キリの良い場面で終わろうとした結果、少し長くなってしまいました。
「率直に尋ねさせて貰うわ。貴方、一体何者?」
ダイヤノイド上層フロア。
学校のそれよりも倍以上の幅を持つ広い廊下の曲がり角にて。
『暗部』が、配達員に扮した加納神華に語り掛ける。
二つ結びにした長い赤髪。地肌に薄いピンクのさらしを巻いてその上から冬服のブレザー制服を羽織り、スカートのベルトに取り付けられたホルダーに軍用の懐中電灯を刺した、高校生程度の外見の少女。
知識にも経験にも乏しい加納でも分かる。
同質だった。
眼前の赤髪の少女が放つ、あの弓箭と同質のプレッシャー。それが少年の肌をぴりぴりと静電気のように刺激する。
『持っていない』側だからこそ、切り立つ崖を下から見上げるような差がハッキリと分かる。
彼女は高層フロアの住民などではない。そして、高層フロアの警備員なんて生優しい存在では、断じてない。
論理的な根拠は何一つとして存在していないのに、加納神華は確信を抱く。
本物の死と暴力の匂いを漂わせる彼女は学園都市の『裏』の住民であり、友人を助け出すためにいずれ加納が辿り着かねばならない場所に既に立つ人物だ、と。
本来ならば加納のような凡人とは決して交わらないはずの存在が、少年を捉えた。
全身が緊張に包まれて声を発することすらできない加納に代わり、赤髪の少女が再度囁く。
恐竜に睨まれたような気分だった。
いっそ非現実的な程の、圧倒的な恐怖。
「いつまでもそうして黙っているようなら、私から名乗らせていただこうかしら? 私は結標淡希。ここの警備を一時的に任されている者よ。貴方は?」
結標淡希。そう名乗った彼女は緩慢な動きでベルトのホルダーから軍用懐中電灯を抜き取り、手の中でくるくると弄ぶ。
恐怖でのどが乾ききって音を出すこともままならない加納に対し、赤毛の少女は余裕を見せつけるように饒舌に語る。
「沈黙は金、とは言うけれど、ここではその選択はおススメしないわ。私、貴方の素性次第では貴方を殺してでも排除しなくてはならない身の上なの。それでも尚無言を貫くつもりなら、私は貴方を侵入者として扱うわ。立派な標的ね」
結標は手中の軍用懐中電灯のグリップを握りこむと、侍が刀の切っ先を向けるような仕草で幼い少年へと突き付ける。
目くらまし、照準、サーチライト、あるいは原始的に棍棒や警棒。 『軍用』と冠が付いているせいか、
「貴方のような年頃の少年に手を上げる趣味はないの。『偶然迷い込んでしまったので今すぐに引き返します』と言うなら、乱暴はしないと約束するわよ? 実際の目的はどうであれ、ね?」
加納の中でもう一人の自分が囁く。
今すぐ踵を返すなら見逃すと結標は言っているんだ。
フレンダのタイムリミットまではまだ時間があるじゃないか。
ダイヤノイドの上層フロアに侵入できただけでも御の字だろ。
あの弓箭に匹敵する相手に立ち向かっても命を無駄にするだけだ。
加納の理性と本能、その両方が喧しく警鐘を鳴らしている。
また後ろ向きで泣き虫な自分が顔を出す。
一歩、また一歩と無意識に震える脚が後退る。
それでも。
加納はぐっと、引き換えそうとする両足を押さえ込んだ。
今ならまだ間に合う。
引き返せば許してくれる。
結局、そんなのただの言い訳だ。
それで一度寮まで帰って、もう一度上層に飛び込んで、それでもまた結標が、彼女に匹敵する『何か』がそこに立っていたら、また同じ理由で逃げるのか。
自分に力が足りないと言い訳して、未来の自分に負債を押し付けて、仕方がないと言い聞かせるのか。
金髪の友人が弓箭猟虎に立ち向かって行った時、彼女は100%勝てる保証があったからそうしたのではない筈だ。
あれは彼女にとっても通学中に急にバスジャックに会うような突拍子もない事件だったのだろう。それも、ただ一人で巻き込まれていたのではなく、あの時は加納という人質のハンデまで背負っていた。
それでも、少女は加納を逃すため命を張った。
「ぼくは」
加納神華は口を開く。
小さな、けれど揺るぎない意思を持った声が、
少年の中で、何かが変わろうとしていた。
あるいは、それは元から少年の中にあったのかもしれない。ただ、臆病で泣き虫な自分、という自己評価そのものが、それに蓋をしていただけで。
ざらり、と見えない空気のようなものが確かに動いた。
今度は逆に、一歩を前に踏み出した。
「ぼくは友人を助けるために此処に来た。どうしても通さないというのなら、あんたはぼくの敵だ」
