それが突発的なことであったのか、予め決まっていたことなのかは定かではない。先輩からすればレイカさんの代役という形で、私は外部委託と呼ばれる学園外からの依頼に随行し、今し方事なきを得た所だった。
バイクが停めてある自動車販売店まで戻る車内の様子は、往路のそれと何も変わらない。少なくとも、先程まで命のやり取りをしていたとは到底思えない暢気な話題が運転席と助手席では延々と続けられており、私も行きと同様に、ラジオを流し聞いているような感覚になる。
頭の中では、先程までのことが反芻されている。
この一か月に満たない期間、学園内では様々な非現実的体験を繰り返し、感覚としては慣れ始めたように捉えていた。
しかし、あのマンション内は言うに及ばず学園とは関連のない現実であり、一か月前まで自身が日常を過ごしていた世界だった。つまり、少なくとも先輩は私が通常の中学校生活を送っていた昨年度の一年間、あのような異質な体験を、この現実世界においても日常的に繰り返していたということになる。
そう思うと、阿僧祇先輩が初日に言っていた一年の差は、そう簡単に埋まる距離ではないことは、改めて納得せざるを得ないだろう。
それを前提に振り返る。
主題の脱線を常とするあの男が、言葉を変えては繰り返し言う同じ話。
一言で表せば、劣勢になったら逃げろ、という意味で私は捉えている。
先輩は例を挙げる際、大抵は漫画やアニメ、ゲームなどの創作物と比較し、共通点と差異を指摘する形で説明する。これは、エネルゲイアという概念がそれらと酷似している点から、サブカルチャーの知識をある程度持っている相手と話すならば、有効であると言えるだろう。
私自身も感じていたが、RPG————ロールプレイングゲームの中では、しばしばピンチに陥った主人公一向の元へ、敵にとっては致命的なタイミングで援軍が到着し、盤面が引っ繰り返るという場面が見られる。登場人物達の努力の末、手繰り寄せられたと受け取れる展開がほとんどではあるが、時には偶然で片付けられている例も散見される。無論、これだけではない。
敗北、迫る死が確定的な流れの中、唐突に何かしらの奇跡、主人公の遺伝的素因による能力の解放や、武具に秘められた超常的な力、突然の死者蘇生も見た覚えがある。中でも、仲間の危険や死によって主人公の力が一時的に跳ね上がるのは、最早様式美と捉えた方が物語を楽しめるように思える。そう思える程度には枚挙に暇がない。
その一方で、現在私が生活するこの学園では、それらの世界で起こる大逆転は確かにほとんど例が見られない。旗色が悪くなれば負ける、ピンチになればそのまま敗北するのが常である。事実、中学に上がった頃合いから、一対一での立ち合いで決定的な後れを取った記憶は皆無であったが、先輩に対しては全く勝機が見えない中で安定的に敗北を喫している。
加えて、オリエンテーションでの阿僧祇先輩とのやり取りを仮に一年生全員による共闘と一方的に捉えるなら、奇跡とやらの起こる余地は一寸たりとも存在しなかったのが現実と捉えられる。故に、逆転が可能な窮地と不可能なそれの間には、決定的な差があるように感じられるし、本日の外部委託は、先輩にとってはおそらく終始危なげなく収束したのであろう。
まずロビーでの戦闘。それはどうやら、先輩にとっては戦闘ではなかったようだ。私は一貫して、鳴海さんと自身への危険に注視し、それ以外は先輩の指示を待つ姿勢で構えていたが、エネルゲイアを持たない通常の人間との戦闘について、迷いが無かったと言えば嘘になる。
だが先輩にとっては何度も繰り返した作業であり、間合いを詰めて蟀谷を殴打する、という運動を人数と同じ数だけ再現した。あの男は何も考えずに動いているようでそうではなく、昼食前に完了させたいと本気で思いながらも、冷静に本件の難易度を見通し、行動に移した。これも、経験則に基づくものできっと本人も言語化は困難なのだろう。
そして委託の本筋である6階の一室。事前に目を通した資料には、行方不明である未成年者達の素行の悪さも、近しい人間の供述付きで記されていた。唯一、小学生の兄妹2人は単なる家出の線が濃かったようだが、客観的に見れば、巻き込まれた彼らに全く落ち度がないかというと、そうでもないだろう。
