現在時刻は午後5時20分。1時間後には全て終わって、答えが出ているということだ。
近くで見ても、あまり迫力は感じない。ここよりも大きな闘技場を備えた『決戦場区画』を始め、学園内の行事で用いられる区画を沢山見てきたからだ。
高さは約80メートル程、正面の大きな入口は既にライトアップされていて、次々と訪れる来場者を迎え入れ続けている。ライブが始まる頃には、この中に5万人以上の人間が入ることになる。僕にとっては、それが少しだけ恐ろしい。
それと、さっきイチルさんが言っていたように、アリーナの周りは人の活気で溢れている。けれど、関係者用の出入口はしっかりと区切られているため、正面口から裏手の方へ行けば行く程、人は少ない。この場にいる誰もが、そのルールを遵守しているということだ。
「っ……凄いわね、織田島……本当に忍者の末裔なんじゃないの……」
彼女の言葉通り、気配を表に出した織田島は、まるで転移してきたように僕達の前に現れる。ただ、それを気にする人間は僕ら以外には存在しない。
「こいつは米農家の倅だぜ」
それは僕も初耳だった。
「……神崎。設置された舞台装置。霧状の液体を噴射させるもの。中身はただの水。それ以外、ドローンに積んで撒き散らす方が怪しい。その中身は、まだ確認できていない」
「それでほぼ確定じゃねぇか……」
「その……ドローンと、液体がある場所の方はどう?」
「中。少し奥のフロアにある。出演者、その関係者からは離れている。ただ、スタッフの数が多い。このライブの運営と組織は繋がっていると考える方が自然。通常の警備は問題ない。組織側の罠、薬品の予備も含め、他に不審点は見当たらない」
「こんな形でなかったら、サインをねだりたかったんじゃねぇのか?」
「……」
「あ、そっか。音楽は、好きなのよね……けど、一宮先輩と絡んでるの、見たことないんだけど……」
「あぁん? 何言ってんだ姫さん。たまにデータを交換する仲だぜ」
「はぁっ? 同じ建物に住んでんだからもう少しプライベート見せなさいよ……」
「神崎。どうする?」
織田島はいつも、情報をくれた後、一緒に判断する時間もくれる。
「その液体を押さえよう。申し訳ないけど、ライブのことを気にする余裕はないよ」
「……フロアの場所は、モリスに送った。ここからは、なるべく気配を断ち、近くに潜む」
「うん、頼りにしてる」
「――あ、ごめん。こんな時に。もう一年近くの付き合いになるんだけど、貴方って、ちゃんと話せるのね……」
無口と緘黙は違う。イチルさんは、その辺りには明るくない。
「……俺が話さないのは、制約だ」
「えっ?」
それだけ言って、織田島はゆっくりと人混みに紛れる。
「自分のことを話すのも意外なんだけど……」
「俺もそう思ったが、今日はさすがに、アイツでも思う所があるんだろうぜ」
「っ……聞いたことなかったけど、織田島って誰と仲イイの?」
「そうだなぁ……俺に、大将を除くと……極地探索繋がりで、太刀川と萌木乃だけか。こうなる前は、隔週で深夜に『北極区画』へ繰り出して、猛吹雪の中、三人で楽しく区画の地図を作っていたらしい」
「訳わかんないトリオだけど、やってることも同じレベルで訳わかんないわ……」
「あぁ、俺もだ」
その感想について、僕は同意できない。後、僕が初めて織田島と話したのも、その集まりが関わっていた。
「――行こう。警備はそのまま通れる」
そういう話が好きなだけできる、そんな時間が許される日を願って、僕達は人混みから少しずつ離れ、アリーナの裏口に回る。スマートフォンに熱心な普通の人間、気配を断つ僕達能力者、この二つの条件が合わされば、互いの世界はほとんど分かたれる。
地下駐車場に繋がるなだらかなスロープ、制服姿の男性二人は笑顔で何か話をしている。横を駆け抜けると、駐車場に人気はなく、動いている車もない。
「モリス。案内してもらってもいい?」
