「―――…うん?」
一龍が目覚めたのは、廃墟と化した倉庫と思しき建物の中だった。
人気は無く、朽ち果てて崩れた屋根の穴から光が差し込んでいる。微かに漂う潮の香りが、ここが海に面した港であることを伝えてくれる。
「…うむ、グルメ細胞の気配も猛獣の気配も、食材の匂いも全くせんの。グルメ界はおろか人間界でも有り得ん…つまり異世界か」
手早く現状を認識した一龍は、立ちあがって手足をぱたぱたと動かし、身体の状態を確かめ、首を傾げた。
「それにしてもなーんで儂の肉体が復活しとるんじゃ。
今の自分の身体は、以前の世界で死ぬ直前―――三虎との決戦に挑んだ時の肉体だった。当然決戦直前に食べ蓄えたエネルギーは失われているものの、身体の動かし方や能力の使用には何ら支障は無さそうだった。
かつて自分の中に宿っていた悪魔の仕業を一瞬疑うものの、この肉体で復活させたり、食材のない世界に送ったりする理由もメリットも見当たらないので、その可能性はすぐに頭から消し去った。
「さて、どっちに行こうかの…お、ありゃモノレールか。てことは、あの線路の先に街があるな」
ひとまず倉庫の外に出て見回した一龍は、すぐにモノレールの線路と思しき構造物を見つけ、その方角に歩き始めた。
そうして歩き出した一龍は、程なくして街中に入り―――すぐに違和感を抱いた。
(男が、おらん)
街並み自体は平凡で、元の世界とさして変わりはない。
だがそこを歩く人の容姿は、一龍の知識にある街の様子からはかけ離れていた。
(犬や猫の半獣人や、ロボットばかり。たまに見かける人間は皆若い少女…何じゃここ?儂みたいな人間の男が全く居らんぞ?)
元の世界の妖食界を想起させる半獣人たちや、明らかに自己意識を有していそうなロボットたち、たまに見かける人間は女子高生ぐらいの年若い少女ばかりで、いずれも頭上に天使の輪が浮いていた。
一龍のような、一般男性の姿は影も形も見当たらず、それ故に自身が妙に街行く人の注目を浴びてしまっているのを嫌でも感じた。
当初はその辺の人に適当に話を聞こうと思っていたが、この状況で下手に声をかけるのは止めた方がいい、そう結論付けた一龍だが、そうなると情報収集は隠れ潜んで行わなくてはならなくなる。
(仕方ない。ちとカロリー消費量に不安はあるが…使った方が良さそうじゃ)
これほど特異な状況ならば使わざるを得ない、そう判断した一龍が、小さく呟く。
「―――マイノリティワールド、発動」
途端に周囲の人の目に移る景色から、一龍の姿が霞の如く消えていった。
平方根の法則に基づき、少数派原子の動きを支配することで、物理法則などあらゆる常識から逸脱した例外的な挙動を可能にする、一龍の持つ特殊能力。
重力に逆らう原子を多数派にして空を飛んだり、戦闘では相手の動きの誤差率を大きくして精度を下げたり、生死を逆転させることすら可能な万能の能力だが、今回はカロリー消費量を抑えるために、『周囲の人の目に映らなくする』程度に留めていた。
(発動に支障なし、効力も問題なし。やはりカロリー消費に不安はあるが…姿を見えなくするだけなら、最低でも2時間は保ちそうじゃな)
カロリー消費以外にも、異なる世界で発動できるのか、という不安があったが、杞憂だったようだ。試しに近くに居た女子の目の前で手を振ってみたが、全く気付く様子はない。
ちゃんと効力を発揮していることに安心し、街の人たちの会話に耳を澄ませる。
ものの10分ほどで、ある程度基本的な情報は集めることが出来た。女性が噂好きなのはどこの世界でも変わらんの、と思いながら、集めた情報を頭の中で整理する。
(学園都市キヴォトス…なるほど、各学校が州政府のように各学区を統治しているわけか。学生しか居らん理由は分かったが…治安はあんまり良くないようじゃの)
こうして歩いている間にも、遠くから銃声や爆発音が聞こえてくる。通りすがる女生徒も銃器を携行しているので、これが普通なのだろう。美食屋が街中を歩いていると思えば、さして違和感もない。
―――しかしそれ以上に、一龍を驚かせたのは。
