備え付けられた貴重品ボックスにスマートフォンを入れる間際、何の気なしに表示を確認すると、本日は八月の十四日、土曜日の午前7時24分。
「――今日は頑張ろうね、中原さん」
後ろから声を掛けられ、ボックスを閉じて振り返る。
「はい、三条先輩も、よろしくお願いします」
「うん。と言っても、とにかく足を引っ張らないようにしないとなんだけど……」
その高さも含めて、自然と目が吸い寄せられる胸部は、少々きつそうに見えるが、こちらから言及することではないだろう。
「それについては、私も同様です」
自分としても内心での目標は、足手まといにならないことであったため、反射的に言葉を返していた。
「後さぁ……改めてだけど、凄いよね……ここ。まるで、プロの選手になったみたい」
「確かに、ロッカールームと聞いて想像していた空間とは、豪華さという意味で随分とかけ離れてはいるようです」
こちらは女性用とのことだが、最も意外だったのは、そもそもロッカーが存在しなかったことだろうか。
一人分には広過ぎる程に確保された機能的なスペース、重厚感のある木製の仕切り、ローマ字表記の輝くネームプレート、室内の中央にはソファとテーブル、飲み物から軽食まで用意されている。学生会のロッカーも一般の高校離れしているが、ここはまた次元が違う。
とは言っても、用意が済んだのならここに留まり続ける理由はなく、先達の背中に続いてロッカールームを後にする。
事実上、学園の治安維持の一端を担う修行部、その副部長を務める三条先輩とは、顔を合わせることも多い。だが、このような形での同道に至っては、想定外と言わざるを得ない。
「どうやら、我々が最後の到着となってしまったようですね」
「うん。だから、中原さんがいてくれてよかった」
場は変われど、普段と同様におっとりとした雰囲気の三条先輩は、金属製のやや大きい扉のドアノブに手を掛け、押し開く。
「―――――」
ここについては大分既視感がある。
扉の先は、プロ野球中継で何度も目にしたベンチスペースそのものだった。
「――っ、来たわね、二人共」
「あ、桐島さん、おはよう」
例外なく笑顔で迎えてくれるレイカさん。改めてだが、彼女は何を着ても似合う。それが野球のユニフォームであっても。そしてこの場にいる全員が、同じ縦縞のユニフォームと帽子を着用、最初に聞いた際は少し信じられなかったが、話は本当だったらしい。
つまり今日は、皆で野球をする日、ということだ。
「お、中原。今日は頼むぜぇ。一年唯一のスタメンとしての意地を見せてやれ」
「……善処します」
先輩のノリは完全に遊びの時と同様。そのような前向きな雰囲気を、依頼や外部委託でも見せてほしい所だが、既に言っても無駄であることは理解している。
とにかく、場にいる方々へ挨拶をして回る所から始めたい。
「中原。こうして直接顔を合わせるのは、随分と久しぶりになるな。今日はよろしく頼む」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
今言われた通り、通信を介さずにはかなりご無沙汰となる中之島先輩。
ユニフォーム姿でも変わらず、知性と穏やかさに満ち満ちている。ゆっくりと会話をしたことこそないが、学生会の中心を担う人物であることに、疑いはない。無理に欠点を挙げるとすれば、先輩のルームメイトであること位か。
「天王寺先輩、本日はよろしくお願いします」
「活躍は耳にしているぞ、中原。今日も、奮戦に期待させてもらおう」
「はい、ありがとうございます」
この方は不思議と、師と呼べる雰囲気を常にまとっているように感じられる。そして、そのままラグビーのフィールドへ出ても何の遜色もない。
「中原さん、久しぶりです。今日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。あの、常室先輩は、もしかしてリスポーン明けでしょうか?」
気にする者はいないであろうが、場で唯一のふくよかな体格、口調とミスマッチな渋い声は本日も健在な様子。
「はい、つい数時間前に再生されたばかりです。本日はこのような平和的活動に参加させていただけて、非常に光栄です」
