――アビドス高等学校・屋上*1
「やぁ、ホシノ」
校舎の屋上。お気に入りのマットを敷いて昼寝していたホシノの下に、ひょっこりと顔を出す影が一つ。アビドス砂漠探索に備えるため自分以外の生徒たちは既に下校している……となれば、この声の正体は十中八九彼女だろう。
振り返ると案の定、そこに立っていたのは《シャーレの先生》蒼井ハルその人だった。白い外套を靡かせながら、軽い足取りでホシノのすぐ隣に歩み寄る。
「天気も良いし、今日は屋上で昼寝?」
「……うん、そんなとこかな」
一度顔を逸らして目をゴシゴシと擦ると、ホシノは改めて笑顔を浮かべてハルに向き直る。
「そういう先生は?」
「二者面談かな。二人きりで、ホシノと話したいことがあってね」
「ん~、何を?」
そう問い返すと、ハルは懐から小型のICレコーダーを取り出してスイッチを入れた。
『アビドス高校を退学し、私共の企業に所属する……その条件を呑んでいただければ、今アビドスが背負っている借金の半分近くをこちらで負担しましょう。ククッ、ククククッ……さあ、答えを聞きましょう。もしイエスならば、こちらにサインを』
『……何度も言ったはずだよ、断るって』
それは、聞き覚えのある会話だった。むしろ、聞き覚えしかない。今朝、自分がカイザーグループの人間に呼び出された際のやり取りの一部始終が、そのまま記録されていた。音声は再生され続け、録音内容を全て聞き終えると、ハルはふぅっと軽く息を吐き出した。
「それって……」
「悪いけど、『耳』を仕掛けさせてもらったよ」
「うへ~、何時の間に……! やっぱり先生は侮れない大人だな~」
肩を竦めたホシノは、昼寝の名残を振り払うように軽く伸びをした。録音の内容を冗談めかして流そうとしたが、内心には僅かな緊張が走っている。そんな心の隙間に付け入るように、ハルは真面目な声音で「ホシノ」と呼びかけた。
「全く先生ったら、いくら何でもこっそり盗聴器を仕掛けるのはダメでしょ~」
「うん、それはごめんね。でも、証拠が無いとホシノは胸の内を明かさないだろうからさ」
笑いながら誤魔化すようなホシノに、ハルは真っ直ぐな瞳で見つめて告げる。そこには笑顔も、おどけた様子もない。ただ真剣に事態を解決しようと願う大人の表情だけが浮かんでいた。
「そっかー……うーん。逃がしてくれそうには……ないよね~?」
「もちろん。それとも、ホシノは鬼ごっこがお望みかな?」
「……はあ、仕方ないなあ」
観念したように溜息を吐いたホシノは、笑顔を消してハルの顔を正面からじっと見つめた。間違いなく、この大人には一切の誤魔化しが効かないだろう……きっと、ここから先は根掘り葉掘り事情を聞かれることになる。そう判断したホシノは、今度こそ真剣な面持ちで口を開いた。
「面と向かってっていうのも何だし……先生、ちょっとその辺一緒に歩かない?」
◇ ◇ ◇
それから屋上を後にすると、2人はアビドス高校の校舎を巡り始めた。一見、当てもなく校舎内を彷徨いているようにも思えるが、ホシノは一つ一つ教室の中を覗いては何かを確認するような仕草を見せていた。
「けほっ、けほっ……うわぁ、ここも砂だらけじゃ~ん……」
「仕方ないよ。校舎自体は普通の学校と同じだけど……それでも、人数に対して建物が大きすぎるから……」
「せめて砂嵐が減ってくれれば良いんだけど……」
砂嵐――数十年前からアビドス自治区にて頻発するようになった自然災害。10年後の未来から来たハルは、それが単なる自然現象などではないということも、砂嵐の元凶が一体何者で、何処に潜んでいるのかも知っている。……とはいえ、今はまだ解決に動く余裕がないのだが。
「うへ~、折角の高校生活が全部砂色だなんて、ちょっとやるせないと思わない?」
「でも、ホシノはこの学校が好きなんでしょ?」
「……今の話の流れで、本当にそう思う? うへ、やっぱ先生は変な人だね」
「ふふっ、変な人と言うよりは悪い人のつもりなんだけどね」
他愛もない会話を続けながら、ハルとホシノは校舎の中を歩き続ける。やがて、気付けば2人は屋上へと戻ってきていた。日が傾き始めており、そろそろ夕焼けが綺麗に見える時間帯だ。
