「すみません、少し休みます」
学園に戻ったフォンセミラージュが発した言葉はそれだけだった。そして誰も彼女に話しかけようとはしなかった。それほどまでに彼女の様子は切羽詰まっていた。
黰黒の髪は乱れ、目の下は隈を強調するかのように赤く腫れている。肌もいつもの輝きを失っており、その眼には光がない。見るもの全てを傷つけるような雰囲気を放つ一方、その姿は普段と比べ数段小さく見えた。
久しぶりの父との対面、それは叶わなかった。そして恐らく、もう一生叶うことはないだろう。
彼女は学園の三女神像の前で立ち止まる。運命を司る神が三女神として語られるは何かの皮肉だろうか。彼女は失笑をすることもできず、項垂れたまま寮へと足を運んだ。
幸か不幸か、彼女の同室のウマ娘は正月明けまで帰省しており、実質一人部屋だ。ふらっとベッドに倒れこむのを我慢し、荷物の整理や掃除を行う。教科書や参考書を並べなおし、プリントをファイルに入れ、机の上の小物を片付ける。その最中、机から落ちそうになっている写真立てが彼女の視界に入った。
一瞬の迷いの後、彼女は静かに写真立てを伏せる。
まだ夕方で窓から日も差し込んでいるにも関わらず、その部屋は異様に暗かった。そんな部屋の中にすすり泣く声が響く。やがてそれはより大きくなったが、本人以外の誰かに届く前に消えてしまった。
その後数日間、彼女が部屋を出ることはなかった。
◇ ◇ ◇
年が明けてから初めての練習に向かう。シニア期となり、先輩や成長した同期、そして優秀な後輩と戦うハードな日々がこれから待っている。ジュニアやクラシック期で多くの活躍をしていたウマ娘でも、シニア期に入り中々活躍できないといったケースが多い。竜頭蛇尾、早枯れと後世であまり評価されないことも多い。逆にこれまでの活躍が目立たずともシニア期で勝ち進み、終わり良ければ総て良し、と高く評価される可能性もある。
頬を引き裂くような、乾いた冷たい風が吹きつける。昨晩のうちに積もった雪はグラウンドの隅に集められており、コースは自由に使える状態だった。集められた雪の量を見ると清掃員さんたちの苦労が目に浮かぶ。
「よし」
入念な準備体操を終え、私はまだ霜柱のつぶれていないグラウンドをゆっくりと走りだした。
「はッはッ」
走りがぎこちなく感じる。体が重く、前に出にくい。そんな状態に嫌気がさして少しスピードを上げるが、何とも言えない不快感は消えてくれなかった。流れていく景色も歪み、聞こえてくる音にも誰かのうめき声が混じっている。これが嫌だから雑音の少ない早朝の真っ暗なグラウンドを選んだのにあまり効果はなかったらしい。しかし、ここで走るのをやめてしまうわけにもいかない。この程度で折れていてはこの先やっていけないだろう。
自分を叱りながら20分間一定のペースでは走った後、スピードの感を戻すために400メートル程度のダッシュを繰り返す練習に移る。長くもなく短くもないこの距離はフォームや体の調子の確認に丁度いい。
10本程走った後これ以上は疲労が溜まるだけだと判断し、私はゆっくりと歩きながら休憩を取ることにした。座り込みたい気分でもあるが、そうすると乳酸が溜まって動くのが辛くなる。
(フォームも特に変わっていない。速度も順調に出てる……じゃあこの不快感は何)
視界の歪みと幻聴は止まない。今自分がまっすぐ歩いているかどうかさえ判断がつかない。のどが絞まるような感覚が襲い、それを止めるために歯を強くかみ合わせた。
(……朝の練習はここまでにしよう)
数人のウマ娘がグラウンドに出てきたのを確認し、私はこの耳鳴りがひどくなる前に撤退しようと速足で寮の方へ向かう。疲労を貯めないためのストレッチは自分の部屋でやればいい。今は一刻も早く会話の聞こえない場所に行きたい。
「ミラージュさん。おはようございます!今日も早いですね」
「ああ、おはよう」
相手の笑顔が痛い。何も不快なことはないはずなのにそれを不快に感じてしまう自分が腹立たしい。
「ん?ミラージュさん泣いてます?大丈夫ですか?」
はっ、と私は目を触る。泣いてる?私が?疑問は尽きないが、確かに手に当たる水分は汗だけでは無い。
そして私はやっと朝の出来事に合点がいった。私はずっと泣いていたんだ。
「大丈夫だから……じゃあね、練習頑張って」
