トワイライト・エネルゲイア   作:サムラビ

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トワイライト・エネルゲイア

「…………っ!」

 

 

 

 扉の内側へ入る。

 

 暗い。

 

 けれど眩しい。

 

 

 そして滾る。

 

 

 続けて、広がる全てが紅い。

 

 

「――――――――」

 

 

 身体が熱い。それでも不快感には遠い。むしろこれは爽快感に等しい。

 

 

「……夕焼け……」

「違う、黄昏だ」

 

 指摘を受ける。確かに夕日の明るさはない。先程感じた広大な紅さは何処へ消えたのか、夕焼けと夜の狭間、それを表現するように地平線の真ん中が僅かに夕日の色を残している。だがその紅が強制的に意識へ介入してくるように、視界の中で強調される。

 

 だから、暗いのに明るく、青黒いのに紅い。

 

 やっと周囲の様子へと処理が行き着く。

 

 遊具のない公園か、それとも単なる森林の開けた場所か。すぐに出てこないが、最近耳にした話と重なるような風景。いつの間にか、後方にあるはずの扉は消えている。

 

 気付くと、穂村先輩は既にゆっくりと前へ歩き、30メートル程の距離を開けて、対峙するように振り返る。そこに並ぶのは二人の人影。

 

「中原、大丈夫か?」

「先輩…………はい、問題ありません」

 

 声で先輩だとわかるが、どうにも表情がはっきりしない。明るいのに暗い。

 

「黄昏。誰ソ彼————そこにいるあなたは誰ですか? って尋ねるような明るさと暗さを表現したかったらしい。気付かなかったか? ちなみに俺は気付かなかったんだけど、学園も含めて、どの区画にも、黄昏時はないんだ。朝も昼も夜も夕焼けもある。でもこの時間帯はないんだ」

 

「暗示ってヤツが掛けられてんのさ。明日からは気にしてればちっとはマシになるぜ。明日もお外に出られれば、の話だけどなぁ」

 

 穂村先輩のシルエット。表情が見えなくても、どんな顔をしてるかはわかる。

 

「先輩、この……エネルゲイアの、高まりは……」

 

 今なら気付かれずに穂村先輩の首を落とせる。そんな感覚に、自信に近い確信が持てる。冷静な思考の中にある抑え難い渇きと猛り。

 

「いい顔してんだろーなぁおい。黒セーラー、てめぇは見込みがあると思ってたんだ。何で学園に黄昏がねぇか、わかんだろ? こう……力が……漏れ出すのさ」

 

「っ……」

 

 唐突な破裂音。

 

 Y字バランスのように真っ直ぐ左脚を伸ばした穂村先輩の足先が弾けた。エネルゲイアで靴を圧壊させたのだろう。

 

「……」

 

 表情の見えない、先輩へ視線を戻す。

 

 

 

「トワイライトエネルゲイア――――まぁ大した意味はないし、特に気にしなくていい」

 

 

 

「あ……」

 

 そうだった。風景と身体能力が急激に向上する感覚に引っ張られていたが、本来の目的を思い出す。どうやら、今はあまり先輩の方へ意識を向けない方がよさそうだった。

 

 ただ、意識を前へ向け直すと、瞬間的にまた新たな気付きを得てしまう。

 

「えっ? な…………麻月、さん?」

 

 あのスタイルと長い髪、顔がよく見えなくても、確信を持つことができた。

 

「あれ? 知り合いだった?」

「佐藤さんの元ルームメイトなので、何度か食事を……」

 

 まさか、数少ない知り合いがクーデターの首謀者だったとは。

 

 麻月カエデ。その美貌とスタイルの良さにより、私から見ても非常に目立つ学生だったが、中旬頃に髪色が薄桃色へ変化し、それも加えて話題に上げている学生を何度か目にしたことはあった。人のことは言えないが、口数は少なく、落ち着いていて、一見して冷たいように感じさせることも予想されるが、佐藤さんを心配して度々寮を訪れていたのもあり、個人的には前向きな印象を抱いていた。そして彼女の所属する部は。

 

「二人……つまり園芸部の……」

「そう。しかも、速水君の方が首謀者らしい」

 

 つまり、佐々木君という戯れに近い予想は、当たらずとも遠からずであったようだ。

 

「ですが……何故、二人が……」

 

