だいたい殴れば解決する 作:三回転半ドリル土下座
「誰かいますかー! いたら返事してくださーい!」
声を上げた直後、小走りになって周囲の音に注力する。返ってくる言葉はない。それを確認して、また走る速度を上げた。
ここしばらく、何度も繰り返している行為だ。つまり、それだけ人気がなくなったという事なのだから喜ばしい事ではある。さすがに多少の徒労は感じてしまったが。
いくら帳が降りている範囲だけとはいえ、渋谷は広い。高層ビルが乱立しているため、余計に捜索と人命救助を困難にしていた。
できれば自分も攻撃側に回りたかった、というかもっと役に立ちたかったという欲求は確かにある。しかし、そちらに混ざったところで大して役に立たない、どころか足手まといになるとは分かっていた。
(所詮は四級だもんね)
むしろこの場にいるのすらおかしい階級だ。
ただ、悠仁のように飛び抜けた才能があるわけでもない
呪術界の常識(それこそ帳と結界の違いすら分からない)さえ覚え切れていない順平が動かされているのは、一言で表すなら人手不足。索敵の人員にすら困っている中で、大量の一般人だ。処理がパンクするのも当然、というかそれを敵も期待しての行為だろう。
いくら四級呪術師、半人前と言えども、“窓”や補助監督よりは自分の身を守れる。それを期待されての掃討部隊配備だった。実際、そこらを単独でぱらぱらと徘徊している改造人間や呪霊程度であれば、順平でも苦戦しない。
(こっちは順調だけど、全体像は不気味だよな……)
顎を撫でて、ついでにスマホに軽く指先で触れながら悩む。さっきから、連絡が途絶えていた。
当初の予定では、もう少し連絡は密に行われる筈だった。
一般人と遭遇しなくなったのはいい。混乱が起きている場所、大量に人がいる場合は、棘による呪言で一斉に退去させている筈だ。順平の役割は、あくまで細かい部分の掃除と誘導なのだし。
電波が届かないのは分かっていた事ではあるが、それにしたって補助監督の一人すら見ない。分かりやすく異常事態だった。
(理屈の上では、こちらの目と耳から潰しにかかったと見るべきだけど)
本当に一般人と大差ない能力であり、大衆に混ざりながら敵を発見する“窓”は分からなくてもいいとして。補助監督は普段の任務でもそれなりに危ない位置を取るし、だからこそ逃げるのは上手い、と聞いている。呪術師側の情報によほど精通していない限りは、発見するのすら困難なはずだ。
(スパイ、もしくは裏切り者の線が濃厚? 駄目だ、僕じゃ予想は出来ても、絞り込める位置にはいない)
不穏な空気はそれだけではなかった。
一番外側の帳が解除された所までは、順調と言っていいのだろう。しかし、その後、後方でとてつもない轟音が響き、つられてそちらを見ると、大量の煙が舞っていた。状況から察するに、複数のビルが倒壊したのだろう。
遙か遠距離でも、大きなビルが潰されてはいたが。そちらは狙い澄ましたかのように一棟であり、誰かが狙って崩したのだと分かった。しかし後方のそれは、戦闘の余波を感じさせる崩れ方。
後ろで誰かが戦っている。最低でも一級同士が。
問題は、強者の戦闘が発生する事ではない。順平の後方、つまり安全だと思われていた位置で起こったのがまずかった。これでは一般人の保護はおろか、呪術の隠匿すらままならない可能性が出てくる。不可視で抵抗の術がない殺戮モンスターが当たり前のように日常へと潜り込む、そう認知されてしまった世界。考えるだけでぞっとする。少なくとも、今までのような日々は帰ってこない。
自分も似たような事をしておいてどの面下げている、と言われればその通りだ。それでも――自分勝手に言わせて貰うならば――黙って日常を壊されるつもりはない。
(この状況なら、僕程度だってもうちょっと出来ることがあるのに)
連絡を取る手段がないせいで、次善の行動を進言することも、逆に命令変更を受け取ることも出来ない。歯がゆさに、思わず下唇を噛む。
下手に動けば、かえって混乱を招く。最悪、棘が孤立することだってあり得た。さすがにそこまでの危機を理解しておきながらスタンドプレーはできない。