恥ずかしくなって逃げるように寮に駆け込む。シャワー室に入り汗を流すついでに鏡を見ると、目の下が赤く染まっており涙の跡が見て取れた。
それが分かった途端、なぜか私は無性に悲しくなって、ぺたんとその場に座り込んだ。足に力が入らない。何で、何で、何で、何で。
うめき声が聞こえた。今度はその出所が理解できる。駄目だ、これ以上は、皆に聞こえてしまう。これ以上心配をかけたくない。私は大丈夫だって言葉を信じてくれた皆を裏切ってしまう。
歯を強くかみ合わせ、声を潰す。こんなところで止まっていられないんだ。私は初代ティアラ三冠。その価値を証明しなければ、この称号を目指した者、これから目指す者の道標にならなければ。そして何より、私に期待してくれている皆に応えなければならない。
(重い……)
無意識に頭をよぎる言葉。久しぶりに左足を見るとまた小さく震えていた。
この震えをどうしていいのか、どうしたいのかもうよく分からない。一つ分かっていることは、この震えが起きた時、決まって現れる存在がいるということだ。
「疲れてるの、今は消えてて」
いつものように出てきた黒い影を追い返す。私の妄想だから当たり前だが、黒い影は私が拒絶すると抵抗なく消えていく。今回は珍しく少しためらった様子を見せたが、次に目をやった時にはそこにはただ湯気が立ち上っているだけだった。
いつまでもここで座っているわけにはいかないので足を叩いて立ち上がり、服を着て朝食に向かう。メニュー表から食べたいものを注文して受け取りカウンター席に座ると、隣に見覚えのあるウマ娘が座ってきた。
「おはようございます。隣いいですか?」
「構わないよ。ああ、君は朝の……」
「はい、シュッドヴィです」
覚えていたことが嬉しかったのか、少し頬を赤らめるシュッドヴィ。見たところこれから二年目、クラシック期に突入する子のようだがその名前は聞いたことがない。
「こうして見ると、先輩本当に小さいんですね。凄いなぁ……私、先輩に憧れてるんです!」
「それは……ありがとう」
真正面から堂々と言われると恥ずかしいを通り越して驚いてしまう。それでもこの程度の反応で済んだのは彼女の声がノイズに阻まれて聞こえるからだろう。
「私も今年ティアラ三冠取って見せますから、見ててください!まあ、実力はまだまだですけど……」
話を聞いているとまるでかつての自分の焼き直しのように見えてくる。ジュニアの成績は13戦3勝、今のままではG1の舞台は厳しいだろう。だが、その内訳を見てみると、去年ジュニアで活躍した二人のウマ娘に勝っており今後の活躍に期待ができる。
話しながら食事も進む。私達が食べ終わったのはほぼ同時だった。
「それでは、今後の活躍、期待してます」
「……うん、あなたも気負いすぎず、頑張ってね」
走り去っていく背中を見守りながら手を軽く振る。ずっとノイズに邪魔されていた彼女の言葉だったが、最後の言葉だけははっきりと聞こえた。
朝食の後は授業、とはいっても先生もいない新年の顔合わせだ。生徒も半分程度しか集まっていない。集まったクラスメイトの内数人は私の事情を聴いているのか、それとも察したのか、ばつの悪そうな顔で新年の挨拶に来てくれた。私の事情で周りに悪影響を与えるのは避けなければならない。幸い朝に色々限界を迎えていたおかげでその場ではうまく取り繕うことが出来た。皆の表情も少しずつ普段のものになっていく。
いつまでも不幸に浸ってばかりはいられない。前を向いて歩んでいくことを父も望んでいるはずだ。
そう信じているに私の視界は下に下にと向かう。ノイズもひどくなり孤立感が強くなっていく。
ここ最近、偶に思うことがある。人生は無数の枝分かれした道に例えられることがあるが、もしその道がどこかで固定化され、それ以上の分岐がなかったら。そしてもしそのことに気づいてしまったら。
信じたくはない。そもそもただのたとえ話だ。道は目に見えない。しかしどうしても、私はそう思わずにはいられない。
◇ ◇ ◇
復帰戦、サンタマリアHが迫っている。練習の経過は順調で休養前と同水準と言える程度には戻っていた。だが、理由のない体の重さが気にかかる。それが邪魔してピーク時のパフォーマンスには一歩及ばない。