四月のクーデターにおいても言えることのようだが、常室先輩は死を顧みずに事へと当たっていく所があり、当人も注意を払っている上で尚、学園生最多の死亡回数を誇るという。その後継者は板場君であるという信憑性の低い噂も、時折耳にはする。
「長い挨拶も、私達で最後かしら。プレッシャーになってしまう……というイメージは全く湧かないわね。今日は期待してるわよ。中原さん」
「だね。サヤなら平気でしょ。頼むよぉ、多分来年はサヤ頼みになるんだからねっ」
「っ、はい。よろしくお願いします」
改めて、足手まといにならないことが第一であると思い直す。
このような催しに直接参加することが意外過ぎる学園最強の二人。阿僧祇、碓氷の両名が自軍に属している現環境は、それだけで不正を行っているような心境にさせられる部分もあるが、敵に回る絶望感と比べれば、全く以て大したことはないと感じられる。
「中原っ、中原っ」
「っ……」
小さな呼び掛けを拾って横を向くと、人数的には広々と使用できるはずのベンチの隅に、見知った同級生が並んでいるのに気付く。各人、いつの間にそのような術を身に付けたのか、ここまで完全に存在感を断っていた。内心で首を傾げながら近付く。
「あの、皆さん、縮こまっているように見えるのですが」
「ようにじゃなくて縮こまってんだって……てか、何で中原はあの面子の中で普通にしてられんの? さすが、左腕がぶっ飛んでも心が折れない化け物……」
「っ……」
その発言を受け、即座に振り返ってあの男の姿を探すが、ベンチの外でレイカさんとキャッチボールを行っているため、仕方なく視線を戻す。
「でも凄いよねぇ……この錚々たるメンバーの中でスタメンとか……さすがに私も化け物って思っちゃうよ……」
トレジャーハンター部の二人もそうだが、その横の板場君、笹森君に、速水さんと能見さんまで皆一様に何故か震えながら肩を寄せ合っている。
「やべぇ……生天王寺先輩、やべぇ……オーラが凄過ぎて……震えが止まらねぇ……」
「あ、あぁ……いや、ホントに、中原さんは凄いよ……さっき、辛うじて挨拶させてもらった時、中原さんのことを褒めてたよ」
「いえ、そんな」
「けど、皆さんやっぱり、野球も凄く上手なんだよね……中原さんって、野球の経験とかあったりするの?」
これまでの四人に比べれば、幾分精神的安定が保たれている様子の速水さん。
「あ、はい。短い期間ではありますが、地元の少年野球に参加していました」
結局、祖父との鍛錬の方が楽しかったため、長くは続かなかったのだが、野球という競技自体は球技の中で最も好きではある。
「あ、あのっ、中原さんっ」
「はい……」
そしてその隣の能見さんが勢い良く立ち上がると、まるで力を送り込むように強く右手を握られる。やや汗ばんだ両手からは、やはり緊張が伝わってくる。
「貴女なら必ずや成し遂げてくれると信じております……我が学年の代表として、どうかよろしくお願いします……」
「……はい、善処します」
成し遂げるという言葉の意味する所は十全に理解できてはいないが、ここはチームの勝利のために尽くすことと解釈しておく。
「――うっし、ぼちぼちだな……っと、こっちはガチガチだな……板場、笹森」
「えっ?」
「あ、は、はい……」
キャッチボールを終えた様子の先輩が戻ってくるが、こちらは緊張とは無縁な空気感で満ちている。
「多分だけど、途中で出番あるから。気持ちだけは作っとけ」
「っ……マ、マジ、ですか?」
「まぁ、ベストを尽くせばいいから。きっとイイ経験になるよ」
軽く肩を叩かれているが、緊張の緩和には繋がっていない様子の男子二人。
「あのっ、太刀川先輩、頑張ってくださいっ」
「うん。死なない程度に頑張るわ」
「っ……副会長、ご武運を……」
「えっ? あぁ、うん。確かに。さすが能見さんだ。初体験のはずなのに、ソウルが理解しているってことだね」
「あ、ありがとうございます……」
「……」
とりあえず、気にしないでおく。
「っ……」
視線をグラウンドの方へ向けると、その上、晴天の青空にホロディスプレイが出現、文字列の傾向から、映し出されているのは両チームのスターティングオーダーだと思われる。
1.太刀川 捕手
2.中之島 遊撃手
3.碓氷 右翼手
4.阿僧祇 中堅手
5.天王寺 一塁手
6.中原 二塁手
7.三条 左翼手