「大将のチャームポイントの一つは方向音痴だからな。ここも適材適所でいこうぜ」
「ありがとう」
そんなことはないんだけど、文句を言う必要はない。
「……色々と落ち着いたら、そういう所にも少しずつ手を付けていきたいわね……」
「長い旅になるぜ……姫さん」
僕達は自動販売機が並ぶスペースを横切って、エレベーターに乗り込む。モリスが押したのは、二つ上の一階。
「随分と飾り気のねぇ、業者に配られるような見取り図だな……あの野郎、毎度毎度どうやってこんなモンを入手してやがるんだ……各アーティストの控室まで網羅されてんじゃねぇか」
「幸い、出演者は遠いフロアに集中してるわね。一階がステージになるのかしら。けど、何で二階のことを200レベルって言うの?」
二人はスマートフォンの画面を覗き込んでいるけど、僕がそうする意味はない。
「作ったヤツの趣味だろ。んなことより、こっからはもう、ライブがぶち壊しになってもやることだけやるって話だよなぁ? 大将」
「うん。大きい音を出すデメリットはあるけど、関係のない人に気付かれたら、出来る限り穏便に気絶させるよう頑張ろう」
「穏便って響きに多少ハードルの高さを感じるが、まぁ後はその場のノリ次第だろ」
「人的被害を出さなければ、どんなに酷いことになっても斑鳩製薬が何とかしてくれるわよね……そう思ってないと、さすがに不安だわ……」
イチルさんには申し訳ないけど、今日のこの場においては、その部分に重きは置けない。
エレベーターが開く。意外なことに、人の気配は極端に少ない。
「……なるほどな。人のいねぇ通路を走り回って、何度もエレベーターを乗り換えるらしい」
「ハァ……さすが、あの天王寺先輩も、織田島を完全に尾行するのは難しいって言ってたけど、ホントに農家の突然変異なのね……」
「織田島は時間の計算もしてる。急ぎ過ぎない速さでいこう」
「了解だ」
そのまま、モリスの大きな背中に付いていく。僕からすれば凄く目立つけど、これでモリスは気配を殺すのが上手い。それでも、能力がその極致であるイチルさんと、忍者と揶揄されてしまう程の織田島には及ばない。
何か作業をしているような人の気配を遠くに、僕達はフロアを歪に移動する。この方々の今の状況について思いを巡らせるのは、意識的に止めておいた。これから起こることを、僕はコントロールできないのだから。
「――ドローンと諸々が置かれてんのは奥のデカい部屋だ」
階層を行き来しながら、僕達はまた一階に戻ってくる。当然だけど、最初に降りた所とは、大分位置が違う。
「……」
「……」
足音を立てずに走る。真っ白な壁の通路には沢山の部屋が並んでいて、中からは人の気配がするけど、奥へ進むに連れて、それらは少なくなっていく。床の素材までは分からないけど、ある程度は頑丈な作りになっている。
「――ここだ。鍵が掛かってるな」
「気にしなくていいよ」
モリスはそのまま扉を押し開ける。
かなり広々とした部屋は壁が鏡張りで、こんな空間は見たことがない。だけど、奥の左の方には沢山のドローンが置いてある。
「そのまんまだな。あのポリタンクの中身が、例の薬品で違いねぇだろ。そうでなきゃ手詰まりだ」
「ここまで来て変なこと言わないでよ……それで、どうするの? 抱えて逃げる、感じ?」
「それが一番確実だね。あまり、ここに留まらない方がいい」
「にしても、ドローンで水撒きとはな。外は暑くても、アリーナん中は冷房完備だろ。俺が観客なら、汚れた服のクリーニング代を請求する所だぜ。ホントに演出で使うのか?」
「――――エンターテイメントの分野においても、ドローンはクリエイティブに活用されている。野蛮人には、想像できんだろうがね」
「……」
「……」
「……」
振り返ると、少し歪んだドアが閉じられる。
入ってきたのはモルツとヒナノ。この前会った時と、あまり格好に変化はないけど、ヒナノの右手には不思議な剣が握られている。その刃は、日本の刀と比べると刃渡りが短くて、逆に幅がとても広い。