それでも、ここまで相手との暴力に桁違いの差があるなど通常なら知る由もなく、エネルゲイアを持つ者が学園の外の世界で人の道を踏み外せば、あのような事態は自然に起こるという意味で日常と化すのであろう。
年齢は一つ上とのことだが、能力者の女性は単純に恐ろしい相手だった。先輩は終始余裕そうであったが、自分からすれば人体や部屋の壁を溶かし、命を奪う程の強烈な毒を吐き出すエネルゲイアは、危険視して然るべきだと考えられる。加えて、彼女の身体能力強化は、通常の自分のそれを凌駕しており、武術の心得が皆無であったとしても、決して侮れる相手ではない。
現実、狭いフィールドで偶然でも一撃致命打を受ければ、技量など関係なしに物理的な強靭さで押し切られてしまうだろう。そして遺憾にも、先輩が常々強みだと言及している不意打ちによって場の勝敗は決した。きっと、最も効率のよい方法がそれだっただけで、先輩単独でも問題なく事は収められたことは間違いない。
「……」
学園内外両面において、今後も経験を積んでいくこととしたが、一つ腑に落ちない。
打ち掛かる際、彼女は今の私と同様、正に腑に落ちないという表情をしていた。これは不意打ちが失敗したことにより迫る致命的展開の推量よりも、そちらがより強烈な刺激として彼女の中で処理されたことを意味する。
口移しによって毒を相手の体内へ送り込む。四肢を失ったもう一人の方がそれを受けた際、毒が影響を及ぼす時間は数秒と掛かっていなかった。つまり、口腔内への付着はそのまま致命の一撃となるはず。先輩はそれを防いだと宣っていたが、はたして本当にそうなのか。
舌を閉じた状態の歯で抑えたとしても、粘膜的な接触までは防げない可能性の方が高い。それに加えて、彼女の驚愕。その表情が、エネルゲイアによる攻撃は成功したはずが、肝心の効果が見られない驚きと疑問によることは間違いないだろう。
ただ、先輩は唇を拭い、裸のままの彼らも置いて先に手を洗いに行っていたことからも、内心で不測の事態であったというのが結局の所なのかもしれない。数少ない指導的な口調の際は、常に安全マージンを持つ、を口癖にしてくるあの男も、あれには肝を冷やしたということか。
私自身も、改めて劣勢を避け、劣勢に陥る、もしくはその見通しが見えた場合は、逃げの一手を最優先に置くことを心掛けようと思わなくもない。特に、自分は元来、レベル上げをせずにストーリーを強引に進めていくタイプであるため、客観的に見て、肝に銘じるべきであろう。
「――Uターンするの面倒だと思うんで、そこでお願いします。ちょうど赤だし、後ろも来てないみたいです」
「見上げた気遣いじゃないか。俺もちょうど、ダルいと思ってた所だ。もっと緩いヤマなら、飯でも奢ってやる所だが……」
車が歩道に寄った所で、シートベルトを取る。
「んじゃ、中原、降りよう。後、お願いします」
「おぅ、どうしようもなく厄介な場合は電話する」
苦笑いで返答し、先輩は助手席のドアを開ける。
「サヤちゃんも、今日はお疲れ様だ。また今度、三人で飯でも食おう」
「はい、ありがとうございました」
顔合わせでは先輩とは違う類の軽薄さで満ちていたが、現場での佇まいや、場を俯瞰しているような冷静な判断から、随分と印象が変わったと思われる。
信号が青になり、車を見送ると、既に視界に捉えている販売店へ向かう。
「まぁ帰るまでがって言うけど、とりあえずお疲れ。実際、大丈夫だった?」
単純な気遣い。それでも、きっと頭の中は昼食のことで満たされていると予想される。
「はい。事前に言われた通り、人によってはトラウマになるような光景であったと思われますが、おそらく、学園の中での経験が、それを上回っていたのかと」
「マジさすが……けど、その学園に入る前までずっと過ごしてた世界で起こるとちょっと感じ方も変わるだろ。何かあったら、マコトかレイカ辺りに話すといいよ」
「……わかりました」
