だいたい殴れば解決する 作:三回転半ドリル土下座
ふあ……と少女は小さく欠伸をした。昼食直後の五限目最初というのは、六限目の終了直前に匹敵するほど気だるい。
ぼんやりとしているが、黒板から目をそらすことはない。その程度には自制心があったし、教師に目を付けられるリスクを負うほど、居眠りに価値はない。かといって授業に集中できるほど熱意があるわけでもなく、ほとんど漫然とした調子で聞き流してた。
実のところ、という程隠しているわけでもなく。彼女の日常とは、概ねこんな調子だった。
なんで毎日はこんなに退屈なんだろう、とは中学生の頃から思っていた。
坂本瑠璃、十五歳。中学校を卒業したときは、これで自分も大人の仲間入りだなどと意気込んでいたものの。結局本当の大人から見たら、中学生も高校生も大差ないのだと、この数ヶ月で知った。それを突きつけられるように、日常も代わり映えしない。
少女は、特にこれといった特徴のない少女だった。身長、体重、体格、容姿、全て十人並。どちらかと言えば瞬発力に優れているという程度の身体能力に、やや暗記系の成績が高いものの総合すればおおよそ平均的。ご丁寧に、物事への熱意に至るまでごく普通だった。
そういった自分の欠点から目を背け、大体環境へ責任を押しつけている。そういった俗っぽさもまた普通。
彼女の住む町は、田舎町と言って良かった。ただし、極端に不便という程ではない。
自転車で20分ほど走った先にある駅で、一時間も電車に揺られれば、買い物には苦労しない程度の繁華街がある。そこも都会とは言いがたいが、田舎者が休日に遊ぶなら十分と言えた。
何もない。変わるわけもない。地元に就職すれば、それこそ一生そのままだろう。かといって、都会の大学に進学するほど頭脳も意欲もない。
(あーあ。なんか楽しいことないかなあ)
こうやって彼女は、良かったこと探しならぬ楽しいこと妄想をしていた。探しはしない。ここで動き出せる行動力があれば、彼女の人生はもうちょっと違っていただろう。あるいは、同じ状況でも別の見方ができていたか。
これだけ閉鎖的な土地では、真新しい噂話を探すことすら難しい。
そもそもいの一番に情報を持ってくるのが、暇を持て余した専業主婦達だ。無責任な事に定評のある彼女達は、話し始める時点で脚色されており、さらに他人へ渡る頃には原形もない。ある意味、話をありのまま伝えない事のプロだ。当然そんなものを頼りにすれば……言わずもがな。
「だいたい最近の噂って、なんかやたら不穏なのよねえ」
帰り道、周囲に人っ子一人いないのをいいことに、独り言などを呟く。
ここ最近の話題は、勝手に扉が開けられたとか、誰も居ないのに気配がするとか、枕元に誰かが立っていたとか――あるいはもっと端的に襲われただとか。そういったオカルト系のものばかりだった。当然、こんなものは信用に値しない。
物事には体験者もしくは被害者が必要だ。体験は、どうとでも嘘をつける。だが、被害者がいたらそれは事件だ。心霊現象でもなんでもない。警察が動いていないという事は、悪趣味なんだか被害妄想が激しいんだか、とにかくそういったおばさんの仕業だ。自分が蒔いたクソみたな噂が広まるのを見て悦に浸る人種というのは、驚くべき事に一定数いる。
ここには何もない。せいぜいが嘘と嘘を理解できない阿呆と、その事実に嘆く情けない奴だけ。
