7日後、彼女は死ぬ。死にたくなかったと呟いて 作:ラスコーリニコフ
「…………ん」
どうやら、あのまま寝てしまっていたらしい。背中に感じる感触は、ベッドの柔らかさだろうか。
「……っ、リリ!……良かった…………!」
頭上からカートの声が聞こえる。寝起きのせいか、いまいち体に力が入らないが、視界は戻ってきた。
一面真っ白の部屋。ここは……病院だろうか。
「……カート、これは……」
「っ、ああ、説明するよ」
カートから、色々と話を聞いた。
やはり、ここは病院らしい。私が意識を失ってしまった後、ヘリで輸送されてここまでやってきたようだ。ナノマシンのことがあってか、直接病院ではなく会社に連絡を入れたらしく、この間と同じ医師が担当だった。
病状は……まあ、良くはない。そもそも医師に言わせれば、この段階でここまで動けるのはあり得ないようだが、身体にあまり力が入らなくなってきた。意識ははっきりとしているが、いよいよという感じはある。
……正直、怖い。死が足音を立ててそこまで迫ってきているのが感じられて、怖くてたまらない。
けれども、隣にカートがいてくれるおかげで、辛うじて平常心を保てていた。
「……しかし、これでは結婚はままならないな」
結婚許可証もないし、ウェディングドレスなどは望むべくもない。この病室から出るのも一苦労なのだから、教会で式を挙げるようなことはまず無理だろう。
でも、いいのだ。
「……それでも、君に受け入れてもらえただけで、私は十分幸せだよ」
そう言って、微笑んで見せる。望みの全てが叶うほど、世界は優しいものではない。そんな中でも、これだけの幸せを得られたのだ。十分満足できる。
「……君の体調次第ではあるんだけどさ」
そう思っていた時だった。彼が口を開いたのは。
「今、ここで式を挙げる準備をしているんだ」
「…………え?」
「……君が倒れた後、せめて僕にできることをしようと思って。だから、役所でどうにか結婚証明書は発行してもらったし、病院の牧師さんにも話はしてある」
「……ほんとうか…………?」
彼がそんな嘘を言うわけないのに、思わず言葉が出てしまう。「ああ。それに……」
力強く頷いて、彼が何やら言いかけた時だった。
「カート?持ってきたけどどこに……あら?」
声とともに、病室の扉が開かれる。そこに立っていたのは上品な身なりをした、四十代くらいの女性だった。
「……まあ!リリさん、目を覚ましたのね!よかったわ……」
突然なことに、頭が混乱する。この人はなぜ私の名前を知っているのだろうか。そもそも、何者なのだろうか。降って湧いてきた様々な疑問は、彼女の次の言葉で氷解した。
「……ああ、まだ自己紹介していなかったわね。……カートの母親のシンシアです。息子のこと、ありがとうね」
「……あ、いえ…………」
「ふふふ、あの子ったらね、小っちゃい頃……」
「母さん」
カートの母親。母親、か。今の二人の様子を見る限り、良い親子関係ができているのだろう。そもそも、この場にいて私のことを知っているということは、彼が呼んだからに他ならない。
……カートはここで式を挙げると言っていたし、そのために呼んだのだろうか。そう思うと、妙に緊張してくる。
「……リリ、勝手に母さんを呼んですまない」
「……いや、寧ろ来てもらえてありがたいさ」
「……そう言ってもらえると助かるよ。その代わりと言っては何だけど、母さんにも手伝ってもらったんだ」
そういえば、病室に入ってくる前、何かを持ってきたと言っていた気がする。
「ええ。確かに持ってきたわよ。着付けも私に任せてちょうだい」
「……着付け?……まさか」
「……女の子だったら、やっぱりウェディングドレスは着たいでしょう?」
そう言って、シンシアさんが微笑む。カートのほうを見れば、彼もまた微笑んでいる。ああ、彼の笑顔は母親譲りなのだなと思った。ウェディングドレスなんて着れないと思っていたのに。私の夢が、現実になろうとしている。
すごく、嬉しかった。言葉が、出なかった。
