7日後、彼女は死ぬ。死にたくなかったと呟いて   作:ラスコーリニコフ

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五日目

 列車は都会の喧騒から離れ、のどかな風景の中をひた走っている。車窓から見えるのは黄金色に輝く小麦畑だ。収穫を目前に控えたそれらは、穂を目一杯に膨らませている。普段の生活ではまず見ないであろう雄大な景色が、そこにはあった。

 四人掛けのボックス席に掛けて居るのは私とカートの二人だけ。周りにもほとんど乗客はおらず、列車はがらんとしている。時折取り留めのないことを話すものの、私たちの間もやはり静かだ。けれども、そんな静けさもなぜだか心地良い。穏やかな列車の旅は、目的地の駅に着くまで続いた。

 やってきたのは都市部から離れた郊外……からも離れ、田舎といっても差し支えない場所だった。無人の駅を出て、田舎らしく運転手付きのタクシーに乗り込む。駅の周りだというのに建物はほとんど建っておらず、時折見えるのは民家か個人商店くらいのものだ。

 

「しかし、旦那さん。あの辺りには何もありませんよ?」

「ええ、承知しています。ただ、思い出の場所がありまして」

 

 助手席に座ったカートが何やら運転手と話している。……思い出の場所、か。私には、思い出と言えるものはほとんどない。それこそ、ここ数日間のことくらいのものだ。昔のこととなると、ほとんど何も覚えていない。まるで、忘れてしまいたかったかのように。

 けれども、ほんの少しだけ覚えていることがある。それは、宇宙色の瞳をした男の子と、とても綺麗なモノのことだ。

 カートの思い出というのは何なのだろうか。そんなことを考えている間にも、タクシーは駅から離れ、山の方へ向かって進んでいった。

 

「……リリ。昔のこと、覚えてる?」

「……少しだけな。だが、ほとんど忘れてしまった」

 

 タクシーを降りた所から目的地までは少し歩くらしい。カートからは背負おうかとも言われたのだが、まだ私にも歩くくらいの体力はある。それで、私たちは連れ立って歩いていた。木々の間、傾斜した地面を登っていく。

 

「……そうか。……昔、このあたりで君と遊んでいたんだ。最も、ほんの短い間だったけれどね」

 

 彼の言葉に、頭の奥底で何かが蠢く。そうだ、私は彼に手を引かれて外に飛び出して、それで……

 

「それで、僕たちにはお気に入りの場所があったんだ。……リリ、この場所だよ」

「……あ…………」

 

 カートの言葉に、私は記憶の海から抜け出して現実に戻ってきて──そして、記憶と同じ景色が目の前に見た。

 それは、小高い丘だった。林を抜けると視界は開けていて、緩やかな丘の頂上には木が一本生えている。視線を横にやれば、眼下にはどこまでも草原が広がっていて、そよぐ風に靡いてさわさわと歌っている。頭上の太陽の光が、目の前のすべてをきらきらと照らしていた。

 私は、この場所を知っている。この場所を、覚えている。とても、綺麗だったから。世界が、輝いて見えたから。

 

「……時間もちょうどいいし、お昼にしようか」

「……ああ」

 

 サンドイッチと紅茶の食事を終え、私とカートは木を背に、木陰で涼んでいた。そういえば、昔もこんなことをしていただろうか。

 時折頬を撫でる風が心地よい。隣の彼もまた、私と同じように気持ちよさそうにしていて、なんだかそれだけで私は、私は……チクリと咎めるような痛みを感じた。

 この場所は、綺麗な場所だ。綺麗で、満たされた場所だ。そこに私が立ち入ることは、果たして許されるのだろうか。

 この数日をカートと共に過ごして、私は、思ってしまった。感じてしまった。楽しいと。嬉しいと。……そして、幸せだと。

 ……私は、人殺しなんだ。何人も、何十人も殺してきた、人殺しなんだ。そうして私は、幾人もの楽しいを。嬉しいを。幸せを。奪ってきた。他者の幸せを奪って否定してきた者が、幸せになる権利なんてあるはずがないんだ。それなのに、私は……

 

「リリ」

「っ……なんだ」

「また、僕に聞かせてくれないか」

「何を……」

「君が今、苦しんでいることを」

 

 真っ黒な瞳が、私を射竦める。心臓の音が、やけに大きく聞こえるような気がした。ばれてしまったのだろうか。知られてしまったのだろうか。私が、本当はどんな人間なのかということを。君の隣にいてはいけないような人間なのだということを。