「あら?」
結標の返事は軽いものだった。
しかし、それは加納の覚悟を軽く見てのものではない。
油断ではく、余裕。
ただ、赤毛の少女と茶髪の少年には、それだけの力量差があっただけのこと。
「言ったでしょう。私、貴方のような年頃の少年に手を上げる趣味はないの」
「だから」
「瞬きの間に終わらせてあげる。貴方が痛みも恐怖も感じないほど、一瞬で」
ギリ、と結標が警棒としても扱える軍用懐中電灯を強く握りしめる。
赤毛の少女がそれを振るうと同時、加納は曲がり廊下の角に潜り込む。
加納はずっと自身に向けられた軍用懐中電灯を警戒していた。それでも、その回避が成功したのは単なる幸運でしかない。そう確信できるほどの紙一重の一撃だった。
結果、軍用懐中電灯のライトに照らされた加納のデリバリーリュックは一瞬で消滅した。
「……っ!!! …………うわっ!」
思わず息を呑む暇もなく、後ろに引っ張られていた重心のバランスが崩れ、勢いづいた加納はそのまま前に転倒してしまう。
じわりと痛む膝の傷がどうなっているかなんて気にしていられない。
相手は懐中電灯の光を当てただけでその物質を丸ごと消滅させてしまうのだ。加納が直にその光を浴びたらどうなるのかなど考えたくもない。
異形の能力か、テクノロジーか。謎の現象の推察を後回しにしつつ、すぐに立ち上がる。
廊下の角の向こう側がら嘲るような声がした。
「先の威勢はどうしたのかしら? 随分逃げ腰のように見えるのだけど」
かつかつと、愉しむような靴音はまだゆったりとしたペースのままだ。
ライオンとシマウマどころか、象と蟻ほどの戦闘能力の差の中では、その程度ではなんのハンデにもならない。象からすれば足元を歩く蟻を潰さないように力加減する方が、思い切り潰してしまうよりも遥かに難しいくらいなのだから。
それでも奴が本気で走ってこないのは加納にとって僥倖だった。フード付きのジャケットの懐から、一つの小道具を取り出す。
(本来は鍵のかかったフレンダの部屋に無理矢理入る為に持って来た道具なんだけど)
ロールタイプのセロハンテープのような形状の爆発テープだ。
ダイヤノイドにて加納が逃れる際にフレンダから渡された物のうちの一つだ。まだ加納の手元にあるのは、ただの回収ミスだろう。
基本戦闘モードでは無敵なのに、最後の最後でヘマをするのは彼女らしい。そういう部分は『裏』も『表』も変わらないようだ。
友人のことを思い出し薄く笑い、加納は逃走しながら爆発テープを導火線のようにダイヤノイドの壁面に一直線に貼り付けていく。
結標もまた角を折り返し、逃げ惑う加納の背を視界に捉える。
「精々二十メートルと少し、といったところかしら? 貴方、その程度で私の『
『
ペンニードル型の電熱式着火装置だ。
無機質に並ぶ扉の奥が誰かの住居であることが気になるが、贅沢は言ってられない。
その炎はテープの上で激しい火花を撒き散らしながら、木材に偽装した炭素系素材の壁面を一秒足らずで駆け抜けていく。
ダイヤノイドは熱に弱い。耐衝撃ならば極めて頑丈な炭素性物質の壁面がナイフに切られたバターのように軽々と、テープのラインに沿って切り裂かれる。
「徒手ではなかったようだけど。それが何になるのかしら? 確かにそれなりの威力ではあるけれど、まさか、そのテープを私に巻き付けて着火でもしてみるつもり?」
広い通路の中央を堂々と闊歩する結標に、その熱は届かない。
改めて、ダイヤノイドは熱に弱い。しかし、単なる炭素という物質としての強弱と、ダイヤノイドという建造物全体が熱に弱いことは、別の意味を持つ。
物質としての弱点を理解しているのなら、その対策を用意しておくというのが建築学というものである。
ダイヤノイドもまたその壁を突破した上で建造されているのだ。ありとあらゆるブランド店の集う下層。テレビ局の社屋を丸ごと内包する中層。数多のVIPが貸金庫として利用する上層。
こうした顧客に『絶対』なる安全と信頼を提供できているからこそ、ダイヤノイドは学園都市最大の歓楽街である第十五学区のランドマーク足り得るのだ。
必然、ダイヤノイドには無数の消火設備が準備されている。多くの芸能人やVIPに安全という信用を確保する為、下手な木造の文化財や世界遺産以上の物量で、だ。
この瞬間、加納神華は金髪の少女が弓箭の射線を遮るために用いた手段を偶発的になぞることとなる。
ダン、ダン、ダン、ダダン!!!!!!!!!
