ダイヤノイドの上層フロアに忍び込み、フレンダの部屋から彼女の足取りを探る。
方向性は定まった。
加納が壁掛けの時計に視線を送ると針は午前六時あたりを指している。
十月七日月曜日。当然普通の中学生である加納には今日も今日とて学校があるが、今は一刻でも時間が惜しい。学校には体調不良につき欠席する旨の連絡を入れておく。フレンダの命のタイムリミットは最速で今日の夕方。情報の不足している加納としてはダイヤノイドの開店時間すら待って居られないくらいだ。
とはいえ、加納神華はありふれた
しかし正面から開店前のダイヤノイドにアタックを仕掛けるなど自殺行為だ。『
ダイヤノイドの構造を思い浮かべる。
第十五学区の駅と直結した下層の商業エリア。テレビ局と融合し、体験型のエンタメに特化した中層エリア。そして金髪の友人の部屋のある上層エリア。
商業エリアの開店まではあと四時間。
高層エリアの高さは地上五十階を超える。加納は自在に飛行デバイスを操るフレンダのような特殊な技術は無く、屋上からの侵入は不可能だ。
最悪、『FUKIDASHI』の一件から加納神華自体が『裏』にマークされている場合だってある。
そもそも、フレンダの部屋番号はどうやって特定するのか。特定できたとして、鍵はどう開錠する?
と、そこまで条件を列挙し考え抜いたところだった。
「……このルートならいけるかも?」
何か閃いた様子の加納は携帯端末を使用して幾つか簡単な操作をすると、すぐさま外出用の私服に着替え始めた。いつものスカイブルーのインナーと耳付きフードのジャケットに袖を通しつつ、軽く乱れた茶色いセミロングを整える。
加納神華は加納神華のまま、第十五学区の秘奥に飛び込む準備を着々と進めていく。
学園都市の『裏』からの攻撃が、フレンダと繋がっているSNSの利用と、街の治安維持組織への通報の妨害に留まっていて助かった。この状況で不幸中の幸いなどとのたまうつもりはないが、マルウェアを流し込まれたりして端末の全機能を全て奪われていたら《こう》》はいかなかっただろう。
第十五学区の駅ビル、すなわちダイヤノイドからほど近くにある、開けた公園だった。
大会優勝を掲げる運動部、というよりは健康や美容目的らしき雰囲気のランナーばかりの広場で、加納神華は電動補助自転車にジャイロを噛ませた陸上宅配ドローンから『荷物』を受け取っていく。
自宅でなくても受け取ることができるというのは便利だ。移動先を配達先に設定しておけば、待機時間も減らせる。
加納は膝を抱えれば本人がそのまま収まりそうなほど大きなサイズの段ボール箱を開封し、中身を取り出していく。
それは国際的な自転車宅配サービスのロゴマークの付いた巨大なリュックサックだった。リュックよりアウトドア用の保冷バッグを縦に向きにして背負えるようにしたもの、といった形状である。ランドセルなんかと比較してもずいぶん角ばっていた。
中身を検められないように、というより重心の不自然さでバレないように加納はテイクアウトの牛丼を幾つかしまい込んでいく。
「これで大丈夫かな……?」
宅配バイトの活動そのものは年齢制限があり身分証明書の提示が求められるが、専用の公式リュックサックを購入するだけなら中学生の加納でも問題なく行えた。
頭を覆うフードについた耳を潰す形で学生寮から持ってきたヘルメットを深く被る。
いよいよ迫る本番を前に、加納は作戦内容を頭の中で反復する。
(ダイヤノイドは商業フロアと上層フロアだけじゃない。中層のテレビオービットなんかは生放送の朝の情報番組の撮影なんかもあって早朝から稼働しているんだ。開店前の商業フロアや限られた人間しか立ち入りできない上層フロアと違って、テレビ局は人の出入りも激しい。局のスタッフ以外にも資材搬入業者やスタイリスト、
作戦はこうだ。まず宅配バイトの振りをしてし従業員用のエレベーターから下層を飛び越え一気に中層のテレビ局に侵入する。そこからは高層へ繋がるエレベーターに乗り換え、友人の部屋のある高層を目指す。
