悪食と偏食のプレリュード・ノン・ムジュレ(短編集)   作:古守

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※花吐き病パロ、大学生if、名無しモブ女、嘔吐寄りの表現


雄弁な花は恋を識る

 睡眠をとるため、布団に入った時だった。

 ああ──今日は比較的落ち着いていたのに。そう思いながら、玲は掛け布団を引き上げ頭の天辺まで覆い籠もった。

 

「──ぐっ、ぇぅ……ッご、ゲホッ! は、ぁっ……げほッけほ、」

 

 剥がれ落ちた一枚を取り去ろうと、最後は空咳のような乾いた咳を繰り返す。

 小さく控えめなものは、すんなり出さえすれば楽な部類ではあるが、細かな花弁などが引っかかってしまうと逆に取りきるのが難しいのだと、玲は疾うに学んでいた。

 抑え込む、液体で流し込むこともできないことはない。しかし後が辛いのだ。遠慮する必要がない場所であれば、残さず吐き出してしまうのが正しい処置であった。

 

 苦しさを紛らわせるルーチン。そして曖昧な花の名前やそれらが持つ意味を知るために、玲は息を整えながら緩慢な動作で上体を起こすと、手近に置いていた携帯端末を手に取りとあるアプリを起動した。カメラモードになっていることを確認し、シーツの上に散らばる二種のうちまずは黄色い方へと端末を翳す。

 

 春の訪れをしらせる幸せの花。喉奥に引っかかっていたのはこの丸くてふわりとした花弁で、名はアカシア。通称である【ミモザ】の方が聞き馴染みのある花だ。

 もうひとつは、同じく春に見かけることの多いパステルピンクの控えめで可愛らしい草花。一見金魚草に思えたそれは和名で姫金魚草と呼ばれるもので、名は【リナリア】だった。

 ふたつの花を撮り終えた玲は、慣れた手付きで一覧のボタンをタップする。

 このアプリは、レンズを通した花の名前や花言葉などの詳細が表示されるだけではなく、いつどこで花を見つけたかを自動で記録してくれるのだ。医者に症状や頻度を伝えなければならない玲にとって、なんとも都合の良いアプリであった。

 

「……秘密の恋、密かな愛と……この恋に気付いて、かぁ」

 

 数えるのも飽きるほどにずらりと並んだ花の記録は、色鮮やかで非常に美しい。間違っても人を不快にするようなものではないのだが、自嘲めいた呟きを零す玲の視線は虚ろで、顔色も決してよいとは言えぬものであった。

 ────当然だ。

 

 一覧にある花の全て。一輪の例外もなくその全てが、玲の胸を痛め喉を裂くように吐き出された吐瀉花(ゲロばな)なのだから。

 

 

 

 

 

嘔吐中枢花被性疾患(おうとちゅうすうかひせいしっかん)

 通称『花吐き病』と呼ばれるそれは、室町時代に爆発的に流行し、潜伏と流行を繰り返し現代にまで続く奇病と記録される、罹った者が花を吐くやまいである。潜伏期にあたる現代では発症例は極めて少なく都市伝説レベルの広がりであると囁かれるが、医者にかかれば「花吐き病」と診断される歴とした疾病であった。

 直接死に至ることはなく、人によっては罹っていることに気付かない場合もある。

 なぜかと言えば、『自分以外の誰かに好意を抱く』『片想いを拗らせる』という条件が揃ってはじめて花を吐くという症状が出るからだ。

 恋をしなければ、花は吐かない。恋をした気になった程度でも、花は吐かない。

 

 度合いは患者次第であるが、一度恋をしていると自覚した者は花を吐き、花を吐く者即ち片想いを拗らせている者である。花の持つ毒性の影響はなく、死にはしない。しかし嘔吐と同じ苦しみを伴い、体力も消耗する。抱く想いが強く深いほど吐く花の量も増えるとされ、本人の意思に反して花を吐いてしまうこともままあるため、社会生活が困難になると言われていた。

 

 何より難しいのは完治させる方法。

 その方法とは、『好いた相手と両想いになること』であった。想う相手に想われなければ、想う相手に想われていることを知らなければ、花吐きは治らない。

 奇病、難病と言われる所以である。

 

 

 

 

 

 現代の医療で可能とされたのは、一時的に吐き気を抑制することであった。

 花吐きのひとりに()()()玲も、もしもの時のための抑制剤を処方してもらっている。ただし、あくまで抑えているに過ぎない状態であるため、薬の効果が切れれば抑えていたものは体外に排出される。

 留め置くことはできても消し去ることはできず、抑え溜め込んだ分は、あとあと量として溢れ出るのだ。

 溜めた嘔気はより切迫した不快感を齎し、更に嘔吐が長引けば腹部や胸部の痛みに食欲不振、酷ければ目眩まで引き起こすのだから薬を常用する花吐きはほとんどいなかった。

 量が増してしまうと、単純に処理に困るという問題もでてくる。

 

(うつらなければ……もう少しやりようも、あるのだけど……)

 

 丁度講義が終わったところで助かった。口元をハンカチで押さえながら、玲は足早にトイレの個室へと駆け込んだ。鞄からエチケット袋を取り出し咳をすれば、鮮やかなピンクが目を引く、【サクラソウ】が一輪とその花びらが数枚。

 咳払いを幾度か重ね、喉に違和感が残っていないことを確認してからそれを端末に記録する。

 サクラソウが初めてではないのは、花言葉が『初恋』だからだろうか。詳細を読み進めれば『叶わぬ恋』の意味もあると小さく書かれていたため、揺らいだことが原因かもしれないと、玲は静かに目蓋を閉じる。

 