加納と結標、二人の間に広がる僅か二十メートルほどの木目調の廊下をいくつもの防火シャッターの障壁が埋めていく。
『表』の世界の一般人に過ぎない加納は結標淡希の起こした現象の正体など理解していない。ただ、懐中電灯の光が当たった物質は消滅する、とだけ認識している。
それはある種の正解を引き当てていた。
結標淡希は余りに強大な能力である『
擦り傷に消毒用のエタノールを吹きかけるように、壁面の焦げついたラインに消火用スプリンクラーの水が浴びせられる。空が青く見える理由でお馴染みのレイリー散乱は、空気中だけでなく、透明な液体であっても発生する現象だ。
防火シャッターによる物理的な障壁に加え、こちらもまた軍用懐中電灯の光を、結標の能力を阻害する。
しかし、結標は不敵な笑みを浮かべたまま、幾つものシャッターの奥で呟く。
「光を遮りさえすれば、私の能力の照準から逃れられる。間違いではないわね」
「でも、それだけで『
それでも少女の声色には焦りや怯えと言った感情は無い。在るのは愉悦。釈迦が掌の周りを飛び回る孫悟空を見つめるような、絶対的強者の仄暗い優越感だけだ。
加納神華は一時的にでもピンチが過ぎ去ったことで胸を撫で下ろしていた。相手がどんな恐ろしい能力やテクノロジーの使い手かは不明だが、すぐさまシャッターそのものを消滅させてこない辺り、なんらかの制限があるようだ。
金髪碧眼の友人の残した小道具があれば壁や扉は無視できる。結標はこちらの目的地を知らない。そこら中の部屋にダミーの穴を作ってしまえば、その全てを精査せねばならなくなるはずだ。
その隙にコチラはこっそりとフレンダの部屋に侵入すれば良い。戦わずして勝てるならばそれに越したことはないのだから。
───────そう考えていた。
特徴的な二つ結びの赤毛にさらしの上からブラザー制服を羽織った高校生くらいの少女、結標淡希が三次元的制約を全て無視して、加納神華の真正面に出現するまでは。
「………………ッッッッッッッ!?!??!?」
結標が軍用懐中電灯を奇術師のステッキのように軽く振る。暗闇で至近距離から直接浴びせるだけで失明させかねないほどの光が、加納の全身を照らす。
抵抗の余地など無かった。
直後、反射的に両目を閉じた加納神華の肉体は、
加納がゆっくりと瞼を開けると、視点が普段よりも高くなっていた。
それは小柄な加納の身長が突然成長したわけではない。
なんと、両足が宙に浮いている。いいや、正確には加納神華の全身が木目調の壁面に磔にされていたのだ。
ジャケットのフード、袖先、インナーの裾、ショートパンツの端。加納の纏う衣服の各地に、いかにも高級そうなコルク抜きが突き刺さり、細い四肢の自由を奪っている。その『杭』は、加納の両手足が貫かれていない方が不自然なほど微細な誤差もなく、衣類のみを刺し少年の体を壁面に縫い留めていた。ご丁寧に先ほどまで被っていた変装用のヘルメットまで外されている。
と、現在の状況を俯瞰して、加納はようやく自分が生きていることに気がついた。結標淡希の力は、光を浴びせた対象を問答無用で消滅させるものではないらしい。
なんとか頭を回し、これまで彼女が起こした不自然な事象を振り返る。
軍用懐中電灯の光を浴びた宅配用リュックサックの消滅。
幾つものシャッターを無視し、突如目の前に現れた瞬間移動。
そして極め付けは加納自身が転移させられ、磔になっている現状。
これだけヒントが出そろえば十分だ。これらの不可解な現象を説明できる理論に、加納は心当たりがあった。
それは能力者そのものの希少性に反して、『外』の世界の大衆にすら広く認知されるほど有名であり、自身の肉体に対して発動できるという時点で既に
三次元上の制約を無視し、十一次元座標での移動を可能とする能力の名は。
「『