「おいおい、また独断専行か? 放し飼いも大概にって、ハイネの野郎に言っといてやんなきゃなぁ」
「下らん話に付き合う気はない。レディ、先日のリベンジだ。この場でキミの前に立ちはだかる私は、純粋な奉仕者……今もキミは、私を悪と断じるかな?」
「いやぁ……断じられちゃったらおしまいなんだけどぉ……」
二人は言葉を並べながら、もう戦闘態勢に入っている。こちらも既に、イチルさんがドローンの置いてある近くまで下がっている。
「いえ、今の貴方からは靄が見えない。それでも、僕達は引きません。一度だけ言います。抵抗を止めて、警察の保護を受けて下さい。お願いします」
「靄が、見えない……なるほど、それがキミの足枷か、レディ。腹芸を好まないことは理解している。このような貧相な舞台を強いたことは謝罪しよう……その詫びとして、正面からの二対二で雌雄を決するとしよう」
「それは、受けられません……」
「強いる……と。私はそう言ったのだ、レディ」
期待をしていた訳じゃない。それでも、戦いたくないのは本心だ。
「……ヒナノちゃんの方は、青龍刀ってヤツか? 随分とファンタジックな得物じゃねぇか。ここ一年で、ギャルの間じゃ剣術の真似事が流行ってんのかい?」
「トレンド入りしてんのは見たことないかなぁ。フィットネスとしてはアリ寄りだと思うんだけど。んなことより、これは柳葉刀っていう昔の刀だよ。よく青龍刀に間違えられるらしくて、ウチも検索したんだけど」
「その剣は……誰かの能力?」
このまま戦うしかない。そうなると、僕はモリスのサポートに徹するのが正解だ。
「うーん……モルツが正面からって言ったし、ウチも今日ばっかりは本気で殺すつもりだし、そうするべきだよね。それじゃ、コレはねぇ……元々は人間だったんだよ。凄ぇっしょ?」
「あん?」
僕も、モリスと同じ反応だった。
「何かね。全然能力使おうとしない男の子がいてさ。けどウチらのことはとにかく殺すってうるさくて、色々イジって聞いてみたら、何と能力は自分を武器にするって。しかも、使った瞬間自分の意識は消えちゃう……それはもう自殺だよね。で、コレ――」
バトンを回すように剣をクルクルと回転させる。その動きは、とても不自然だった。
「――大事に使ってあげんのが供養ってヤツだよね…………モルツ、もう殺すっしょ?」
「あぁ、そうだ。先陣を切ってくれると助かる」
「――っ」
「「――――っ!?」」
まるで剣の方が襲い掛かってくるように、ヒナノの動きよりも速く、鋭く迫る刃。モリスはそれを半身で躱しながら右膝蹴りで応戦、これも空を切る。
一方で、僕に他者を気遣っている余裕はない。
ワンテンポ遅れてこちらへ仕掛けてきたモルツの右ストレートを両腕でブロックする。
「――やはり、あの禍々しい能力は使用不可……ならば、体格に勝る私が有利だ」
次は左、同じく受け止めると、右の上段蹴りも腕を持ち上げて頭部への衝撃を防ぐ。
「ふん……いつまで持ち堪えられるか。これでも、化け物に鍛えられていた時期もある」
何が彼をそうさせたのかは分からない。けれど、モルツは敢えて僕の両腕を狙って打撃を重ねてくる。人間の身体は急所だらけだから、個人的には助かる戦術だ。
「――なるほどな。戦ってんのは憐れな刀の方か。微妙な引っ張られ加減が絶妙な躱しにくさを生んでやがるな……」
「っ……本気で殺すって言ってんのに、そんな感じなんだ……人殺しに慣れてるんだね」
「俺なんざまだまださ。知り合いにゃ、殺ると決めたら骨すら残さねぇ人外がゴロゴロいるぜ」
「……」
さすがモリス。
物凄い速さで振るわれる鋭利な刃を、涼しい顔で避け続けている。それが重なれば重なる程に、ヒナノの表情から余裕が削がれていく。