「駄目だ! やめやめ!」
頭を振って、思考を止める。
ぐちゃぐちゃと空想を発展させては自己完結するのは、自分の悪い癖だ。必要な時に必要な分だけ。心がけてはいるものの、忘れそうになる。
前方やや左から、足音がする。様子からして一人だけのようだ。駅の中はどうなっているんだろう……という疑問がもたげたが、それはなるべく隅においやって声を掛ける。
「そこの方! 速く逃げて……」
「あっ。外出ちゃったよ。本当に、人間がつくるものっていちいちぐちゃぐちゃしててさぁ」
愚痴を吐きながら飛び出てきたのは。短い間、なれど忘れようもない顔だった。
彼は恩人である。鬱屈した毎日から自分を解き放ち、新たな世界を教えてくれた。
彼は怨敵である。暇つぶしと使い捨ての道具にされ、最後は嘲笑されながら死ぬところだった。
学生時代最高の瞬間と最悪の思い出、二つが混じり合って存在する。どちらか一つに決めることなど出来ない。それはきっと、吉野順平という人間がどれだけ幼く、愚かだったかを象徴するものなのだろう。
「真人……さん……」
口から自然と、懐かしい呼び方が出てくる。あまりに小さなそれは、多分、相手には届かなかっただろう。
「ごめんごめん。待たせたね、三流呪術師。すぐに殺して……って、なんだ、順平じゃん。死んでなかったんだ。おっかしーなー、どうやっても直る手段なんて無かったはずなんだけど……まあいいや。あーあ、残念」
言葉に反して、真人の口調は楽しげだった。嬉しげ、ではなく楽しげ。
なくしたと思っていた玩具が、まだ遊べる状態のまま戻ってきた。多分、彼の様子を言葉にするならばそんな表現が近いだろう。
胸が痛くなる。頭がふらつく。覚悟はしていても、いざ本人を前にするとたやすく揺らいでしまった。分かりきっている問いが、思わず口を突きそうになる。「どうして僕を裏切ったの?」
くじけそうになる心を支えているのは、二つの記憶だった。虎杖悠仁と天童大地。共に二度と足を向けられない程の恩人。自分程度に期待があるかなど分からない。それでも報いなければ。吉野順平という人間を生かしてくれた事を、後悔させてはいけない。
深呼吸を三つ。未熟な順平が表面だけでも平静を取り戻すには、それだけの儀式が必要だった。この間に殺されなかったのは、運としか言い様がない。もっとも、真人は嬲って殺したいだろうという算段はあったのだから、全くの無策という訳でもないが。
「久しぶりだね」
「なんだよ、強気じゃん。多少術式が使えるようになって気が大きくなった?」
虚勢は即座に見破られる。隠し通せるとは思っていなかったのだからどうでもいい。
すべきことは、一つに逃走、二つに時間稼ぎ。
真人の能力はある程度知っている。前者はまず不可能だ。自分の体を変化させられるならば、機動力を稼ぐ手などいくらでも思い浮かぶ。時間稼ぎならば、前者よりはいくらか生き残る目があった。さすがに特級呪霊が戦えば、誰かが呪力探知して救援に来てくれるだろう。それでも生存率は悲しい限りだが……
「正直、宿儺の器が関わらない君には全く魅力を感じないんだけどね」
「なら、とっとと帰ったらどう?」
「生かす理由もないだろ?」
掌を広げながら、だらんと両腕を下ろす。構えというほど大仰でもないが、『触れたら勝ち』という特性を持つ以上、効率的な姿勢ではあった。
澱月を呼び出し、体の近くに待機させる。真人は澱月について、殆ど使いこなせていない無力な状態のものしか知らない。順平が持っている財産はこれだけだ。
「貧弱で臆病な君が、自分の死を前にしてどれだけ意地を張れるか見るのも悪くないね」
言いながら、片手を棘つき鉄球状に変化させた。
それで殴りかかってくるつもりではない、ただ気勢を削ぐための脅しだ。分かっていて臆病風に吹かれそうになる。
(折れそうな時は思い出せ。自分の言葉に責任を持つんだ)
『お前は何のためにここへ来た?』
夜蛾学長――呪術高専東京校の最高責任者が、順平に対して初めて発した言葉。
『吉野順平。君の推薦者は、形式上天童特級術師という事になっている。知っているだろう?』