結局の所、世の中を変えようなんて気概がある奴は、とっとと都会へ出て大きな事をするのだ。町に取り残されるのは出がらしだけ。意欲のない悪趣味な無能が澱む場所、それが大抵の田舎だろう。少なくとも瑠璃はそう思っていたし、自分がその一員だという自覚もあった。
ぽてぽてと、いつも通りに歩いていると。前から見知らぬ人がやってきた。
珍しいなぁー、などと暢気な事を思ったのは、こんな町にあえてやってくる者も少ないからだ。なにせ観光地でもなんでもないただの過疎地、人が出て行ってもやってくることは殆ど無い。住人の大半は知り合いであり、知らない者もほぼ必ず老人だ。そんなところに若い人、それも見知らぬ学校の制服など着ていれば目立ちもする。
距離が縮まってきて、瑠璃は別の感想も持った。
(うっわぁ、綺麗な人)
すらっとした長身に、短いが整えられた髪。見るからに都会出身な立ち振る舞い。何より、その姿に全くの違和感がない事だった。顔立ちは整っているが、それ以上に垢抜けている。いかにもお洒落慣れた人間の姿。
それだけに彼女の周囲は、寂れた光景とは明らかに不釣り合いだった。それはもうめちゃくちゃに浮いている。
なにせこの辺は、周囲に比べて二世代くらい流行が遅れている。中学校の卒業式で、短ランに竜の刺繍をしたものにボンタンを履いた大馬鹿がいたが――つまり頭昭和な勘違い野郎が未だに生息しているような地域なのだ(あまりの馬鹿さ加減にこっちまで恥ずかしくなった。あれを生きていると言いたくない)。
なんとなく敗北感を感じて、そっと道を空けた。だから、自分の動きに合わせて視線が追ってくるとは夢にも思わなかった。
「ちょっと、そこのあなた」
「えっ!? あっ! ひゃい!? 私ですか!?」
いきなりのことで、声が思い切り裏返ってしまった。とても恥ずかしい。
「そうね、あなたがその年でボケてたり背後霊でも飼ってるんでも無い限り、話しかけてる相手は一人じゃない?」
小馬鹿にしたような物言いに、少々むっとした。
同時に対抗心が沸き起こる。いくらモデル系美人に見えようが、所詮は同年代。都会娘がなんぼのもんじゃ、田舎者だからって馬鹿にされる筋合いはねえ。
「……で、何の用なの?」
「この辺で変な噂とか流れてない?」
「は?」
言葉の意味が分からず、間の抜けた返事をしてしまった。
瑠璃の様子など全く無視して、彼女は続けた。
「誰が行方不明になったとか、どこそこで怪奇現象が起きたとか。ああ、もっとシンプルに行ってはいけない場所とかでもいいわ」
(オカルトマニア?)
彼女の学校にはそういったものがないため、あまりイメージしづらいが。予算の潤沢な学校では、オカルト研究部なるものがあるらしい。と、漫画で見た。もしかしたらその手の人間かもしれない。
「いきなりそんなこと言われても。その辺にいるおばさんに聞いたんじゃ駄目なの?」
「そっちはもう当たったわよ」
「じゃあ多分、それ以上の事は知らないかな」
「そ」
彼女の言葉は素っ気ない。まあ、所詮道すがらたまたま会っただけなのだ、何か聞ければ儲けものといった程度なのだろう。
顎に手を当てている彼女が何を考えているか知らないが。似たような仕草を取って、瑠璃もまた考えた。
いくら与太話の類いが好きだからと言っても、わざわざこんな場所まで来るだろうか。オカルト収集にしたって、もうちょっと近場でなんとかなりそうな気はする。ということは、ある程度の目的、もしくは確信があってここに来たという事だ。さすがにそれが何なのかまでは、想像のしようがない。
(これって、もしかして結構面白い事?)