(…アカシア様、そしてフローゼ様。あなた方もいらっしゃっているのですね。儂と次郎と三虎と、5人揃って笑いながら食卓を囲んでいた、あの頃の貴方が…)
道行く少女や半獣人たちが口々に噂していた、シャーレに赴任した美食家の“先生”や、ゲヘナに着任した料理上手の“給食部顧問”。
地球の命運を担うことになり、崩れ去ってしまったあの黄金の日々、その一端がこの世界に蘇っている。それを思うだけで、一龍の胸はじんと熱くなった。
(とりあえずアカシア様が居るという、シャーレの場所を聞きたいところだが…この世界における連邦政府機関直属の組織に居るようじゃし、まずはこの学区の首長を通して面会の約束を―――)
まずは敬愛する師に再会しようと、シャーレの場所を聞くかこの地域の盟主経由でアポを取り付けようと考え、近くに居た人の話を聞こうとした、その瞬間。
一龍の頭上のビルが、爆発した。
即座に上を向けば、爆炎を貫いて降り注がんとする、瓦礫やガラス片、そして吹き飛ばされたと思しき人影。いずれも落ちれば多大な被害は免れ得ない。
一龍の行動は早かった。
「―――移り箸」
一龍の持つ二つ目の特殊能力、『箸』
強大なグルメエネルギーにより具現化された無数の箸が、瓦礫や人、細かいが致命的な傷の元に成り得るガラス片まで、一つ残さずつまみ上げる。落下するのは指先ほどの大きさの石粒や砂煙だけで、ビルの周囲に居た人々は、爆音が轟いた瞬間に逃げ去っていたため、怪我人は誰一人として居なかった。
「あァ!?何だこれ、瓦礫が浮いて…いや、デケェ箸につままれてんぞ!?」
すると、未だ黒煙が立ち上るビルの大穴から、ひょっこり顔を出した少女が驚愕の叫びをあげるのが聞こえてきた。
一龍は少女が顔を出す階層まで軽く跳び上がり、彼女の近くに立ってマイノリティワールドを解除した。
「こちらコールサイン00!敵性体の排除は完了した、だが何か訳わかんねぇ状況になってっから―――」
「嬢ちゃん、ちょいといいかね?」
「あァ!?まだ敵が―――」
突如背後から声をかけられ、苛立たしげに振り向いた美甘ネルだったが、そこに無造作に立っている老人を見た瞬間、背骨が氷柱になってしまったかのように凍りついた。
―――勝てない。
一目見た瞬間、ネルは確信した。
つい先日アカシア先生のガララワニ食事会に呼ばれ、彼と初めて対面した瞬間に『次元が違う』と悟り恐れ戦いたが、それと同じ感覚を今、目の前のこの老人に覚えている。
死の予感が頭をよぎる中、不意に思い出したのは、自らが率いるC&Cの仲間たちのことだ。通信の途中で言葉が途切れてしまったため、不審に思っているかもしれない。その結果救援に来たりしたら最悪だ。数が揃ったところで、この男には指一本触れることすら敵わないだろう。
死ぬのは自分だけでいい。ネルは瞬時に覚悟を決めた。
「…こちら00。いいかお前ら、今居る場所を一歩も動くな。じっとしてろ。1分以内にアタシから連絡なかったら、全速力でこの場を離脱、セミナーに緊急連絡をしろ。オーバー」
「いやいや、危害を加えるつもりは全くないぞい。ちょっと聞きたいことがあって声かけさせてもらっただけじゃ」
ネルの遺言じみた通信を聞いて焦ったのは、むしろ一龍の方だった。慌ててフォローするも、ネルの油断は解けない。いずれ死ぬにせよ、出来る限り仲間たちの脱出する時間を稼ぐ。その覚悟が対面で伝わってきて、一龍は申し訳なく感じた。
「…何が聞きてえんだ?」
「そんなに警戒されると傷つくのお…実は儂、アカシア先生の関係者でな。偶然ここに迷い込んでしもうたもんじゃから、まずはここの首長に面会して、アカシア先生にアポを取り付けたいと思うての」
アカシア先生の関係者、と聞き、ネルは考え込んだ。
アカシア先生が別の世界の出身であることは聞き及んでいたし、その関係者ということは、彼と同じ世界の出身であると考えられた。もちろん有名人の名前を使った虚偽という可能性もあったが、目の前の彼から感じられる強者の気迫は、少なくともこの世界の住人では出せないものだし、そんな小細工しなくとも自分を力尽くで捻じ伏せられるだろう。生徒会長のことを首長と呼ぶのも、キヴォトス慣れしていない感じが伺える。