 園芸部の活動は時折目にしていた。悪い意味ではなく、その容姿が対照的な二人は、こちらから声を掛けるのが憚られるような、そんな幸福な空気感の中で野菜の世話をしていたと記憶している。二人の服装はその独特な暗さにより細かくはわからないが、麻月さんの方は普段と同じ指定制服姿だと思われる。

 

「おいおい今更んなこと気にしてんのかよ。てめぇらが気に食わねぇからぶっ殺す。それで十分だろ? 他人が感じる不満なんざ、聞いてみりゃどーでもいいことばかりだぜ」

 

「場の根幹を揺るがすなって……というか、どうにも速水君は冷静に言葉を発せる状態じゃないらしい。何か、トランス状態入ってるとか」

 

「……」

 

 言葉の通り、先程からそのシルエットに動きはない。

 

 ただそれ以上に確かなのは、穂村先輩が言ったように、クーデターの理由とやらに個人的な興味が薄いことだった。

 

 そもそも出した被害の大半は無手勝流に反抗した同学年、そしてメンバーのほぼ全員が実質レイカさん単独で退けられた。加えて、学生会、少なくとも先輩にとって、クーデターと呼称される小規模な本反抗作戦が大した脅威になっていないのは明白だと思われた。

 

 それらの雑感も、急速に興味を失わせる材料となっていた。ただそれ以上に、自分の中での本来の目的である思い、その熱の高まりが全てを上書きしているようだ。少なくとも俯瞰した姿勢で自分を見ていないと、その情念のような湿った感情に、全身を支配されてしまうような危機感を覚えた。

 

「――あいわかった一旦、止まれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 

「――っ!」

 

 突然、幼い声が圧倒的な音量で場を揺らし、その流れを止める。

 

 対峙する我々のちょうど中間地点に現れたのは、着物姿の幼女。ただ着物が幼女を包んでいると表現した方が感覚としては近く、著しい採寸の不手際でもあったのか、余った大量の裾を地面に引き摺る形となっている。

 

「んだよロリ婆ぁがよ」

「おいおい、せめて合法ロリにしよ」

 

「黙れぃっ! 小童に裸足ぃっ! 貴様らは暫し口を開くなぁっ! 威厳が保てんだろーがぁっ!」

 

 怒声を放って宙に浮きあがった幼女は、向かって右方へと位置を変え、空中から文字通りこちらを見下ろす。

 

「我こそがっ! そう、我こそがっ! この天津神学園の主、天津神キキョウじゃっ! 子ども達よ、よくぞ参った。この黄昏、ゆるりと楽しむがよいぞ」

 

「あん? 名前変わってねぇか?」

 

「苗字は元々ないから別にイイんじゃね。本名はねねだけど」

 

「黙れクソガキがぁっ! 何故桐島は来んっ! 場を締められる者を最低一人は連れて来いと言っとるだろぉがっ! 儂は大きい声は出しとぉないんじゃあっ!」

 

「さーせん、人命救助で」

 

「その人命を危機へ追いやったのは貴様じゃろぉが小童ぁっ! いやそんなことはどぉでもよいわぁっ! 建物を破壊して海へ投げ捨てるなど言語道断じゃっ! 学園の守り人、その筆頭である貴様が何をしておるかぁっ!」

 

「いやだから、無関係の人に迷惑掛かるのが一番良くないでしょ。戦いたいヤツは好きに戦えって、いつも言ってるじゃないっすか、ねねさん」

 

「っ! くっ………………こやつ……部屋の扉の隙間から活きのいい毒蛇を大量に放ってやろうかのぉ……」

 

「それもう嫌がらせのライン飛び越えてるから……」

 

「……」

 

 一つわかったことは、確かに学園の主としての威厳とやらは感じられないということだ。

 

「ったく、話が進まねぇ。こっちは折角気持ちよくなってんだ。言いたいことあんならさっさと済ませろよチビ理事長」

 

 右足だけになった靴を脱がし、後方へ放り投げながら、穂村先輩はうんざりした様子でそう言った。

 

「ふん、面倒なことを言わん分、うぬの方が幾分ましかもしれぬ。さて、速水アオイ、麻月カエデ、中原サヤ、まずはそなたらの疑問に答えよう。こちらの都合で中座させ、呼び出したのじゃ。学園のことならば、何でも答えようぞ?」

 

 気を取り直すように、理事長であるらしい幼女は短い両腕を左右に広げる。

 