なわけないか、とすぐ考え直す。さすがにアニメ脳が過ぎるだろう。
「で、ええと、あなたは……」
「真依よ。好きに呼んでちょうだい」
「や、いきなり下の名前は」
「名字嫌いなのよ。正直、名乗りたくもないわ」
「えー。じゃあ真依ちゃんで。私は瑠璃ね。坂本瑠璃」
「聞いてないわよ」
多分年上だろうと思ったものの。ここでさんや先輩と呼んだらなんとなく負けた気がするので、ちゃん付けにした。相手も気にしていないようだし、これでいいだろう。
自己紹介を終えた頃に、ぬっと男が現れた。思わずぎょっとする。
見た目で言えば、どうこうというのはなかった。真依よりやや大きいかという、つまり男性としては平均的な身長。さして長くない髪を後頭部で纏めており、まるで髷のようにも見えた。顔立ちは、真依に比べれば大分野暮ったい。少なくとも田舎に溶け込むという意味では、彼の方が遙かに適していた。
ではなぜそんなに驚いたかと言えば。まるで男が、その場にいきなり湧いて出たように思えたからだった。
周囲に人が隠れられそうな場所などない。過疎地特有の、いかにも閑散とした通り。車道はやたら広いのに、車が通ることだって希、そんな場所。背後から近づかれてすら気づけそうなものなのに、真正面に現れて今の今まで分からなかった。
(……ニンジャ?)
そんな訳がないと分かっていながら、阿呆な想像が頭を駆け巡る。実際、忍者じみていたと言えばその通りなのだ。
瑠璃の戦慄は、生憎と二人には視界にも入っていなかった。
「そっちの成果は?」
「まるでない。正直なところ、本当にいるのかすら疑わしくなってきている」
「こっちは妙なのよね。不穏な噂は多いのに、変に根拠がないわ。これだけ交錯してれば、噂の原型になったものの一つや二つみつかりそうなものなんだけど。驚くほど、どれも事実無根なのよね」
「逆に怪しいと?」
「どうかしらね。噂の発生手順なんて詳しくないもの。どっかの暇人が狼少年をやってるって言われても、まあ私は驚かないわ」
「残穢は……あると言えばあるし、無いと言えばない。極端に薄くて発生源はここじゃなかったとしても納得がいく。もしかしたら別の場所に足を伸ばすべきかもな」
訳の分からない話がトントン拍子に進んでいき、瑠璃の頭は疑問符でいっぱいだった。何かの用語っぽい言葉も挟まれて、なおさら理解が追いつかない。ザンエ、とは仏教用語か何かか。
「ところで」
ちらりと男がこちらを見る。視線に、瑠璃はなんとなく体を縮こまらせた。
「こいつは誰だ?」
「さあ? ここの住人としか」
ぴたり、と男の動きが止まる。まるで油の切れたブリキ人形のような動きで、視線を真依に戻した。
「おい。その……関係者じゃないとは聞いてないぞ。余計な事を喋ってしまったじゃないか」
「別にいいでしょ? どうせ分かりはしないんだし」
「お前な……」
あまりにもすげない言葉に、男は疲れたように嘆息した。
「本当にこれが査定だと分かってるのか? あまりいい加減な事をしてくれるな」
「そもそも私、昇級なんて別にしたくないのよ。真希に巻き込まれてほんといい迷惑」
露骨に嫌そうな顔を解いた後、真依はバッグの中からスマホを取りだした。それを掲げ、ちらちらとこちらに向けて振る。
「何か気になる事があったら教えて。番号交換しましょ」
「あ、その、私スマホ持ってない」
「はあ? なんでよ」
「お父さんがそういうのは大学生からでいいって。それにここって、ちょっと外れると電波届かなかったりするし」
顔をしかめて、彼女はスマホに視線を落とす。
「本当じゃない。電波状況悪いわ。あーもう、これだから田舎って嫌なのよね」
愚痴って、しまったスマホの代わりにメモ帳とペンを取り出し、何かを記載した紙を渡してくる。
「それ、私の番号だから。特に期待はしてないけど、とりあえず持っておきなさい」
半ば無理矢理連絡先を渡されて、用は済んだとばかりに、変な二人組はとっとと去って行った。