冷静に考察を重ね、敵対する必要性は薄いと判断して、ようやくネルは警戒を解いたのだった。
「アカシア先生の関係者かよ、道理で…つか、別にわざわざウチの生徒会長経由でアポなんか取らなくても、行きゃ会ってくれるんじゃねーか?」
「先生の居る場所がどこか分からんでのお。良かったら教えてくれんかね?」
「そりゃいいが、こっからだと結構遠い―――いや、待てよ…そうだな…」
一瞬考える素振りを見せたネルだったが、悪戯っぽい笑みを浮かべて一龍に向き直った。
「うし、せっかくだからウチの会長に挨拶してってくれよ。アタシらの学校、ミレニアムサイエンススクールの校舎ならここから結構近いから、直接行くより会長経由で連絡した方が早ぇぜ」
「“面白いこと思いついた”みたいな表情が気になるんじゃけど…ま、そっちの方が早いならそれでいいじゃろ」
先ほど集めた情報のなかに、ここがミレニアムサイエンススクールという学校の統治区域であるという話があった。このキヴォトスでも屈指の勢力を誇る学校とのことだったが、どうやら目の前の彼女はその会長と何かしら繋がりがあるようだった。
「そうしてくれると嬉しいな。あ、会長にゃ『トキから会うよう薦められた』って伝えてくれや」
「それ、お主の名前じゃないじゃろ。勝手に人の名前使うのは良くないぞい」
「げ、それも分かっちまうのか。流石先生の関係者だな…ひょっとして血縁とか?」
「いや、一番弟子。かつ息子。血は繋がっとらんけど」
「マジかよ!そりゃスゲェ人に会っちまったなアタシ!」
出会った当初に抱いた死の予感はどこへやら、すっかり警戒心を解いて気さくに話すネルに、一龍がふと思い出したように声をかけた。
「そろそろ一分じゃろ。儂もう行くから、仲間に連絡してやりなさい。だいぶ心配しとるよ」
「っと、そうだな。ミレニアムの本校舎はここから南東に真っ直ぐ、あのデカいタワーの中に会長は居るはずだ。後は現地で聞いてくれ。分かんなくなったら『セミナー』って連中を頼ればいいぜ」
ネルが指さした方角には、黒煙で見えにくくはなっているが、確かに一際高いビルが見えた。一龍はビルに空いた風穴まで歩み寄りながら、ネルに礼を言った。
「ご丁寧にありがとう。無駄に警戒させてしまってすまんの。儂の名前は一龍。先ほど言った通り、アカシア様の一番弟子で義理の息子じゃ。君の名前を教えてくれるかい?」
「こっちこそ刺々しい態度取って悪かったな。アタシの名前は美甘ネル。C&Cのネルって言やあ、この学区では大概名前通るから、万が一困るようなことがあったらアタシの名前出してくれ。トキってのはアタシの部下の名前だから、会長と話するならそっちの名前出した方がスムーズだと思うぜ」
「そうか。ありがとうよネルちゃん。つまんでた瓦礫と女の子たちは、外の一か所にまとめておいたよ。また今度、部下の子ともども飯奢らせてくれ」
そう言って一龍が外に飛び降り、姿を消したのを確認して、ネルは再び無線機能をONにする。ちらっと秒針を見ると、55秒だった。
「あー、こちら00。心配かけて悪かったな。もう大丈夫だ」
無線で呼びかけた途端、仲間たちから怒涛の口撃が押し寄せる。
心配させるな、無茶しようとするな、という抗議の声は無視して、何があったのかという質問だけ拾って答えた。
「いや、とんでもねえ人間…人間?に会ったんだよ。アカシア先生の息子さんだとさ。やっぱりヤベェわ、先生の世界の住人。勝つどころか出し抜けるビジョンが全く浮かばなかった」
一龍を一目見た瞬間の怖気を思い出し、ぶるりと身を震わせるも、その顔には喜色満面の笑みが浮かんでいた。
「ああ、ミレニアムの本校舎向かったよ。―――大丈夫だよ。本気でミレニアムに危害加える気があったなら、アタシらなんかに気付かれることなく全部終わってるっての」