ノイズと視界の不良はさらにひどくなり、今ではもうトレーナーさんの顔もよく見えない。一向に回復しないそれにいら立ちを募らせることもあったが、仕方ないと受け入れていた。走っている最中は影響が緩和されているし、日常生活も少し気を付ければなんとかなる。
去年の後半休んでしまった分、ここで取り返さないといけない。結局去年の年度代表ウマ娘はメディックファーガーさんが選出され、私は二位だった。ダモクレスさんなどを抑えての二位ということで大変名誉あることなのだが、ナンバーワンを目指していた私としては悔いが残らないとは言えない。
だからこそ、その悔いを払拭するために今は頑張らなければならないのだ。この程度の不調に足を引っ張られるわけにはいかない。目が見えずとも、耳が聞こえずとも、足は動く。
「─────……。それで明日は……」
「はい、分かりました」
明日の午前中の練習メニューを伝えられ、今日の練習は終わりを迎える。いつもならこの後一時間程度筋トレをしたり軽くジョギングしたりするのだが、大会前なのでやめておいた方がよさそうだ。……って、これ今トレーナーさんが言ってたんだっけ、思い出せないな。
「お──……久し……気?」
少し遠くにアドミラルさんが手を振っているのが見えた。数人の仲間に囲まれ、これから夜の練習に行くのだろう。私は手を振り返し、指で小さく丸を作ってからその場を去る。こちらに駆け寄ろうとしたみたいだが、合流してきた他の友達に流されるようにして視界の外へ消えていった。
今日は早めに帰って寝ることにしよう。最近眠りが浅くあまり疲れが取れていない。寝る前の読書や温かいミルクを飲むなどいろいろ試しはしたが、どれも効果が薄かった。軽減するためには睡眠時間を延ばすのが手っ取り早い。まあ、目覚める時間が早くなるだけではあるのだが、何もしないよりはましだろう。
◇ ◇ ◇
トレーナー室にため息が響く。誰かがそれを聞いていれば、それが気怠さを発散させるためのものではないことに気づいただろう。籠っていたのは悲観と少しの諦観。絶望にも近いものであった。
トレーナーはどこまで行ってもトレーナーでしかなく、さらに言えば数十年生きてきただけの人間だ。人生の最盛期ともいえる時期にケガをして活躍の機会を逃し、父との再会という些細な願いすら天から奪われた少女に対し、どう接していいのか正解を知っているはずもない。
ミラージュの立ち振る舞いは以前とそう変わらなく見えるが、それは無理をしてのことであるというのは明らかだ。近いうちに引退を視野に入れて彼女を育成しなければならないというのは理解していた。レースに出るというのは肉体的にはもちろん精神的にも負荷が大きい。長期の休養を挟めばそれが緩和されはするが、いつかまたストレスフルな日常がやってくるという考えは抜けきらない。
今のミラージュがどれだけそれに耐えられるか不明である以上、トレーナーとしては引退ということを考え、彼女にそれを伝える必要がある。
(けどなぁ……)
問題はそれを切り出すタイミングだ。ミラージュのストレス発散において走ることが重要であることは傍から見ていても明らかである。少し気が立っているな、とか落ち込んでいるな、と感じる時、彼女は決まって河辺やグラウンドを走っていた。
それにミラージュの走ることの中でレースに出走し勝利することも重要なファクターだ。ウマ娘の中には走ることそのものが目的であったり、アイドルとしての活動を主としたりする者もいる。もしミラージュもそのタイプであるならば、レースから距離をおいても何をすればいいのか分からないという状態にはならないだろうが、現状ミラージュはそんなタイプではない。かつてミラージュにレース以外にやりたいことがないか聞いたこともあったが、返ってきた答えは特にないというものだった。全く何もないわけではないだろうが、レースに代わるものが無いというのは本当のことだろう。
「調子を見て、改めて聞いてみるか……。多くてもあと5レース……くらいかな」
◇ ◇ ◇
『お集りの皆様方!お待たせいたしましたフォンセミラージュ復帰戦、サンタマリアHまもなく出走です!』
「フォンセ……ああ、去年のティアラ取った子か。半年以上レース出てなかったのか」
