だいたい殴れば解決する 作:三回転半ドリル土下座
恐山山中――
羂索は裸体を隠そうともせずに、こきりと肩を鳴らした。
触れただけで皮膚程度は簡単に裂き、肉すら食い破るだろう鋭い岩。明らかに人の手が入っていないそれに、しかし当然のように体を預けていた。
温泉の中から手を出し、少量浮かんでいた湯ノ花を掬い上げる。秘湯、というかただの僻地に湧き出る温泉が、具体的にどういった効能を持っているかは知らない。もしかしたら弱い毒があるかもしれないが、調べようとは思わなかった。重要なのは、ここが日本各地で無数に作ったセーフハウスの一つであり、重要な霊地に手を加えた呪力溜り――つまり体を癒やすのに丁度良いという点だった。
渋谷事変の後、羂索は手持ちの札をほぼ全て使い切る形で天童大地から逃げ切った。
追跡はまずないと確信できたものの、問題は山積み。特級呪霊を使い切ってしまったのは、実のところ然したる問題ではない。肉体の損傷が甚大だったことこそ難点だった。
反転術式の使い手に治療はいらない。これはある意味で正しく、ある意味で間違っている。
高度な反転術式の使い手ともなれば、脳すら治癒できる。が、それは術者の体に負担を与えないという意味ではない。過度な治癒は癒えない傷を刻むし、機能させる脳も無事とはいかない。
これは羂索以外の誰も知らない事だが。死体を癒やすというのは、生きた体のそれに倍する呪力を消費する。体の七割以上を失い、完全再生とは行かずとも、延命の為に治癒を行い続ける。羂索そのものと言うべき脳が無事である筈がなかった。
ただでさえ呪力を大量消費しているのに、体をほぼ作り直す。さすがにこれは能力的にも状況的にも不可能だった。それこそ呪術師はおろか、一般人に襲われても死にかねない状態である。
「はぁー。しかし惜しかったなあ」
湯船の上でのんびりしながら、ぽつりと呟く。
夏油傑の体は非常に優秀だった。元から特級術師に相応しい呪力量を持ち、技術も申し分なし。おまけに術式も有用だった。問題と言えば、死体故に成長を見込めなかったという点だろう。逆に言うと、それくらいしか不満点がなかった。
今の体は、夏油傑に比べれば数段格落ちする。身体能力はともかく、呪力の目減りは痛かった。少なくとも、術式なしでは前の体に勝ち目がないという程度には弱体化している。
まあ、この体に利点がないわけでもないのだが。そうでなければ乗り換えたりなどしない。
「でも術式、術式かー」
岩に寄りかかり嘆息する。鋭い岩肌が皮膚を掻いた。
恐山の一角は、羂索の実験場だった。これほど有名な霊地を自分の領域にするのは、少なくない苦労があった。なにせ呪術師のお膝元である。
ただまあ、それだけに見返りは小さくない。術式に関しては厳選できたし、体術の才能だって悪くなかった。さすがに夏油傑ほどとまではいかないが。ワンポイントであれば、前の体より働くだろう。
とはいえ、虎杖香織の術式は捨てざるをえなかったのは痛い。あれは接近戦において無類の強さを発揮したのだ。もしもまた天童大地と対峙した時用に残しておきたかったが……呪霊操術にはもしかしたら役割がある。ここで捨てることができない。
そんな事を考えさせられているのは――
「やっぱ、大体は天童大地が祟ってるなあ」
五条悟は分かる。そもそも六眼を持っている時点で弱いわけがない。その上、無下限呪術との抱き合わせだ。
「特異点……とでも言うべきなのかな」
六眼持ちに限りなく近い呪力操作。特級の名にふさわしい呪力量。おまけに、術式を縛りでいじくり回し、訳の分からない強力な術式を生み出した。羂索の膨大な知識を持ってしても意味不明な存在である。
羂索は目的の為ならば、手段は選ばないし手間も厭わない。無数のプランを用意して、どんな流れでも目的を達成できるよう備えてきた。にも関わらず、全てが崩壊させられそうになっている。
こうなってくると、むしろ目的を達成
無為転変を発動し、死滅回游は始まった。それはつまり、1000年もの長きにわたって収集した呪物の全てを失ったという意味でもある。再収集するには、最低でも同じだけの時間が必要だ。漏瑚も『契約』したわけではなく、呪霊操術で意識を乗っ取っただけのため、次の世代に引き継ぐことはできない。もう一度試そうと思ったら、今度は何百年、もしかしたら何千年後になるのやら。