「……砂漠化が進む前、アビドスはかなり大きくて力のある学校だったって言われてるけど……そんな記憶も実感も、おじさんには全く無いんだよね~。最初から全部滅茶苦茶で、ちゃんとしたものなんて何一つない学校だった」
「それでも、ホシノにとっては大好きな……たった一つの母校でしょ?」
「おじさんが入学した時のアビドス本館は、今はもう砂漠の中に埋もれちゃったし。当時の先輩たちだって、もうみんないなくなった。今いるここは、砂漠化を避けて何回も引っ越した結果に辿り着いた、ただの別館」
夕焼け色に染まる学校を屋上から見下ろし、ホシノはぽつりと呟いた。その表情は笑っているようでいて、どこか寂しげで、まるで泣いているようにも見える。ハルは何も言えなかった――或いは、かけるべき言葉が見つからなかった、という方が正しいだろうか。
今更ながら当たり前のことであるが、目の前のホシノは『小鳥遊ホシノ』であっても、ハルの親友である『ホシノ』とは何処までも別の人間でしかないのだから。
「……ま、でもここに来て対策委員会のみんなと会えたから……うへ、やっぱり好きなのかもしれないな~」
「……」
「……先生、正直に話すよ。実は私、昔からずっとスカウトを受けてたんだ。カイザーPMCの傭兵として働く、その代わりにアビドスが背負っている借金の大半を肩代わりする……そういう話でね。おじさんこう見えて、実は結構能力を買われててさ~」
ホシノが口にしたのは、これから何かが起きることを暗示するような話だった。彼女は大きく伸びをしてから屋上のフェンスに寄りかかり、そのまま両腕をだらんと投げ出すと空を眺めた。
それは夕焼けと砂漠の境界が曖昧な、美しい光景であった。だがしかし……その景色は同時に、アビドスという学園の終わりが近いことを感じさせるものでもある。ハルはそんなホシノの横顔をじっと見つめていた。
「知っての通り、それは誰から見たって破格の条件だった。でも、当時は私がいなくなったらアビドス高校が崩壊するって思ってたからこそ、ずっと断ってたけど……」
「……その判断は正解だよ。もしあなたが退学してしまえば、アビドス高等学校の生徒会は不在になってしまう。公的な部活も、委員会も、生徒会も、自治区すらもないアビドスは、学園都市の学校として自立・存続が不可能だと判断されて……おそらく、『カイザー職業訓練学校』なんて名前の学校にされていたかもしれないね」
「え、えっ……!?」
ハルの予想に反して、ホシノは目を見開いて驚いた様子を見せた。何かそんなに驚くことがあっただろうかと思わず首を傾げかけたが、ハルはすぐにその理由に思い至った。今のは辿り得る未来の話であって、まだ彼女が知るはずの無い情報だ。……つまり、彼女は今初めて自分が退学すればアビドスが消えるということを認識したのだ。
「忘れてた? 対策委員会は、公式の許可を受けている委員会じゃない。非公認の委員会、正式な書類の許可も降りていない。つまり、その存在を示す正当な証拠は何処にもない」
「そ、それじゃ……もしも私が提案を呑んでいたら……!?」
「……自治区の保有者であるカイザーコーポレーションにアビドスは支配されていただろうね。シロコたちも転校できればマシな方で、口封じにヘイローを壊されていたかもしれない」
「……!!」
淡々と語られるハルの言葉に、ホシノは顔色を悪くして愕然とした。対策委員会が非公認の委員会であるということは彼女自身も知っていただろうが……まさか、自分がアビドス崩壊の引き金を引きかけていたなんて、夢にも思っていなかったのだろう。
「私は、また大人に……」
「カイザーコーポレーション……いや、黒服らしい罠の張り方だね、まったく。所詮は愚物、最後の最後は暴力頼りのカイザーグループよりも、ゲマトリアらしく本当に厄介極まりない」
「ゲマトリア……?」
「……? あ、そっか。まだホシノは『ゲマトリア』の名前を知らないんだ。すっかり、もう知っているものと勘違いしてたよ」