『はい、まあ。恩人ですし。それが何なんです?』
『入学をおいそれと蹴飛ばせないという話だ。彼は禪院家でも、もっとも力を持っている者の一人……とはいえ、形式の上は廃嫡されているから、表面上の立場はさほど高くないのだがな。これがまたややこしいのだが……それはいいか』
要は名家の直系という事だ。
当時は少なからず驚いたものだが、後から聞くと、名家の出身はとても多かった。事実、東京校に在籍する生徒の大半は名家旧家の出身である。先祖を遡って目立った呪術師の家系が見当たらないのは、それこそ悠仁くらいだとか。
『俺もただで入学させてやる訳にはいかん。意思確認はさせてもらう』
『僕は入るつもりですけど』
『そこではない。単刀直入に聞こう。お前は何のためにここへ来た?』
言葉の意味が分からず困惑する。
何のためと言われても、特に考えあっての事ではない。ただ流されてここに来た。あえて言うなら――それこそ皆が皆同じだろうが――呪霊を祓うためである。そもそも進路に重大な意味など込めていない。
とはいえ、そういった一般的な面接で出てくるような答えを期待したものではない事くらいは分かる。だからこそ、余計困惑してしまった。
『……呪術師は命がけの仕事。それこそ警察や自衛隊などよりよほど死が身近だ。命を預けるだけの言い訳は必要になる』
困惑を察して、助け船を出してくれた。
つまりこれは、覚悟の問題だ。
『僕は以前、こう考えたことがあります。僕は僕が嫌いな人を殺せない。でも僕を嫌いな人なら殺せる』
『自らが行った行動の責任を他者の考えに委ねると?』
『まさか。人に言われたからってなんでもできるほど、僕は強くありません。そうなれたら、もっと気楽に生きてたんだろうな、とは思います。とても自己中心的な人間ですよ。結局は、人が自分をどう見てるかなんて、僕の勝手な解釈でしかないんですから』
サングラス越しではっきりとは分からなかったが、夜蛾学長の目は、きっと鋭くなっていただろう。それに怯える事がなかったのは、ちゃんとこちらを見てくれているからだ。一番怖いのは、自分を見てくれない事。理想やこうなのだろうという枠に、吉野順平という存在を自覚なく無理矢理はめ込もうとする人。
夜蛾正道は、強面であっても、全く怖くなかった。いい人なのだろう、とだけ思う。
『だから僕は――』
「僕は、僕が好きな人のために命はかけられない。でも僕を好きな人のためなら、いくらでも命を掛けられる」
「つまらない詭弁だね!」
「そう言われると思ったよ」
理解して欲しいなどと思わない。これは自分だけのものだ。
だからこそ、ただの言葉は言霊となり、順平に意思を与えた。
「
「あははっ! 生意気ぃ!」
真人は作り出したフレイルを、振る必要などないだろうに(体内の変化で加速などいくらでも稼げるのだから)、大仰に掲げて、こちらへ放ってきた。
棘つき鉄球というのは視覚的に大きなプレッシャーがある。逆に言えば、それ以上の意味があるわけではない。
(真人は僕を痛めつけて殺したい。正しく言えば、恐れさせてから殺したいんだ。一撃で死ぬような攻撃は放ってこない)
であれば、順平程度の未熟な式神でも受け止められる。
広げていた澱月の柔軟性を高め、傘高がフレイルを包み込む。衝撃はそれなり、棘は虚仮威し。やはり、今ならば防御できる。
「お?」
少し驚いた。そう言いたげな真人の様子。こういった反応があるうちはまだ大丈夫。
(この手の奴は、自分の力を見せつけたくてたまらないんだ。「僕はすごいだろう? お前よりも」なんていう風にね)
だから安定した次の手よりも、とにかく能力を誇示できるものを扱いがちだ。術式の自由度などは関係ない。使い手の性質だ。
ならば、次の
体を思い切り前倒しにして、その上に澱月がのしかかるようにした。どぷ、という鈍い感触は、澱月の上部を何かが削いだからだ。大方節がついた刃物か何かで薙がれたのだろう。頭を潰しきらない程度の威力で。
(二手防いだ! さすがにここまでは想定外の筈。手で駄目なら足、そんな風に考えるんじゃないか?)