身元を疑われ無理に追及されると怖いが、こちらはあくまで一アルバイトに過ぎないように見えるはず、周りの人間も多少外見が幼かろうが深く突っ込むことはしないだろう。破れかぶれな作戦だろうが、こちらは金髪の少女の部屋に一度辿り着きさえすればいいのだ。
つい昨日まで金髪の少女の背中に隠れながらでしか踏み込めなかった場所。
でも今は違う。身元を偽り、一人きりで、他の誰でもない、フレンダ=セイヴェルンの足取りを掴むために。
加納神華は、天高くそびえる第十五学区のランドマークへと歩を進めていく。
──と覚悟を決めたものの。
加納神華の侵入作戦は拍子抜けするほど順調なペースで進んでいた。
地味に最大の難所であった従業員口は、身分証の提示すらせずに通過することができた。
服装の効果だろう。国際企業のロゴマークは強い。自動販売機で飲料を購入する際、価格が低く名前の知らないドリンクよりも、多少価格が高かろうが有名企業のドリンクを購入したくなる心理状態に近い。人間、誰もが知る企業名が入ると無意識に警戒のガードが緩くなるものだ。実際はそのブランド力だけを借りているだけの狐かもしれないのに。
加納は堂々と裏手の従業員用のエレベーターから、ダイヤノイド中層、テレビオービットの社屋まで昇り詰める。
内部に入ってしまえば後は簡単なものだ。
早朝から無数の関係者でごった返すテレビオービットの中で、外部ゲスト用の名札を首から下げた宅配バイトを不法侵入者だと疑う人間はいなかった。加納が多少幼くあっても、『誰もが違和感を抱きつつも誰も実際に指摘しようとしない』という状況そのものが、さらに指摘を遠ざける。
結果加納は幾つかの偶然に助けられながらも、ダイヤノイド上層へと繋がるエレベーターに乗り込むことに成功したのだった。
「……ふぅ」
ぶ厚い木目の自動ドアが閉まると、全身が緊張感から解放された加納は小さく息をつく。
最終的はスムーズに進むことができたとはいえ、道中は鼓動の激しさで心臓が破裂するかと思った。二十五メートルのプールを息継ぎなしで往復したような呼吸の詰まり具合と疲労感だ。
しかしここからが正念場だ。
フレンダ=セイヴェルン。彼女の部屋に辿り着き、連絡不可能となった彼女の足取りを掴む。夕方までに彼女と合流し、さらに『インディアンポーカー』の予知を回避しなければならない。全体を俯瞰してみればまだまだ序盤なのだから。
未だ止まない心臓と精神を落ち着ける為に深呼吸を加納が繰り返していると。
ポン、と軽い音がエレベーターの籠の内で響く。到着の合図だ。
エレベーターフロアへと出ると、加納は口の中で小さくつぶやく。
ますは、この広い上層部で友人の部屋の候補を一つに絞り込まなくてはならない。が、加納には心当たりがあった。
「0と9なら9。1と8なら1、2と7なら7、3と6なら6、4と5なら……」
「……フレンダなら多分こっちだ」
ホールにあった電子パネル式のフロアマップと廊下に連なる表開きの引き戸を見るに、上層部の部屋番号は居住者が好きなように設定できるらしい。でなくても友人である加納には分かる。あの金髪の少女はパスワードなんかの並びを同じにしてしまう悪癖があった。番号が固定であってもその部屋を無理矢理契約しようとするに違いない。
フロアマップ再度見返すと、その番号はすぐに見つかった。
「よし……!」
切迫した状況にも関わらず、加納の頬が一瞬緩む。
炭素系素材の強固な玄関を突破する方法には用意がある。後は部屋の中でフレンダとアクセスする手段を獲得するだけだ。
ついに定まった目的地に向け、加納が歩み始めた瞬間だった。
かつん、と加納のものではない靴音が、静寂な高層フロアの通路の曲がり角の先から此方へ通り抜けたのだ。
少年の小柄な全身が震えた。足が竦み、口元に手を当てるまではほとんど脊髄反射だった。隙間から漏れ出る熱い吐息が、手のひらを生ぬるく温める。
