫る今日この頃。このベルモントパークでは一足早い夏、いや、それ以上の熱気に包まれています。第38回エイコーンステークス、間もなくスタートです』

 

 落ち着いた渋い声で実況が始まる。騒がしい実況も嫌いではないが、どちらかというと落ち着いた実況の方が好きだ。レース中も無駄な情報がなく、必要な情報だけを取捨選択しやすい。

 

『二番フォンセミラージュ』

 

 私は今回内から二番目。外から入ってくるウマ娘に注意を向けないといけないが、いい枠だ。

 

『注目すべきはやはりケンタッキーオークスを勝ったフォンセミラージュです。……スタートしました』

 

 ゲートが開き、各ウマ娘が一斉にスタートする。一枠のウマ娘はスタート直後に横に逸れて行ってしまった。実質12人でのレースとなる。

 

『アナザーエレン一番手、二番手はシリアンオーシャン、ヴィジタールーム三番手、フォンセミラージュは四番手です』

 

 スタート直後から少し速度を上げ、私は前に穴ができるのを待つ。予想通りペースはかなり速く、第四コーナーに入るころにはついていけないウマ娘も出てくるだろう。

 短い最初の直線が終わり、第三コーナーに入る。私の前を行く三人は極度にらち沿いではなく、かといって外に膨らみ過ぎないコース取りを選択したようだ。

 

「なら……」

 

 小さくつぶやき、私は姿勢を少し低くする。カーブが長いレースでは、直線での加速よりもカーブでのスピードの維持が課題となってくる。スピードを落とさないようにすると、遠心力の影響でどうしても外に膨らんでしまい、それは体の大きいウマ娘ほどより顕著だ。おそらく前の三人は無理をして内を閉めるより自分のスピードを維持することを選んだのだろう。

 だが、私は違う。ここ数週間のレースの中で、らちに触れるような場所を走る技術を習得していた。まるで柵に吸い付くかのように走る私に観客も声を上げる。

 

『……カーブを抜け、最初に直線に入ってきたのはアナザーエレン、順位は変わりません。外からヴィジタールーム、フォンセミラージュは柵に沿って入ってきます』

 

 第四コーナーも過ぎ、短い直線に入る。位置は三番手から二番手と悪くない。しかし……

 

(道がない!)

 

 前には壁が立ちふさがっていた。横には下がってきたヴィジタールームがいるため外に抜けることもできない。

 

「簡単には抜かせないわ」

 

 アナザーエレンが煽るような口調で話しかけてくる。だからと言って彼女に余裕があるわけではない。私にとって余裕のあるスピードでも、これはおそらく彼女の出せる限界の速度。追い抜けばそれで勝負が決まる。そしてそれはヴィジタールームも同じだ。だからこそ、進路妨害にならない程度に壁を作り動きを制限している。

 

「も、もう限界……!」

 

 斜め前にいたシリアンオーシャンが下がってくる。これで外のルートは完全につぶれた。その状況にさすがの私も焦り始めていた。レースの主導権は少しずつ私から奪われていく。

 

「厳しいですね」

 

 レースを見に来ていたアサルトが隣にいるアトミックに話しかける。点滴をつないだまま観戦している彼女に気を使っているのかその周囲に観客は寄ってこない。

 

「うーん、確かにあれはきついな。君ならどうする」

 

「このままチャンスを待つ、もしくは降着覚悟で外に抜けるか……」

 

 つまりどっちにしろ天任せというわけか、アトミックはホットドッグにかじりつきながらハハハと笑った。しかしその眼は笑っていない。彼女も引退しているとはいえ元選手。自分があの場にいたらどうするか考えずにはいられない。

 

(僕でもきついなあれは。しかも残りは約300メートル、短距離故にチャンスを待つにも焦ってしまう)

 

 フィジカルがあれば無理やり前に出ることも可能ではあるが、彼女の体格でそれは不可能である。

 

 レース中の彼女もそれは分かっていた。ゴール板はどんどん近づいている。座して待つにも時間がない。だがこの期に及んでも彼女は冷静さを保っていた。

 焦りは敗北への恐怖から生まれる。私にそれがないとは言わない。だが、今まで積み上げた勝利が私に自信を与え、余裕を生み出していた。

 そしてその余裕から生まれるのは冷静な思考と勝利への渇望。

 

(まだ、まだだ……)

 

 アナザーエレンの動きをじっと見る。彼女は疲れとその慣れないスピード故に軸がぶれ始めている。

 

(今!)

 

 観客の大歓声とともに世界が割れる。アナザーエレンが少し内に寄ってきたが遅い。コースを潰される前にその横をするりと抜けると、そのまま最高速度に達する。こうなってしまえばもう誰も追いつけない。

 見る見るうちに差は広がり、後続の足音を置き去りにするのに時間はそうかからなかった。

 

『フォンセミラージュ抜けました、楽に上がっていきます』

 

(いける!)