 

「……本当は、もっと前から気付いていたんだ」

 

 カートは、言葉を続ける。その先を聞くのが怖くて、嫌で、けれども私の身体はゴルゴンに対峙したかのように動かない。胸の内に、氷の塊のような冷たさが広がっていく。

 

「……けれども僕は、気付かないふりをした。君が苦しんでいるのを、見て見ぬふりをしていた」

 

カートは、遠くを見ていた。そして、何かを悔やんでいた。それには、後悔という名前がついていた。

 

「……怖かったんだ。やっとリリとまた会えて、それで時々言葉を交わすことができて。そんな、ささやかな関係が壊れてしまうのが」

 

 彼の目が、再び私を見据える。

 

「……リリ。余計なお世話かもしれない。けれど僕は、君の力になりたい。君の苦しみを、少しでも和らげたい。もう、後悔したくはないんだ」

 

 ……優しくて。暖かくて。彼の瞳は、いつだってそうだ。心に張った氷が溶けていく。冷えきった身体に熱が戻る。けれども、それでもなお、口だけは石のように重たいままだ。カートの言葉を、カートのことを、信じたい。でも、怖い。それを言ってしまった途端、この夢のような時間が終わってしまいそうで。

 そんな私のことを、彼はただただじっと待っている。そのオブシディアンは、まるでこちらを勇気づけるようにきらめいていた。

 そのまま、どれくらい時間がたっただろうか。私の口から、ふいに言葉がぽつりと零れ落ちる。

 

「……人を、殺したんだ」

 

 一度口にしてしまったら、もう止められなくて。決壊したダムのように怒涛となって溢れ出す。

 

「何人も、何十人も、たくさん」

「…………」

「……カート。私は、人殺しなんだ。……もう、人を殺しても何も感じなくなって。次の日には平然と研究所で働いていて。そういう人間が、私なんだ」

「…………」

「……たくさん、奪ってきた。命だけじゃない。喜びだとか、幸せだとか、そういうものも全部、全部だ」

 

 今になって、それに気づいた?……いいや、違う。私はずっと知っていた。知っていたのに、知らないふりをして殺し続けていたんだ。

 

「……私は、薄汚い人間だ。日陰の人間だ。手は血で汚れきっていて、心の奥底まで凍り付いた冷酷な人間だ」

 

 化け物。いつしか埠頭で聞いた言葉が脳裏を過ぎる。そうだ。こんな、こんな人間はもう人間ではないのかもしれない。私は殺して、それで命を、人間を、人間が生み出す暖かいもの全てを否定してきた。そうして人間のことを否定してきた私は、もはや人間ではいられないんじゃないか。

 

「……でも、君は違う。君はとても綺麗で、日向が似合っていて、人を暖かくすることができる人間だ。……カート。君は、誰かを幸せにできる人なんだ」

彼は、あまりにも眩しい。私の影すら塗りつぶしてしまうほどに。でも、それではダメなのだ。

「…………リリ」

「……私は君といるべきじゃないんだ。私は……軽蔑されるべき存在だから。糾弾されるべき存在だから。だから、だから…………」

 

 ……だから、もう君とは会わない。そう言うはずだった。言うつもりだった。……だって、このままでは私は幸せを感じてしまうから。彼を泥沼に引きずり込んでも、離れたくなくなってしまうから。それなのに、言葉が出ない。どうしても、その言葉を言うことが出来ない。……それでも、私は──

 

「…………リリ!」

 

──声が聞こえた。私の名前を呼ぶ声が。身体のあちこちから熱を感じる。じわじわと私を暖めてくれる熱を、氷を溶かしてくれる熱を。シトラスの香りが鼻腔をくすぐって、それで私は彼に抱きしめられていることに気づいた。

 

「……離して……くれ……」

 

どうにか、拒絶の言葉を絞り出す。けれども、背中に回った手は私を離そうとしてくれない。

 

「……いいや。離すわけにはいかない。……なんでだろうな。離したら、君がまたいなくなってしまいそうな気がするんだ」

 

 耳元で聞こえた小さな声は、少し掠れていた。言葉と共に、私を捕まえる腕に力がこめられる。

 

「……リリ。僕は、今でこそ君と同じ主任研究員だけれども、それも全部君が理由なんだ。小さい頃、僕にしてくれただろう?化学や物理、生物の話を」

「……ぁ」

 