「去年はメディックの活躍が凄くてどうしても印象薄れちゃうよね」
「七か月振りのレースとなると厳しそうだが大丈夫なのか……?」
会場からは様々な声が上がる。素直な応援の声もあったが、それ以上にミラージュに不安を抱くような意見が多い。ケガをしてからそれまでの活躍が嘘のように沈んでいくウマ娘も多いため、それも当然だろう。復帰戦勝利は華々しいが、その難易度の高さは皆知っている。
『本日七人のウマ娘がここサンタアニタに集いました!注目はやはり昨年のティアラ三冠ウマ娘、フォンセミラージュ!そしてそのライバルであるヴィジタールーム!他にもクリームロウや昨年クラシック路線のウマ娘を蹴散らしハリウッド金杯を勝利したロードネシアンなど実力のある者たちが鎬を削ります』
『誰が勝とうと、勝ったウマ娘は自信をつけることが出来る戦いになるでしょうね』
私はゲートに入り、静かにスタートの合図を待っていた。事前の検査ではどこにも異常は見つからなかったが、どうしても体が重く感じる。水の入ったペットボトルをいくつも抱えさせられているような物理的な重さ。
実況の声も観客の声援も全てが耳を通して体に圧し掛かる。錯覚なのだろうけれど、足が軋むような音まで聞こえてきた。
「──あ、──はロードネシアン!今日……と戦えること──」
隣から声がする。気づくのが遅れたためか、声の主、ロードネシアンは微妙な表情で固まっていた。ロードというのに相応しい……かどうかは分からないが陽気なウマ娘のようだ。
「こちらこそ」
相手の顔を見上げ、私は返事をする。彼女は少し怯えているようにも見えたが、すぐに笑顔を取り戻し前を向いた。また怖い顔をしていただろうか、気を付けなければ。
『今スタートです!外枠のウマ娘は少し遅れたか』
スタートは順調、しかし体が重くいつものようにスピードが伸びない。
『前に出たのはラーニングスプリングとヴィジタールーム。最初のコーナーに入ります』
『フォンセミラージュはやはり本調子ではなさそうですね』
あまり後ろに行くと前に出るのが辛くなるのはジュニア期のレースで痛感している。いくら調子が悪かろうと戦術も捨ててしまっては勝利は遠のく。私は何とか踏みとどまり、三番手の位置でコーナーに入った。いつも通り埒ぎりぎりのところを攻め、ロスを極力減らす。
コーナー中盤、私のすぐ外側に後ろにいたロードネシアンが横に並び、私の外への道は潰された。元々外に出るつもりはなかったが、体が近いため走りにくい。
『コーナーを抜け向こう正面へ、先頭はヴィジタールームとラーニングスプリング、フォンセミラージュは三番手か四番手でインコースを進んでいます』
やっと体が動き出した気がする。だが、この調子だといつものような最終コーナーからの加速は期待できない。そのため早めに前に出たいのだが、前の二人は私に先頭を譲るつもりはないらしい。包囲網を組んでいるわけではなく、自然とそういう形になってしまっている。
そしてこの形になったこの状況を前の二人が利用しないわけがない。特にヴィジタールームは私のスピードを何度も経験しているため、警戒を強めているだろう。
そんなことを考えていると、直線も終わりが見えてきた。そろそろスパートの準備をしないと間に合わない。軋む体にスピードを上げろと命令する。が、やはり体は言うことを聞かない。
その隙に横にいたロードネシアンが前に、そして入れ替わるように後ろのクリームロウに並ばれた。
『一番手ヴィジタールーム二番手ロードネシアン三番手ラーニングスプリング、フォンセミラージュは埒沿いですその外にクリームロウ』
言うことを聞かない自分の体が憎い。もう残されたのは2ハロン程度、リスクを冒して外に出るにしても、座して待つにしても迷っている暇はない。
『さあ最終直線に入ります!っとここでクリームロウが前に出てきた!フォンセミラージュは四枚の壁に阻まれている!』
『また外からも蓋をされてしまいました厳しいように見えます』
レースが一気に加速した。もう最終直線だ。力を入れなければいけないのに、私の体は悲鳴を上げ、重力に負けようとしている。
ノイズも一段とひどくなり、もう自分が走っているのか歩いているのかもわからない。視界が揺れる。
「──頑張れ‼……──」