坂本瑠璃はホラーやオカルトが好きではない。そもそもミステリーに分類されるもの全般、好みではなかった。怖いとか言うのではなく、単に面白いと思ったことがない。
(だから、これはただの気まぐれ。決して真依ちゃんに影響されたわけじゃない)
そう言い聞かせるように念じながら、腐った木を蹴っ飛ばした。
およそ三十年前に破棄されらしい町工場の一つを、瑠璃は探索していた。普段はこんな所になど来ないのだが、つまりは気まぐれだ。たまにはこういうことがあってもいい。
ここを選んだことに、特に意味は無かった。そもそも何か考えがあっての行動ではないのだし。あえて理由を付けるなら、家から近かった事、新しい噂の舞台がここだったからといった程度。多分、もう少し遠かったらやる気をなくしていた。
「なんとなく来てはみたものの、まあよくある廃墟よね、っと」
悪い足場を、力を入れて上る。
はっきり言って、こんな場所、珍しくもなんともない。所詮は田舎町だ、大通りから外れれば無人の建物などいくらでもある。それこそ駅周辺の商店街だって、潰れたが解体する程の資金もないからとそのままなのはよく見た。
汚いとは感じても、おどろおどろしいとは思わない。それこそちょっと深い山の中の方がよっぽどだ。そちらとて、山慣れしている瑠璃から見たら町中とさして変わらないのだが。夏場の作業は地獄で、いちいち景色を味わう余裕もない。
特に何があるわけでもなく一回りして、瑠璃は腰に手を当てて嘆息した。
「そりゃそーよって話よ」
遠くから、消え入りそうな生活の営みが届く以外は、物音一つしない。
世の中には廃墟写真集なる変な趣味があるらしいが、瑠璃には全く理解できなかった。ネットで断片的に拾った画像程度の知識しか無いが、こんなものを見て何が楽しいのか。例えプロの写真家が取った画像であっても、廃墟はただの廃墟。荒廃の証でしかない。
「結局、真依ちゃんもただの物好きってだけよね」
田舎くんだりまで何をしにきたところで、現実などこんなもの。ちょっとでも無意味を行った自分の馬鹿馬鹿しさを笑いながら、帰り支度を始める。
「真依ちゃんに教えてあげようかな。結局なんもなかったよーって」
あるいは、それでもいいのかもしれない。結局、現実に空想に求めるというのはそういう事だ。
謎。不可解。後は非現実的も。全ては嘘であり、虚構の存在だ。まるっきりただの事実が創作に勝る事はまずなかった。でなければ、創作という活動がこれほど長い年月、一定の影響力を持つはずがない。
期待なんてなかったのだから、落胆することもない。強いて言うならば、これはただの確認だ。現実はつまらない、という事の。
とっとと帰って寝よう。休日なのに、無駄に疲れた。そう思った時だ。
「え?」
急に、体を
握られている感触には、間違いなく掌があり、指があり、それは五指であり。ただし、明確な異常がある。胴体をまるごと握るような異様な大きさと、そんな状態でなお何も見えないという点。
不可視の巨大な手に捉えられているという事実は、瑠璃を混乱させるのに十分だった。
「なっ、何これ!?」
じたばたと暴れるが、びくともしない。かろうじて自由な右手を振り回すと、確かに何かがそこにあった。ただ、ひたすら強靱で、彼女程度の力では無力だ。
訳も分からずじたばたするが、全く意味が無い。そもそもこれが現実かどうかすら定かではなかった。
「いっ……ギ!」
もしかしたら、これはただの夢なのでは。そう思ったところで、全身に強烈な痛みが走った。体を強く握られたのだ。
逃避しかけていた意識を、痛みで強制的に現実まで引き戻される。どんな力で締め上げられているのか、呼吸はおろか、全身の骨までもがみしみしと軋みだしていた。視界が点滅し、自我がぐるぐると点滅する。夢へと逃げたいのに、苦痛がそれを許してくれなかった。
「いぎ……が……ふ……」
(死ぬ……!)
体の内側がとてつもなく熱い。内臓が今にも飛び出てしまいそうだ。感情が恐怖一色に染まり、他に何も考えられなくなったその時。
目の前にいきなり、それは現れた。
(ひっ!)