「……」

 

 前方へ視線を戻す。理事長の方へ目を向けているのは穂村先輩だけで、左の二人は依然としてこちら、正しくは先輩の方を睨んでいる。

 

「……僕は……学生会を、倒す……」

 

「何もないわ」

 

「――えっ?」

 

 やっと声が聞けた二人だったが、一方は苦々しい呪詛のように、もう一方は只々事務的だった。その返しが予想外だったのか、表情を固まらせた理事長は、やや縋るように目をこちらへ向ける。ただ――

 

「私もこの場では特に」

「――」

 

 ――質問がないという意味では、私も二人と同様だった。

 

「それはさすがに不憫、じゃなくて、中原は、そこそこあるだろ? 疑問。ここは何なのかとか、この学園はそもそも何とか……いや、あんま気にしてない、か……」

 

「はい」

 

 今ので確定した。先輩に声を掛けられるだけで、身体の芯が昂る。両脚は大木のようにしっかりと地面を掴んでいるようで、それなのに描く動きの軌道は今までになく研ぎ澄まされているように感じられる。非常に調子がいい。

 

「…………はっ、うむ…………無いならば……うむ、まぁよい。では説明してやろう……」

 

「……はぁ……もういいでしょう? 一か月も過ごせば最低限の推測はできる。それと併せれば、貴女は黄昏の力を凝縮したこの場所に籠って学園を維持してる。この学園は貴女のエネルゲイア、もしくは貴女を含めた複数の人間のエネルゲイアによって形成されてる」

 

「うわ頭良っ」

 

 先輩の呟きなど意に介さず、麻月さんはつまらなそうに言葉を続ける。

 

「細かいことは沢山ありそう、でもどうでもいい。エネルゲイアの力を隠し、且つそれを管理したい国と貴女達は利害関係で結ばれてる。貴女の目的は多分、エネルゲイアでなければ叶えられない何か。エネルゲイアの効果で身体の時間を止めて、目的を達成できるエネルゲイアが生まれるのを、大昔から待ってる。だから、言葉遣いもロールプレイだけでなく、単に歪」

 

「何だお前、只の根暗の虫嫌いかと思ってたぜ」

 

「……」

 

 穂村先輩の軽口、彼女は全く反応しない。

 

「麻月さん? それで、どうしたい? 学生会を倒したいって言ってる速水君は、何かバーサーカー状態だけど、あれだけ話せるんだから、無理ゲーだってわかってると思うんだけど」

 

「私は、アオイが傷付くのを許せないだけ。それに、貴方と中原さんをこの場で倒すことは十分可能だと思ってるわ」

 

「やっぱそっち系か……言っとくけど、俺と中原は四天王最弱だ。ここで俺らを倒せても、どうせヤツらには敵わんぞ。しかもそのラスボスクラスの連中は、その気になって手を組んだら宇宙侵略も十分現実的なレベルだ。そこの裸足の先輩に聞かなかった?」

 

「……」

 

 小物な台詞を強気に吐く先輩。

 

「知らない。一回も話したことない」

 

「あ、そっすか……何か、三人並んでるけど……その、まとまりが……で、ねねさん? この後はどういう流れ?」

 

 やや放心状態の理事長へ、今度は先輩が助け舟を出す。

 

「ぬっ、まぁよい……何より、まだ時期尚早というものよ。青い春と書いて青春じゃっ! 気に食わん者同士、その武力を以て己が望みを押し通せばよかろう。故に、喧嘩じゃっ! 殺し合いでも構わん。但しっ! 小童と裸足はエネルゲイア禁止じゃっ! 一年遅れの相手など、それで事足りる。この場を穴だらけにされたら敵わん」

 

「――っしっ!」

「っと、だから早いてっ」

 

「はあぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「っ……」

 

 穂村先輩のロケットのような飛び膝蹴りを先輩は一瞬で身を伏せてやり過ごすと、残りの二人も既に動き出している。三人共、照準は明らかに先輩。

 

「中原、適材適所、俺は速水君を教育する。ヤンデレ月さんは任せた」

 

「はい」

 

 言っていることの大半はわからないが、横合いから一気に加速、イメージ通り、瞬時に麻月さんへ迫り、姿勢を低くして右の中段突きを放つ。

 

「――っ!」

 

 突如金属のような壁が視界を遮る。接近を察知した麻月さんが左手の指を不自然に動かしていたのが見えたが、迷わず腕を振り切る。

 