ここでの僕の役割は変わらない。結局の所、僕の戦力は完全に能力依存だ。数多くある能力の中には、振るう当人の意思よりも、能力そのものに全てを預けることが最適解なものもある。僕のはその一例だった。
だから、モリスがそれを望むなら、僕は最後までこの膠着状態を受け入れる。
連打を放ち続けるモルツは、先に声を上げた方を敗北と捉える。なら僕は、このまま黙って腕に力を入れているだけでいい。
「っ…………」
「…………」
「っ…………」
「…………」
この前少し話していた野球みたいに、ヒナノとモルツが攻撃、モリスと僕が守備を務めている。もちろんそんなルールはないけど、モリスからは反撃へ転じる息遣いが見えない。
「――練度も、その得物も悪くはねぇ……けどな。ずっと動かねぇ的を相手にしてたアンタが、一年以上本物の怪物と無理やり踊らされてた俺に当てるなんざ、宝くじを一口買うようなモンだぜ……」
「――っ!」
「っ」
離れ際にヒナノの右手から放られた刀が、不規則に揺れながら高速でモリスの首筋へ迫る。ただ、それも最小限の動きによって回避され、ブーメランみたいに大回りをしてヒナノの手に戻る。
そこで、ドアを背にしたヒナノの目付きが更に鋭さを増した。
「――モルツっ!」
「「――っ」」
声に反応して、モリスと一瞬だけ視線を交わす。
ヒナノは身を低くしてモリスへ突進、モルツは僕の両腕を掴んで力任せにドアの方へ投げる。
僕の意識はイチルさんの方へ向いていたが、モルツは未だに僕を睨んでいる。
「っ!」
「――おっと」
ヒナノの斬撃をすれ違いながらやり過ごしたモリスの左腕に受け止められる。すぐに体勢を立て直さなければ。
「――デュペル君っ!」
「「――――」」
「……」
「……」
叫び、嫌な予感の後、室内には不穏当な静寂が流れる。
「――何だと? っ!?」
「――う、そ」
驚愕の表情で、二人は同時に頭を手で押さえる。
「受けられませんと、僕はそう言いました……」
「――――――」
そこで、モリスの両腕が伸びる。次の瞬間にはもう、二頭の大蛇がモルツとヒナノの身体に巻き付き、締め上げながらその身を持ち上げていた。
「――――」
「――――」
全身の骨が砕ける音と、意識を失った二人の身体が床に落ちる音。気付くと、隣にヘッドホンを付けた織田島が立っていた。
「――ま、ヤれる時にヤんのが鉄則って話だな。隙を作んのも仕留めんのも全部てめぇってのは、少し気に食わねぇが」
「――神崎。止めは?」
「いや、その状態じゃ動けない。後は任せよう」
モリスの言う通り、その方が苦しむことになるかもしれないけれど。
「わかった」
「――えっと……最後の、何だったの? いきなり棒立ちになった感じだったけど……」
「知らねぇが、気配を断ってドアの前から刺す手筈だった伏兵は、織田島が予め片付けてたんだよ。しっかりと相手に漏れないよう気を遣ってな」
「っ……今日、ここまでホントに織田島一人で全部じゃないの……」
「…………いや」
「っ、織田島、どうしたの?」
「……中を調べるか? それとも、このまま持ち出すか?」
「持ち出しながら、調べられる?」
「可能だ」
織田島は奥にある白いポリタンクを持つ。イチルさんの言う通り、おんぶにだっことはこのことだ。
念のためと言ってモリスがドローンを破壊した後、僕達四人は来た経路を引き返す。
「…………」
「何だよ織田島……悩みがあんなら、聞いてやってもイイんだぜ?」
「……ずさん過ぎる。妨害されるのは確定事項。予備の薬品は何処にも見当たらない。ハイネ本人が携帯しているにしても、あんな雑魚を差し向けるのは理解不能だ」
「だから舐められてんだよ、俺達は。現在進行形でな」
「けど確かに、織田島が仕掛ける側だったら、こんなあっさりな展開にはなってないわよね……」
そもそも、織田島が敵に回っていたら僕達だけでは勝てない。
「これを外へ出したら、もう一度この中を調べるか、ライブが開始されるまで見張っていよう。ハイネの顔は分からないけど、年齢である程度は判断できる」