8.常室 三塁手
9.桐島 投手
1.ゴリラ 中堅手
2.サイ 三塁手
3.ゾウ 一塁手
4.クマ 投手
5.シロクマ 捕手
6.トラ 遊撃手
7.カバ 二塁手
8.ワニ 右翼手
9.ハイエナ 左翼手
「あれ? キツネとタヌキスタメン落ちしてんじゃん」
「正に重量打線といったラインナップだな……昨年の敗北が、彼らを本気にさせたのかもしれない」
あまり状況が呑み込めない中、先輩二人は冷静に分析を始めている様子。
「――まもなく開始される」
その声に、一瞬で場の全員が綺麗に並んで着席する。そこに突然現れたとしか思えないタイミングで、グラウンドを背に仁王立ちする杉浦監督が、メンバー全員を見下ろしている。
「初参加の者もいるため、一応言っておく。今から行われるのは紛れもなく野球ではあるが、通常のそれではない。各員、自分の身は自分で守り、その上で最善を尽くし、必ず勝利しろ。以上だ」
「「「「「「「「―――――はいっ!」」」」」」」」
統制された返事が鋭く場に響くと、それを合図に何処からともなくサイレンが鳴る。どうやら、高校野球全国大会を模した演出のようだが、まだプレイボールには早い。
「おっし、先攻めだけど、一旦円陣組も」
その声に従い、先輩を先頭に全員がグラウンドへ出る。
「なっ……広い……」
そのエネルゲイアからか、野球には造詣の深い板場君が、感嘆の声を漏らす。どうやら、瞬時に場の環境が書き換えられた様子。
「サイズは今年も10倍でよいのか?」
「はい。バックスクリーンまでの距離は1200メートル程になります」
「そこについても、こっちは何も言えないんすよねぇ……」
監督の言葉、男子三人の今の会話も含め、通常のそれではないことが早くも理解できた。
「さて、今日勝てば学園側の二連勝。アニマルズのオーダーからは、背水の陣のような強い決意が窺えるわね」
「確かに、とにかくパワーがありそうなので固めてきた感じね。しかもクマとシロクマって、つまりはヒグマとホッキョクグマのことなのかしら? アニクロだと、スキン違いの同キャラなんだけど」
「そこら辺からも、今回はなりふり構わずなんだろうね」
レイカさん、阿僧祇先輩、碓氷先輩、この三人が並んで話しているのを、初めて見たかもしれない。そしてどうやら、三人と穂村姉妹はほぼ同じ身長のようだ。
「心配無用な方が半分を占めますが、どうか皆さん、怪我には気を付けて」
「そうだよね……私も、最善を尽くして頑張りますっ」
「よし……勝とう。で、一年生はまぁ経験だと思って、ベンチ入りの人は生で味わってもらうことが目的で、俺が勝手に捻じ込んじゃった感じだから、女子組は特に、リラックスして観戦してもろて」
例によって流れのままに。自分が何もしなくても場が進んでいくのは非常に助かる。
我々一年生組は見てればよいと念を押された上で、天王寺先輩の号令に合わせての豪快な大声で円陣は締め括られる。確かに、これからチームで戦う空気は、しっかりと場に装填された。
『一番……キャッチャー、太刀川……クン……』
スピーカーのようなものは見当たらないが、変わらぬ方向性による演出で、ゲームがスタートする。どうやら、両チームの整列などはないらしい。
そしてそれだけはなく、反対の一塁側ベンチは無人であり、いつの間にか遠いマウンドには精巧な着ぐるみのようなヒグマが見える。
「人型を模しているのは、野球をプレイするという便宜上……ただ、各デザインがアニマルクロニクルのそれらに酷似しているように見えるのですが?」
「私達もそうだけど、大抵の人にはそう映るわよね。ま、そもそもが大してオリジナリティのある見た目じゃないし、文句を言う人はいても、訴えるまでにはならないんじゃないかしら」
萎縮している下級生を気遣ってか、レイカさんは右隅に座る我々の方へと寄って来てくれる。重ねて、大分広々としている空間では、阿僧祇先輩、碓氷先輩、天王寺先輩の三人が中央で談笑、その隣に中之島先輩が座り、三条先輩、常室先輩がグラウンドへエールを送っている。
「てか、ベンチからでも双眼鏡ないと外野の方全然見えないし……」
「でもさぁ、あのメンバーで野球やるって、普通のサイズじゃゲームになんなくないか?」
「教官も野球であって野球でないみたいに言ってたしね……」