聞こえた。それが私に対してかどうかは分からない。でも、酷いノイズの中でその言葉だけが私に届いた。
そうだ。私は負けてなんかいられない。勝って期待に応えなければ。
『フォンセミラージュ!来た来た!ど真ん中!』
視界が割れ、世界が黒く染まる。どうやら領域に入ったようだ。鈍化した時間の中、私は目の前の壁を真ん中から打ち破り、少し後方に引いたラーニングスプリングを締め出す。横のヴィジタールームも押しやり、加速の体制を整えた。
脳裏に沢山の人の顔がよぎる。トレーナーさん、サブトレーナーさん、クラスメイト、先輩、後輩、街で会った男の子とウマ娘のお姉さん、沢山のファンの人たち、そして家族の顔も……。
あれ?何でそこだけ砂嵐が……
広がる砂嵐によって皆の顔が消えていく。待って、まだ私は頑張れるから。もっと期待に応えられるから。まだ、走り続けるから。
『今ゴール‼三人並んでのゴールです!こちらからはフォンセミラージュが少し前に出ていたように見えましたが、写真判定となります!』
いつの間にかレースは終わっていた。多分勝った、勝ったはずだ。それなのに私の中にあったのは虚無だった。大切なものが掌から零れ落ちていく感覚が忘れられない。
領域の中で何を見ていたのかはもう忘れていた。ただ虚無感だけが残っている。
ノイズもいつの間にか消えている。こんなに世界は静かだっただろうか。
◇ ◇ ◇
(聞いていた話とずいぶん違うじゃないか)
ロードネシアンは肩で息をしながらフォンセミラージュの方を見る。目の前の彼女はどこか虚ろな目をして観客席の方を眺めていた。
ミラージュが本調子でないことはこのレースに出走している者全員が知っていた。タイムの伸びもそれほどではなく、加速のための瞬発力はケガの前と比べ確実に落ちている。それはミラージュの練習の様子を10分も見れば誰でも分かる程度に深刻だった。
「僕がなすべきことは……」
それでも油断しすぎることなく、フォンセミラージュの過去のレースを何度も見返して対策を練った。第三コーナー付近からのロングスパート、最終コーナーでさらに加速し後続を引き離す。埒の上を走っているのではないかと錯覚するほどのインコースを進みつつ、速度はほとんど落ちていない。
体の小さなウマ娘が理想とするレース展開だ。最終直線時点で前に壁はなく、自由に加速して行ける。
レース展開力だけではない、単純な走力、その根幹を支える極端に大きなストライドもフォンセミラージュの武器だ。あれは天性のものであり、真似できるものではない。
「ならば……」
フォンセミラージュからレースの主導権を奪い取る。これが最終的に達した結論だった。
勿論、この考えは過去にヴィジタールームやシリアンオーシャンがすでに到達し、失敗していることも知っている。作戦を上回る純粋な実力でフォンセミラージュは勝利をもぎ取ってきた。
しかし、それは過去の話。盛者必衰、今のフォンセミラージュにあの頃ほどの力は無い。それに対し、自分はクラシック路線のウマ娘にも勝利を上げ、今まさに全盛期である。
そしてレース中、運も味方し、フォンセミラージュは確実に首位争いから脱落したと確信した。伸びの悪いスピード、不規則な吐息、まるで重りでも背負っているかのように軸の揺れる足運び。それに加え、前には自分含め四枚の壁があり、外へ出る道も蓋をされている。
(来てくれるなよ)
それでも、頭の片隅にある不安は消えなかった。ゲートで見た表情の抜け落ちた顔。普通であれば調子が良くないのだろうと判断する所だが、フォンセミラージュのそれは明らかに異質であった。
そしてその不安は当る。その小さな体のどこにそんな力が眠っているのか、壁の中央を突破し、彼女は眼前に躍り出た。一回りも二回りも大きいウマ娘を軽々と押しのけるなど物理的にあり得るのだろうか。
(黒……)
追い抜かれた瞬間頭に言葉が浮かんだ。青と白のはずの彼女の勝負服は黒く染まり、まだ沈む前の太陽を隠すほどの暗闇が現れる。
鳥肌が立ち満足に思考を巡らせることが出来ない。黒虎はこちらを顧みることすらなく駆ける。ヴィジタールームたちの言っていたことがやっと理解できた。
「これが……フォンセミラージュ」
暗闇の主は応えない。相も変わらず表情の抜け落ちた顔をして建物の中に消えていく。
(ん……?)