「それに、もう一人の女はどんな格好でも目立つからな」
「もう、そんなに時間もないわね……織田島が言ってるように、予備が無ければいいんだけど……」
さっきよりも人の気配は近い。けど、ただでさえ忙しい彼らが、僕達の存在に気を払うことはない。織田島の判断で、僕達は少し手前のエレベーターに乗り込む。
「気にすることじゃないけど、このままいけば、ライブは無事に始まるのよね」
「実際問題、中止になったらそりゃ大惨事だろうからな。動く金の額を考えると、ステージ近くのエレベーターに乗ってんのは肝が冷えるぜ」
「間違いないわね……」
「――神崎。少なくとも、この中に入っているのは世間で公表されているどの薬品とも一致しない」
「っ、ありがとう、織田島」
織田島の能力は、本当に応用が利く。ないものねだりはよくないことだけど、やっぱり羨ましい。手段が多ければ、それだけ誰かを守ることができる。
また考える必要もなく、あのままだったなら、会場にこの液体が撒き散らされていたことになる。それが防げたのは、とても大きい。でも、まだやるべきことは残っている。
「決まりって訳だ。とにかく、くれぐれも液体が零れねぇように頼むぜ」
「そう言われると、一気にヤバい爆弾持たされてる気分になるわね……」
エレベーターが動きを止め、僕達は再び地下駐車場に戻ってくる。
「――てっきり、本番間際ってぇのは、もっと引っ切り無しに車が出入りしている方を想像してたが、意外とどっしり構えてるモンなんだな」
僕から見ても、侵入した時と同じか、それ以上に周囲は静かだった。
「うーん……直前なんだから、こんな時間に入ってくるのも、出ていくのもないってことなのかしら。その辺りは、ちょっと分からないわね」
それはもちろん、僕にも分からないし、それ自体に、不都合もない。
「っ……」
だけど、明確な違和感が一つ。
視界の奥、50メートル程離れた駐車場の進入口、そこに立っていたはずの警備員の姿が見えない。これ以上車が入る予定がないとしても、不自然なことだ。
「……」
「……」
モリスと織田島も、同様の気付きを得ている。
僕はそのまま、少し歩調を速めて、イチルさんの前へ出る。
「…………」
「…………」
気付いたら、視線の先には彼がいた。本当は、少し前からお互いに気付いていた。
身長はほとんど変わらない。長く、染められた髪、格好いい黒のジャケットに、特徴的な靴音を立てる革のブーツ。瞳が綺麗で、まるで可愛い女の子みたいな顔をしている。口に出したら言い返されるから、頭の中で留めておきたい。
「……」
そして、隣には彼よりも身長が高い、大柄の女性。ライダースーツを身に纏った彼女は、モルツとヒナノからシメイと呼ばれていた。カスミさんの胸を貫いた、嫌な音と赤色が、一瞬過ぎってすぐ消える。
「え…………神、威……何で……っ、でも……」
「そうだぜ姫さん。理由なんて関係ねぇ」
二人が何を言っているのか。それよりも、ここが一番肝心な所だ。
「――貴方が、ハイネ?」
「――そういう渾名で呼ばれることもある。キミが言っているハイネであるかどうかは、断言できない」
「いえ、十分です」
特徴的な声に、少し怯んでしまったけど、そんな場合じゃない。
彼女が横にいて、尚且つこの場に今いることが、動かぬ証拠だ。
「そちらも気付いている通り、薬品は僕達が押さえました。どうか……抵抗せずに、警察の保護を受け入れて下さい」
「それは……申し訳ないけど、無理かな。僕は、まだここに用事が残ってるから…………うーん……もし、その薬品が会場内で漏れれば、本当に、大変なことになるだろうね。モルツの予定とは違うかもしれない。だとしても、計画は修正可能なのかもしれない」
距離は40メートル。能力が発揮できるなら、関係のない間合いだ。けれど、ハイネからは、僕の主観も含めて、悪の気配がしない。
「……」
