※『ウイニングポスト10 2024』発売決定記念に書きました。ですが競走体系は『ウイニングポスト10』のものなので注意。
美しい青毛に、改めて目を奪われていた。
額から鼻にかけては白い滝のような流星があり、くりくりとした瞳もまた、可愛らしい。
同時に、それを目にした彼は信じられないと口から漏らす。
「すみません、この仔、父はなんという種牡馬ですか?」
「はい、父は英国から輸入したテスコボーイで、母はキタノリュウといいます」
牧場長の男からそう聞いて、なるほど、と彼は目を丸くする。
ただ……と目を伏せつつ、牧場長は言葉を続ける。
「こうも立派な馬ではあるんですが……牝馬でして」
牡馬であればまた違ったかもしれませんが、と俯いて。
「お恥ずかしながら、正直に申し上げて、買い手がひとりでもいるのでしたら、なんでもいいからすぐさま売りたいんですがね……」
「言いましたね?」
自嘲気味に苦笑するしかなかった牧場長は、彼が放った稲妻のような一言に、思わず視線を向ける。
「もしよろしければ、買いますよ。この牝駒」
牧場長は肩を竦めて、目の前に立つ男に向き直る。
なおも彼は退く様子を窺わせない。夢と錯覚しそうなこの現実を、取り逃すわけにはいかぬと。
「いくらです? 言い値で買いますよ」
「……9000万円、でしょうか」
牧場長は不敵に笑う、挑発するかのように。
対して、しかし彼は眉ひとつ動かさない。
「うん、余裕です。買いますよ」
その即答に牧場長は頷いて、仔馬のほうを一瞥する。
「……しかし、こんなに早く取引が成立するとは」
「僕の情報網を甘く見てもらっては困りますよ」
「菅野さんもなかなか仰る」
彼――菅野は、こちらに視線を注ぐ存在にふと気づく。
そちらに振り返れば、心なしか仔馬が菅野を見つめているような気がした。
「また、世話になるぞ」
菅野がそう告げると、仔馬は反対方向へ駆けだしていく。
やがて菅野の視点からして、青毛が豆粒のようにしか映らなくなったところで、仔馬が再び視線を飛ばす。
――ついてこれるかしら?
まるでそのような言葉を告げているようだった。
1975年5月、東京競馬場。
『さあ4コーナー、最終コーナーを回って直線へ向きます! 最終直線へ向きます!
先頭は、先頭は、たった一頭抜きん出たテスコガビー! 桜の女王が引き離す、引き離す! 桜花賞同様、ここでも楽勝濃厚か! テスコガビーはまだ楽、テスコガビーはまだ楽! ここから捕まえきれる馬はいるのか!? 差は開き続けているぞ!
2番手との差は8、9馬身ほど! 残り200mで、これはもう決している! これはもう勝負決した! テスコガビーの大楽勝! テスコガビーの圧勝であります! 2番手には追い込んできてヒダロマンか! 桜花賞2着のジョーケンプトンはかなり苦しくなっている!
残り100mでありますが、もはや言葉は無粋でしょう! テスコガビーが引き離して、ちぎり捨てている! 鞍上森洋は持ったまま! 持ったまま! 持ったままです!