 私が本で得た知識を披露して、それを目を輝かせて聞く彼の姿が克明に蘇ってくる。

 そうだ。私の暗く、冷たく、孤独なモノクロームの人生の中で、唯一色がついていた時間。私にとって忘れがたい日々、私が確かに幸せを感じていた頃。それをなぜ、私は……

 

「……君が突然いなくなってから、ずっと一人で遊んでた。………何かがぽっかり抜け落ちてしまったのをどうにか埋めたくて」

「………ぁぁ…………」

 

 …………ずっと、足りなかった。何か満たされないまま生きていた。自分にあるのは科学だけだったから、それに打ち込んだ。研究成果も出した。雑誌掲載の論文を数本だして、有望な研究者だと言われた。研究所に所属してからも結果を積み重ね、主任になった。

 でも、何も感じなかった。だからもっと研究に打ち込んだ。研究費を、人員を手に入れた。汚れ仕事を引き受けた。人を殺した。

 そこまでやってなお、満たされなかった。

 ……それもそうだ、埋まるわけがない。埋められるわけがない。

 だって、私に足りないのはカートだったから。

 ………幸せを覚えてしまった。知ってしまった。知らなければ何も感じないで済んだものを。世界の色を知ってしまった。鮮やかな生命を、とてもきれいなものを、歓びを。

 ………だから私は全てをなかったことにしたんだ。無理やり目を背けて、記憶の底に押し込めて、忘れようとした。

 ………そうしないと、耐えられなかったから。

 カートも、そうだったのだろうか。喪失を無理やりに別のもので埋めて、忘れ去ろうとしたのだろうか。

 果たして、その答えは彼の口から紡がれる。

 

「……最初はそうやって忘れようとしたんだ。でも、やっぱり無理だった。君を忘れることなんて、できるわけなかった」

「…………っ!」

「………だから、僕は決めたんだ。リリに教えてもらったことをもっとたくさん勉強して、研究者になるって」

「………………なんで………」

「…………そうすれば、もう一度君に会えるんじゃないかって」

 

 ……馬鹿じゃないかと思う。何の確証もなく、私が研究者の道に進むと決めつけて。そのために自らの少年期と青年期を費やして、人生の指針を定めて。それも全部、別れの言葉一つもなくいなくなった私なんぞに会うために。

 ……そのことが、たまらなく嬉しい。

 浅ましいにもほどがあると自分でも思う。けれども、彼が私を探してくれていた。それが分かっただけで、空ろだった胸が満たされていく。二十年以上、何をやっても満たされなかった心が。

 ……でも、それと同時に無数の後悔が押し寄せる。

 

「……カート…………」

「……リリ?」

「…………どうして…………こうなってしまったんだろうな」

 

 そんな言葉が零れ落ちる。

 ……わかっているんだ。こんな言葉に何の意味もないって。現状が変わるわけもなく、余計に惨めになるだけだなんてことは。

 けれども、それでも私は思わずにはいられない。

 ……私も、カートのことを忘れずにいたら。きちんと向き合っていたら。こんな、人殺しになんかならなくて。それで、いつか再会したカートとこうして話して、ちゃんと幸せになれたんじゃないかって。

 ……でももう遅いのだ。何もかもが。彼の想いも、やっと気づいた気持ちも、取り返しのつかないことをしてしまった私には。

 

 

「……僕には、君がこれまで何をしてきたのかも、何を思ってきたのかもわからない」

 

耳のすぐ隣から、彼の声が聞こえてくる。

 

「……でも、リリはリリだ。それくらいはわかる」

 

 優しい声色が、苦しい。だから、私は絞り出すようにして拒絶の言葉を吐く。

 

「…………やめて」

「だから、あまり自分を卑下しないで……」

「っ、やめてくれ!!」

 

 ……何を叫んでいるのだろう、私は。

 

「人殺しに慰めは要らないだろ!?貶すべきだろ!?詰るべきだろう!?」

 

 彼の手を振りほどいて、身体を突き放して。優しく甘い、蜘蛛の糸から逃れる。自分でももう何を言っているのかわからないくらい、頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 さっきまでの烈火のごとき衝動はすっかりなりを潜め、残っているのは震えるほどの寒さ。

 ああ、これで本当に愛想をつかされたな。

 極めて冷静に、そう思った。折角差し伸べた手を払いのけ、突然ヒステリーを起こして叫んで。そんな奴に寄り付く人などいない。

 でも、ある意味これでよかったのだ。そう思ったら、ほんの少しだけ気持ちが楽になる。その勢いのまま、私は彼に背を向けた。

 顔が見えてしまったら、気持ちが揺らいでしまいそうだったから。

 