きっとそこで自分を対象から外すことで、気遣いのありがたみに妙な択が発生し、色々と有耶無耶になってしまうのだろう。それこそ、稀崎先輩とレイカさんとの話から得た着想である。
「で、時間は昼ちょい過ぎ。一応、一応聞くんだけど、さっきの場を受けて食欲を失ってしまったとか、ある?」
「特には。普段通り、空腹ではあります」
同室の佐藤さんは朝食をほとんど取らない。それに押された訳ではないが、現在は朝食は少な目という習慣が合っているかもしれないと思えてきた節はある。ちなみに、完全に取らないは不可能である。
「だよな。じゃあさ、学園戻る前にどっかで食ってかね? 奢るから」
そして、想定通りの会話の流れ。先んじて、横断歩道を渡り切る。
「……学園に戻れば、ポイントで食堂が利用できますし、先輩に奢ってもらうことは、私にとってはあまり好ましいものではありませんので、できれば早急に学園へ戻りたいです」
一か月も経たない内に、自分の中の金銭感覚は既に崩壊の危機を抱えており、踏み止まるべく意識しているのが現状ではある。ただ、それ以上に懸案事項となっているのが、先輩との関係性の変化である。
最初は単に不審であったが、今ではそういうものかと諦めに近い感覚で受け入れている。はたして、人は自身の殺害を目的としている人物に対し、食事に誘うものなのか。実際、先輩と食事を共にしたことは複数回あり、感情的には抵抗感はない。
行動から見れば、殺せるものなら殺してみよという姿勢だが、要所で隙は見せず、時折本気で仕掛けようかと集中すると、しっかりと反応し、命乞いをするかのような言動を取る。
この外部委託とやらが学園内において非常に特別な概念であることは間違いなく、通常の依頼に加え、今後もこのように行動を共にすることを考えると、先輩と勝負する機会を得ることとその必然性は、時間経過に従って薄くなっていくだろう。加えて正直な所、既に仲間意識がないと言えば嘘になってしまう。
エネルゲイアの制約とやらにも抵触する自覚はあるが、それも含めて自分であると捉えている私にとっては、打倒すべき相手と学園内におけるパートナーの両立は、長い目で見て困難であるように思えてきている。早い話が、宿敵と仲を深めてしまったということだ。
言うに及ばず、先輩は私と真剣に立ち会う気は全くない。
どこかの時点で、結論を出す必要はあると心に留めておく。
「まぁそういうと思ったさ」
そしてこちらのそんな気など知る訳もなく、男は話を続ける。
「この前話してたカレーなんだけど、実は結構食い付いてたよな? カレー、ライス、チキンカツ、キャベツの黄金比について」
「……確かに、興味は持っています」
先輩だけではなく、レイカさんや稀崎先輩、特に学園の外へもう一年以上出ていないという小林先輩は顕著であったが、学園内で手に入らない数少ない物の一つに、一部有名店の料理が挙げられるとのこと。特に、B級グルメ路線の代物は、食事関連の区画として新設されることもほとんどないと聞く。件のカレーはそれに該当する。
「しかし、その店はここから大分離れています」
最寄りの店舗であっても移動時間は一時間を超えるだろう。現在地は区ではなく学園の門も近い市。口に出さずとも、都民は田舎と捉えている領域内である。
「情弱だな、中原」
先輩は何故か勝ち誇り、スマートフォンをこちらへ向けてくる。しかし、それは無理もないことだとすぐに悟る。
「……」
今年二店目の新店舗が先週末からオープンしている。場所はおそらく、ここから30分以内で到着できるであろう。加えて、今週中ならゆで卵のトッピングが無料なのに加え、次回の来店時に使える並盛り無料券まで付いてくるという、中々に強気なオープニングイベントが催されていた。
「……わかりました。付き合わせていただきます」
天秤は、呆気なくカレーに傾いた。
「ナイス。多分水曜なら混んでないだろうし、混んでても回転早めだからすぐ食える。とっととバイクを回収して向かおう」
一時間前とは別人な楽観さに呆れながら地図アプリを起動している先輩を追い越して歩く。
「……」