ハルが口にした『ゲマトリア』という名前に、ホシノは首を傾げた。なるほど、よくよく考えれば『蒼井ハル』と関わりのない『小鳥遊ホシノ』がその名前を知る機会などあるはずもない……と思い至ったところで、ホシノがハルの顔を見上げて口を開いた。
「先生はさ……」
「……うん?」
「……何を知っているの?」
本当の意味で、悪い大人ではないのは分かっている。だが、それでもハルの存在を心から信用はできない。彼女の言葉の節々には何か大きな秘密が隠されているような気がしてならない。
……いや、正確には秘密などではないのかもしれない。ホシノからすれば、目の前にいる大人から感じるのは強い違和感だ――まるで、この大人は自分の知らないことを知っているような。そんな感覚を、ホシノはずっと覚えていたのだ。
「――未来を」
そう言うと、ハルは静かに懐から1枚の写真を取り出し、ホシノに差し出した。
「こ、これ……!」
そこには4人の少女の姿が映っていた。一人は自分自身、髪型や服装からして1年生の頃の写真だろう。改めて他人の視点から過去の自分を見ると、本当に目つきが悪い。自分ながら関わり合いになりたくない顔つきをしている。
だが、問題はそこではない。周りの三人――特に天真爛漫な笑顔を浮かべた桃髪の天使の少女と共に、過去の自分の左右を挟むように立っている薄い茶髪の少女に目を奪われていた。
「先生……!?」
その少女の顔は、まるでハルそのものだった。ただ似ているという程度ではない。瓜二つ……いや、同一人物としか思えないほどだ。唯一の違いは、今よりもやや幼さを感じさせる印象があることだけで、それ以外は目の前の彼女と完全に一致していた。
「平行世界……ホシノなら知っているよね?」
――……そっか、ありがとうアロナ。……やっぱり、この世界のユメ先輩はあの一件で……。
――このままだとセリカちゃんが危ないって……先生、それはどういうことですか!?
――はい。現在は要人警護の名目でSRT特殊学園からシャーレに出向しています。
「……まさか。先生は、最初から何が起きるのか全てを知って……」
「うん。10年前、まだ生徒だった頃に似たような経験をしているからね。大体、どんな流れになるかは分かっているつもり。……だからこそ、証拠を掴むために『耳』を付けたわけだしね」
今までの記憶が一つに繋がっていく。確かに、まるで読んでいたように事前に最善策を用意していたハルの行動に、違和感を抱いていたことは事実だ。だが……今にして思えば、それもそのはずだ。何故なら、本当に彼女は未来に起きることを『知っていた』のだから。
「……過保護と言われるかもしれない。それでも、何よりも大事なのは子供たちの笑顔だ。子供が苦しむのを知っておきながら、何も手を打たないなんて……そんなの、大人の名が……」
唇を噛む。覚悟の光を瞳に宿し、ハルは力強く一歩前に踏み出した。
「大人の名が廃る――!!!」
「……!!」
その力強い声に、ホシノは思わず息を吞んだ。とても美しくて、そして頼もしいと……素直にそう思えた。この大人なら、きっと全てを何とかしてくれるに違いないという漠然とした期待を抱いてしまうほどに……。
「ホシノ。今の私に出来ることは少ないけど……それでも、あなたたちの未来を守りたい」
「……うへ~、先生は本当に変な人だね」
思わず笑みが零れる。目の前の大人は、まるで自分の知る大人とは別物だ。でも、不思議と嫌ではない。寧ろ好ましくすらある。……そして、同時にこうも思ったのだ――この人がきっと、この先生こそが自分の目指すべき『大人』の在り方なのだと。
「……ホシノ、
「……うん。おじさん、協力するよ。先生」
「ありがとう、ホシノ!」
ハルとホシノは固く握手を結んだ。それが――今の2人にとっての誓いのようなものだった。
TIPS:
パラレルワールド。
世界において、ある時点から分岐し、分岐前の世界と並行に連なる別の世界のこと。『平行世界』『可能世界』とも呼ばれている。
異世界や別次元という概念とは違い、『この世界』と同じ次元に位置している。