「っ……」

 

 確かな手応えと同時に金属板を貫通、その先の麻月さんの腹部を捉えたかに思えたが、既に後方へ跳び退いているのを確認。素早く腕を引き抜いて左手で歪な楕円形をした金属を握り、横一文字の型で着地点へ投擲し、左方から追撃へ駆ける。とにかく身体が軽い。

 

「……っ」

 

 匂い。

 

 それを違和感と捉えたと同時に左へ低く跳ぶ。

 

「なっ!」

 

 突然の爆発に目を剝く。続け様に爆風と粉塵を裂いて飛び掛かる複数の杭を同様の動きで躱すと、既に接近していた麻月さんの鋭い中段蹴りが、姿勢を低く保っていたことにより頭部左頬辺りへと迫る。

 

「くっ」

 

 間に合わないと判断して両腕で受け、両足で軽く地面を蹴って衝撃を逃がすと、結果的に倒れる姿勢になった所へ追撃の膝蹴り。

 

 想定内の動きに反撃を選択、右手を着いて素早く態勢を整えると、既に刃を生やしていた刀を、蹴りを回避しつつ逆袈裟に振る。

 

「「……」」

 

 ここで初めて、近距離において視線を交わす。小太刀の一撃は、彼女の左手に握られた黒色の石片によって受け止められていた。数秒の鍔迫り合いのようなやり取りを経て、互いに跳び退いて距離を取る。

 

 純粋な近接戦闘では明らかに分がある。ただ相手のエネルゲイアが強力且つ不明点が多い。下段から八相へ構え直し、癖の抜けない身体へ今一度伝達。

 

 もはや人の身を離れたこの肉体に、一月前までの間に練り上げた剣術は最適に遠い。加えて、相手も人外の域であるならばもはや足枷にもなり得る。しかし、理が重なる部分は大いにある。つまり、現在の自分が振るう上で強い剣技を極めていく。複雑な話ではない。

 

「…………エフ……小文字の……鉄?」

 

 最初に捉えた彼女の指の動き。指でなぞられた線には、ひこうき雲のような光の軌跡が薄く刻まれていたような気がする。書いていたのはおそらく、アルファベット。

 

「……」

 

 匂いの後の爆発、放たれた金属杭、元素記号をモチーフにして現象を引き起こすエネルゲイア。それが有力な仮説だった。

 

「……」

 

 科学の成績に問題はないが、科目への興味は希薄。そのためもしこの仮説が当たっていたとしても、対処に繋がる程の知識は持っていない。中学の時分、勉強は将来の役に立つと強調していた初老教員の言葉は、どうやら真実であったようだ。

 

 こちらの様子を窺いながらも、麻月さんはやや距離を離した三者の方へ目を向ける。先輩が言ったように、この空間では人の表情は読み取れず、それでも見失う程の視界の悪さではない。身体能力が強化されている自分達には尚更な話だった。

 

 一対二の攻防は先輩の言っていた教育とやらのせいで、歪な様相を呈してた。

 

 先輩は一方の攻撃を紙一重で躱し、それはまるで華麗な演武を見ているような動きの軽やかさと派手さが見て取れる。ただもう一方に対しては、相手の踏み込みを急接近で阻害し、軽い突きと蹴りで小突くようにあしらう、私自身も何度かされた不快且つある意味で有効な戦術に終始していた。正直、先輩と穂村先輩の戦いに、おまけが付いていると言われても言葉を返しづらい光景ではあった。

 

「……外道……」

「っ……」

 

 私に対しては一切の感情が見られなかった麻月さんから、表情を見なくてもわかる明らかな憤怒が全身から湧き出ている。

 

「はぁっ!」

 

 そして予想通り、対峙する私を無視し、一対二へ割って入っていく後ろ姿に、やや集中が乱れる。加えて、それを察知した先輩の胸中は察する必要もないだろう。

 

「――えっ! ちょっ、何? 痛って、中原っ! 中原さぁん! 三一は絵的にイジメだからっ! おいナギも、長く楽しみたいんだったらもうちょっとペース」

 

 近接戦闘において先輩が最も秀でている点、それは防御技術、特に多数を相手にした際のうっとおしいまでの粘りである。

 

 暫く眺めていたが、麻月さんが先輩に何か文句を言いながら打撃を放っているようなので、付かず離れずの距離を保ってみる。

 