こうしてしっかりと見てみれば、真人だってそこらのちんぴらと精神性は大差ない。順平を虐めていたあいつらと同程度だ。ただ、扱う力のスケールに差があるというだけ。本質は、力を振り回す子供でしかない。
「なんだよ、本当に案外強くなってるじゃないか!」
けらけらと笑いながら、予想通りに飛び回る真人。その足に、触手が刺さった。
思考が分かれば、自ずと行動予測も出来る。陸と空、いくら選択肢が多かろうと、可能性を全て潰してしまえば同じだ。澱月はそれができる式神である。
「残念だけど、ダメージは入らないんだよねえ」
「知ってるよ。そもそも、ダメージを与えるための行動じゃないしね」
真人が疑問を浮かべる前に、澱月は行動を終えていた。
毒の注入。ただし、相手を破壊するための毒ではなかった。
彼の術式が、どの程度身を守ってくれるかは分からない。毒なら案外普通に通るかもしれないが、さすがに想定しているならばうかつに近寄っては来なかっただろう。来たという事が、毒は無為転変の前に無力だという事の証左でもある。
澱月が精製できる毒は、概ね『人体に有害である』必要がある。逆に言えば、有害でさえあれば、ある程度自由がきいた。例えば、血液と反応して凝固するなどと言ったことも可能である。
「…………! 足が!」
「澱月ぃ!」
真人の動きが止まった一瞬、触手が足に絡みついて、ビルの壁面へと投げ飛ばした。
派手な音と破壊で、真人がビルの中へ叩き込まれる――派手すぎだ。澱月にそれほどの力は無い。変形してダメージを軽減したのか。いや、そもそも呪力なしの攻撃では呪霊に傷を与えられない。ならば、これは目くらまし。未だ澱月が足を握っている感触があるとしても、油断できない。
「ぐぅっ!」
衝撃は、澱月の中に入り込んだ直後だった。今度は順平がビルに叩き付けられる。体半分が、コンクリート塊にめり込んだ。
(いっ……た)
いくら弾力性の高い澱月を挟んでいたとはいえ、60キロはある人間を数メートル先のビルまで飛ばし、さらに半ば陥没させる威力。腕と肋骨はたやすく悲鳴を上げ、脳が痺れる信号をひっきりなしに送ってきた。
片手をついてビルから無理矢理脱出すると、視線の先には蹴りを放った状態の真人。足は獣のそれに変形している。
「今のはちょーっとムカついたな」
「僕程度にしてやられた事を恥じてくれるなら上々だよ」
「……あまり舐めるなよ」
いらだった様子の真人に、虚勢混じりの笑みを浮かべた。チンピラの法則、阿呆は怒れば怒るほど初期目標に固執する。
真人の体が膨れ上がり、人間の原型を止めていない形になった。といってもそれは一瞬だけ、すぐに頭、胴体、手足、全てが二倍になり――真人は二人に増えた。
「!?」
ぎょっとして思わず硬直する。その間にも、二人の真人はそれぞれ逃げ道を塞ぐようにして躍りかかってきた。
(分裂――でも全てが同じわけじゃない! もしできるならとっくに日本くらいは滅んでる。何か制限があるはずだ。術式なり、身体能力なり)
瞬時に断定する。
身体能力はほぼ同じ。片方はまた手を凶器に変えており、もう片方は何も変化させていない手を伸ばそうとしている。
理屈の上では、危険なのは素手の方だ。情報に寄れば、真人が他者を変形させる場合、少なくとも掌だけは原型である必要がある。だが、順平は視線を武器の方へやった。
(頭に血が上ったチンピラは、初期目標に固執する!)