何かが壊れる音がした。気のせいか?
◇ ◇ ◇
レースの疲れが中々癒えない。重りをいくつもつなげて走っているような感覚が消えず、疲れは溜まっていく一方だ。自分でも気が立っているのがわかるため、できる限り寮の部屋から出ないようにしていた。
(引退か……)
サンタマリアが終わった後、トレーナーさんから告げられたのが引退についての話だった。内容はもうよく覚えていない。
そろそろ練習の時間だ。次走まであと一週間程度。引きこもっている時間はない。
「何?」
立ち上がった私の前に黒い影が立っていた。まるで行く手を阻むようにドアの前に居座っている。
「邪魔だからどいて」
影は動かない。一体何がしたいんだこいつは。
構っても仕方がないため私は無視してドアを開け練習に向かう。それでも黒い影は消えず、グラウンドまでついてきた。練習中もずっとこちらをありもしない目で追ってくる。
「何してるの?」
練習後、部屋に帰った私は同室の子がいないことを確認し影に詰め寄った。別に真面目な返答をしてほしかったわけではない。ただストレスの発散先に選んだだけだ。
影は何かを話すわけでもなく私の机の上を指さした。そこにあるのは今後のレース予定が書かれたプリントだ。
「出るなってこと?」
私の言葉に影は頷く。
「今更そんなこと言われても無理よ。あなたも私の妄想か何かならそんなこと分かるでしょ。無駄な時間を取らせないでよ。あなたも……あなたも私に期待してくれればいい。それには応えてあげられるから」
ふてくされるようにしてベッドに入る私に黒い影は執拗に手を出し、何とか振り向かせようとしてくる。煩わしいことこの上ない。
「いい加減にしてよ!……もういいから」
つい声を張り上げてしまった。廊下から数人の足音が聞こえこちらに近づいてくるのが分かる。同室の子が心配してドアを開けた時、黒い影はもうそこにはいなかった。
「────何か……」
「何でもない」
頭まで毛布に突っ込み目を閉じる。瞼の裏には暗闇と、見覚えのある砂嵐が延々と映り、私の眠りを妨げた。
◇ ◇ ◇
「マテちゃん、ミラージュちゃんどう?」
「あまり体調がよろしくないようです。最近明らかに会話する回数も減っています……どうにか元気づけてあげたいのですが……」
レディカードとゲイマテリアルは机に突っ伏し昼寝をしているミラージュの方を見ながら小声で話す。クラスメイト達もミラージュの様子がおかしい事には気づいていた。授業も休みがちだし、保健室にいるかと思えば寮で虚空を見つめていることが多い。話しかけても聞こえているのかいないのか、曖昧な返事しか返ってこない。
ミラージュと付き合いの薄かった者たちはこれでも孤高の女王として見ているらしいが、彼女たちは違う。レースでは敵わないと思い知らされても、理解できないほどかけ離れた人物であるとは思っていなかった。あくまで一人の友達でクラスメイトだ。
しかし、だからこそどう接していいのか分からないというのもある。半年前までの彼女とあまりに違いすぎるし、その理由を聞いても教えてくれない。彼女の荒みようからしても触れない方がいい話題であることは明らかであったため、追及することは諦めた。
「あ、ヴィジタールームさん。遅かったですね」
「おはよー……もうこんにちはか。昼休み入る直前に来る予定だったんだけど、後輩につかまって話してたんだ」
よっこいしょっと荷物を下ろすヴィジタールーム。そしてちらっとミラージュの方を見て二人の方に向き直った。