リーダーを怯えさせるほどの危険人物が本校舎に向かった、という話を不安視する声を宥めながら、ネルはこれからミレニアムに大きな転換点が訪れることを予期し、胸を高鳴らせるのだった。
「正直楽しみだぜ。あの堅物会長があの人と出会って、どんな化学反応が生まれるのか」
ミレニアムタワーのとある階。
キヴォトス三大学校の一角、ミレニアムサイエンススクールの生徒会『セミナー』で会長を務める―――すなわち、このミレニアム学区の主である調月リオは、いつも通り脇目もふらず己の仕事に打ち込んでいた。
彼女が執務を行う部屋には、彼女以外誰も居ない。
より正確に言えば、彼女が唯一信頼を置く護衛以外に誰もこの部屋に入れたことはなく、この部屋の場所はその護衛以外誰も知らない。
常日頃から、他の生徒会(セミナー)メンバーと同じ部屋で仕事することなど皆無であり、他のメンバーもリオが普段どういう仕事をしているのか全く知らない。何せ普段から生徒会長が不在なのが当たり前であり、生徒会としての仕事はリオ以外のメンバーで対応しているのが常なのだ。
そんな風に他人を遠ざけてまで何の仕事をしているかといえば、後ろ暗い仕事に他ならない。
彼女が今キーボードを叩いて一心不乱に作っているのは、俗にいう裏帳簿と呼ばれるものである。
使途は極秘、財源はセミナーの予算から横領したもの、期間はすでに半年を超え、金額は優に億単位と、真っ黒を超えた真っ黒さであり、この秘密の執務室で作業をするのもある意味納得できるものであり―――
「ふむ、裏帳簿かね?」
―――そのために。
自分の背後から突然声をかけられる事態など、全くの想定外であった。
「―――――!!?」
声にならない悲鳴をあげ、彼女らしからぬ無様な慌てぶりで椅子から転がり落ちる。それを尻目に、声をかけた張本人は、リオが操作していたコンソールを無造作に操作して、全体に目を通し始めた。
「ふむ、結構な金額じゃけど…建設費、維持費、武器費、こっちは電気代かの?キヴォトスの電力代がどれほどのものかは知らんが…ビル何棟分じゃこれ?この予算計上で行くと、年間でひとつの街程度にはなるが…いや、要塞か?要するに秘密基地、もしくは決戦兵器の類―――」
「ま、待ちなさい!!」
リオが焦燥に満ちた声をあげた。彼女の人生でこれまで出したことのないほどの大声だった。
スクール内でトキ以外誰も存在すら知らないはずのこの部屋に、全く気付かれることなく侵入したこともそうだが、それ以上に、初見の裏帳簿を斜め読みしただけで、自分が長らく秘密裏に進めてきた計画の数割以上をあっさりと解き明かしてしまったという事実に、リオは震え上がった。
「トキちゃんの紹介で来た―――と、ネルちゃんに言えと言われての。学校まで来るのは簡単じゃったが、君の部屋を見つけるのは苦労したわい。まるで違和感を気付かせない隠し入口に、数十種類のシステムを混在させた数重のロック、赤外線レーザーや重量感知システムなど数十種類の侵入者検知システム。あの狭い区域内にあれほどの機能を、そんな若い身空で仕込んでみせるとは、大したものじゃわい。流石はキヴォトス最先端の科学技術学校ミレニアムサイエンススクール、その生徒会長じゃの」
滔々と、この秘密の執務室に至るまでに仕掛けられた罠の数々を述べる姿に絶句する。
一龍が言うように、この執務室の存在を秘匿するため、ありとあらゆる種類の感知器を仕掛け、侵入者を確実に感知し、この部屋に至るまでに排除できるように備えてあったのだ。
だが目の前の老人は、それらに一つたりとも引っかかることなく、そしてこの部屋に居た自分に悟らせることなく、ここまで辿り着いたのだ。あまりに信じ難いが、覆せない事実だった。
だが、一つだけリオにも分かることがあった。
おそらくこの老人は、キヴォトスの住人ではなく、かのシャーレの先生と同じ世界の住人だ、ということだった。
「儂の名は一龍。現在シャーレにて先生を務めているアカシア様の一番弟子で、義理の息子じゃ」
「アカシア先生の…息子、ですって…?」