口に出してから、それが間違っていることに気づく。
一般的に、自分以外の物質に対しての『
光を当てるだけで好き勝手発動する『
砂漠で砂金を探すように思考回路を彷徨う加納に、突如として意識外からの囁きがあった。
「生憎、私の
今まで彼女を視界に捉えられなかったのは、加納側から余りにも受け入れがたい現実から無意識に視線を外していたからだと感じるほどだった。
ダイヤノイドの壁面に繋ぎ留められた加納の耳元に、彼女の甘い吐息がかかってしまう程の至近距離。
長い赤髪を二つ結びにした少女、結標淡希は、加納神華のすぐ右隣に、ただ当たり前のように立っていた。
「……………ッッッッ!?」
首を振り顔を向けようとしても、壁面に縫い留められたジャケットのフードが邪魔をする。四肢の自由を奪われた加納は、眼球の動きだけで強引に結標を視覚内に収めた。
加納の貫くような眼差しを受けた赤毛の少女は、己のペースを崩すことなく流暢に話し続ける。
「『
そして告げられたのは絶望的な真実だった。
いくら何でも条件が緩すぎる。位置を入れ替える形でしか転移ができないだとか、生物は対象にできないだとか。そういった制限は一切無し。複数のシャッターを超えて加納の眼前まで転移してきた以上、絶対に懐中電灯の光を当てなくては能力を発動できないといった縛りがあるわけでもなさそうだ。カラオケ採点の音程バーのようなものだろう。無くても歌うこと自体はできるが、あったほうが音程やリズムが取りやすい。それぐらいの気軽さ。
只々シンプルな
希少といわれる学園都市中の空間転移系能力者が束になったとしても、勝ち目があるかどうかいった次元の相手。
格が、違い過ぎる。
結標淡希。
彼女は、無能力者が挑んでいい手合いではない。『裏』の世界のガジェットがあるから。その場のオブジェクトを有効活用すればあるいは。そんな楽観の一切を無慈悲に押し潰すほどの『能力』を彼女は有している。
絶対的な力の差に歯噛みする加納に、結標淡希はさらに囁く。
「貴方がわざわざ此処まで昇って来たのは、友人を助けるため、だったかしら? ねぇ。ダイヤノイド上層フロアにこんな頑丈な『金庫』を求める『友人』さんが、単なるお金持ちだとでも思っているの? 此処を借りるのは、後ろめたい『何か』を隠す必要のある人間だけ。そうでもしなくては安心を得られず夜も眠れないような、ね?」
「……な、にが」
「そんな人間に、貴方のような一般人が命を懸ける必要も、散らす意味も無いわ。これが本当の最後通告よ。『偶然迷い込んでしまったので今すぐに引き返します』と言いなさい。瞬きの間にダイヤノイドの外まで飛ばしてあげるわ。学園都市の『暗部』という地獄に落ちるか、比較的平和な日向の世界に留まるか、決定権は貴方の手の中にあるわよ?」
実際、考えなかった訳ではないのだ。
その可能性を。
フレンダ=セイヴェルンは『裏』の世界ですら許されないことを行い、その当然報いとして何者かに殺害された可能性。惨たらしい死に様も、復讐や報復の結果だとすれば辻褄も合う。
フレンダ=セイヴェルンの『裏の顔』、あるいは、加納やフレメアに見せない『本当の姿』。
もしも、金髪碧眼の友人が弓箭猟虎のように、明確な殺意でもって他者を害すような存在だったとしたら。
もしも、金髪碧眼の友人があの夢で見たようなグロテスクな末路を、他者に振り撒く側の存在だったとしたら。
だが。
そんな位置で悩むようなら、加納神華はダイヤノイドまで来ていない。
それでも恐怖で引きつる喉を、無理やりにでも開く。
「例えフレンダが『暗部』とやらでどんなひどい事をしていったって、それでぼくがあの子から受け取ったものが全部嘘になる訳じゃない。ぼくが戦う理由なんて、それだけで十分だよ」
その震え声に込められていたのは、揺るぎない覚悟。