「ミラージュさん中々疲れが抜けないみたいね。幻覚を見ているって噂だけれど……あの様子だと杞憂とは言い切れないか」
ヴィジタールームはさっきまで話していた後輩、シュッドヴィの話を思い出す。ミラージュの大ファンを自称する彼女はそう名乗るだけあってミラージュの変化にも鋭い。幻覚、幻聴があるのではと見抜いた以外にも、走る時に何か異常な負荷がかかっているのではないかと推測していた。しかし、いくらミラージュを観察しても何か重りを付けているようなことはないため、不思議に思い同級生であるヴィジタールームに尋ねてきたのだ。
いくら考えども結論は出ない。パーティーでも誘おうかとレディカードが提案したが、今週末ミラージュはレースだ。せめてそれが終わってからでないと日常を忘れて盛り上がることは難しいだろう。
午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り、三人は急いで席に戻る。ミラージュも目覚め、憂鬱そうに教科書を机の上に出した。
三人は結局その日結論をで出すことが出来なかった。クラスメイトというだけで人の都合にどこまで手を出すか迷ったというのもある。しかし三人はどうしても、教室を出ていくその小さな背中を無視することはできなかった。
「今度のレース終わって準備が出来たら、少し遅れた三冠祝いでもしましょうか」
「そうね、賛成」
◇ ◇ ◇
放課後、トボトボと練習に向かうミラージュの目に大きな人物の影が映る。その人物に対し力なくひらひらと手を振り横を通り抜けようとしたミラージュだったが、肩をつかまれそのまま物陰に連れていかれてしまった。
「おい、大丈夫か」
ビッグレッドは少し乱れた服を伸ばし、ミラージュを近くに落ちていたタイヤに座らせる。ミラージュの不調は生徒会長である彼女の耳にまで届いていた。
「ええ、大丈夫です」
「……」
声が届かない。ビッグレッドは立ち去ろうとするミラージュの肩に再び手を置き動きを止めた。
その瞬間、ビッグレッドの視界が暗闇に染まる。冬であるとはいえ暗くなるにはまだ早い。
何秒フリーズしていただろうか。恐らくそう長い時間ではないはずだが、ミラージュの姿を見失うには十分な時間だったようだ。建物の影を出て周辺を見渡してみるがやはり姿は見えない。探そうかとも思ったが彼女にも仕事がある。これ以上構ってはいられない。
「まさかここまで……」
ビッグレッドはあの暗闇を思い出す。前走のサンタマリアでも最終直線の彼女は明らかに異質だった。あの状況での中央突破。フィジカルの強さもあるがそれ以上に判断力が切れすぎている。あと少しでもタイミングや位置がずれていたら斜向と判断され失格となってもおかしくはなかった。あの一秒にも満たない時間の中でいったいどれほどの情報を掌握していたのだろうか。
そして同時に不安でもあった。彼女の目には誰も映っていない。自分でさえも彼女の世界から拒絶された。アドミラル辺りを相談役として送った方がいいかもしれない。
「どうしたものか……」
ミラージュのトレーナーは信頼できる人間だ。ミラージュの不調も誰よりも早く気付いているだろう。しかしミラージュの状況は彼一人に任せるには荷が重い。家族のことにしても一定程度ケアすることはできても完全に傷を埋めるのは不可能だ。時間も足りない。
(引退……考えているとは言っていたな。あと出走できても数レース程度だろうと。間違ってはいないようだ。今彼女からレースを取り除いて心の支えがなくなるというのも理解はできる)
人の心は覗けない。ビッグレッドは頭を抱えながら仕事に戻って行くのだった。