「……」
こういう時、モリスは慎重だ。逆に織田島は、仕掛けられる確信があれば迷わない。無言で佇む彼女からも、同じ気配がする。
「キミ達のことは、もう大分前から知っていたよ。今日、こうして顔を合わせる可能性があることも…………とは言え、こちらは時間が惜しい。それでも、これは折角の機会だよ。少し、話がしたい」
ハイネは、僕から見て無警戒に、一歩前へ出る。
「……ハイネ。貴方の目的を聞かせて下さい」
「意外な質問を期待していたのに。そういえば、ヒナノにも一昨日、同じことを聞かれたよ。その時はなんと答えたか…………例えば、音楽は好きでやっている。この規模になったのは、タイミングと運だろうね。けれど、僕はキミ達の持つそれと同じで、不思議な力を持ってる」
軽く掲げた右手を握り締めながら、ハイネは一度、言葉を止める。
「僕の力は、ほんの少しだけ、背中を押すことができるんだ。この抑圧された世界にとって、意味のある力だ。これは……僕にしか、できないことなんだ。今はもう、義務感ではないけれど、僕だけしか持たないこの力は、行使するべきなんだ。僕は、そう思っている」
「そう言って、貴方は人を殺めた……」
今の僕にとって、直接的、間接的という概念は、とても邪魔なものだった。
「うん……キミも分かっているはずだ。殺したのは、僕ではないよ。死に至るきっかけにはなったかもしれないが。それも、当人が望んだことだよ。僕は、人間の持つ最も瑞々しい欲求を浮き上がらせる。それは、他者が評価するべきものでもない」
彼の目は、とても澄んでいる。
「はい。だから、貴方は悪ではない。けれど、僕は貴方をここで止める」
「そう、か…………では、こちらが譲歩しよう。僕がここでの用事を済ませた後なら、もう一度改めて話を聞いてもいい。もちろん、キミの言葉を否定する前提は持たないよ」
「――それは矛盾するぜ? 中ボスさんよぉ」
モリスが、僕の横に立つ。
「そのポリタンクの中身が漏れたら、本当に大変なことになるんだろ? 背中を押すっていう謳い文句は何処へ消えちまったんだ? そいつはつまり、背中を押された先ってぇのは、断崖絶壁だったって話か?」
僕は気付かなかったけど、確かにモリスの言う通りだ。
「それは少し、ズレた指摘だね。実は、僕はキミ達に嘘を吐いている。けれど、その話は本当なんだ。その中には、本当に大変なことになるような、強烈な薬が入っているから。分かり易く言うなら、麻薬みたいな、ね」
「っ……」
ハイネは、握っていた右手をゆっくりと開く。そしてその穏やかな笑みは、遮るように立つシメイの冷たい視線で隠される。
「――時間だ。悪いけど、先に用事を済まさせてもらうよ……」
「――――っ」
「――――っ」
そこで同時に動いた織田島とシメイ。完全に動きの重なった二人は、10メートル程の距離を隔てて睨み合う。
「おい……舞台装置にあるのは、ただの水じゃねぇのか……」
「――ただの水さ。今、この瞬間までは、ね――」
「「「――――っ!?」」」
能力の発動。
ただ、何が起こったのか。それは僕には分からなかったけど、他の三人は明らかに反応を示していた。
「……メロディに反応して、性質を変える薬品……」
「――正解だ。さすが、良いヘッドホンをしているだけあるね」
モリスが言っていた。ここはちょうど、ステージの下に当たると。
「キミ達は希望を持つ側だ。言っただろう? 僕は背中を押しただけだ。5万人を優に超える人間、その一人一人が、何を選択して、伝播していくのか……残念ながら、僕はその経験上、悲観的にならざるを得ない……さぁ、これから、一体何が起きるのか……」
最初は楽しく話していたハイネの声が、最後には少し、寂しく聞こえた。
「――結局、私達レジスタンスは出し抜かれちゃったって訳ね。少し悔しいけど、やっぱり、私ってこういうことには向かないのよね……」
「っ……姫さん? 何言ってんだ?」