「……君は、優しすぎるんだ」

 

 努めて冷徹に、私は最後の言葉を、捨て台詞を口にする。言えない想いの全てをそこに込めて。

返事を聞くつもりはない。私はそのまま丘を駆け下りようと──

 

「……優しくなんかない」

 

──背中から叫ぶ声が聞こえる。

 

「僕が、そんなできた人間なわけないだろ!!」

 

 その怒声に、私は思わず振り返った。振り返ってしまった。

 視線の先の彼は、はあはあと荒い息を吐いている。

 

「……僕は、君の思っているような良い人じゃない。誰にでも優しくするわけじゃないし、どんな人殺しも擁護するわけじゃない。利己的だし、人を傷つけたこともある。そんな、人間なんだ」

「っ……」

 

 私の知っている彼はいつでも微笑みをたたえていて、明るくて、優しくて。

 ……でもそれは、勝手に押し付けた理想像でしかなかった。彼が今まで何をしていたのか、何も知らないくせにわかったような顔をしていた。カートは、わからないなりに手を差し伸べようとしてくれていたのに。

 怒って当然だ。怒鳴って当然だ。

 ……それなのに、どうして君はこんなにも穏やかな顔をしているのだろう。

 

「……だからさ。僕が、こんなことをしてるのは。全部……ぜんぶ──」

 

 わからない。こんな私に話しかけてくるのは、関わろうとするのは、君だけだった。最初に窓を叩かれた時から、今に至るまで。

 お人好しだからだと思っていた。底なしに優しいから、私にさえお零れをくれているのかと思っていた。

 でも、君は違うと言う。優しくなんかないと言う。

 なら、どうして?

 

「──リリのことが、好きだからだ」

「────」

 

「初めて君を見たとき。窓の向こうに、君の姿を見つけたとき。……眩しかった。とても、きれいだと思った」

「……最初は、憧れだったんだ。けれど一緒にいるうちに、リリと同じ時間を過ごしていくうちに変わっていった。もっとリリのことを知りたい。もっと一緒にいたい。……そう、思うようになった」

「けれど、君はいなくなってしまった。何も言えないままで全てが終わってしまった。……苦しかった。辛かった。空しかった。心がぐちゃぐちゃになって、何もかもどうでもよくなって」

「……それでも、瞼を閉じれば、やっぱり君のことが浮かんできて。それでやっと僕は、どうしようもなくリリが好きだったんだってわかった」

「……自分でも気づいていなかった初恋が、いつの間にか終わっていた。それだけの話だったんだと思う。それで大概の人は終わらせるような、そんなありふれた出来事だったんだと思う」

「……でもさ。あの日、眼を灼かれてしまったんだ。君に、僕の人生で一番の閃光に」

「終わりになんてできなかった。忘れるなんてできなかった。君に、僕の想いをちゃんと伝えるまで。……だから、もう一回言わせてくれ」

「……リリ。僕は、君のことが好きだ」

 

 夢のようだった。その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。身体が熱くなった。ひどく現実味のない空間で、彼の言葉は響き渡って。それは、一途な恋の話だった。

 その話に出てくる少女は、可憐で清楚で真っ白な存在で、素敵な物語のヒロインだった。……もはやそれは、現実にはいない。

 何故だか、目頭に熱を感じる。ひどく心臓が締め付けられるような、そんな感覚を覚える。

 ずっと求めていた言葉なのに。ずっと夢見ていたはずなのに。それなのに、与えられるほどますます苦しくなる。自分が嫌になる。彼が一途に向けてくれていた感情の大きさが、そのままの重さで私に突き刺さる。それを受け取る資格がないと、それに値する存在ではないと。

 

「……………………だめだよ」

「…………」

「…………私は、もう駄目なんだ。だから……」

「リリ」

 

 何度目かの、今の私を伝えようとする試みは、鋭く名前を呼ぶことで妨げられた。その語調と彼の眼からは、強い意志がありありと感じられる。私は小さく息をのんだ。

 

「もうそんなことは聞きたくない。僕はただ、君がどう思っているのかを聞きたいんだ」

「…………私は、許されないと思っているよ」

 

 答えにはなっていないだろうか。でも、本心だった。

 赦されない。許されないのだ、何もかもが。

 ──でも、彼はそれを許してくれない。

 

「……けれども、許されたいとも思っているんじゃないか?」

「っ」

「だって、君はずっと自分のしてしまったことを悔やんでいた。君が自分のことを悪し様に言うのも、自罰的なのも、全部そうだ」

 

 心臓の鼓動が早くなる。……私は、許されたがっていた?