販売店の敷地前、視界の奥は既にガレージを捉えていたが、先輩のバイクに寄りかかるようにしてスマートフォンを弄っている女性の姿が確認できる。そしてその顔には見覚えがある。
「先輩。あれは、穂村先輩でしょうか?」
普段のシンプルな軽装ではなく、肌の露出も少ないため、まるで別人に見える。
「えっ? げっ……何故に……」
同様にスマートフォンを操作していた先輩が固まる。全く以て歓迎していないことは、表情からも明らかだった。
「この場で戦闘になった場合、被害よりも情報漏洩の方が問題となりそうですが」
決めつけるには集計期間が足りないように感じられるが、現時点における学生会が選ぶ最も評判の悪い人物、それが彼女だった。主な理由は、素行不良。
「あー、いや……さすがにその心配はないんだけど、うーん……当面の間、直接顔を合わせることはないと思ってたんだけどなぁ……まぁ、話を聞いたらすぐに退散しよう」
「……」
よく見る諦めたという様子で、先輩は広い駐車場スペースを早足で行く。この男が他者から責められる場面に立ち会う機会はそれなりの数に及ぶが、意外にも火の粉が飛んできた例はほとんどない。加えて、私自身、彼女から目を付けられている自覚もない。
穂村先輩が顔を上げると、こちらの接近に気付いた様子。
「微妙に久しぶり。今年度、あけましておめでとう、またよろしく、ってことで、何かあった? 直で来られると心臓に悪いんだけど……」
「よろしくする訳ないでしょ。何? その子が欧陽の代わりなの? もう連れ出すなんて、どんなヤバい能力なのよ」
落ち着いた、呆れたような口調。おーやん、とは、先程鳴海さんも言っていた方と同一人物だろうか。
「……」
その前に間違いないのは、彼女は穂村先輩ではない。内容も含めて喋り方が決定的に違う。顔は同じというレベルで似ているが別人である。
「あぁ、紹介する。今年度第一号、期待の新戦力、中原だ。あれ? 中原って、ナギと話したことあったっけ?」
「はい、食堂と屋台で何度か顔を合わせたことがあります。言葉を交わしたのは数回もないと思いますが」
この時点で疑問は解ける。
「ナギの双子の姉、穂村イチル。昨年度末から、学園の外に出てる。学生会所属じゃないけど、まぁ一応先輩だな」
「一年の中原です。よろしくお願いします」
「えぇ、よろしく。それで、そっちは無事に終わったの?」
「無事の定義によるけど、まぁ滞りなく。で、ちょっと今滅茶苦茶急いでて、後で電話する、とかじゃ駄目?」
「そっちはそれでよくても、こっちは困るの。聞かれる場合だってあるでしょ」
「いやいや、聞かれて困る話をするのは止めようぜ……」
「いいから。腹黒の副会長様相手でも、直接顔を見て話した方が伝わりやすいもんなのよ。とにかく、今日みたいなのは全部こっちに回ってくるように、もう少し強く根回しをして」
やはり先輩が女性に責められる時間だった。今回もいつも通り、少なくとも今の私とは直接関係のない話が続くと思われる。
「してるよぉ……」
「だからもっと強くって言ってるの。裏で糸引いた張本人なんだから、せめてもう少し位動き易くしてもらわないと、ずっとこの……び……それは別に……それはそれでいいんだけど」
「まぁわかるよ苦労してんのは、ホントに……でもなぁ……だってお前ら、学園にも国にも超絶に嫌われてるやん……お前らをいびり散らすことだけは連携しそうな勢いだし」
学園にも国にも嫌われたらどう考えても生きていけないように思われるが、実際彼女は生きてここにいるので、そういう訳でもないのかもしれない。
「そうなのよもう……なのにアイツらは更に面倒な問題を……っ……いいからお願い。そうしてくれたら、私ももう少し強く、太刀川とか稀崎にちゃんと報告入れるよう絞めとくから」
「そうだよ、お前らマジちゃんと報告しろよ……あー、後さぁ、本当は聞きたくないんだけど、ヒカリ、皆と最低限やれてる?」
「ヒカリ? 何、新幹線?」
「はぁ? 欧陽だよっ! 何で下の名前知らねぇんだよっ! もう俺ら二年だぞ……」
「ヒカリって……うわ超名前負け……ご両親の希望とは逆方向へ進んじゃったのね……うん、その情報は純粋にありがと。今度カゲって呼んでみる」