モリスが言わなければ、僕が同じことを尋ねていた。
「音楽に乗せて、妙な薬品を5万人に撒き散らす……そんなこと、ウチの学生会が許す訳ないでしょ」
「……」
「……あん? 何だ……」
エレベーターが動いている。それと、非常用の階段から、沢山の人の気配が近付いてくる。
「っ……これは……」
不審そうな顔をしていたハイネの表情が、驚きに変わる。それは、僕も全く同じだった。
小学校で習った集団行動、それを大人が真面目にやると、こんな風景になることを知った。
出演者なのか、関係者なのか、観客なのか、僕には見分けが付かない。それでも、整列して行進する集団は、綺麗に僕達を避けて出口の方へ向かっていく。誰もがその表情を歪に固めて、まるで僕達のことなど目に入っていないみたいに、一心不乱に歩き去っていく。
「何なんだ……この気味の悪い集団は……」
「何驚いてんのよ……こんなことができるのは、阿僧祇リゥしかいないでしょ……」
ハイネの力を打ち消して、更に書き換えた。
ハイネとシメイも含めて、僕達は数分か、それ以上の間、アリーナから離れていく人の群れを眺め続けることしかできなかった。僕は何度も、今こそが好機だと自分に言い聞かせたけど、結局はただそれだけだった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「――っ」
織田島が動き、ハイネとシメイは固い地面にうつ伏せで倒れる。
「……自分の音で、悶えろ……」
「っ……」
「――っ! ぐっ……」
「――おっと。なるほどな……身体能力強化の一極集中か。中原みてぇな能力だな……」
織田島の能力。自分の聞いている音を物理現象に変換し、操る。本当はもっと複雑だけど、僕にはそれで十分だった。そして、その拘束から力任せに逃れようとしたシメイの身体を、モリスが大蛇で更に縛る。
「…………」
「…………」
モリスと織田島が頷き合って、僕の方を見る。
色々と足りないけれど、僕達は目的を果たせた。
「っ……どうやら、僕達は井の中の蛙だったようだ……とは言っても、この距離で直接ならば……ある程度は、染み渡る……」
「っ……」
ハイネが、黒い靄を纏い始める。
「そうか……いや……全ては見通せない……か……だがしかし、君達二人が待ち望んでいるのは…………王の帰還、という訳か。理解に苦しむ……忠誠心だ」
「――ぅ……」
「――――」
凄い速さだった。
けどそれよりも、起こったことが信じられなくて、僕の頭は混乱してしまう。
モリスと織田島が同時に拘束を解いた。その瞬間、動き出したシメイによって、二人の胸はほとんど同時に突き破られて。
今、僕の顔にイチルさんの血が掛かっている。
イチルさんは、僕のことを庇って、その胸を貫かれていた。ゆっくりと伸ばされた、とても温かい手が、僕の左頬に触れる。
改めて、何が起きたのか、僕には分からない。
「イチル……さん?」
何でそんなに、優しく笑ってくれるんだろう。
「ぅ……ぅん……ごめん、ね……守って……あげられなく……て――」
何についての謝罪なのか、何故彼女が僕を守ることになっているのか、僕には分からない。
ただ、心臓を貫かれ、イチルさんは死んだ。
「――――――――――――――――――――――――――」
つまり、僕は負けた。
なぜなら。
一番守らなきゃならない人を、守ることができなかったのだから。
「っ……さ、あ……時間だぜ……戻ってきてくれぇ……大将っ――――」
「――――ごめん……イチルさん…………太刀、川君――――」
僕は、また―――――――――――――――――――――――――――
「………………」
ソウ、ダッタ。
コノ渇キヲ、満タサネバ。
コノ渇キヲ、満タサネバ。
コノ渇キヲ、満タス、タメニ、ハ。
アノ学園ヲ。
アノ、学園ヲ。
渇キヲ、満タス。
ソノタメ、ノ、チカラヲ。
チカラ、ヲ。
チカラ、ヲ――――