 そんなことはない、なんて否定することができない。だって、今まさに自分の中のそれを認識してしまったから。

 でも、今更それは。殺すだけ殺しておいて許してほしいだなんて、それは、あまりにも。

 

「…………烏滸がましいだろう」

「……烏滸がましくてもいいさ」

「……許されないことをしたんだ」

「……許されないことと許されたいと願うことは違うんじゃないか?」

 ……彼は、カートは、私に許されたいと願ってもいいと言う。

 ……私は。

 ……私だって。

 

「…………………できることならば、許されたいさ」

「……リリ」

 

 もし、罪の全てが許されるのならば。私は、胸を張って君の隣に立つことができるだろうか。君に、ちゃんと思いの丈を伝えられるだろうか。こんな私には言えないことも、言えるのだろうか。こんな私にはできないことも、できるのだろうか。

 

「……けれども、私は決して許されることはない。……許してくれる人は、皆私が殺してしまった」

 

皮肉な事だ。いや、だからこそ許されない罪なのかもしれない。そんな、自嘲混じりの言葉が口をつく。

 

「……いいや。まだ残っている」

 

 けれども彼は真っ直ぐにこちらを、私を見つめていて。その視線に耐えられず、私は目を伏せてそれを否定しようとする。

 

「……君が許してくれるのか?それとも、神が許してくれるとでも言うつもりか?」

 

 八つ当たりのような、意地の悪い質問。それでも、向けられた視線が背けられることはない。

 ……きっと、彼は答えを知っている。私が目を背けているものを知っている。私が直視できない、気付きたくない、その答え。彼の口から、その名前は告げられた。

 

「リリ。君自身だ」

「…………」

「……僕にだって、それこそ神にだって、君を許す権利なんてない。本当の意味で許しを与えられるのは、きっと当事者だけだ」

 

 当事者だけ。つまり、被害者と──加害者だけ。

 加害者が、自分で自分を許す。理由があった。命令だった。不慮の事故だった。そうやって、自分が全部悪かったわけではなかったと言い訳を見つけて自らを慰める。そうすれば、少しは楽になるのだろうか。自分を許せるようになるのだろうか。

 私はそうではなかった。企業からの仕事だから。相手は悪人だから。そう思えば思うほど、仕事として殺しをしていた自分の愚かしさがわかった。相手が悪人だということさえ、思い込みなのかもしれないと思った。

 ……ある意味当たり前なのだろう。どれだけ理由を探したところで、犯してしまった罪は消えないのだから。

 

「……自分で自分を許すなんて無理だよ、カート。……何をしたって、どれだけ悔いたって。罪は消えないんだ」

「…………」

 

 私の言葉を聞いた彼は黙り込む。まるで、言葉を咀嚼をするかのように表情筋が動いて、静かになって。それで、再び口を開く。

 

「……そうだね」

 

 ……少し、気になっていた。期待もしていた。彼は、果たしてこれにどんな言葉を返すのかと。私がどれだけ後ろ向きなことを言っても、前を向かせようとする彼が、なんと言うかを。その度に、自己嫌悪と共に自分の仄昏い自尊心が満たされるような気がしたから。

 

「……君の罪は、決して消えない。無くなることはない。過去に起こった出来事は、どうやっても覆せない。君の言う、人を殺してしまったという事実は、いつまでも残り続ける」

 

 ……でも、流石の彼にもこれは無理みたいだ。なんてことはない、私は取り返しのつかないことをしたという、それだけの話。初めからそうだったことが、改めてわかっただけのことだ。

 そう、自分を納得させようとした時だった。

 

「……だからこそ、罪は消すんじゃなくて償うんだろう?」

「っ!」

 

 カートが、それを口にしたのは。

 

「……リリ。君はまだ、罪を償うことができる。消えない傷を、別のもので埋め合わせることができる。君が、自分で自分を許せるようになるために」

 

 そんなことは知っている。私だって考えたさ。君と時間を過ごして、罪を自覚して、どうしたら償えるかなんて考えたさ。やっと幸せを見つけた。幸せを思い出した。私だって幸せになりたかった。幸せになれる人間になりたいと思った。償えば、少しくらいは幸せになる権利が得られるんじゃないかと思った。けれど、それでわかったんだ。わかってしまったんだよ、カート。