全てにおいて最低限の目標は達成している。故に、引っ込みもつかなくなっていた。
まだ歯車は回っている。しかし、軋む音は確かに聞こえていた。いつ壊れて全てが崩壊してもおかしくない危うさ。
「いっそ政治的に排除できないかな。できないだろうなあ」
彼は禪院家の血を継いでいる。御三家出身という時点で、追放は簡単な事ではない。
羂索は現代の呪術師を見下している。しかしそれはあくまで術師の合理としてだけであって、他の面では昔より遙かに洗練されていると思っていた。長い年月をかけて呪術師界に埋めて置いた地雷も、今回初動を遅らせる為に全て使い捨ててしまった。これから再度上層部に手を伸ばしてというのは、まあ、利口なやり方ではない。
こうなると、宿儺には速やかに復活して貰わなければ。そして、天童大地を殺して欲しい。復活する手立てがあるかもしれない五条悟と同時に相手するというのは、最悪のプランだ。その状況は、さほど確率が低いわけでもない。想定しないわけにはいかなかった。
「めんどくさっ」
湯船にタオルを突っ込んで軽く洗い、絞った後頭に乗せる。一人湯はこういう無作法をしても文句がないから楽だ。
「……おい貴様。何をしている」
背後からぶっきらぼうに声をかけられる。誰かと探るまでもなく、裏梅だった。
頭は動かしても体は暢気にしているのだから、サボって見えたのだろう。まあ、療養に格好付けて裏梅だけを働かせていたのは否定しないが。
「ご挨拶だな。湯治だよ」
「これを風呂だと言うなら体裁くらい整えたらどうだ」
随分と刺々しい様子で、裏梅が告げる。
たしかに言うとおり、ここは露天風呂というよりも、ただの池か水たまりといった風体だ。どうせ入るのは自分一人だからと、何も手を加えなかった。結界術を応用した具象で変化させられない事もないが、霊地に変な影響があっても馬鹿馬鹿しいので、余計な真似はしないようにしている。
(まあいいように使ったからねえ)
現状でまともに動かせる手札は裏梅のみ。だから、随分無茶をさせてしまった。感謝の言葉を述べてもいいが、多分うわべだけだと見抜かれるだろう。怒らせるだけなので言わないでおく。
「で、首尾はどうだったんだい?」
「貴様を頭まで沈めて氷漬けにしてやろうか」
いよいよ犬歯をむき出しにして、裏梅がうなった。さすがにからかいすぎたかと反省する。
馬鹿にしているわけではない。ただ、羂索は根本的に全てを茶化している。基本、面白いもの以外はどうでもいいし、己以外の全てを無知で蒙昧な馬鹿くらいにしか思えなかった。
ただし、そういった意味では裏梅も大差ない。奴にとっては宿儺以外の全てが無価値である。
二人の関係はギブアンドテイク以外の何者でもないのだ。
互いに相手が有用だから使っている。そこに一切の他意はない。だからこそ信用できるし、頼りにならない。裏切る心配はないという意味なら、貴重ではある。ただし得がたいとまでは言えないが。
「そうつんけんしないでくれよ。君も入るかい?」
「ふざけろ」
そう言った後は、毒気が抜かれたようではあった。ため息をついた後、淡々と続ける。
「切り捨てた甲斐はあった、という所だろうな。呪術界は対死滅回游がほぼ停滞している。動き出せるようになるのは、早くて数日後といった所だろう」
「追っ手は?」
「阿呆どもがいい感じに引っかき回してくれた。こちらを追跡しようにも、完全に見失っている。動かせる戦力を一カ所に纏めて、死滅回游の攻略準備をしている当たり、間違いないだろうな」
「上々だねえ」
「あと、お前がしたいと言っていた、
「それは仕方ないよ。我々の安全が優先だ」
僅かでも羂索がいる可能性があるなら、絶対に天童大地を出動させている。それが死滅回游を一番早く終わらせるやり方だ。少なくとも相手は、その一つだと念頭に置いている。
羂索を殺しても死滅回游が終わらない可能性は、当然考慮しているだろう。ただし、どのみちとっとと始末できれば、死滅回游のさらに先はありえない。それを恐れたからこそ、羂索も全力で雲隠れしたわけだが。
裏梅がきょろきょろと当たりを見回す。何だろうと思っていたら、氷で簡単な椅子を作ってそこに座った。適当な岩が見つからなかったらしい。
「それで?」
「ん?」
「宿儺様はいつ復活なさるんだ?」