確かに、六人が皆双眼鏡を構えている姿は異質と言う他ないだろう。
ヘルメットを一度脱ぎ、キャッチャーのシロクマに一礼した先輩は、右打席に入って金属バットを構える。事前に送られてきた情報通り、アンパイアの姿はなく、全ては区画の機能で賄う様子。
「レイカさんは、行使する能力に何か制限はあるのですか?」
重ねて情報によれば、私において、制限は課せられていない。
「私はないわ。ま、制限とは言わないけど、球数に気を付ける位ね」
「なるほど」
つまり、文字通り精密機械のようなストレートが投げられるということだろう。
「アイツは多分、反射と……曜日のやつも駄目じゃないかしら」
「……確かにそうしなければ、故意にデットボールを受けて相手の戦力を削ぐ戦略を取りそうですね」
「そ。傾向としては、万人が理不尽と捉えるような能力は制限の対象になってるわね。ま、そうでなきゃ、あの二人がいる時点で試合自体成立しないわ」
「私も、そう思います」
わざわざ同意を口にする必要もない事実だった。
そこで、第一球目を投じるべく、右投げのクマが豪快にワインドアップ、ついに火蓋が切って落とされる。
「っ……」
それを確認した上でか、先輩はバットを下ろし、やや水平に構えてバントへ移行、反応したシロクマが素早く立ち上がり、右方へズレてピッチャーにウエストボールを要求、放たれたのは凄まじい勢いの剛速球だが、ストライクゾーンを大幅に外れている。
「――――はっ?」
先輩は何故かスクイズのように右方へと横っ飛び。
その瞬間、ボールがバットに当たった金属音も、ミットに収まる衝撃音もなく、ただ一之瀬さんの発した声だけがベンチに響く。
「……ホームラン?」
空に映し出された綴りを、柳瀬さんが呆然と読み上げると、それに続いて、祝砲のように連続で花火が打ち上げられ、テレビ中継のようにスコアが表示される。言うに及ばず、一回表、こちらの一点リード。
「……あれは理不尽ではないのでしょうか?」
「対処法が皆無じゃないってことで、許されてるみたいね」
巧妙に計算されたライト方向への吹き飛ばし。角度は70度をやや下回る程か。いずれにせよ、あの速さでその角度では、フェンスインまでに捕球するのは非常に困難であると考えられる。そして今になってやっと、初球先頭打者本塁打であることに気付く。
「おいおいおいおい初球真っ直ぐとかナメてんのかヒグマゴラァ! 北へ帰ってシャケでも銜えてろやボゲェッ!」
1キロ強のベースランニング、三塁ベースから悠々とこちらへ戻りながら、男はマウンド上で殺気を放つ肉食獣に対し、口汚く煽り散らしている。
「さ、さすが副会長……」
「カッコイイ……バントでホームランとか、もう凄過ぎる……」
「……」
能見さんと速水さんの二人には、先輩の汚点が認識できなくなる呪いでも施されているのだろうか。バントによる本塁打よりも、そちらの方が自分にとっては不思議だった。
「次の打席以降、何かしら仕掛けてくるかもしれないな」
「間違いないな」
打席へ向かう中之島先輩とハイタッチをし、先輩はベンチへと帰ってくる。
「できれば、塁に出て様子を探ってきてほしかったのだけれど」
「いやぁ、今回は特に出ない方がイイと思うよ」
ベンチから立ち上がった碓氷先輩が、悠然とネクストバッターズサークルへ向かう。そして杉浦教官ともハイタッチを交わし、天王寺先輩から祝福の殴打を受けた先輩はこちらへ戻る。
「あの、太刀川先輩。つまりは、この位のことで一々驚いていたら、今日は身が持たないってことなんですよね?」
「アタシらだって、さすがに学習してますよっ」
「いや二人共、目ぇ死んでるレベルで光がねぇけど……」
私から見てもそうだが、確かにその心構えなしでは身が持たないかもしれない。
「まぁ、さっきも言った通り、臨場感を味わってもらうってことで。レイカ、スピード表示見た?」
「何か知らないけど表示されてなかったわ。アレって実際の野球中継でもちょくちょく表示されないわよね?」
「そこまで寄せる必要ねぇんだけどなぁ……」
「っ……」
瞬間、常軌を逸した重さの衝撃音が届く。上空のホロディスプレイには、ワンストライクの表示と共に、スピードガンによる数値が下に添えられている。
「っ……は? なぁ笹森、2300キロって、時速何キロ?」