 

「………………償いなんて、出来るわけがない」

「……いいや、出来る」

「……人の命に代えられるものなんてこの世にない。……重すぎるんだ。あまりにも。そんな、何より重いものを大勢分なんて、償いきれるわけがない」

「償いきれるさ」

「っ、何を根拠にそんな」

「君のしている研究は、沢山の命を救える」

「!!…………」

「寝たきりの人がもう一度自分の脚で歩けるようになる。認知機能を損なってしまった人が、家族と再開できるようになる。君のナノマシンは、そういうことができる」

「…………」

「……だから、リリ」

「だとしても!!……そうだとしても。ダメなんだ」

 

 視界が霞む。カートの顔がぼやけてしまう。頬を熱いものが伝っていて、たぶん私は泣いているのだろう。諦めからか力の入らない表情筋は、笑みを形作っていて。無表情でいるために力を使っていたことを、今更ながら知った。

 泣き笑いの表情を模った私は、告げる。

 

「……私は、もうすぐ死ぬんだから」

「リリ…………」

「遅いんだ。遅すぎたんだよ、カート。私にはもう、そうやって罪を償う時間なんて残されていないんだ」

「…………」

「……だったら、こうやって許されないで惨めに死ぬくらいしか償いようがないじゃないか…………」

 

 私の、消えかけの命の、唯一の使いみち。

 

「……だからさ。もう、いいんだ。君も、私のことなんか忘れてくれ。……きっと君なら、もっと素敵な人に出会えるはずだ」

 

 カートのおかげで覚悟が決まった。君がどれほど私を想ってくれているかがわかったから、独りで死ぬ覚悟が決まった。さっきの喧嘩別れのような勢いではなくて、心の底から。

 

「……さようなら、カート」

 ……お別れの言葉には、あまりにも足りないけれども。きっと、それくらいがちょうどいいのだ。

 私は、生まれて初めて自然に笑えた気がした。

 

 

「嫌だ」

「…………え?」

 

 耳を、疑った。

 

「嫌だって言ったんだ。そんな君の独りよがりな償いなんて絶対に認めてやるもんか」

 

 初めて聞く、私を否定する言葉に声が震える。

 

「……わ、私に残った時間では、これくらいしか……」

 

 一歩ずつ、彼が近づいてくる。ゆっくりと、けれども着実に。

 私は、まるで金縛りにもあったかのようにその場から動けない。

肩に熱いものを感じる。気付けば、私の顔の目の前にカートがいて。靄がかった景色の隙間で、彼は涙を流していた。

「……僕が。僕が、君の代わりに償うから。君の分まで、残りの人生全部かけてでも、大勢の人の命を救って見せるから」

 

「…………っ!!」

「……だから。そんな、哀しいこと言わないでくれ……‼最期くらい、幸せになってくれ……!!」

 

 私は。

 たくさん、悪いことをしてしまったから。その罰で、苦しんで死ぬしかないと思っていた。

 けれども、それは私の一番大切な人を苦しめることだった。

 私は。

 ろくでもない存在だ。どうしようもなく汚れた存在だ。誰からも愛されず、一人孤独に死ぬべき存在だ。

 けれども、そんな私を想ってくれている人がいた。

 私は。

 夢見ていた。想い人と結ばれて、幸せなお嫁さんになることを。ずっと叶わないと思っていた。くだらない夢だと思っていた。

 けれども。

 けれども。

 

「……私、は」

「…………」

「……私は……幸せになっても、いいのだろうか……?」

「……!!」

「……少しだけでもいいから、夢を。見ても、いいのだろうか……?」

「…………ああ。ああ、いいんだ。いいんだよ、リリ。誰だって幸せになっていいんだ。夢を見ていいんだ。……だって、生きているんだから……」

「……そうか…………」

 

 生きている。私はまだ、生きている。

 目の前を見やる。私と目線を合わせた彼の顔はぐちゃぐちゃで。けれども、私はそれ以上にぐちゃぐちゃに違いない。

 ……やっぱり今でも、自分を許すことはできないけれども。でもそれ以上に私は、きちんと伝えたい。

 幸せになりたい。その心の奥底の本当を、蓋していられない。

 

「……カート」

 

 私を、前に向かせてくれた貴方に。この言葉をいうために、私はきっとここまで生きていたのだから。

 

