さてしかしながら、ただ自前の屁の音を耳にしたっきりでこうして一人の少女との出会いを思い起こすほど、僕も酔狂ではない。
酔狂なのは僕の姉である。そうしてこの僕の姉によるところ、山田リョウと僕における運命線が定まろうとしているのだった。さあさあお立会あれ。
僕はバイト先のライブハウス、STARRYの床を灰かぶり姫よろしく雑巾で手ずから拭き清めながら、脳内では、そのまま講談士よろしく、これまた脳内の幻想な観客相手に盛り上がる……。さあさあお立会お立会……。……
「おい
とつぜんかけられる声。ステージの床をピカーン! なほどキレイにした僕の、えもいいがたい達成感とその高揚に、水がさされる。
よくよく見てるとこの床、中年坊主のハゲ頭みたいなテカリしてて、脂ぎってそうでキモいな。女子にそう思われたら嫌だな……。なんで僕の
「……」そう云うところですね。ハイ。
だがともかく、僕は、まず声をかけてきた相手、僕と同じあたりな背丈の金髪熟女なれども清涼なる乙女──なかんじの美人、伊地知星歌さんのほうを向く。
ステージのうえで四つん這いになり拭いていたままの僕を、キツめの双眸で見てくる星歌さんが(やはり)そこに居た。
星歌さんはスマホ片手に腕組みして、僕のことを眺めている。この姿さながら女看守ならば、囚人として懲罰して欲しくならねば、無作法というもの……。
でもこのときの僕はそんな事ほざいてる場合じゃなかった。ステージの大気の下のほうに、今になって僕の屁のメタンガス臭がにおったことで、ある一つの懸念に達したのだ。絶頂にではない。
僕は星歌さんがドリンクコーナーの準備をするように言っているのだと、さきほどの彼女の言葉少ない指令からも理解した。
この了承を伝えるため、彼女の目をしっかり捉えてみつめ、そのまま視線を切るかわりに頷いてみせる。そのままステージをおりて、いつものうつむき気味な姿勢でドリンクコーナーの売り場のほうへとはいって行く。
しかしながら自分の、その顔に恥ずかしさのあまり血がのぼっているのが分かって仕方なかった。うそだよな、俺の屁の音を聞かれたというのか……?
俺は、オナラの音を、星歌さんに聞かれたというのか……?
それもオナラの音を、姉さんの友人であり先輩でもある、ついでに恩人のあの星歌さんに……聞かれた……?
生きててすいません……僕は変態クサレオナラ臭い童貞ドブカス野郎×意地汚くて顔が汚い無口陰キャ蟲姦フェチー牛青二才です……STARRYの空気をオナラと皮膚呼吸と口内呼吸と鼻呼吸で汚しました……。
…………うおおぉぉぉっ!! うおおぉぉぉっ!!
くたばれ! いますぐ
あ嗚呼アぁアアアあああああああ阿鼻ッツ!
ねえさえぁァァアアアンン゙ッツ!! 僕も早くお酒飲めるようになって幸せスパイラルキメたいいイイ!! インッヒ。ハイン……。……
脳内だけはこうもハチャメチャに賑やかになりながらも、僕は手先では黙々として今日の営業の準備をしていた。
ドリンクサーバーの機械というのは基本、バイトなみの初心者でも操作して管理できるようにと、製造元の企業努力が払われている。サーバーをクリーニングするのも、ボタンをポチポチッとな……か〜ら〜の〜チョチョイのチョイ! ──この程度ですむ。
これだけなら、かの拳銃、リベレーターなみのインターナショナルな扱いやすさである。僕だってなんとかできる。だからそれ以外にもサーバーの中身であるドリンクの補充や、ドリンクが切れてしまったときの予備についてなんかも把握して置くまである。
「……んー? ヒロオト、そこ、時間そんなにかかる?」
アッツ、すいません。未熟さ以外にアリンコにも勝てるところのない、
「ちょっと待て、唐突に昇天しようとすんじゃねえよ。オラこっち来い」
そういって、いつの間にか(ホントいつの間に?)ドリンクコーナーに入ってきていた星歌さんが、僕の手首をひっつかむ。そして背を翻し、腕を掴まえた僕のことはまともに見ようともせず、先だってズンズンと進んでゆく。
星歌さんが僕を引きずってゆくがまま、楽屋へと踏み入る。僕も楽屋へと搬入される。STARRYの備品あつかいしていただくなんて光栄です! 潰れるまでついていきます、捨てないで!!