もし彼がもう少し強ければ――例えば僅かでも双方に対応できる能力があれば、こうは考えなかっただろう。そして、対応に四苦八苦しているうちに死んでいた。弱さ故の即断と賭け。
掌を伸ばす方を完全に無視し、武器へと全ての触手を伸ばす。真人はまた刺す為だと思ったのだろう、触手を弾こうと腕を振った。しかし触手は、彼の正面を迂回して体に巻き付き、完全な球状にする。
視界の端で、頭に手を触れさせた真人が驚嘆しているのが分かる。ここまで徹底して無視するとは思っていなかった、という表情だ。同時に、順平が一度味わった、あの極端な不快感を伴う変化がない。やはり分身の方は、最低でも他者に術式を適応できなかった。
真人は今度、攻撃性のある追撃を放とうとした。が、遅い。彼の生み出した硬直は、付け入るのに十分な隙となっていた。
鞠状にした真人を、分身へと叩き付ける。二重にうめきが漏れた。
何度も叩き付けているうちに、分身の方が解ける。それでも本体の方をめちゃくちゃに潰していくと、さすがに堪えたのだろうか、触手の隙間から糸状になって抜け出した。
人間形態に戻った真人は、あくまで悠然と立っている。ただ、唇の端から僅かに零れる血、それに気付いているだろうか。
「……やってくれるじゃん」
「焼き回しだね」
「はぁ?」
「自分で言ったことくらい覚えておきなよ。前に熟慮は時に短慮以上の愚行を招くって言ってたよね。十分な時間的猶予があれば、熟慮は常に大きな効果を発揮するって事さ。考えた攻略法の一つ。魂の変形が追いつかないほどの速度で叩けば、全くの無傷とはいかなかったんじゃない?」
「……ほんと、鬱陶しく育ったね」
自慢できるような事ではない。今のダメージは、本当に唇を切った程度のものでしかないのだろうから。
幸いにして、順平の術式は、およそ彼の空想を実現できるものだった。
体術方面には、全く鍛えていなかった貧弱な体力を無視しても才能が無い、と言われた。それに反するように術式には、とりわけ解釈を伸ばすという方面には大きな適性があった。肉体が貧相で呪力も十人並な順平。彼を支えているのは術式の解釈だ。
とりわけ毒。映画の中で描かれたいろんな毒を、現実的にダウングレードして行使する。しかも、(これは拡張術式全般に言えることだが)術式の開示によるデメリットを負わない。これだけが、順平が持つ利点の全てだ。
(澱月を生かすために、とにかく虚を突き続ける!)
「ま、着眼点がいいのだけは認めるよ」
声は、体のすぐ近くから響いた。
「え?」
真人はアスファルトが陥没した場所から動いていない。分身でもない、と思う。仮にどちらであったとしても、そこまで近づかれて呪力すら感じられない事はありえない。
気付けば、襟首を細い触手――指が細く伸びたものだ――に捕まれている。頼りないように見える触手はしかし、たやすく順平の体を振り回す。
「う、あぁっ!」
地面を引きずり回され、街路樹に背中を打ち付けられ、最後に頭からコンクリートに叩き付けられた。頭皮がぱっくりと割れて、大量に血が出る。頭の傷は規模に比して出血が多いため、大したものではないと信じたいが。そちらより頭部を揺らされて、視界が安定しないのは問題だった。
澱月の針で服を破き、拘束から脱出する。すぐに立て直そうとしたが、やはり三半規管に異常を来していた。膝を上げた時点で体が揺れる。
待ち構えるように澱月を待機させた。しかし真人は近づく事無く、足を大きく振りかぶる。膝から先を団扇のような形状にして、思い切り風を吹かせた。一連の迷い無い動作に、順平は顔を青くする。
「あらかじめ毒をまき散らしておくってのはいい発想だけど、呪力を隠匿できなきゃ全くの無意味だよ」
毒自体は、掴まれた時点でまき散らしていた。動きを制限された為に、澱月を近くに寄せて防御態勢――と見せかけ、毒の中に誘い込む。即興にしてはいい手だと思っていただけに、あっさりと見抜かれた衝撃は大きい。
「ちょっとは驚かされたけど、根本的に実力不足。発想だけで戦ってたにしては健闘した方なんじゃない?」
全くそんなことは思っていない表情で告げる真人。
「あーあ。余計な時間をくったなあ。おかげで遊んでやる暇もないじゃん」
(まず……)
直感的に感じる。次の一撃に手加減はない。確実に、澱月では防げない攻撃が来るだろう。かといって、もう触手では苦し紛れにもならない。
「じゃあね。こんどはしっかり死んでよ」
順平は咄嗟に目をつぶって、両手を掲げ頭を庇った。全く意味の無い守りの姿勢。こんなものは、ただ弱さが溢れただけでしかない。とりわけ真人を相手にするならば、腕など下げて、よく相手を見るべきだ。
死に際を取り繕う事も出来ない情けなさに歯噛みする。結局、何もなしえなかった。果たして自分の行動に、ほんの僅かでも意味があったのだろうか。
にたにたと笑う真人の笑み。それが、瞬き一つの間に潰れていた。
(え……?)