「い、いや……まぁ、気持ちは分かるけど……」
言うに及ばず、2300キロは時速2300キロのことである。
「えっ? でもガチで何キロっ?」
「だから2300キロだって……」
「マウンドからの距離が100メートル以上あるのに、ほとんどボールが見えなかったね……2300キロって、えっと……ロケット位?」
「あ……いえ、ロケットはまた、それ以上だと思いますが、マッハ……音速が1200キロ程だったはず……だとすれば、マッハ2相当かと……」
一見冷静そうに説明している能見さんだが、その表情は若干青ざめている。
「どうりで……あのヒグマ、去年より速ぇとか何かチート使ってんじゃねぇのか」
「よく一球目で合わせたわね? アレ、バットとボールが接した瞬間に発動させたんでしょ?」
「いやまぁ、シロクマが右に寄る気配がすけすけだったし、バットの太さも把握してたから意外とイケた。実はアレって、ムズいのは速さよりもタイミングだから」
「……先輩のチートはともかく、あの速球の衝撃にバットは耐えられるのでしょうか?」
「おいお前サラッと――」
「――それは大丈夫よ。バットは全部、碓氷さんの特注品。だから、手や身体に伝わる衝撃も、大分緩和されるみたい」
「なるほど……」
碓氷先輩のエネルゲイア、その全容は未知だが、自らの髪の毛を何にでも変化させるというのが通説であり、一部からは無限のエネルゲイアと呼ばれている。尚、本人の前でこの呼称は禁忌であるらしい。
「――おっ」
「っ……」
戦況へと視線を移した瞬間に打球音。左打席に立った中之島先輩の叩き付けるようなスイングがボールを掠めて前へと転がる。現象としては、祖父が最も嫌いな概念の一つ、通称ピーゴロである。
「「「「――え……」」」」
今度は、四人の声が重なる。
打った中之島先輩は既に碓氷先輩とハイタッチ、スコアは二対〇。
その動きは完全なる不可視。即座に一塁を踏んだ中之島先輩は再度消失し二塁、三塁、本塁へと立て続けに姿を現し、一秒未満でランニングホームランを成立させた。
「あれも、理不尽ではないのでしょうか?」
「えっ? 何でワープが理不尽なんだよ?」
「……」
理不尽のライン、その懐が余りにも深過ぎる。もしかしたら、自分も後一年もこの学園で生活を続ければ、このようになってしまうのだろうか。
「アンタもタケルも、こういうのに関しては、取れる時に取っとくってタイプよね?」
「まぁそうっちゃそうだけど、そうしとかないと後半でドン詰まるぞ?」
戻ってきた中之島先輩の手を叩く二人。
「シンが一年生を招待してくれたおかげで、能力もある程度は縛りなく使えるからな」
「えっ? 中原以外は初絡みだろ?」
「あぁ、始まる前に、軽くだが挨拶をさせてもらったよ……それはいいとして、初回について、4点は確定したか……」
「後は天王寺先輩と中原次第だな……」
「4点? っ!?」
空間を震わせるような甲高いミート音に、視線が強制移動する。既に打球の行方は全く追えないが、ゆったりと一塁方向へと走り出す碓氷先輩の背中が、起きた現象を物語っている。
「三連発……」
「ガチのバケモン……」
早くも驚きを通り越して戦慄へとリアクションが発展している同級生六人。もはやその都度確認する必要もないと思われる。
マウンド上ではグラブを叩き付けて憤るクマの姿。人型とは言えその右手、もしくは右前足の形状は人のそれではなく、アレがもしかしたら剛速球の秘訣なのかもしれない。
「ナイバッティーンッ」
打席へ向かう阿僧祇先輩と左拳を軽く合わせ、ホームインした碓氷先輩はヘルメットを脱ぎながらベンチへと凱旋する。
「相変わらず綺麗なフォームね」
「ありがと。けれど、能力で誤魔化さずにあのボールを安打にするのは、簡単ではなさそう」
「まぁ誤魔化しても次からはキツそうだけど……」
「……」
中之島先輩が確定と言及したのは4点。つまり、その4点目は。
「――――――」
次はスイングの始動から一部始終を見ることができた。先程の打球音に勝るとも劣らない、真芯で捉えた豪快な引っ張り、センターのゴリラ、レフトのハイエナが跳躍しているのが見えるが、最高点へ到達する前にホームランの文字が青空を彩っていた。
「もう分かったと思うけど、三、四番は毎回こんな感じだから」