「……アオイのエネルゲイアは『自分で育てた作物に知識、感情、思想を込める』力。アオイは優しいから、辛い思いをしている人を放っておけない……だからっ! その気持ちをどんどん育てて、無自覚に膨らませていった。中旬が過ぎる頃にはもう、囚われていたわ……」

 

「いやそこは止めるか相談しようぜ……」

 

「だから言ってんだろーがよっ! てめぇがレジスタンスって呼んでる連中の方が、話も聞いてくれて、幾分マシに映ったんじゃねーのか?」

 

「くっ……事実としてそうだから全く言い返せん……にしても……あー、なるほど……苗から育てれば一週間以内に食えるのもあるのか。神秘だな……」

 

 逃げの一手を打ちつつ、スマートフォンで高速検索した先輩は、些細な疑問を秒で解決した様子。

 

「それだけではないぞ。植えている箇所の土壌は特に純度を高めておる故な」

 

「余計なことを……っていうか毎度だけど、後ろ向きなヤツが力を得ると、途端に世界を壊そうとし出すんだよなぁ……」

 

「――っ……」

 

 連携を試みた訳ではなかったが、仕方なく四人へ割って入った動きに合わせ、先輩は最も厄介なナギ先輩の逆を付いて振り切り、私を遮蔽にして麻月さんの追撃から逃れると、明確にターゲットを絞って動き出す。

 

「これは……」

 

 タイミングとしては麻月さんへの好機に違いはなかったが、突然の接近に回避を選択した彼女の動きを見極めると同時、先輩へと視線が吸い寄せられる。

 

 流派を聞けばパルクールと答えたように、癖のない自然な動きを常とする先輩の動き、その性質が瞬時に変容する。

 

「金剛、八式?」

 

 知識はないため、細かい部分はわからないが、少なくとも明確な武術に類する足運び、ただ、拳は握らずに手を開き、相手の胸部へ流れるように突き出し、動きを止める。

 

 

「うん? あ………………あ? うーん…………うん? え……」

 

 

 他者の目を釘付けにするような流麗な動き、それを全て無に帰す間抜けな声。胸部へ当てた左手を緩慢に開閉させながら、男は既に10秒程、首を傾げ続けている。

 

 

「っ……っ……っ……ぴ」

 

 

 場に相応しくない半濁音を受け、改めて場の時間が停止を余儀なくされる。

 

「…………あ……っ! 触るなぁぁっ!」

「うぉっ」

 

 最も早く不可視の拘束を解いた麻月さんが、怒声と共に先輩へ蹴りを放つが、人外の危機察知を誇る男は月面宙返りで一同から距離を取る。

 

 

「ぴ……ぴ……ぱ、あ……ああぁぁぁぁぁぁぁっ! 太刀川先輩っ! どこ触ってっ! いや揉まれ……あ……あ、あれ……僕…………あ…………」

 

 

 理事長とはまた別の方向性で幼い声、絶叫からの放心状態に、再び動きを止められてしまう。

 

 

「――――ちょっと皆さん……一回、一回待ってもらっていいっすか……」

 

 

 この一か月で何度か目にしたポーズ。それは、男が何か下らない言い訳をする時に決まってする類のものだ。

 

 

 

「もしかしてなんだけど……この場にいる、男って……………………俺だけ?」

 

 

 

「はい」

「阿呆か? そんなの決まっておろぉ、儂はおなごじゃ」

「あぁん? こいつ何言ってんだ?」

「…………」

 

 いずれにせよ、特に気に留めていなかった先輩の不可解な言動の一つに、明確な答えが出た。

 

「先輩。速水さんは最初から女性ですし、それに加えて、この二人は寮では同室です」

「何……だと…………つまり、姉ショタではなく、只の………………百合?」

 

 

 先輩は震える自身の左手をゆっくりと握り込む。

 

 

「……っていうか、めっちゃ……………………着痩せするんすね?」

「あ……はい……割と」

 

 

 かなりの距離があるが、双方見つめ合っているように見えなくもない。

 

「殺す……殺してやる」

 

「――待てっ! シン、気付かねぇか?」

 

「「「っ……」」」

 

 

 

 先輩への殺意を顕わにした麻月さんを、何故か穂村先輩が止める。

 

 その不自然さは、後の展開への不安を感じさせるものだった。

 

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