アカシアの名は無論知っている。
異世界より来たという彼により、キヴォトスにはグルメ文化という新しい潮流が生まれつつある。同時に、彼が持ち込んだという『グルメ細胞』なる未知の存在により、当初自分が予測していた危機、そしてそれに対抗するべく立案していた計画が、大幅な修正を余儀なくされるかもしれない事態に直面しているのだ。
もしやその当人が、自分の計画を掴み彼をけしかけてきたのか。そんな最悪の予想が頭をよぎる中、一龍は床にへたり込むリオに手を差し伸べた。
「危害を加えるつもりはないよ。君の裏帳簿を見てしまったのも偶然じゃ、すまんのう」
「…ごめんで済むと思ってるのかしら」
「済まなかったら、どうなると?」
差し伸べられた手を振り払い、机の端に手をかけ立ち上がる。
そのまま自然な動作で、棚のひとつに手をかけようとしたが、一龍が口を開く方が速かった。
「データ消去スイッチか何かかね?それなら君に声をかける前に、内部の線を切っておいた。押しても何も起こらんよ。自殺も無理じゃ。その前に儂が止める」
引きだしを開け、正に中の全データ消去用の緊急ボタンを押そうとしていた手が止まる。
自分が座っていた真横の引き出しを開けられ、なお気付けなかった。その事実に心が打ちのめされ、敗北の二文字が心を埋め尽くす。
絶望に染まり、真っ青な顔で沈黙し立ち尽くすリオに対し、一龍が再び口を開いた。
「…何か、キヴォトスに致命的な危機が迫っておるのなら、話してほしい。力になろう」
俯いていたリオが顔を上げる。
そこには真摯な眼差しで自分を見つめる一龍の姿があったが、今のリオからしてみれば、敗者に慰めをくれてやろうという傲慢な姿勢にしか見えなかった。
「懐柔のつもり?笑わせるわね。貴方の何を信用して、何を話せというのかしら」
「だが、話す以外に出来ることは無い、と分かってはいるんじゃろ?お主の聡明さなら、とっくに詰んどることは理解出来ておるはずじゃ。その上肝心要の計画の概要まで知られているのなら、もう諦めて全部話す以外に無い。そうじゃろ?」
「っ…!!」
ギリ、とリオの人生で初めて歯を軋らせる音が響いた。
一龍の言う通り、ここで全て話す以外に、リオに出来ることはない。データの破棄も自害も阻止され、護衛が居ても居なくても抵抗は無意味。ささやかな反抗を見せたものの、逆に見透かされるというお粗末さだ。
怒り、悔しさ、恥ずかしさ、情けなさ、これまでリオの人生で感じたことのない強い感情に、心が千々に乱れ、引き裂かれそうになる。
そんなリオに、一龍が再び手を差し伸べた。
「先ほどちらりと見たが…調月リオちゃん、で合っておるな?何の慰めにもならんかもしれんが、これだけは伝えさせてくれ」
一龍の言葉に、俯いていたリオが顔を上げる。疑念と不信に満ちた目ではあったが、目を合わせてくれただけで十分だった。
「先ほど儂が見た裏帳簿、非常に綺麗にまとめられておった。儂が一目見て読み解いたことに驚いとったようじゃが、上手に見やすく作られていたからこそじゃ。そして私利私欲のために横領したはずが無いことも、即座に理解できた。君ほどの傑物が横領せねばならないような金額を集めて運用しているのなら、それは将来このミレニアムに―――いや、キヴォトスにおいて、絶対に必要になるものなんじゃろう」
思っても見なかった言葉に、リオが目を丸くした。
自分が密かに進める計画に、疾しいことは何もない。近い将来訪れるキヴォトスの危機に対して、必ずや大きな効果を発揮し、多くの人を救うことが出来るものだという確固たる信念をもって、行動に移している。その自負がある。
しかし、その計画の進行のために、自らが犯している横領も正当化されるとふんぞり返るほど恥知らずではない。日々限られた予算を適切に配分し、この学術研究都市を運営してくれているユウカとノアには、いつも申し訳なく思っている。生徒会長としての職務を放り出しているのだから尚更だ。
自分の計画が正しいと信じてはいる。だが、賞賛や褒賞なんて微塵も期待していない。