「止めろ。ろくなことにならんから。で、どうなんだ?」
ヒカリ、オーヤンちゃん、つまり女性か。小林先輩に聞いた所、確かに学生会は女性が多いものの、学外へ出ているメンバーには男性もいるのかもしれない。それでも、既知な先輩の交友関係で男性に該当するのは、斑鳩先輩と常室先輩の二名しか思い浮かばない。
いずれにせよ、欧陽先輩が普通枠の人物でないことは察しが付く。
「上手くやれてる訳ないでしょ……それこそ、ナギはどうなの? あの子、周りとどう?」
「上手くやれてる訳ないだろ……今朝もキレられたし、碓氷さん以外には制御不能だ。より正確に言えば、碓氷さんでも手を焼いてる」
どうやら、両者は苦労人という繋がりを持っているらしい。
「あの女……どうにか縁を切らせたいのに……」
「いやちょっと待った、止めよう……俺らが話しても、現状の辛い部分を自覚するだけだ……わかった。内閣府の方に、ご機嫌伺いはするから、そっちも報告頼む。それこそ、報告しっかり上げてもらわないと、外部委託だって任せられんだろ」
「はぁ……わかった、止める。もう、やっぱ素直に待機しときゃよかった……」
「あ、でも最後に。一か月位の間で、何か進んだ?」
「……そうね。まだ準備の準備って段階だと思う。どう考えても絶対勝てないのに、何がしたいんだか。今済ませてきたのも、それに関連してる。気付いてるでしょ?」
「そりゃまぁ。でも、準備の準備に入ったなら、何かしらの方法が見つかったのか……ま、頑張って。俺は学園内で手一杯。主人公にも、そう伝えて」
「それこそ、伝える訳ないでしょ……ただでさえ抱え込むんだから」
彼女らが学園の外へ出ている理由。先程の能力者が言っていたこと。やはり現状では、自分と関わりのある話ではなさそうだ。
「あ、こっちも最後に。一人、新入生でギリギリになっちゃった女の子いたでしょ? 大丈夫だった?」
「っ……」
と思った矢先、関わりがありそうな話が耳に入る。
「あぁ、それ中原だよ。で、大丈夫?」
「はい。大丈夫の定義によりますが、大丈夫かと」
あまり考えず、反射的に言葉を返してしまった。
「へぇ、中原さんだったんだ……しかも、新しいパートナー。もしかしたら貴女、欧陽と縁があるのかもね」
言葉の意味を掴みかねる。私がエネルゲイアを得た際に関わった人間の中には、同年代の女性はいなかったはずだが。
「それはさすがにこじつけだろ。とにかく、前にも言った通り、学園の外は安全だけど危険だ。引き続き、命を大事にって皆に伝えて」
「逆に、学園の中は危険だけど安全。だから自分は無茶をする。一応、伝えておくわ。じゃ、話は終わりね。どうせ、のんびり昼食を楽しんでから戻るつもりなんでしょ?」
「当然だろ。そっちも、抜くとこは抜かんと。後……余計かもしれないけどロスタイムで一ついい?」
「何?」
スマートフォンに視線を落とした穂村先輩が、顔を上げる。
「やってることの大変さはしょうがないとして。お前ちゃんと食ってないだろ? セクハラじゃなくて、少し痩せたし。とりあえず、現ナマはヤバいけど、食料なら多分黙認してくれると思うから、メッセくれれば、何かのついでに渡しに行くよ。米とか。っていうか炊飯器ある?」
「……………………くっ、わかった。ありがと」
苦虫を嚙み潰した、とはこのことか、きっと強い葛藤があったのだろう。ただ、食事は全てにおける基本であり、営みであることは自明で、彼女の決断に対し、後ろ向きな感想は一切ない。
「じゃ、先におまけ。これ」
「えっ?」
先輩のポケットから、羊羹が二つ。
「一つはおやつ。もう一つはヒカリに渡しといて」
「はっ? 普通に嫌なんだけど」
妹の方もそうだったかもしれないが、表情の起伏が豊かなのは、血脈かもしれない。
「何でだよっ! 気持ちよく締めさせろよっ! 投げつけときゃいいから」
「わかったわよ。けど、食べ物投げる訳ないでしょ」
仕方ないといった様子で、穂村先輩は羊羹を受け取る。
「よし。こっちは昼飯だな」
「……待って」
初見からは大分柔らかく感じられていた穂村先輩の声色が、再び最初の硬さに戻る。
