熱には、“高い所から低い所へと移り流れる“という性質をもつ。
移り流れるものを意志や思考と置き換えるならば、人間にも同様のことが言えるだろう。
表面上は皆己の役割を淡々とこなし続ける日々を過ごし、しかし水面下では着実に波紋が広がりつつあった。
歪んだ調和は少しずつ揺らぎ、軋み、誰もがたった一人の異常者の行動によって熱に浮かされていた。
誰もが
誰もが
誰もが目を背け、誰もが釘付けになる事実。
浮足立つ推定“善良なる市民“はある意味、待ち望んでいる。
“次は、どさくさに紛れてやってやろう“と。
そんなごく普通の人間達とは対照的に、心も足取りも沈みきっているのは、未来を担う学生であった。
人によっては十日もの長期連休から再び放り出されるのは学校というミニ社会。
その顔に休みへの名残惜しさと夜更かしと遊び疲れを塗りたくったまま、板書をノートに書き写す。
悠久とまで錯覚する時間を惰性のまま進み続けている者たちの耳に、解放のチャイムが鳴り響いた。
刹那、泥のような顔が幾らかハイライトを取り戻し、手早くノートを片付け終わりの礼を済まし、束の間の休息を友人と、或いは一人で謳歌する。
無もなきグループのうちの一人、適当にスマホをいじり続けていた幽霊写真を半ば信じていそうな女子が、何の脈絡もなく話し始めた。
「ねぇ、知ってる? 」
主語を廃した、されど人を引きつける語りとしては最高の一歩目。
なんだなんだとグループ内で注目が集まり、自然と耳を傾けられる。
誰かが言い聞かせたわけではないが、少女たちは簡易的な円陣を組み他の者達に聞こえぬように声を潜め、それを確認した語り部の茶髪は、ぽつりぽつりと「知ってる? 」の中身を取り出した。
「ねぇ、ドッペルゲンガーって、知ってる? 」
「暇だなぁ〜。」
ライダーオタクの間の抜けた
その言葉に誰も反応こそしなかったものの、心の中では静かに首を縦に振っていた。
優禍が異能研で正体を明かしてから一週間、何も事件がない。
「暇でいいの、てかなんか起きてもまだ首突っ込めないだろ。」
正しくは、異能研が関与できるような事件が起きていないのである。
異能者が暴れまわるような大規模な犯罪は、現場に居合わせない限りAXEが即鎮圧即確保と付け入る隙が一切ない。
かと言って優禍が普段行っているパトロールの延長線でのゴミ拾いなど、とても事件とは言えない事物ばかりでは、現代のエンタメ過剰摂取により感覚が麻痺した高校生には刺激が少なすぎる。
そんなボランティア部と大差ない活動に対し、特に自分専用のスーツを心待ちにしていた西谷は落胆し、椅子の背もたれに全体重をかけ放心状態、全身全霊で暇を持て余していた。
「まぁ前も言ったけど、三百六十五日の中で相談に来るヤツなんて一、二件あれば万々歳だし、暇なのが
新しく仕入れた異能事件のスクラップを切り貼りし、八冊目に突入した秘蔵のファイムを本棚に戻したあと、自分の指定席に座った部長はボソリと提案する。
「……それじゃあさ、先に名前とか決めとかない? 」
「名前って、なんのですか? 」
興味を呼び覚ます呼び水に、退屈を強制的に流し込まれグロッキー状態が一転、西谷はルンルン気分で机に身を乗り出した。
「あのスーツのやつでしょ。楽しみだなー、結構候補考えてきちゃったんだよな〜。」
慣れた手つきでスマホを操作し開いたメモアプリには、子供の時から継ぎ足しされてきたであろう名前候補がズラリと記載されていた。
「……優禍さんは、あのスーツ着てるときになんて名乗ってるの? 」
「名乗ってというか……おおっぴらに活動とか有名になりたいとかじゃないから、そもそも名前をつけてないんですよね。」
無駄にヒロイックなシルエットにオーパーツじみた性能を兼ね備えた外装。
特撮者であれば初めから決められた名前がありそうなものであるが、優禍のはそれがない。
一応スーツの正式名称こそあれど、無加工の長ったらしさと堅苦しさが前面に出ているそれをそのまま活動名として使用するのは、力を解放している状態の異能者であっても思いついた時点で排除するだろう。
「……そう、昔の
「もったいねぇな、そんなもんもらって一番最初にやることといえば名前決めだろ。」
いまいちテンションの上がらない優禍を余所に、スイッチが入った西谷は、なんなら自分が全員分の名前を付けてやろうという勢いで布教する。
愛着が湧くだの、その名前に恥ずかしくない行動が自然とできるようになるだの、いざという時のためだの、熱がこもったライダーオタクの説得は、しかし現役でヒーロー紛いの活動をしている女子高生には響かない。
「そんなもんかなぁ、でも名前なんて考えてもなかったから、どんなのをつけたらいいのか……。」
「……基本的には自分の異能に関連付けたものかな、あと見た目に即したものだったり、色々あるよ。」
先程ファイルを仕舞ったから本棚から適当な物を取り出し、パラパラと適当なページをめくる。
そこに載せられた土偶のような見た目の異能者や、動物の特徴を持つ異能者、光の粒子を撒き散らしながら宙を舞う異能者などなど、多種多様な稀人達の一瞬を切り取った写真の傍らには、当人、或いは仲間達が様々な工夫を凝らしたであろう名前が刻まれていた。
「……ざっとこんな感じだね、ちなみに私の推しはこの“オーバーロード“っていう人。」
幼児が大事なコレクションを親に自慢するように、満面のドヤ顔で光の粒子を撒き散らすマスクマンを指差す。