誰からも理解してもらえるなんて、期待したことは無いのだ。自分が期待していないことを他人に期待するなど、非合理的だ。
そう考えて、それが道理だと結論付けて、今日まで自分のやり方を貫き通し、自分の人生を歩んできた。
にも関わらず。会ってまだ数分のこの老人は。
自分の犯罪の証拠を見て、自分を責めるのではなく、尽力の数々を必要なものと認めてきたのだ。
「どうかしらね。私が何を運用しようとしているのか、予測はついているのでしょう?なら、私の方がキヴォトスを脅かす危機そのもの、と取れるのでは?」
「それはない。君ならこんな回りくどい手を使わずとも、キヴォトス全土を支配できるじゃろ」
「…支配できる、なんて分からないわよ。やろうとした事ないもの」
「ふふ、それさえ聞けたら充分じゃよ。君は君だけにしか出来ないやり方で、キヴォトスとそこに住む人々を守ろうとしておった、ということじゃ」
不貞腐れたようなリオの言葉に対しても、一龍の真摯な言葉と態度は揺るがない。
この老人は、本気でそう思っている。キヴォトスを支配できる才覚を持つ人間が、キヴォトスを守るために全力を尽くしているのだと、そう確信して自分に語りかけてきている。
それを嫌でも理解させられてしまい、目を合わせているのが恥ずかしくなり、思わずそっぽを向いてしまった。
「他の誰に理解されていなくとも、儂だけは断言しよう。リオちゃん、君はようやっとる。大したもんじゃよ。儂がこれまで会った同年代のどの子よりも、ずば抜けた知性と危機管理能力の持ち主じゃ。その君が一人で抱え込まねばならないほどの危機があるというなら、儂はその力になりたい。今日まで孤独に戦ってきた君への、最大限の敬意じゃ」
一龍は最後まで、リオを信じる姿勢を崩さない。リオがキヴォトスのために尽くしてきた努力を認め、その力になりたいと、大きな手を差し伸べてきている。
まるで甘い毒だ、とリオは思う。少なくとも自分の人生で、これ程までに自身の努力を認められた経験は無かった。そもそも努力ではなく、当然の仕事であるとすら思っていた。だがその全てを包括し、認められ褒められるという行為は、これほどまでにむず痒く心地良く、手を伸ばしたくなってしまうものなのか。
やがて、根負けしたリオが大きな溜め息を吐いた。
「…分かったわ。懐柔されてあげる。それで、何を聞きたいのかしら」
降参、とばかりに諸手をあげたリオに、一龍がにっこりと微笑む。
「その前に、アカシア様に連絡を取ってもらっていいかの。元々そのつもりでここに来たもんでな」
「…はぁ。良い様に転がされてる気がするわね。どうせだし、アカシア先生にも話した方がいいかしら。どの道あの人の出現のせいで、当初の予測がだいぶずれてしまっているし、グルメ細胞関連の研究はあまり進んでいないようだから、もっと情報を得ないといけないし…」
「じゃあアカシア先生をここに呼ぼうか。実際に見せた方がいいものもあるじゃろ。その間に、キヴォトスの基礎知識とかを教えてくれると嬉しいのぅ」
「はいはい。言われた通りにするわよ。懐柔された私の負けだものね。その代り、グルメ知識について色々聞きたいことがあるから、アカシア先生が来るまでの間教えてもらえるかしら?」
「もちろんだとも―――いや、いっそのこと儂、ここに着任した方が良いかもしれんの」
そうしてリオはセミナーの各員に連絡し、ミレニアムの応接室に一龍を案内する。
翌日にはキヴォトス中に新たな訪問者『一龍』の存在が告知され、その才覚を活かすため、ミレニアムに新設されるグルメ関連の研究部門の教授として着任することになったのだった。
一龍編は一龍とリオの交流がメインとなります。
二人の関係性は、人格者の祖父と素直になれない孫のイメージです。
後編は明日同じ時間にアップします…が、予想よりだいぶ長くなっているので、ひょっとしたら中編と後編に分けるかもしれないです。
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