 

 それでも満足せず、私は速度を維持し続ける。さすがに限界が来たためラスト数十メートルでスピードが落ちてしまったのが悔やまれるが、それでも掲示板に映る時計の数字は私を満足させるのに十分なものだった。

 

『フォンセミラージュ一着、二着とは6バ身ほどの差で圧勝です。そしてタイムは……驚きました、1分34秒8、コースレコードタイです』

 

 実況をかき消す大きな歓声が上がる。私はそれを聞きながらガッツポーズを作り、胸のティアラを握りしめた。

 ついに一つ目、ここまで短いようで長かった。今、レース場の皆が私を見ていてくれている。ここで終わりではないのは分かっているが、それでも達成感で涙が滲む。これで少しは私を支えてくれた皆に恩返しできただろうか。そんなことを考えながら、私は控室に向かった。

 

(どうしたの……?)

 

 控室に向かう途中、振り返るとあの黒い影が観客席の方をじっと見ている。あれも感動とかするんだろうか、と最初は思っていたが、どうもそういうわけではないようだ。どこか悲しそうな雰囲気を纏うその影は、観客の歓声が聞こえなくなると同時に消えてしまった。

 

◇  ◇  ◇

 

 月日の流れは速い。ついこの前エイコーンSが終わったと思ったら、もうマザーグースSまで残り5日だ。歳をとればとるほど時間の流れを速く感じ、一説によれば人生の体感時間は18歳で折り返しを迎えるという。

 

「はぁ、私の人生も残り半分か……」

 

「な、何言ってるんだ急に……?」

 

 口に出してしまっていたらしい。一緒にいたトレーナーさんのパソコンに意味不明な文字が撃ち込まれるのを見ながら私は必死に弁明した。

 

「驚かせないでくれよ……」

 

 誤解も解け、トレーナーさんは仕事に戻る。彼が仕事で忙しくしているのはいつものことだが、私と一緒にいるときにまでパソコンを触っているのは珍しい。彼と二人の時は基本レースの話かその練習だけである。

 授業の課題を終え、時計の針の音を聞いていると、ひと段落着いたのかトレーナーさんが唸りながら背伸びをした。

 

「ふぅ、ミラージュ。ちょっとこれ見てくれないか」

 

「雑誌か何かの記事ですか……?そんなことまでしてるんですね」

 

 断る理由もないため私はその記事を読み進める。そこには、丁寧な文章で私のことが綴られていた。これまでの練習方法やレースの作戦、そしてその中で特に気を付けたこととこれからの予定などがコンパクトにまとめられている。

 

「『タイニーティグレス』?」

 

 そんな中、一つの単語が私の目に留まった。『小さな雌虎』、どうやら私のことらしい。小さな女なのはその通りだとしても、私のどこに虎要素があるのだろうか。

 

「この二つ名、トレーナーさんが考えたんですか?」

 

「いや、俺じゃないよ。世間が勝手にそう呼び始めたのさ。最初に虎と言ったのはビッグレッドさんらしいけどね」

 

 意外な人物の名前が出てきた。彼女が何を考え虎と言ったのかは分からないがそれなりに意味があるのだろう。それに虎ってなんかちょっとかっこいい。

 

「どうだ?何か書かれて困ることとかあれば言ってくれ。その二つ名?も気に入らなかったら別のものに変えとくよ」

 

「いえ、いいですねこの二つ名。気に入りました」

 

 予想もしていなかった二つ名は私に新たな視点を与えてくれる。観客は私のどんなところを見てくれているのか、それを踏まえて私はどんなパフォーマンスをするべきなのか今後の指針につながってくる。……今はまだ思いつかないが。

 

「それはよかった!君の名前かっこいいから二つ名をつけるのに苦労すると記者たちも言っていたよ」

 

 空中楼閣、黒い幻影、小戦士、今まで様々なキャッチコピーが作られ、パドックでもその言葉が聞こえていたが、それらは私の名前からとったものや汎用の二つ名であって何となくしっくり来ていなかった。皆の印象に残るという意味でも独特な二つ名は嬉しい。

 

「ミラージュも何か雑誌の取材を受けたいとかあれば言ってくれ。君の情報はいろんなメディアが欲している。よほどのことがなければ相手も快く引き受けてくれると思うぞ」

 

 私たちが大きなレースに出るための条件として、実力の他にもファンの数が重要となる。あれだけ大きなレース場を維持管理し、賞金を設けたりするためにはどうしても多額の資金が必要だ。大きなレースを開いても注目されるウマ娘がいないとなれば観戦する人も少なくなり、お金も集まらない。大きなレースとウマ娘個人持つファンの数は切っても切り離せない関係にある。

 そのような事情もあって私たちは必至でファンを集めるのだ。そしていかにレースで勝とうとそれを知る人が少なければファンは増えない。知って、見て、初めて観客はファンになってくれる。

 第一関門である知ってもらうという部分においてやはりメディアは圧倒的な影響力がある。活躍の乏しいウマ娘でも、メディアを上手に活用できれば多くのファンを集めることができるのである。

 