「……リリ、体調はどうだい?ドレスが来たから、式は何時でも出来るんだけれど……」
「……すぐに、やりたい」
「……大丈夫なのか?」
「ああ。……でも、それより…………少しでも早く、君のお嫁さんになりたいんだ」
身体が弱ってきたからだろうか。何時もよりも素直に言葉が出てくる。素直に望みを口にできる。カートが顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに目を背ける。シンシアさんは口に手を当てて楽しそうにしている。昨日の仕返しができたようで、ちょっと楽しかった。「…………わかった。僕はソルダム先生に許可を取って、牧師さんを呼んでくる。母さんはリリのドレスを頼みます」
「任せてちょうだい。カートの大事なお嫁さんですもの」
「母さんまで…………」
ぼやきながら彼は病室を後にする。残されたのは、私とシンシアさんの二人だ。
「それじゃあ、リリさん。ドレスを取ってくるから、少し待っていてちょうだいね」
「はい。……あの……ありがとうございます」
果たして、カートからどこまで聞いているのかは分からない。けれども、少なくとも私がもう長くないことは知っているだろう。それなのにも関わらず、こうして私のために色々としてくれている。だから、せめてお礼くらいは言っておきたかった。
そんな私の内心を知ってか知らずか、彼女は笑って応える。
「……ふふ、いいのよ。それじゃあ、すぐに戻ってくるわ」
そう言って、彼女もまた病室から出ていった。部屋の中には私一人だけになり、真っ白い、味気ない風景も相まって、いやに静かに感じる。
思えば、ここまで随分駆け足で来たものだ。初めて二人で出かけた次の日に想いを伝えて、その次の日に結婚する。まるで、人生を早回ししているかのような日々。あまりにも急すぎて、普通なら受け入れられないに決まっている。だから、よくぞ受け入れてくれたと思う。カートも、そして彼の母親も。
母親とは、ああいう人のことを言うのだろうか。少ししか見ていない彼女の言動からでも、息子であるカートへの思いやりが感じられる。たぶん、それが愛情というものなのだろう。
……私と母との思い出は、ない。覚えているのは、ただ一人だったということだ。……あの人は、私のことをどう思っていたのだろうか。私を、愛してくれていたのだろうか。今となってはわからない。それを悲しいとは思わないけれど、少しだけ、寂しかった。
トントン、というノックの音が聞こえる。それで、私は思考の海から現実へと浮かび上がった。扉が開いて、シンシアさんが入ってくる。
「お待たせしたわね。これがリリさんのドレスよ」
私の眼は、彼女に続いて部屋に入ってきたものに釘付けだった。
純白。まさに、その一言に尽きるだろう。どこまでも白く、艶やかで滑らかな布地でできたそれは、細身で胸元から広がっていくデザインをしている。ハイネックになっている首元は透け感のある生地で、刺繍が施されて荘厳な雰囲気を醸し出していた。袖は七分丈だろうか、首元と同じくレースになっている。まるで、神話に出てくる女神の衣装のような、そんな花嫁衣装がそこにはあった。
「……どうかしら?体調のこともあるし、出来るだけ楽で露出のないものを選んでしまったのだけれど……」
「……すごく……綺麗です…………」
「よかった!……でも、あなたが着れば、もっと綺麗になるわよ?カートも待ち遠しいだろうし、さっそく着てしまいましょうか」
彼女の言葉に取りあえず頷いたものの、未だに心は夢にまで見た衣装に奪われたままだ。
……私が、こんなものを着ていいのだろうか。こんなきれいで、穢れのないものを汚れきった私が着ていいのだろうか。自分の中の暗いところから、いくつもの疑念が顔をのぞかせる。
そんな、後ろ向きなことを考えそうになっていた私の頭に、ふと温かさを感じる。見ると、シンシアさんが頭を撫でていた。
まるで、母親が子供にするようなしぐさ。だというのに、私は不思議と心が凪いでいくのを感じる。
「……綺麗な髪ね。まるで、月の光を編み込んだみたいだわ」