「はい。深く考えず、ただそうと理解しておきます」
「賢明ね」
両者共に、エネルゲイアを行使した訳ではない。圧倒的な練度による化け物じみた動体視力と正確無比な協調運動、きっと純粋な打撃技術も普通ではないのだろう。
「――シンさぁ、私とミオが絶、簡単にホームラン打ってるとか思ってたりする? だとしたら後で軽くシメるけど?」
「そんな訳ないだろ。んなこと言ってないで、天王寺先輩っ! オナシャスッ!」
巧妙でも誤魔化せてもいないが、応援することで強引に会話を遮断させる先輩。
「任せておくがいい」
一方で、単純な錯視によりとても小さく見えるバットを豪快に回しながら、打席へと向かう天王寺先輩。そして、考えてみれば確かに化け物と呼称して違いない上級生達に見送られながら、私もネクストバッターズサークルへ。
個人的にだが意外なことに、天王寺先輩は左打ちだった。それにしても、ベンチから出てみると、改めてグラウンドが広い。エネルゲイアを得ても尚、とても野球をやる環境とは認識し難い。
「っ……」
初球はアウトコースのストレートでワンストライク。あの方なら当然だが、尋常ではないその衝撃にも、臆する様子は見られない。一見してマウンドからホームベースまでの距離により、投手不利が連想されていたが、今見た限りではそのような感想は抱けない。
二球目は何とフォークボール。初めて見た変化球だが、スピード表示は1900キロ。正直、緩急と呼ぶには速過ぎる。低めに外れてワンボールワンストライク。
ふと気付いたが、天王寺先輩がホームランを打つと、五者連続となり、次の打者である自分に掛かる期待値は――
「――っ」
――三球目、快音を残してボールは高速で右中間へ。現実が思考に追い付いたような不思議な感覚で白球の行方を立ち上がって目で追う。
「っ……」
インパクトとほぼ同時に地を蹴っていた外野の二頭、ライトのワニが空中で痛烈なライナーをグラブに収めると、その真後ろから身を挺して衝撃を押さえ込まんとするセンターのゴリラ。鍔迫り合いのようなボールと二頭のせめぎ合いは、数秒を経て収束する。
「草食と肉食の垣根を超えた、見事なコンビネーションだ。こちらも、僅かに芯を外してしまった……力及ばずか……」
一塁を回った所で引き返してきた天王寺先輩が、苦笑いを漏らす。相手のプレーを称える姿勢はイメージ通りのスポーツマンシップだった。
「落ちるボールを捉えるのは、中々に骨かもしれん」
「はい、真っ直ぐを狙ってみます」
これでアウトが一つ。天王寺先輩には申し訳ないが、内心に安堵が広がる。そんなやや軽くなった身体で右打席に入る。随分と久しぶりになるが、特に緊張はない。
「……」
加えて不思議なことに、ピッチャーまでの距離にも違和感がない。おそらく、エネルゲイアによる最適化だと考えられる。喜怒哀楽の分かり易いヒグマは、やっとアウトを取って多少落ち着きを取り戻した様子。
「っ……」
攻撃的な風を周囲に撒き散らしながら、真ん中低めにストライクが入る。
「……」
ピッチャーには申し訳ないが、一旦打席を外す。
息をゆっくりと吐き出し、一つの結論に至る。
教官も言及していた。そして幼い頃からナイターを見ていた自分からすれば、こんなものは野球ではない。個人的には冒涜とも捉えられてしまう。
ただ、これが真剣勝負であることまでは否定しない。故に、野球を模した何かと切り替え、改めて打席へ入り、バットを短めに持って構える。
「――――っ!」
アウトコースのストレートを限界まで引き付けて流す。やや先端で捉えた打球は低いライナーで一、二塁間へ。
「……」
打ってすぐに確信はしていた。一塁を守る巨体、ゾウの長い鼻によって、ボールは巻き取られて捕球されている。その鼻が完全に伸縮性なのは、やはりアニマルクロニクルの著作権を侵害しているように思えてしまうのだが。
「――やっぱお前マジで凄ぇな…………ファーストがゾウじゃなかったら初打席初ヒットだったぞっ」
「……初球先頭打者ホームランを打った方から言われても、煽り文句にしか聞こえないのですが?」
「お前は……」
ヘルメットを二塁手の位置へ戻し、帽子を被り直して所定位置へ戻る。そして何故だが、先輩以外の方々からの声掛けは、前向きに受け取ることが出来た。これでツーアウト。