「私は…………君が、好きだ」

「────」

「…………ふふっ」

 

 呆けたような表情をするカート。そもそも自分から言ってきたくせに、私が言ったらそんな顔をする彼が可笑しくて、思わず吹き出してしまった。

 ……言えた。やっと言えた。私が、本当に伝えたかったことを。幼いあの頃から、閉じ込め続けてきた言葉を。それが、何より嬉しくて。何より……幸せだった。

 

 風が丘を優しく吹き抜ける。いつの間にか太陽は西に傾き、赤みがかかっていた。茜色に染まりゆく空の下、私とカートは並んで遠くを見つめていた。

 触れた肩と肩から、温かいものが伝わってくる。隣り合って座っているだけで、こんなにも幸せだなんて知らなかった。

 ……これだけじゃない。感じることの全てが新鮮で、全てに幸せを感じる。心の持ちようでこうも変わるなんて思わなかった。

 それもこれも、全部カートがくれたものだ。

 

「……しかし、どうして君はここまでしてくれたんだ?」

 

 自分の人生をかけてでも、幸せになってほしい。そんな言葉をかけてもらえる人なんて、世界中探してもほとんどいないに違いない。一体なぜ、彼は私にそこまでしてくれたのだろうか。

 ……単に、その、好きだから、という理由でも一向に構わないが。

 

「それは勿論、リリのことが好きだからさ」

「……そ、そうか…………」

 

 ……顔がかっと熱くなった気がする。私はこんな単純な人間だったのだろうか?

 流石にそれだけではないようで、こちらの表情を見てほほ笑んだ後、言葉を続ける。

 

「……まあ、そうだね。強いて言うなら……僕の我儘だよ」

「……我儘?」

 

 凡そ彼の行動からかけ離れた言葉に、思わず聞き返してしまう。

 

「そう、我儘だ。……僕はさ、人生って必ず悔いが残るものだと思っているんだ」

「…………」

「……人間は欲深い生き物だからさ、何かを手に入れてもすぐに別のものが欲しくなってしまう。だから、いつ人生が終わったって、悔いは無くならない」

「…………」

「だから、せめて良い悔いを残したいんだ。あんまりにも欲深くって笑っちゃうくらいの、馬鹿馬鹿しい悔いを」

 

 ……少し、意外だった。彼がそんな人生哲学を持っていただなんて。けれども、その内容には納得できた。確かに、人間は欲深い生き物だ。……現に私も、想いを伝えられただけで満足だと思っていたのに、あわよくば、なんて淡い期待を抱いてしまっている。

 

「今回のことだってそうだ。……もし、リリにちゃんと好きだって言えなかったら。もし、君が自分を押し殺しているのを見過ごしていたら。僕はきっと、それを死ぬまで悔い続ける。死んでも死にきれなくなる。それは、嫌だったんだ」

 

 嫌だ。そうか、我儘というのはその一点に尽きるのだろう。つまり、彼はこう言いたいのだ。

 

「……あくまで自分のためにやった、そういうことか」

「そうだ。……だって、あんまりにも押し付けがましかっただろう?幸せになって欲しいだなんて。僕の我儘以外の何でもない」

「……でも、私は君のその我儘に救われたんだ」

 

押し付けがましいだなんて思わなかった。だって、あの時の彼の言葉にはまごころが篭っていたから。

 

「だから、カート。……ありがとう」

「……!…………どういたしまして、リリ」

 

 一瞬ポカンとした表情を浮かべた後、微笑んで私のお礼を受け取るカート。なぜそんな顔をしたのか訝しんでいると、彼はカラカラと笑いだした。

 

「……なんだ」

「いや、すまない。君のあんなに柔らかい表情を見たのは初めてで、少し驚いてしまった」

「……変だったか?」

「……いいや。あんまりにも素敵で、見惚れてしまった」

「……っ」

 

 思わず顔を背ける。……だって、私の顔は間違いなく真っ赤になっているだろうから。まるでこれまで溜めていたものを解き放ったかのように、感情が溢れて止まらない。幸せだとか、嬉しいだとかを、感じすぎるほどに感じてしまう。

 背中から近づいてきた彼が、耳元で囁く。

 

「好きだよ、リリ」

 

 ビクッと身体が飛び上がってしまう。自分から発せられる熱にクラクラしながら、それでもどうにか口を開く。

 

「わ、わたしも……好きだ」

 