「……そうでしょうか」
「お世辞なんかじゃないわよ?本当のことだもの。……さて、まずは髪型から整えましょうか。こっちの椅子に座ってちょうだい」
言われるがまま、私は椅子に腰かける。すぐに背中側に彼女が立ち、櫛で髪を漉き始めた。
……こんな風にされるのは、生まれて初めてだ。美容院に行ったときとも違う、不思議な温かさがある。……それこそ、母が娘にしてあげるような。
「……ふふっ、女の子の髪をこんな風にするなんて初めてだわ。まるで、娘ができたような気分ね。……義理の娘になるのだし、あながち間違いでもないかしら?」
こちらも親譲りなのか、彼女はまるでカートのように私の心の内を見透かす。……私が義理の娘ということは、シンシアさんが義理の母ということだろうか。
……少し、嬉しいと思った。彼女のような母親がいたら、私でも、少しくらいは愛情をもらえていたのかもしれないと思ったから。
でも、それと同時に聞きたいとも思った。
「……あの…………どうして、私にこんな良くしてくれるんですか?こんな、病院で式を挙げるような私に……」
こんな、彼女の大切な息子を縛るようなことをする私を、どうして受け入れてくれたのか。どうしてこんなにも優しくしてくれるのか。どうしてそんな笑みを向けてくれるのか。
「……息子の幸せくらい、応援してあげたいじゃない。それにね、リリさん。私は、あなたに感謝しているの」
「そんな、私は何も……寧ろ、貴方やカートから貰ってばかりで……」
「いいえ。私たちは、最初からあなたに幸せを貰っているのよ。…………あの子、小さい頃に父親を亡くしていてね」
「…………え」
そんなこと、初めて聞いた。それに、カートの父親ということは、シンシアさんの夫ということなのではないだろうか。
「……カートは、休みの日はいつも彼と遊んでいたわ。あの日も、同じように二人で遊びに行っていて……目の前で……」
彼女の言葉が詰まる。そんな様子に、話の内容に、私まで胸が苦しくなった。ふと、カートの語っていた人生観を思い出す。人生に、悔いは必ず残る。そんな彼の哲学は、幼い頃の経験から生まれたのだろうか。
「……あの子は塞ぎ込んでしまった。家でずっと無気力に過ごしていて……私は、そんなカートを見ているだけで気分が沈むようで。……思わず言ってしまったのよ。どこかに行け、って」
私は思わず後ろを振り返って彼女を見た。信じられなかった。母親という理想を体現しているかに感じられた彼女が、そんなことを言ったなんて。
「……母親失格よね。言った瞬間後悔したけれど、遅かった。カートは家を飛び出して行ってしまって……」
シンシアさんの眼が、私を捉える。
「……あなたに出会った」
「…………!」
「……家に帰ってきたあの子は、少しだけ元気になっている気がしたわ。そして、それは気のせいじゃなかった。外に行って帰ってくるたび、あの子はどんどん元気になっていって……遂に、つらい経験から立ち直ることができたのよ」
知らなかった。そんなこと、全く知らなかった。私にとってのカートは、いつでも明るくて、眩しい太陽のような存在で。私は、彼に照らされるばかりだと思っていた。
けれども、彼女はそうではないという。私のおかげで、彼が明るくなったという。そんなことがあるのだろうか。何かの間違いではないだろうか。
「ある時、気になってしまってね。こっそりカートについていったことがあるの。その時見たのよ、真っ白い、可愛らしい女の子のことをね」
「…………」
「……だからね、リリさん。私は、あなたにずっと感謝していたのよ。あなたのおかげでカートは立ち直ることができた。あなたのおかげで、カートは自分のやりたいことを見つけることができた」
私の髪を束ねて編みながら、彼女は語り掛けてくる。
私は……まだ、あまり信じられてはいないけれども。彼に、カートに、少しくらい、何かを与えることができていたのだろうか。
「あの子から結婚するって話を聞いた時、相手は誰かと思ったけれど、あなただとわかって安心したわ。それに、あの時の恩を返せる、そう思ったの。……だからね、あなたは何も気に病む必要はないのよ。ただ、幸せになってちょうだい」