しかし、それは彼女との決定的な対立を同時に意味している。
結標淡希は「そう」とだけ呟くと、ぐるりと磔状態の加納の正面に回り込み、その手の軍用懐中電灯を加納の腹にぐりぐりと押し込んだ。
内臓を圧迫される痛みがぎりぎりと加納の身体を締め上げる。胃の中が空でなければ内容物を戻していたかもしれない。
『暗部』の少女は、静かに、それでいて空強く告げる。
「貴方の装備、ホームセンターやディスカウントストアで手に入るような代物ではないわね? その『友人』さんのハンドメイドかしら? 『導火線』に『着火装置』。なら専門は爆発物系よね?」
「かッ……ふッッ……!」
冷酷に笑う結標の瞳は、それだけで加納の背筋が凍るほどに冷めきっていた。
加納神華よりもずっと深く広く、結標淡希は知っている。
「そこまで言うのなら自分の目で確かめてみるといいわ。その子の部屋番号を教えなさい。私が
『暗部』というものが、どれほどの闇を内包しているかを。
又聞きの伝聞や風説ではなく、実体験としての『暗部』を結標淡希は知っている。
依然として加納の四肢は固定されて動かせない。どれほど勇ましく吠えようと、無力でちっぽけな少年と、下手をすれば
逆に、結標が加納を殺害しない理由は探す方が難しい状況だ。明確な敵意を向けた時点で加納は結標の敵対者であり、最優先で排除すべき不法侵入者なのだから。
つまりは、この期に及んで結標淡希は加納神華を『暗部』の存在ではなく、むやみに傷つけるべきでない一般人とみなし続けているのだ。
どれだけ吠えようと、立ち向かう意思を鋭利なナイフのように向けようと。加納は脅威とすら認識されていなかった。
だからこれは彼女の慈悲で気まぐれだ。この赤毛の少女は、必要以上に悪辣に振舞うことで無力な少年が『暗部』の世界に踏み込むことを際で食い止めようとすらしているのだ。
(結標淡希。きっとあんたは本当の意味で悪人じゃない。『暗部』が本当に人の命を使い捨てるような場所なら、ぼくはとっくに死んでないとおかしいんだから。でも、あんたの親切心に背を向けてでも、ぼくはフレンダを助けるまで止まる訳にはいかないんだ)
ダイヤノイド上層の一室。
フレンダ=セイヴェルンの秘密基地。
そこにどんな地獄が広がっていたとしても。
たとえ『暗部』の世界に頭まで沈み込んでしまったとしても。
加納神華は、フレンダ=セイヴェルンの全てから目を逸らさない。
「ぼくの友人の、フレンダの部屋番号は1765だ。そこに行く為にここまで苦労したんだ。あんたの側から案内を申し出てくれて、むしろぼくの方がありがたいくらいだよ」
その瞬間赤毛の少女はまるで自殺志願者を見るような表情を一瞬だけ見せると、静かに囁いた。
「……言ったわね。これは、貴方の選択よ」
直後、加納と結標の肉体は三次元的な制約すら超越し、その場から目的地へ向けて空間を跳躍した。
加納神華と結標淡希。二人が降り立った場所は高級旅館の客間の玄関ような場所だった。
ぐるりと周囲を見回す。
家主の許可無く部屋に飛び込んだ少年と少女を歓迎したのは、爆薬とトラップの山ではなく。
「これって………!?」
「ッッッ…………!?」
畳張りの広い空間。
間取りで言えば居間にあたるのだろうが、あまりに生活臭の無い家具の配置からはそれを感じられない。
結標淡希の発言通り、この空間もまた、『金庫』として、隠したい物を収納するために活用されているようだった。
しかし、高ささえ十分ならバレーボールの試合くらいならできそうな居間を埋め尽くしていたのは、得体の知れない爆弾でも、不埒な侵入者を迎撃するトラップでもない。
大小さまざまなサイズのカラフルな箱。
色とりどりのリボンや包装紙で飾り付けられたそれらは。
「全部」
加納が壁面を見やると、様々な海洋生物の写真がデザインされたカレンダーが画鋲で留められている。