 私は、あと何回彼に好きだと言えるだろうか。恐らく、その回数はそう多くはないだろう。だから、私は好きだって言える機会を逃したくない。一回でも多く、彼に気持ちの一端を伝えたい。

 少し気恥ずかしいけれども、言えない悔いを残すよりは余程いいから。

 夕焼けに、静寂が広がっていく。言葉はなくとも、背中から彼の熱と心が伝わってくるような気がして、身も心も温かい。

 

「……リリ、これからどうしようか」

「……そうだな…………」

 ……これから。あと、二日と少し。でも、それは確かに残っている時間であって。

「……もし、何かやりたいことがあれば何でも言ってくれ。僕が絶対に叶えて見せる」

 

 私は、彼のオブシディアンの瞳を見つめる。

 やらなければならないことがある。やりたいことがある。そして、生きている限り、それはできるのだ。

「……カート。私の身体の中にあるナノマシンの様子は、リアルタイムでデータが取られている。私が死ぬまで、いや、きっと死んでからしばらくの間まで」

「…………」

「そのデータを、君に託してもいいだろうか」

 

 償いは、しなければならない。

 死ぬことは償いではないと彼に教えてもらった。だから、これが私なりの償い方だ。最後の一秒まで生きて、今際の際までを使い切ることが。

 

「……任せてくれ」

「……すまない、君を巻き込むようなことを、君に重荷を背負わせるようなことをして」

「いいや。寧ろ嬉しいよ。君に頼ってもらえたんだ」

 そう言って歯を見せて笑う彼。それはまるで私に後ろめたさを感じる必要はないとでも言うようで、救われた気持ちがした。

「……ありがとう」

「……でも、それだけでいいのか?」

 

 受け入れてもらえて、ほっと胸をなでおろした矢先だった。

 カートの言葉が胸に響く。まだ他にあるだろう、言外にそう言われているようだ。

 ……実のところ、やりたいことはある。けれども、決心がつかないのだ。受け入れられるかどうかの話だけではない。

 それは、彼を一生縛り付ける鎖のようなものだ。私は、ただでさえ彼に重荷を背負わせてしまったのに。これ以上彼の人生を、狂わせるようなことをしては、いけないんじゃないか。

 

「……遠慮しなくていい、と言っても、そうはいかないか」

「…………」

「……少し、ズルい言い方をしようか。……リリ、さっきも言っただろう?もし、君が僕に遠慮して、君の本当の望みを言えなかったのだとしたら。僕は、そのことを一生気に病む。一生悔やむ。……だから、言うだけでも言ってみないか?」

 

 …………狡い。本当に、狡いな。私は、そのことを気にしていたのに。言っても言わなくても、同じことになるなんて。

 

「…………私には、夢があった、いや、あるんだ」

 

 ずっと思い描いていた夢。カートへの想いを封じ込めてもなお、忘れきれなかった夢。それなのに、いざ言うとなると躊躇われる。そんなわけないと思いつつも、笑われないかと心配になる。

 私が逡巡している間も、彼は静かに待っていた。

 ようやくの事で覚悟を固め、私は口を開く。

 

「……綺麗な、真っ白いドレスを着て。素敵な人の……」

 

 いや。違う。私にとってのそれは、いつだって彼だった。

 

「……君の。お嫁さんになりたいという夢を」

「リリ……」

「……迷惑だと思う。……こんな、もうすぐ死んでしまうような身で、こんなことを言われても困惑すると思う」

「…………」

「……けれども。それでも、カート」

「私と……結婚……してくれないだろうか…………?」

 

 言った。言ってしまった。

 心臓の音がいやに大きく聞こえる。胸が圧迫されるように痛くて、視界までもがくらくらしている。

 無限に思えるような一瞬が過ぎて。視界が、真っ暗になった。

 直後、身体全体を包み込むような温かさに、彼に抱きしめられているんだと気付く。

 

「……よろこんで…………!!」

 

 その返事が耳に入ってきた瞬間、身体中から力が抜けていく。

 全身が蕩けてしまいそうな感覚。私のこれまでの人生で、間違いなく、一番幸せな瞬間。

 ……ああ。どうやら、意識までもが蕩けていくようだ。我ながら、今日は色々あったからな……

 

「……リリ?」

 

 ふと、心配そうなカートの声が聞こえる。なんてことはない、ただ、ひどく眠いだけだ。

 

「……………………!?」

 

 …………だから、そんな……心配…………しないで…………

 

 

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