「中原さんっ、さすがですっ。あのボールをヒット性の当たり……」
「うんっ、マッハのボールを打ち返すなんて、凄いよ……」
「これで、中原さんもあっち側だね……」
「薄々そうだと思ってたけどな」
「……」
一方で、こちらは想定内の反応だった。
あの天王寺先輩でも、好守に阻まれてしまう。自動的に三、四番を形而上とすれば、続く三条先輩の三球三振は仕方がない。こうして、短くも長い一回の表が終わる。
「うっし、予定通りだ。しっかり守ろうっ」
キャッチャー姿の先輩を先頭に、今度は我々が守りに入る。今更だが、一年の自分がセンターラインの一角を務めてもよいのだろうか。
「あ、中原と……後、三条さんとノリカネっ」
とそこで、レフトへ向かう三条先輩を含め、先輩に呼び止められる。
『守備の最中は、相手のことをイメージして話し掛ければ離れてても会話が可能だから、必要に応じて声を掛け合ってこ』
「「「――っ!」」」
不意に頭の中で響く声に、三条先輩と顔を見合わせる。
「グラウンドが広過ぎる事に対する措置……との理解で問題ないのでしょうか? 太刀川副会長」
「そゆこと。一々大声出さなくてもいいのは助かるよな」
「えっと……外野からキャッチャーでも普通に届くの?」
「うん。何とラグなしで話せるっぽい。範囲は多分、グラウンドの中だったら隅から隅までだと思うから、何か気付いたら言って」
「了解しました」
注意事項も聞いた所で、各々守備位置へ移動する。身体感覚としては、元のサイズでは競技にならないのはもちろん、この10倍の広さでもまだまだ足りないように思えてしまう。
「――中原」
「はい」
二塁の近くに来た所で、中之島先輩の声に振り返る。
「シンから聞いているかと思うが、捕るべき打球と避けるべき打球……その判断が肝要だ。キミなら問題はないと思うが、危険と感じたらその瞬間に回避を選択することを薦めておくよ」
「っ……わかりました」
伝え終わると、中之島先輩は三塁寄りの方へ去って行く。
「……」
先頭打者であるゴリラがシュールにコールされるのを聞き流しつつ、通信機能を試すこととする。
『先輩、何か個人的な注意事項はありますか?』
『うん? 注意……事項……うーん、そうだな……左バッターのライナーは基本避けた方がイイかもしれん』
『……わかりました。ただ、それはもう中之島先輩から聞きましたが』
『うん? と……あ、いやいや、別に忘れてた訳じゃないって。そもそも、中原なら平気だという信頼の表れと捉えてもらって構わない』
「……」
戯言はともかく、本日はこれだけ人も多いということで、普段求めている必要事項の開示については大目に見ようと思う。
右打席で構えるマウンテンゴリラはややクラウチング気味、何となくになってしまうが、セカンド方向を狙って打ってくる印象は抱けない。そんな心持の中、レイカさんがサイドスローで第一球を投じる。
「っ……」
アウトコースギリギリに決まるストレート。分かってはいたが、投擲物にもエネルゲイアの効果は適用できる様子。その球速はヒグマには劣るものの、驚異の1400キロ。はたして、この人に苦手なものなどあるのだろうか。
通常の野球において、球速と球質は重要な要素ではあるが、平均的な球威であってもその洗練されたコントロールで強打者を抑える投手は数多い。少なくとも、あのコースをしっかり前へ飛ばせる自信は私にはない。
ストライク先行からの二球目。先輩は内角を要求しているが、レイカさんは首を横に振る。だがそれでも先輩は引かずにミットを構える。これはおそらく、通信上で言い合いをしていると思われる。今更だが、この野球もどきにサインは必要ない。
そして、珍しくレイカさんが折れた様子。考えてみれば、普段の舌戦はほぼ瞬殺で幕を閉じるが、ゲームも含めた戦略面ではその限りではなかった。
その模範的な投球フォームからの第二球――
「――っ!?」
――気付けば打球はこちらとは反対方向へ。
「――ノリカネェェェぇぇぇぇぇぇぇっ!」
「…………」
キャッチャーマスクを脱ぎ捨てた先輩の絶叫が響く。
ライナー気味のボールは、跳躍したふくよかな男性の腹部中央に突き刺さり、勢いを落とすことなくその身を遥か彼方、スタンドの先の先へと運んでいってしまった。