「えっ? 何? まぁ、炊飯器もイケると思うけど」
「――そうじゃなくて」
彼女は一度言葉を止め、溜息を一つ吐いた。
「早く学園に戻りなさい」
「――っ!」
穂村先輩の姿が消える。それは何の前触れもなく、ポータルによるワープとは異なる現象に見えた。
「何だ? 思い当たる節がないけど……」
目の前で起きたことには何の反応も示さず、先輩は訝し気にスマートフォンをポケットから出す。
「先輩、今のがエネルゲイアですか?」
「いや、あれはアイテムの方。ちなみにアイツ専用で、えっと、出発と帰還場所が固定の一日一往復。指輪だったけど、今は体内に仕込んでるはず。あれ? レイカに繋がらない……」
それはまた強力なエイドスだ。加えて、彼女は学生会所属ではないと聞いたが、学生会に入らなくても、エイドスを手に入れる機会は与えられるということか。おそらく彼女は例外なのだろう。
ただ、それは置いて。
「……先輩、学園に戻りましょう」
去り際の表情から、冗談の類であるとは思えない。
「だな。ワンチャン、未だ見ぬ不測の事態新シリーズ開幕まであり得る。ただのいたずらジャミングであってほしい」
渡されたヘルメットを被り、すぐに出発する。行きよりもスピードを出しているとは言っても、もはや自分にとってこの速さでは急いでいるとは感じられない。
所々、明らかに法定速度を犯していると思われる直線もあったが、この辺りは都心と比べて取り締まりが緩いのかもしれない。先輩は何やら考え事をしている様子だったが、門へと続く林道へ入って暫く、ある程度の区切りが付いたのか、こちらを軽く振り返り、すぐに視線を前へと戻す。
「とりあえず状況確認と情報収集ってことで。まぁレイカとマコトがいるからある程度は大丈夫だろうけど、ジャミングを使ってまで只のいたずらはコスパが崩壊してるから、何かしらの事件で確定だとは思う」
「……ジャミングというのは、学園内での通信を妨害、遮断するエネルゲイア、もしくはエイドスの力でしょうか?」
「いや、効果は学園とこっちの世界の通信妨害で、学園内は普通に使える。機械は『ブラックマーケット』っていう区画で買えるんだけど、二時間ちょっとしか効果が続かないのに超絶に高いから、うーん……事実、あんまし意味ないと思うんだけどなぁ……頑張って取り付けたんだろうけど」
「……」
何故そんな害悪でしかない代物が一般販売されているのかは只々不可解だが、文句を言っても無益であることは確定的と見た。
「っ……先輩」
「あぁ、職員の皆さんが避難してるってことは……」
門を視界に捉えた所で、常に学生会館の駐車スペースで目にするマイクロバスの姿が。運転席に座る杉浦教官は、既にこちらに気付いている。先輩は門の大分手前でバイクを停め、ヘルメットを脱いで跳び、私もそれに倣う。
何故か左ハンドルのマイクロバス、その運転席の自動窓がゆっくりと下がり、杉浦教官は普段と変わらぬ厳しい顔つきでこちらを見下ろしている。
「杉浦教官、すいません。教職員の方々はまだ学園区画に残っていますか?」
「いないが、今一度確認しておけ。私はこのまま残りの全員を送り、直帰する。詳細の報告は気が向いたらで構わん」
「えっ? と、いうことは……」
「太刀川、おそい。チエさんにとめられなきゃ、あたし、ぜんいん、ぶとばしてたよ」
弁髪の初老男性、武道担当教諭の李教官が、いつの間にかバスから降りて先輩に詰め寄っている。今のは理解できたが、彼の日本語の発音は、聞き取れるか否かの閾値周辺を行き来しているレベルで、かなりの頻度で何を言っているのかわからない。
「李ぃさん、そこはついうっかりでやっちゃってよかったのに……」
「……李先生、すぐに発車するので、早く乗って下さい」
「「……」」
私は範囲外なようだが、謎の圧力を受けたと思われる男二人は、口を噤んで指示通りにする。
「さて、今年はまた随分と早いが……観測史上初という言葉は、存外耳にするものだな……」
バスのエンジンをかけ、教官は誰に聞かせるでもなく呟くように、言葉を続ける。
「――クーデターだ」