空から何かが落ちてきた、のだと思う。それが真人の頭に直撃した、のだと思う。それはとてつもない威力で、真人をアスファルトを貫通して押し込んだ。二重の衝撃が大気をひび割る。
突風、というよりは空気の壁にひっぱたかれて、ひっくり返る。
掲げていた手が風と、それに巻き上げられたアスファルト片を遮ってくれたのは幸運だった。指の隙間からそちらを見る。
落ちてきた人影は、ひしゃげた真人を今度は掬い上げるように殴り飛ばす。ぐぢり、と人であったならまず死んでいるだろう異音を発しながら吹き飛ぶ。違和感は音ではない。真人が血をまき散らしている事だ。
真人の術式は、自分に発動する限り、ほぼオートであると予想できる。魂は常に柔軟で、肉体の変化に先行、ないしは同期する訳だ。つまり、一時出血したとしても、長続きしない。血を流しながら舞い散っているのは、明らかな異常事態だった。
追突したビルから即座に、鳥人間が飛び出してくる。
「くそっ、なんでお前がいるんだよ! 宿儺が失敗したっていうのか!?」
呻く真人を睨んでいるのは、大きな背中――
「今度は……間に合った!」
「虎杖……君?」
今にして思えば。虎杖悠仁は、初めて会った時から吉野順平のヒーローだった。体も心も救われた。そして。
またこうして、危機に駆けつけてくれている。
「……くくくっ」
「…………? どうしたんだよ、順平」
「虎杖君、格好良すぎ」
「?」
本人は何のことだか全く分かっていない様子だったが、それでいいと思う。無自覚に輝かしいのが一番彼らしい。
「立てるか?」
「大丈夫」
悠仁は油断なく視線で真人を追いながら、声を掛けてくる。
平衡感覚はすでに戻っていた。頭の出血に関してはしばらくかかりそうだが、どうせ、害があったとして多少見えづらくなる程度。動けないようなものではない。
額の血を拭い、髪の毛をかき回す。これで、血は多少流れづらくなる筈だ。
「こんな状態なのに聞くのもどうかと思うんだけど、まだ戦えるか?」
こちらに気を遣って、というよりは、どこか信頼した様子で。
もし撤退を前提にした問いだったならば、きっと傷ついていただろう。こういう所が、つくづく格好良すぎる。
「当然、いけるよ。いや、やらせて」
「――なら、助けてくれ。俺一人じゃ、多分あいつを祓うには届かない」
言われ、苦笑した。悠仁に対してではなく自分に。
頼りにされている。少なくとも、そう思い込むことが出来る言葉をくれた。それだけで体に力がみなぎる。怖くて仕方が無かった真人の力に、今は何も感じない。
我が事ながら現金なものだ。悲しいほど単純だが、嫌ではない。理由一つで立ち上がれる自分というのは、思っていたよりずっと気持ちが良かった。
乱れていた呪力を整え、さらに出力も回復させる。元々、呪力を出し尽くすほど長く戦っていなかった。息を整える余裕されあればこれくらいなんともない。消えかけていた澱月が、存在感を取り戻した。
「ちょっと形勢を戻したくらいで随分調子にのるじゃないか」
空中を飛び回っていた真人が、手を変化させた翼で羽ばたきながら滞空し、心底嫌そうに告げてくる。今ならば、それを鼻で笑ってやるくらいの余裕があった。
「真人、ここでお前とは決着を付ける」
「結局、宿儺だって役に立ってないし、もういいや。これならやりたいことを優先したって別にいいよねえ」
彼の浮かべる凶暴な表情は、つくづく、真人という存在が呪いそのものなのだと思わせる。
ただし、状況に悲観するような所は何一つとしてない。悠仁は事前情報で分かっている限り、唯一真人の天敵たりえる存在だ。そして、順平の術式はともかく、性格は間違いなく支援向き。ましてや悠仁ほど信頼できる相手なら、取れる手段は星の数ほど思い浮かぶ。
どう考えても相手の方が強いのに、順平は悲観的であるはずなのに、負ける気がしない。
息を深く吸い込んだのは、奇しくも二人同時だった。
「行くぞ順平!」
「ああ!」
ここを書きたかったから書いた所ある