日付の大半には、蛍光マーカーの印と老若男女がごった煮の写真シールがワンセットで揃っていた。
「全部……、誰かの誕生日プレゼントだ……!!!」
他の襖を開いても、開いても、あるのはただ大量のプレゼントボックス。サンタクロースが本当に世界中の子供たちに一人でプレゼントを配っていたとしたら、彼の部屋はこんな風になっているのではないか。そんな非現実的なイメージが脳裏をよぎるほどの光景。
テーブルの角に固めて置いてあったリモコンの群れから、プロジェクタのそれを手に取り、点けてみる。唯一プレゼントの空白があった壁面に、表計算ソフトの画面が映し出された。どうやら相手の欲しそうなものを探り出すための調査リストのようだ。
秘密にしたがるのも当たり前だ。
ここには、フレンダの最も剥き出しで、何よりも柔らかい『秘密』に満ちている。
加納からすれば数が多すぎて目を回すくらいの、あまりにも多い彼女の交友関係。その誰にも知られていないであろう居場所。
誰かには『表』の顔で、別の誰かには『裏』の顔で。妹には姉の顔で。
人には、色々な側面がある。
金髪碧眼の少女はサイコロの目のように、常に自分という立体の一面のみを見せ、別の一面を隠すことで、『フレンダ=セイヴェルン』の全体像を隠し通してきた。
ここにあるのは、その全体像の中心だ。
金髪碧眼の友人の中心にあったのは、暖かいものだった。
彼女は、これまでも『表』の人間には言えないような悪行を積み重ねてきたのかもしれない。『裏』のルールでも殺されて当然の行いを、これからしてしまうような人物なのかもしれない。
だとしても。
純粋に誰かを思いやり、そのために真剣に頭を悩ませるような温かい心をもった人物であったこともまた、事実なのだ。
加納の瞼の奥で、じんわりと熱のようなものが広がっていく。
フレンダ=セイヴェルンは加納神華の尊敬する、人に言えない隠し事が多いだけの大切な友人だ。
「ふふ」
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ!!!!!!」
「完敗、ね」
この部屋に侵入して以来、ずっと沈黙を保っていた結標淡希は、大きく自嘲的に笑う。加納の心を折り『暗部』から引き返させることが目的だったはずの少女は、何故かどこか清々しげな調子だった。
「この勝負は貴方の、ええ、貴方達の勝ちよ。だけど、私も『上』から依頼されてここにいるの。最低限の『仕事』はこなさせてもらうわね?」
「!?」
最初からそうしていないことが不自然な程に、正確無比な一撃だった。
結標淡希の手元から一本のコルク抜きが三次元的な距離を無視して放たれる。それは加納神華の頭蓋骨を㎜単位の誤差すらなく圧迫し、少年の意識は衝撃を認識するよりも速やかに、いとも容易く中断させられた。
すとん、と。
呆気なく、加納の小柄な身体は、四肢を投げ出し畳の上でうつ伏せに崩れ落ちる。
「私にも『暗部』のプロとしての面子があるの。だから、今回の私は徹底して貴方の敵でなくてはならないのよね。あくまで今回は、ね?」
十月七日午前七時三〇分。
ダイヤノイド上層、フレンダ=セイヴェルンの『秘密基地』内部にて、加納神華は『暗部』結標淡希に完膚なきまでに『敗北』した。
五寸釘でも打ち付けられたかのような鋭い頭蓋骨の痛みに、加納神華は目を覚ました。
重苦しい上半身を起こそうと視線を落とし、加納は自分がぶ厚い敷布団に寝かされていることに気づく。
敷布団の上ということはここは病院ではない。普段加納が寝泊まりする学生寮でもない。かといって意識を失った場所……………そう、ダイヤノイド上層の友人の部屋でもない。彼女は『あの部屋』に寝泊まりすための道具を置かないだろう。
ならばここは…………………?