テスコガビーが今、ゴールイン! 森は余裕の笑みを湛えているのか! 笑みを零しております! これで牝馬二冠です! 秋には三冠目が待ち受けています! 秋華賞も楽しみです! 勝ち時計は2.25.6! 勝ち時計は、2.25.6であります!』
本来ならばありえぬ出走、ありえぬ舞台、ありえぬ現象。
菅野はそのすべてを、目の当たりにしていた。
パドックには愛馬となったテスコガビー。その鞍上に据えられるは、牝馬の名手となるであろう森洋。
11番のゼッケンを纏って、テスコガビーはそこにいた。
本来成しえるはずのない三冠目。今日この日、あの日見た快速少女が挑もうとしている。
それだけでも、それだけでも。菅野にとっては夢のようなひと時であった。
単勝オッズは1.2倍。断然の1番人気を背負って、今こそ戴冠を成そうというところ。
菅野にはもはや、これが現実だとは思えなかった。
馬場へ向かっていくテスコガビー。その背には史上初めて牝馬三冠を成し遂げた名手。
菅野はこの一瞬だけで、確信する。
ああ――これは、信じられない光景を目にする、と。
『各馬、ゲートに収まります。牝馬三冠目、秋華賞。京都競馬場、芝2000m。馬場は良馬場であります。今年は二冠牝馬も出走して、三冠の機運が高まっております。テスコガビーと森洋は、その栄光を勝ち取れるのか。
今、スタートが切られました!
一頭、やはり桜色のメンコが行きます! 押して押して行きます! テスコガビーが逃げていきます! テスコガビーが、やはりハナを奪っていきます』
たった一頭、抜きん出るように逃げていく青毛。テスコガビーは桜花賞、オークスと同様に逃げ切り態勢へ。
しかしむざむざとハナを明け渡す各馬ではない。2頭ほどの他馬がテスコガビーに並びかけようとしてくる。
対して鞍上の森はどうするわけでもなく、ただただ悠々と逃がすのみ。
だというのに、それだけでも2番手以下との差が縮まらない。
これには流石にお手上げか、400mを通過した辺りで、2頭は追うことをやめる。
『今のところ、テスコガビーがまだ楽に逃げています。二冠牝馬テスコガビーが淡々と先頭を行きます。2番手以下との差は2、3馬身ほどか。まだまだ余裕を保っているかテスコガビー。
さて1000mを通過しまして、タイムは……59.5! かなりのハイペースですが、テスコガビーはどうでしょう! これは少し速いか! 森洋はなにを考えているのか!』
にやりと口角を上げる。森洋はこの瞬間、自身の中で導き出されている通過タイムで、確信を抱く。
――馬を信頼すれば、あとは。
最終直線、最後の勝負どころ。しかし、テスコガビーにとって、森にとって、この勝負は、先頭は譲れない。
『二冠牝馬テスコガビーはどうだ!? 二冠牝馬の脚色はどうだ!? 先頭はまだテスコガビー! テスコガビーが、テスコガビーが引き離している! 桜花賞、オークスと来て、ここもまた楽勝か!? まさに恐ろしき牝馬! まさに恐ろしき女王! 森洋はまだ手綱を持ったまま! 鞭など要らぬかテスコガビー! 秋に輝く桜のメンコ! 三つ冠貰い受けたか!
テスコガビー、独走でした! ここもまた大楽勝! これは恐れ入りました! まことに恐れ入りました! 勝ち時計は1.59.7! 牝馬三冠を、史上初めて成し遂げました、テスコガビー! 鞍上の森洋は、首筋に顔を埋めて、歓喜の涙を流しています!』
森にとってその光景は、未だに脳裏に焼きついている、思い出である。
あの日、あの時、あの瞬間。間違いなく森は最高の名馬と出会えた。今でもそう感じられるほどには。
二度目の牝馬三冠を成し遂げて、後年にダービーという栄冠を手にしても。
森の視界には、あの一瞬が蘇ってくる。
「ああ……俺はもう、騎手やないというのに」
苦笑して、空を仰いで。
「……ガビーちゃん、またいつかな」
「森さーん! 新しく入厩予定の馬の情報が入ったんで、持ってきましたよ!」
「なんや、今懐かしんどったところやのに」
後頭部を搔いて、森は渋々その情報が書かれている文書を手にする。
「……ああ、こいつは」
目頭を抑える。文書が地面に落ちてしまうが、気にもできぬほどに。
そこにあったのは、名牝の存在を証明するもの。
祖母にテスコガビーを持つ、青毛の牝馬。
馬主は菅野泰宏という。
余裕があればWiki風も書いていきます。