端的に行ってしまえば、獣だった。もっと言えば、化け物だ。
穴が空いた天井から腕を伸ばし、こちらを覗いてくる四つの目。全身が体毛に覆われており、六本の腕で器用に体を支えていた。下半身は見えない。ただ、全身から瘴気とでも言えばいいのだろうか、とにかくそんなものを溢れさせている気がした。
瑠璃の体が持ち上げられる。向かう先は、大きく開かれた怪物の口。
(やだ……やだやだやだやだやだ!)
涙と鼻水があふれ出る。失禁すらしていたかもしれない。あらゆる無様などどうでもいいと、とにかく彼女は抵抗した。この化け物は自分を食う気だ、それが分かったら、もう居ても立ってもいられない。
がたがたと怯える。歯の根が合わない。化け物の口から見える牙はとても鋭く、きっと小娘一人程度、簡単に切り裂いて殺すだろう。
坂本瑠璃は、退屈な自分の人生に飽き飽きしていた。代わり映えのしない田舎町にも同様に。でも。それでも。こんな非日常は、断じて望んでいない――!
「……だ」
声は上手く出なかった。肺の中にほとんど空気がなかったのだから当然だ。それでも必死になって絞り出す。
「誰かぁ……助けて……助けてよぉ……!」
少女の誰にも届かない懇願を聞いて。化け物が笑った気がした。
言葉が通じる訳もない相手だ、死に際の妄想だったのだろう。しかし瑠璃には、化け物が自分の無様をあざ笑ったように見えて……同時に、酷く下賤な人間のそれに思えて仕方が無かった。
生臭い息が届く頃には、すでに恐怖すらも麻痺するほど体が痛んでおり。ただ茫洋と自分の体が飲まれていく様を見ているしかない、そんなところで。
急に、化け物の手が離された。
地面に墜落しても痛みはない。感覚が麻痺してしまったためだろう。ただ、小さな衝撃だけを感じた。そんな事よりも頭痛が酷い。
とにかく体が酸素を求めて、幾度も深い呼吸をしては咳き込んだ。起き上がることもできずに地面を舐め、何が起こった考える余裕すらない。
「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!
多分それは、化け物の悲鳴だったのだろう。確証もないのに感じられたのは、多分、やはり人間に似たものだったからだ。
やっと咳が止まって顔を上げると、今までこちらを握っていた腕から血(らしきよく分からない液体)が流れ、対極にある腕をこちらへと振りかぶっている姿。考えた訳ではなかった、あまり意味も無い。避けられる訳がないし、指の力だけで人間を殺せるような存在なのだ。殴られれば、それこそ原型も残るまい。
だが。瑠璃が潰される一瞬前に、小さな破裂音。爆竹を鳴らしたらこんな感じなのかもしれない。とにかく、場違いな音だ。それが鳴った瞬間、化け物は消えていた。
さっきから何一つ分からず、ぽかんとする。口を半開きにしながら、視界に入ってきたのは。化け物と比べれば遙かに小柄な、人間の姿だった。太陽を背にしているので、顔まではよく分からない。
「
何を言っているのだろう。よく分からなかった。ただ、声はどこか聞き覚えがあった。
人影は、ちらりとこちらへ視線をやった、気がした。
「まったく、困るのよねぇ。度胸試しだか何だかしらないけど、たまにあなたみたいな子っているのよ。自分だけは大丈夫、なんて考えて危険に飛び込んでいく奴。後始末させられるこっちの身にもなってほしいわ」
屋根から降りてきた人影――多分、女性だ。まだ視界が滲んでいるので、はっきりはしないが。
しかし、性別よりも驚いたのは。右手に持っている黒光りした鋼の塊。誰もが知っていて、しかし直接見た事がある者は少ないだろうそれ。
(銃……?)