黙々と渡されたファイルを目を通す優禍と正反対に、副部長は何時も調子でマイペースを貫き通す。
「え〜? 俺は適当でいいよ。ネーミングセンスねぇし、こうゆうのはキョーミ無いのよね〜。」
「私もやめておきます、自分から名前なんて言う機会もないでしょうし。」
消極的な二人に待ったをかけるはライダーオタクの片割れ。
「いやいやいやお二人さん! こうゆうのが大事なんですって! こういった細かーいこだわりがモチベーションにつながったりするんだから! 決めとくだけタダですし、損はないっすよ! 」
「そーゆーもんかねぇ? じゃ俺“キツネマン“でいいや。」
「じゃあ私は……“タコガール“? 」
「二人とも適当すぎでしょ! もっと真面目に……。」
あまりの熱量にキリがないと判断し、尚の事熱く語り続ける西谷と、それを柳に風と受け流す尾多を尻目に、優禍はそそくさと席を立つ。
「それじゃ私、お先に失礼しますね。」
「ほーいお疲れー。」
「……お疲れ様。」
生成悠一は、疲れ切っていた。
典型的な五月病を発症し、いまだズルズルと引きずり続けて一週間。
実家関係の揉め事に加え、一目惚れの相手が明かした独白など、自分自身でも知らず知らずのうちに疲労とストレスが溜まり、それが体と心の新陳代謝を阻害しているのである。
人生の絶頂期といっても過言ではない思春期から青年期にかけての成長期間を、波も風もないままただ時が過ぎるのをボウッと待ち続ける、何もしたくないという思考に塗りつぶされたまま。
少しでも関わりを持つために入った部活にも顔を出さず、家に帰れば自室の布団になだれ込むを日々を、ただ漠然と繰り返していた。
今日も今日とて授業が終わり、いそいそと教科書を鞄に詰めている最中、聞き慣れた声が掛けられる。
「よーす、今日も部活はパスか? 」
「うん、最近体がしんどくって……。」
同じクラスで部活も同じ、ある程度互いの好き嫌いを共有できる仲にまで深まった友人からの中身のない心配と励ましの言葉。
フワフワと足のついていない空返事で対応し、部室へと向かう背中を見送る。
「まぁ来なくても大して支障ないしな、とっとと元気になれよ。」
「うん、またね。」
行かなくてはならない、しかし一歩を踏み出す気力がない。
考えの悪循環に陥り、どうすればいいのか分からず小さくため息をついた時、その人は、不意に現れた。
「ねぇねぇ、最近元気無いじゃないスか〜? 」
ひょこっと視界に現れる、女の子。
薄い桜色の髪に、銀河や万華鏡を思わせる虹色の大ぶりな瞳。
若さゆえの端々しさとあどけなさ、それでいて神秘的な色香を纏う、全人類、否、全存在が崇め奉るほどの可愛らしさと美しさを兼ね備えた存在。
その場面を切り取れば、キリストが病床に伏す奴隷に救いの手を差し伸べるような絵画を連想させる。
「えっ? うん、最近色々あって……。」
答えを聞くよりも先に、その少女は何処の誰とも知れぬ席を我が物顔で占領し、椅子に馬乗りとなって対面する。
「それでそれで? 」
「正直……学校に行くのもしんどくなってきて、ちょっとだけ。」
「うんうんわかるわかる、めんどいよね、学校。」
机を占領する頬杖は無意識に距離を縮め、そのまま放たれる相槌は特別な状況と美しさの相乗効果により、安心感は何十倍にも飛躍する。
「耳、貸してもらっていーい? 」
蠱惑的な内緒話。
ドキリと跳ねる心臓と背中をたらりと流れる汗。
不織布のマスクに隠されているとはいえ、内心に渦巻くナニかを気取られまいと顔を作り、準備万端と片手が添えられた口に耳を近づける。
「ドッペルゲンガーって、知ってる? 」
どこからか流れ始めた、とある噂。
誰がどのように流し始めたか、どうゆう経緯で届いたかすらもど朧げになってしまった、とある噂。
ある者が言うには、もう一人の自分が、自分の代わりに苦痛を請け負ってくれる。
ある者が言うには、もう一人の自分が、自分の知らぬところで罪を犯す。
様々な情報が錯綜し、形骸化した名前のみが一人歩きする噂。
ただ一つ共通しているのは、報われることもなく毎日に忙殺される者に届くメール。
疲れ切ったその肉体と精神に、確実なる休息を与える現代の変わり身人形。
“
「ドッペルゲンガー……って何? 」
「知らない? ドッペルゲンガー、すごい平たく言うと自分のそっくりさん。」
スマホを取り出し、軽やかな指使いで噂の休済者に関する概要を検索、そのまま生成へと見せつける。
曰く、件のドッペルゲンガーはメールを送ってくるという。
年齢、性別、異能の有無などは関係なく共通点は“疲れている“こと。
なぜ疲れていることを知っているのか、いつアドレスを入手したのかなど不明瞭な事は山積みであれど、そのメールはやってくる。
一方的に場所を指定され、その場所へ向かうともう一人の自分が待っていると。
半信半疑どころか十中八九デマか冗談。
馬鹿を釣り上げる為の大きな釣り針が見える作り話を、顔を
「そんなに疲れてるんだったら、ドッペルさんからメール来るかもね。」
再び軽い愛想笑いで受け流しつつも、少年は感謝していた。
誰にでも優しく、分け隔てなく接する学園のマドンナ、その人間が話しかけてくれた事実は、僅かながらも心に潤いを与えた。
「教えてくれてありがとう、アヅカさん。」
「どういたしまして〜。」
少女はフフンと得意げに鼻を鳴らす。
そしてフラリと、春のようにその場を後にした。