配達員の振りをするなら気配を消してずっと立ち止まっているのは不自然だ。そう当たり前の事に気が付くのに、たっぷり十秒はかかってしまった。
加納神華は通路の先、靴音の存在がいる先へと、ゆっくりと震える足を動かしていく。
荒い息を吐きながら、命綱でも握りしめるように力強く宅配用のリュックサックの肩ひもを両手で握りしめる。背負った巨大な荷物の下の背中がぐしょぐしょと湿って気持ち悪い。
相手はあくまでただの住人だ。
仮に警備員だったとしても、この服装ならば住民に宅配を依頼されたと誤魔化せる。
そう状況への仮定とその対抗策を思い浮かべ、無理にでも自分に言い聞かせる。
自分で自分を信じられなくなったら、体重すら支えられなくなるんじゃないかとすら思えた。
ぐるぐると緊張で思考がまとまらないまま、加納は廊下の曲がり角に到達した。
右折路の先で、正体不明の足音が、迫る。
すれ違う。
加納神華は、その音源の正体を目撃した。
その女は日課のウォーキングでもこなしているかのような自然さでその通路を歩いていた。
彼女の本業は防衛や警邏ではない。しかしながら、この街の権力者は彼女を選択した。現在の彼女の所属を無視してでも徴用したいと感じさせるほどの『実績』が彼女にはあったのだ。
長い赤髪を、頭の後ろで二つ結びにした高校生程度の年齢の少女。
能力開発の名門、霧ヶ丘女学院のブレザー制服をボタンも留めず肩に掛け、地肌に桃色のさらしを巻いただけ、という大胆な服装。短いスカートに巻かれたの金属製の装飾ベルトにはホルダーが付いており、警棒にも使えるような軍用の懐中電灯が脇差のように突き刺さっていた。首筋から伸びる複数のコードは、脳波の乱れを測定し、『とある一件』によってさらに増大した能力使用時のストレスを抑える為の低周波振動治療器のものだ。
───土台不可能であったとしても、加納神華は違和感に気付いていなくてはならなかった。
本来、ダイヤノイド周辺には一般人ではそうと分からない形で金で雇われた『暗部』の迎撃班が潜んでいるということを。ダイヤノイドに悪意を持って近づこうとする輩を排除するために、あえて『表』の人間を雇って『暗部』の気配を消してまでの徹底ぶりで、だ。
通常時なら宅配バイトに身元を偽っての侵入など、そもそも従業員用入口に辿り着く前に彼らに一蹴されて終わりだっただろう。
しかし彼らが不在だったのは偶然のビギナーズラックではない。むしろ真逆、加納神華とフレンダ=セイヴェルンを取り巻く不幸な因果がこの状況を作り出していた。
なにしろ、例の弓箭猟虎が引き起こしたダイヤノイドでの火災が、このビルの安全性に信頼を置いていたVIPの不安を大いに煽ったことが原因なのだから。
これまでと同じ警備体制では、足りない。そう感じたこの街の重鎮等は、不足を埋めるためにこう判断した。辛うじて『表』にいる程度の戦力なぞ切り捨てて、その分の予算で純粋なる『暗部』出身者に警備を任せた方がより確実だ、と。
つまり、靴音の正体は、元『窓の無いビル』の『案内人』であり。
現在暗部組織『グループ』の正規メンバーを務める人物、その人。
結標淡希。
特級の閉所である『窓の無いビル』の内外を往来していた経験を買われ、同じく頑強な閉所であるダイヤノイド上層エリアの警備を一任された人物である。
この日、加納神華は、一般人が『暗部』の領域に足を踏み入れることの、本当の意味を知った。
「ねえ」
「貴方、宅配バイトの恰好をしているけれど、こんな話を聞いたことないかしら? ダイヤノイドの上層エリアは、セレブやVIPの貸金庫状態になっていて、『住民』なんて一人もいない、って噂話。だから私の眼には今の貴方の存在が、このダイヤノイドにとってとても不自然に映るのだけど」
「率直に尋ねさせて貰うわ。貴方、一体何者?」
路地裏の不良や弓箭猟虎と対峙した時のように、加納のそばに頼れる友人はいない。
薄っぺらい変装とともに、いともたやすく化けの皮は剥がされる。
正真正銘の『暗部』相手に、少年の真価が試される時がやって来た。