「はい…………」
……変だな。涙というのは、悲しい時に出るもののはずなのに。こんなにも誰かに幸せを願ってもらえて、どうしようもなく嬉しいはずなのに。涙が、流れて止まらない。
肯定された気がした。認められた気がした。愛情を、与えてもらった気がした。背中からそっと抱きしめられた、そのやさしさが温かかった。
暫くの間、私たちはそのままでいた。
「……さて、完成よ」
「……これが……私…………?」
赤みがかった眼ももとに戻った頃、私は鏡を見て呆然としていた。そこには、純白のドレスを着た、とても素敵な花嫁が写っている。
「言ったじゃない。着たら、もっと素敵になるって。……本当に綺麗だわ」
背中を編み上げたばかりのシンシアさんがしみじみと言葉を発する。彼女によると、これはエンパイアラインというウェディングドレスらしい。締め付けられるようなこともなく、楽に着られているのに、どこか神々しい。
「……そうしたら、カートを呼んでくるわね。ずっと着ていても疲れてしまうだろうし、何よりもう待ちきれないはずよ」
「あ、待って……」
止めようとするも、その暇もなく彼女は病室を出ていってしまう。まだ心の準備ができていないのに、どうしたらいいだろうか。
途端に静かになった部屋では、色々なことが心配になってくる。どこか変ではないだろうか。シニヨンにしてもらった髪型も、ずれたりしてしまってはないだろうか。そんな風にそわそわしていると、時間はあっという間に過ぎてしまって。扉の向こうから、カートの声が聞こえる。
「……リリ?……入ってもいいか……?」
「あ……」
心臓がドキリと跳ね上がる。彼の声を聴いただけでこれだというのなら、これからどうなってしまうのだろうか。深呼吸を何回も繰り返して、どうにか心を落ち着かせる。
「……ああ。……いいぞ」
扉が、開く。向こうに立っていた、カートの姿が明らかになっていく。
そうして、時が止まった。
彼は、真っ白なタキシードを身に纏っていた。それは、夢に見た相手の姿そのもので。思わず見惚れてしまう。
「……きれいだ……リリ」
「君も……すごく似合っている」
そこからはもう、夢見心地だった。いつの間にか、部屋には牧師がやってきていて、誓いの言葉を読み上げている。
「新郎カーティス、あなたはここにいるリリを悲しみ深い時も喜びに充ちた時も共に過ごし、愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」
「はい、誓います」
「新婦リリ、あなたはここにいるカーティスを悲しみ深い時も喜びに充ちた時も共に過ごし、愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」
「……はい、誓います」
誓いの言葉を口にして。指輪を互いの指にはめて。一つ一つ、重ねていくたび、幸せが大きくなっていく。彼の、お嫁さんになるんだという喜びが増していく。
いよいよ、式は大詰めを迎えた。そっとベールが上げられ、両の肩に彼の手が乗せられる。彼の黒い黒曜石のような瞳を見つめながら、私は口を開いた。
「……なあ、カート」
「……なんだい、リリ」
「……愛してる」
……私は、ずっと愛を知らなかった。誰からも、親からも愛されずに育ってきた。
そんな私が、愛を知った。初めて知ったのは、親愛の情だったのかもしれない。けれども、それはいつの間にか、彼へのもっと深い愛に変わっていて。
一度知ってしまったから、愛に飢えた。渇きを癒す方法がなかったから、愛そのものを忘れることにした。けれども、心の奥底で、ずっと求めていた。ずっと、愛されたいと思っていた。
「……僕も、君を愛してる」
口づけを交わす。触れあったところから熱が、想いが、愛が、全部伝わってきて。理由なんかない。とにかく、彼が愛おしくてたまらない。それが全て。私が生きてきた人生の幸せの全て。
私は、幸せだった。