 私は今まであまりメディアへの露出はなかった。ジュニア期に数回取材を受けたが、それが雑誌に掲載されたりテレビで流れたりするところは一度も見たことがない。

 クラシック期に入って、特にケンタッキーオークス以降は三冠レースの準備で忙しく、トレーナーさんや学園にそういった話は任せていた。家族のこともあってここ数か月は本当に忙しかったのだ。

 

「うーん、今取材を受けたりしても胸を張って今後の目標とかを話すことができない気がするんですよね。実際三冠レース以降の私の目標はふわっとしてますし」

 

「確かに今は走りに集中したい時期でもあるし無理にとは言わないよ。ま、そういう話もあるってだけだ。気が向いたら声をかけてくれ」

 

「分かりました。とりあえず今はトレーナーさんの書いた記事が雑誌に載ることを楽しみに待っています」

 

「おう、もっといいものに仕上げるから期待していてくれ」

 

 私はその言葉を聞くと、練習してきますと言って練習メニューを受け取り部屋を出た。トレーナーさんもすぐに行くと言っていたが、あの調子だと一時間以上はかかりそうだ。

 

(トレーナーさん、何を書くのかなぁ)

 

 記事が載るのは予定ではマザーグースの二日前、6月6日らしい。これによって私のことを見に来てくれる観客もきっと増えるだろう。応援は普段目の前でされると恥ずかしいが、レース中はこれ以上ないほど私の力を引き出してくれる。

 結局、トレーナーさんは辺りが夕闇に包まれるまで現れなかった。ティアラの一つ目を手にして生まれた緊張が少し和らいだ気がする。マザーグースでもいい結果が出せそうだ。

 

◇  ◇  ◇

 

 そして6月6日。朝から町は騒がしい。いい意味ではない、悪い意味で、だ。道行く人々は黒い服を身にまとい、不安そうな表情を浮かべている。街は見えない何かに押しつぶされているように空気が重く、息苦しい。

 

 私も例外ではない。朝、早起きしてトレーナーさんの書いた記事が載っている雑誌を買いに行った私が目にしたのは衝撃的な見出しの新聞の数々であった。

 

『ニューヨークで議員暗殺』『○○議員暗殺される』『ニューヨーク州全体で厳戒態勢、各種スポーツなどに自粛要請』

 

 あまりにも唐突に起こった事件。犯人はその場で捕まったらしいが失われた命は帰ってこない。暗殺されたのは政治に関心の薄い私でも知っている活動的な議員だ。強い期待を寄せていた者も多かったのだろう。そしてその分人々の心に与えた衝撃は大きく、皆喪に服している。誰も祭りごとのことを口には出さない。

 この状態が長く続くことはおそらくないだろう。しかし私にとってこの事件は最悪のタイミングで起きてしまった。

 

「ミラージュ……聞いているとは思うが、マザーグースSは開催できるかどうかまだ分からない。今関係者が会議を開いて方針を話し合っているようだが……結論がいつ出るか、どうなるのかは全く予測不可能だ。州から自粛要請が出ている以上、開催されないことも十分あり得る」

 

「……ええ、分かっています」

 

 なんでこのタイミングで、というのが正直な気持ちだった。折角ここまで頑張ってきたのに、こんなことってないだろう。競争の結果負けてしまうのは、悔いは残るが納得できる。病気や怪我も自己管理ができていなかったと自分を納得させることができるだろう。

 だが、これは私の手が届かないところで起こったことだ。それに仕方がなかった、運が悪かったでは済ませることはできない、人生で一度のレースなのだ。

 

 これ以上このことを考えたくない。私は逃げ出すようにグラウンドに飛び出した。一時間程度走っていると、疲れからか次第に悩みも薄れていく。しかし、それでも焦りは消えてくれない。

 

(なんで……)

 

 マザーグースSの開催危機、勿論それも私の焦りの原因だ。だが、それと以前から、私の胸には引っかかるものがあった。エイコーンSの後、あの観客席を眺める黒い影の姿。それを思い出すと、なぜか胸が少し痛むのだ。その痛みが、不安であるということに気付くのにはそれほど時間は必要なかった。

 まるで婉曲的に夢を否定されるような、そんな気がするのだ。なぜそんな気がするのかは分からない。あの時の黒い影は私の方を向くのでもなく、ただ観客席の方を眺めていただけだ。それなのに、それなのに胸のしこりは消えてくれない。

 

 そんな私の不安が少し和らいだ瞬間がある。それはトレーナーさんと彼の書く記事について話していた時だ。あの時はごまかしたが、私が寿命についてのことを口に出したのは間違いなくナーバスになっていたからだろう。そんな私の心境を、彼は知らなかっただろうが、それでもあの時間は私にとって小さな救いとなった。

 

 だから、私は記事をとても楽しみにしていたのだ。

 

 ぽつり、と目の前の地面に水滴が落ち、土が濃い色に染まる。それは空を覆いだした黒い雲からのものなのか、それとも別のものなのか、私には判断できなかった。

 

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