思い当たる節が一つたりとも見当たらない。
得体の知れない研究所で、数百年振りにコールドスリープから目覚めるような気分だった。
ここまでくると逆に恐怖を感じる回路が麻痺してくる。
ただ漠然と情報を集める為に、ガンガンと痛む額を抑えつつ、むくりと掛け布団を捲り起き上がる。
「ようやくのお目覚めね」
長い赤毛を二つ結びにし後頭部から下げた、さらしにブラザー制服を羽織った姿の少女、結標淡希がそこにいた。
「ひあぁぁッッッッッッッ!!!!!????」
加納はばね仕掛けの玩具のように勢いよく飛び起きると、咄嗟に今まで己を覆っていた掛け布団をぐるぐると全身に巻き付け完全防御モードに入る。そのままバックステップで赤毛の少女から後退を試みるも、運悪くそこらに転がっていた缶ビールの空き缶を踏んずけてしまう。ぐりん。失敗した後ろ宙返りのように半回転し、加納は勢いよく尻餅をつくことになった。
痛む尻を抑えつつ加納は失敗した体育座りのような恰好で、その少女に指を指す。
「む、むむむむむッッッッ、結標淡希!? どうしてあんたがッ!????? というかここは一体どこなんだ!!!!!?????」
パニックに陥る加納に、加納の寝かされていた布団の傍にあった座布団の上で正座のままの結標はマイペースに答えようとする。
「そうね、どこから教えたものかしら。まず…………」
そう結標が口を開きかけた時、玄関口からやけに甘ったるい第二次成長期前ですといった調子の幼げな声が聞こえてきた。
「結標ちゃーん!? 晩御飯の材料、いっぱい買ってきたのですよー!? そろそろ拾って来たって家出少年くんは目を覚ましましたかー!!??」
「ええ、小萌。今しがた意識が回復したところよ」
玄関扉の方向に首を向け返す結標。
第三者の登場によって、加納はようやく周囲の環境を確かめる精神の余白が生まれた。見ると、どうやらここはワンルームのアパートの一室のようだった。煤まみれの畳。床には大量の空き缶と山盛りの灰皿。部屋の中央にはまさかのちゃぶ台まで鎮座している。挙句の果てに、天井には大きな穴が空いており、そこを強引にベニヤ板で補修した痕跡まで残っていた。あまりの時代錯誤に学園都市の『外』まで誘拐されたのかと加納が感じるほどの昭和っぷりだ。
いくらここは何でも学生寮ではない。
「まったくもーッッ!!! 結標ちゃんったら突然意識不明の男の子連れてきて、「しばらく預かって」なんて言うもんですから、遂に誘拐事件でも起こしちゃったのかと思いましたよーっ?」
ガチャリ、と玄関の扉が開く。あの結標をちゃん付けし、加納を匿い続けた、この混沌とした空間の持ち主と思しき人物が、姿を現す。
「紹介するわね。彼女は月詠小萌。私を居候させているこの部屋の家主で、こんなナリをしているけれど、一応高校教師よ」
そこに立っていたのは中学生としては滅法小柄な加納よりもさらに小さい、誰がどう見たって女子小学生にしか見えない存在だった。スーパーマーケットの大サイズのビニール袋を二つぶら下げているが、おつかいでも任されたようにしか思えない。
「謎の家出少年君も目を覚ましてくれたみたいで嬉しいですよ? まあ色々と聞きたいことはありますがーっ」
桃色のワンピースを身に纏う女性教師?は、ぶら下げていた二つビニール袋を左右で天高く持ち上げる。
「今日は同居人も増えて、久しぶりに結標ちゃんと一緒にご飯を食べられる希少な日なんですから、今夜はごちそうに決まっているのですよ。じゃっじゃーん!!! 豪華絢爛焼肉セット!!! やっぱり男の子も女の子も、みんなの好物といったら焼肉ですよねーっっっ!!!」
怒涛の展開に、加納は投げやり気味に玄関口に立てかけられた姿見に視線を移す。そこにはピンク色のウサ耳フード付きパジャマを着た幼い少年が映っていた。奇跡的に推理のための情報は揃っている。あの小萌という女性教師の私物だろう。つまりは私服も装備も没収されている。今の加納は完全に無力な
「やっきにく~♪ やっきにく~♪」
鼻歌を歌いながらホットプレートの準備を進める見た目少女の高校教師を眺めながら、加納神華は確信する。この空間からは逃げられない。絶対に。『暗部』のプロが紛れているからでも、一応は教員が監視しているからとか、そんな地に足の着いた理屈ではなく。もっと目に見えず、されど逆らうことのできない法則のような。こう、RPGの戦闘画面で『にげる』コマンドが無効化されるようなタイプではなく、イベントを進めると強制的に発生するスキップ不可のムービーシーン的な感じで。