モデルガンか何かだろうが、この非現実的な状況においては、ともすれば本物のような重圧がある。
ぼんやりと空を見ていると、空中に黒いインクが垂れた。ある一定の場所で拡散していき、まるでドームを作るように空間を覆っていく。いったん広がりきった後には、元の青い空が戻ってきた。
「ガフッ、ゴフ……」
「あんた、そのまま転がってなさいよ。動ける怪我でもないでしょ。どのみち邪魔にしかならないんだから」
心配しているというよりは、呆れたような声色で。少し頭を上げて、やっとそこにいるのが誰か分かった。真依だ。
なんでこの場所に、とか、これは何、とか。聞きたいことはいくらでもあった。しかし、何一つとして言葉にならない。多分、声を出せる状況であっても、何も聞くことはできなかっただろう。
遠くから届く破砕音を聞いて、背筋が寒くなった。瑠璃は先ほど化け物が消えて、もういないのだと勝手に安堵していたのだ。同じ化け物か、それとも別の何かかは知らないが、まだ終わっていない事を悟って恐怖が復活する。
しかし、間違いなく事情を瑠璃より遙かに把握しているだろう真依は。ひたすらに涼しい顔。
化け物の巨体が、壁を粉砕して飛び込んでくる。豪腕は、建物の支柱である太い金属柱を、まるで針金のようにへし折り、引きちぎった。
大型動物でも無理だと断言できる暴力を前に。しかし真依は、恐ろしく気軽な足取りで前に出た。横薙ぎの拳を軽く跳ねて躱し、勢いのまま、顔面に蹴りを叩き込む。怪物はあっさりと吹き飛ぶ。瑠璃は目を白黒させた。
「脆いわねえ。まるっきり雑魚じゃない」
外見から測れる体重差を考えれば、言葉ほど気軽な事でもない筈なのに。
(凄い……)
他に何も言えなかった。超人――そんな言葉が思い浮かぶ。まるで物語に出てくるような。
「悪いけど、アンタ如きにいちいち構ってられないの。だから、とっとと死んでくれる?」
真依がゆっくりとした動作で銃を構え、引き金を引く。またも大きな爆竹が破裂するような音と同時に、弾丸が射出された。弾丸が眉間に突き刺さった――と理解したのは、化け物が額から体液を噴出したからだった。
間を置かずに、真依は言う。いや、唱える。
「『弾けろ』」
すでにぐったりとしていた化け物は、言霊に呼応するようにして、頭部を中心に胴体の半ば程までが爆発する。ばしゃばしゃと周囲に肉片が飛散し、なぜかそれらは空気に溶けるように消えた。
真依に対していくらでも聞きたいことはあった。しかし、肉体の疲労と安堵感が勝る。瑠璃はずるずると崩れ落ちるようにして、再び地面へと突っ伏してしまう。目も半ば閉じていたが、意識だけはかろうじて保っていた。
全てが終わって間を置かずに、足音が聞こえていた。視界には入ってこないが、状況的に見れば、真依と一緒にいたあの男だろう。
「どうだった?」
「てんで大したことないわよ。ただ術式だけは厄介だったわね。事実を噂に、あるいはただの情報にグレードダウンする術式。ご丁寧に人間の存在証明まで欺瞞して。隠匿という一点に貸しては最悪の術式なんじゃないかしら? その分本体の方はお話にならなかったけど。総合的に見たら一級に近い準一級、戦闘力単体で見れば準二級がせいぜいって所だと思うわよ」
「対応が遅れるわけだ」
と、小さなため息。これは男の方が発したもの。
「で、私は合格?」
「解決したんだから十分だろ」
「強さは準二級だって言ってるのに?」
「偶然だろうが実力だろうが、準一級が足取りをつかめなかった呪霊を倒したことに意味がある。俺達に強さは必須だが、強いだけで成り立つ仕事でもない」
「そういうの、天童か東堂に直接言ってやりなさいよ」
「絶対嫌だ」
くすくす、と真依の戯れるような声。意識が遠くなっていく。
「で、そっちは?」
「大丈夫、ダメージは大きいけど、自然治癒出来ない程じゃないわ。今倒れてるのも、殆どは精神的疲労だと思うし」
「ならここに置いていく。後は町の人に任せればいい」