疑念混じりだが、今までとは比べものにならないほど真剣味を含ませた声。それで、すぐに話題の本命はこちらだと気がついた。
健気だねえ――そんな言葉を口の中で踊らせる。
はぐらかす事もできる。が、不満が溜まっているため、正直に答えた方がいいか。無意味にからかう事もあるまい。
「正直、私にも正確な所はよく分からないんだよねえ」
ただし、必要のない事は言わない。大筋さえ本当の事を言っておけば、嘘に気付かれないだろう。まあ、仮に気付かれたとしても、不都合がなければ黙っているだろうが。
「君は、なんで虎杖悠仁の強度が、宿儺がでてこれないくらい高いか分かるかい?」
「宿儺様の圧力に耐えられないからだ。そこらの三流呪物とは違って、宿儺様の呪力は五分程度でも一流の呪術師ですら耐えられない」
「正確に言えば呪毒に侵される、だけどね」
特級呪霊と互角の力を持つ脹相。彼を元とした呪物は一般人に飲み込ませても復活させられた。いかに毒性が最大の問題とはいえ、宿儺がどれほど規格外の存在か分かる。
“器”というのは才能だ。生まれつきの素養と言ってもいい。他者の呪力を取り込んで死なない存在というのは、それなりに稀少であった。こればかりは五条悟でもどうしようもない。反転術式のアウトプットが完全に才能でなされるのと同じ理屈だ。
虎杖悠仁はこの許容量が大きいのもさることながら、膨大な呪力を流し込まれて死なない肉体強度、あらゆる呪毒を即座に分解する体質が合わさっている。というのは当然で、つまり羂索がそうなるように作り替えて産み落としたのだ。
極論、宿儺の呪力に耐えられる肉体を得た反面、“器”があまりに堅固かつ深すぎて、体を乗っ取れないというジレンマに陥っている。こればかりは、さしもの羂索も解決できなかった。
「宿儺は自由に外へは出られない。だから虎杖悠仁の中で呪力をマイルドにしつつ、今度は封印されない程度の器を探している。適切な器と、そいつへ乗り換えるための一時的な縛り。多分だけど、どっちもすでに存在するんだよね」
「ふむ」
「現状、宿儺の力は七割五分戻ってる。五条悟を超えるほどとは言わないまでも、間違いなく最強クラスだね。次の器も……私の予想が正しければ、いつでも手に入れられる位置にいるはずだ」
「ではなぜ戻ってこられない」
「さあ?」
「さあってお前……」
肩をすくめて言うと、裏梅は呆れたように言う。
「別にふざけてるわけじゃないよ。本当にそうとしか言い様がないんだ。はっきりいって、すでに復活しない理由がない。大方遊んでるんじゃないの? というか、そういう部分の機微については、君の方が詳しいだろう」
「…………。そうだな。宿儺様はそういう茶目っ気がある」
人を虚仮にし尊厳を踏みにじるのを茶目っ気と言うのはどうかと思う。でも、どう考えてもブーメランなので口には出さない。
「とにかく、宿儺は自分で時期を見て顕現するだろうね」
その時ネックになるのは、間違いなく天童大地だ。
渋谷事変の折、大地は現在の宿儺に勝っている。となれば、少なくとも指をもっと取り戻すまでは、無闇に戦わないだろう。
この程度で恐れるほど、宿儺は柔ではない。かといって、無意味につっかかるほど向こう見ずでもなかった。最低でも、大地が近くに居る場合は復活を控える。
まあ案外、瞬間的な享楽を優先して出てくるかもしれないが。宿儺はそういう所がある。
もしかしたら次の“器”を調整するため、期を見ているのかもしれないが。これは体を奪ってからでも問題ないため、どのみち享楽の域を出ないから度外視すべきだ。まあこちらは、肉体の掌握が早くなるという意味で、いくらか実用的でもあると言えた。
つまるところ、気分優先なのだ。中々困った奴である。
我欲で生きる混沌そのもの。制御も予測も不可能。難儀な奴ではあるが、だからこそ気に入っているし、組む価値があると羂索は思っている。
「さて」
湯から上がって、羂索は体を拭き始めた。
無茶の反動による脳への負荷は十分収まったし、体もなじんできた。呪力量にまだ物足りなさは感じるものの、それこそ特級呪術師とでも戦うのでなければ十分だ。違和感の範疇に止まっている。
「裏梅には十分楽させてもらったしね。そろそろ私も動こうか」
「いいから前を隠せ」
裏梅から汚物を見るような目を向けられ。
当たり前のように、羂索は堂々と素っ裸だった。