「……んお? ──! あーッツ!! 弟〜ォ!」
そういって酒瓶が手を振ってくる。ちがう、酒瓶が女性の手に振られている。
その女性は、
「……きくりさん」ン゙
僕は必要としていた
同時に運命よ、僕を祝福すること──赦す!
俺は、
「……あいかわらずだな、お前ら姉弟ってのは」
星歌さんが呆れている。すみません好きなんです、好きですから。それがあまりにあまることには、僕、ちょっと今のこの状況には歓喜わまって、いや感極まってフリーズしそう。
表情筋と涙腺とあとは顔面の迷走神経とが、もう
「んんー? 弟くーん。もうすこーし、お姉さんに可哀想にしてあげても、
そうPAさんがひょっこりと顔をだして、その手にある
見れば酒瓶をもっている、きくり姉の顔は赤ら顔どころかやや青白くなってるまである。もしかして今まで吐いてたのやもしれない。脱水症状でてるじゃないか。かわいそ。
……まーた夜遊びの酒乱痴気さわぎな夜ふかしの
「たべたぁ〜……。シャウエッセンのハムの焼いたの、おいしかったから、もっとつくってぇ〜……」
──……んもう、あいかわらず腹空いたときに限って、目ざといんだからなあ……。僕はどうせ皿洗ってないんだろうと呆れ気味になる。
そうしてこんな姉のひどい有り様っぷりを尻目に、僕をこの楽屋に連れてきた星歌さんに振り返る。
……家、連れて帰ればいいですかね?
「あー……いんや、いいわ。それよりさ、これからウチの妹、来んだけど……
「レルミンですよ〜センパイ。あーぁ、間違えられちゃって。わが弟、かわいそ〜」
「うっさい。……え、えと、テルミン?」
……あー、それが正解です。テルミンです。
間違ったまんま一周して正答にいきつくの、なんかどうにかなっちゃってて、逆にタチ悪いな……。そういうときはちゃんと間違えたほうが、あとあとの人生、為になると思うんですけど。
なんとなくで誤魔化しながら、なあなあで人生済ましていくと、あとあと後悔するんじゃないんですか? 人間はよくやるものです。特にお前。
そう姉を見ながら、僕はテルミンなんていう、僕が言うのもアレだがマイナー中のマイナー楽器が、星歌さんの妹さん(……虹夏ちゃん? )のなんの役に立つのか──なんて、邪推(※参照)していた。
※──先だっての『下手に有能ぶって星歌さんの指示以上のことやろうと』する僕自身が、またもここに顕現していた。
『未熟さ以外にアリンコにも勝てるところのない、
もうミジンコ以下だよ。メダカの餌になります……。ふっふふふ、俺、廣井
「あーあー、落ちこんじゃった。よ~しよ~し。ダイジョーブだぞー。
楽屋の床をおおっているアクリル質タイルが、碁盤の目しているのと(僕の)目があって、その瞬間に僕が自分に落胆していたとき──だった。
きくり姉上は、僕のほうへと眼前から跳び上がるようにして、まるでキングコブラの捕食じみたガバッと感で、僕に飛びつかんばかりに──抱きしめてくれた──クッサ、酒臭。汗臭い。
おにころ・オン・ザ・ロックなかおりだった。
あいかわらず頭蓋に脳漿じゃなくて濃漿がつまってる感じの我が尊き姉、神聖にして不可侵な廣井きくりであった。