足音が二つ、ただし方向は違う。一つは離れ、一つは近づいてきた。
誰かが瑠璃のすぐ横にしゃがむ。耳元に口を寄せて囁いた。
「あなたはこの事を覚えてるかもしれないし、覚えてないのかもしれない。この会話だって聞いてないかもしれないわ。でも一つだけ、全部夢よ。あなたが白昼に見た空想。全部を
言葉は、半分以上理解できなかったと思う。頭が回らない。
その後の記憶はなかった。
次に気がついた時、瑠璃は病室に居た。体中が痛み、処置が施され。聞いてみると、三日も寝ていたという。
ナースコールで看護師を呼び、状況を聞こうとしたのだが。ちょうど家族が来ていたらしく、心配されると同時に、とてつもなく怒られた。心配をかけるな、と。危険な場所に行くなとは言われない。そもそもあの手の廃墟は、子供の遊び場や秘密基地になっている。相手も、まあまあ理不尽な物言いだとわかっているだろう。なにせ今まで一度も注意されたことがない。もっとも、それが叱らない理由にもならないけれども。
怪我はそれなりに大きなものだったらしく、二週間ほど入院をした。全治はさらに一月半ほど必要との事だ。
最初は二週間も学校を休めてラッキーなどと思っていたが、代わりにしこたま課題を出されて泣いたのもまた思い出だ。
体が自由になって、杖を突けば歩ける程度になった時。瑠璃は再び、あの町工場跡地へと向かった。元々廃墟だったのに、今では半壊して元が何であったかも分からない状態。周囲には黄色いテープに黒文字で『KEEP OUT』と書かれたものが巻き付けられている。
喉元過ぎればなんとやらという事なのか、今更見返したところで思うところはない。そもそも、あの事件に関しては未だに現実感がないのだ。今でもまだ嘘か本当か分からないのだから、恐怖が襲ってくることはもうないだろう。
(そういえば、お母さんが言ってたっけ)
旧町工場倒壊は、ガラの悪い高校生グループが行ったという事になっている。
筋書きとしては、近所のチンピラがいろんな廃墟にいたずらや小さな破壊行動を行っているというもの。目撃証言が多数あり、無数の指紋も見つかった事で確定したとか。その後チンピラがどうなったかは知らない。田舎の大らかさ、もとい雑さが作用して厳重注意で済んだのか、それとも警察に引っ張られていったのか。ただ、小さい子持ちの家庭が複数怒っているので(無論、瑠璃の家族も例外ではない)、無罪だとしても町に居られるかは怪しい。
つまり、瑠璃はチンピラの悪ふざけに運悪く巻き込まれたというカバーストーリーになったわけだ。
まあ、今となってはどうでもいい。それが事実ではないと知っているのは瑠璃だけで、どれだけ違うと言ったところで信用される事でもない。ましてやチンピラをかばう理由などなく、説得できるような言葉もなかった。普段の行いが悪かったという事で諦めて欲しい。
どうでもいいことよりも、考える事があった。
あれはどこまでが悪夢と都合のいい夢で、どこが現実だったのだろう。全てが妄想だったと言っても否定できやしなかったし、逆に現実だったとしても、笑い飛ばせるほど世の中を知っているわけではない。
あれから、二人の姿は一度も見ていなかった。皆に聞いてみたものの、それらしい姿の目撃証言はない。瑠璃の記憶の中以外に、彼女らを肯定する要素はなかった。
「でも、それでいいんだ」
誰に共無く呟く。曖昧とつまらない日常を肯定できる程度には、彼女も丸くなっていた。いくら非現実が恋しくとも、非日常であればなんでもいいという訳ではない。その程度には学んだ。あるいは思い知った。
それに。
瑠璃はポケットの中に入れていた紙片を取り出し、易しく開いた。そこに記されているのは、なんてことのない数字の羅列。
この電話番号は、嘘かもしれないし、本当かもしれない。どちらでもいい。
ただこれが、真依という人間が確かに存在した証明になる。それだけで十分だと思った。