 講義終了直後、片想いの相手と、その恋人の姿を見た。ただそれだけ。

 たったそれだけのことなのに、言い聞かせているはずなのに、玲の心は聞き分け悪く何度も揺れる。

 

「っう、ゲホッげほっ……~~ッ」

 

 魅力や風情といった意味を持つ【スカビオサ】が追加される。既出のそれが持つ別の意味は、『恵まれぬ恋』だ。

 花々をくしゃりと握り潰し袋に閉じ込め、鞄に詰める。

 直接触れることで伝染する吐瀉花の処理は、研究に利用される以外は焼却が義務付けられていた。然るべき曜日に然るべき方法でゴミに出さなければならない。

 どれだけ美しかろうが新鮮だろうが、処理の面倒なただの有害ごみなのだ。

 

 

 

 玲の吐き出す花は、ある意味特別であった。

 瑞々しく新鮮で、香りが強い。新鮮であればあるほど生命力が強く長持ちするとされる吐瀉花は、その筋の者からすれば喉から手が出るほどの研究材料である。知人の病院経由で一度だけ専門期間に提供した玲の吐瀉花は、特殊な環境にあるとはいえ、二カ月ほど()()()らしい。

 想いの強さがそうさせるのか単なる偶然か、原因は定かではない。しかし枯れることで感染力を失うのが吐瀉花であるため、玲は処分に人一倍気を使わなければならなかった。

 

 吐瀉花などと呼ばれるため勘違いされることも多いが、吐き出された花は直接触れると感染する以外、見た目も香りも至って普通の花である。例えば、花屋で購入した花に混じっていても気付かないほどに。

 玲が花吐き病に感染したきっかけは、まさにそれだった。

 

 学園祭で売られていたミニブーケ。付き合いで手にしたに過ぎないそのブーケに、法律で販売が禁止されているはずの吐瀉花が使用されていたのだ。

 ブーケ全てがそうだったわけではなく、被害は二人に留まったとされている。

 症状がでなければ分からない病のため今後も数が増える可能性はあるが、ニュースになったその事件から三カ月が過ぎ実害がなければ、当事者以外の記憶に残るようなものでもない。誰が花吐きになったかなんて噂は、二週間も経たぬうちに聞かなくなった。人の関心など、そんなものだ。

 

 手を洗い、鏡を前にした玲は目の下の薄い青みに目を留める。取り出したオレンジのコンシーラーを指にとり、肌に乗せるまで迷いはない。体調管理を怠ることはないが、嘔吐による疲労が蓄積すれば、血行不良は隠す以外どうにもならなかった。

 玲は、気心の知れた学友ひとりと家族以外に病気のことを伝えてはいない。騒ぎにしたくはなかったし、花吐きであるがゆえの面倒事に巻き込まれることも避けたかった。

 何より、想い人である楽郎に知られることを恐れた。

 

「斎賀さんが楽郎と仲良いのは知ってるんだけどさぁ、当分遠慮してくんないかな」

「っていうのも私、楽郎と付き合うことになってね?」

「付き合いたてだし……いくら友達でも、気になるっていうか」

 学園祭の数日前、楽郎と仲が良かった女の子から()()()()()()

 

「……斎賀さん、あの日ブーケ買ってなかった?」

「様子が変だしまさかとは思うけど、楽郎の親切心に付け入るようなことはしないでね」

 学園祭の数日後、同じ子から()()()()()()

 

 なんて酷いタイミングなんだろうと、玲は失意に暮れた。失恋によって一方的に寄せていた心は酷く乱れ、一週間も経たぬうちにわけも分からず花を吐くようになったのだ。

 付け入るなんてとんでもない。まずもって、近付るような状態ではなかったのだから。

 理由を知った後では、尚更楽郎には近付けない。

 

 うつしたくもなければ、花を吐くことで想いを伝えたくもない。かといって言葉で告げようにも、恋人ができたばかりの楽郎には振られてしまうのがオチだ。

『家の都合で暫く忙しくなります』とだけメッセージを送り、玲は楽郎を避けはじめた。

 手伝えることがあるか。体調は大丈夫か。そんなメッセージが届く度玲は胸が締め付けられん思いで、多くの花を吐き出した。

 

 

 

 

 

「いた、玲さん」

「! ……っ、……陽務君」

「……講義室出てくとこ見えて、顔色良くないなって」

 

 手洗い場を後にして数メートル離れたピロティガレージにて、背中へ投げられた声に玲はかすかに肩を跳ねさせ、足を止めた。静かに、ゆっくりと振り返り見た楽郎とは挨拶を除けばかれこれ四カ月近くまともに話しておらず、気にかけてくれたことへの喜びよりも気まずさが勝り、自然と視線が下がる。

 親切心に付け入るな。じわりと侵食する言葉が胸を締め付け、玲は肩にかけた鞄の持ち手を両手でぎゅっと握り込む。話している途中で花を吐くなどあってはならないと気を揉み、痛みに重なるように焦慮が積もる。

 

「……軽い寝不足ですから、ご心配には及びません」

「え、いやでも……今もかなり辛そうに見えるんだけど」

「ありがとうございます。けれど、もう帰るだけですから」

 

 無理やり貼り付けた微笑みであっても、体調が思わしくない今ならば不自然に映ることもないだろう。突き放すような言い回しも、楽郎と距離を取る必要があれば致し方ないことだ。

 どれだけ胸が傷もうとも、玲は今ここで楽郎を振り切って帰路につかねばならなかった。

 だというのに。今日の楽郎は引かなかった。

 体を縮こませるように鞄の持ち手を握っていた玲の手首を楽郎が掴む。反射的に肩が強張り、戸惑いが乗った顔も上がる。高校の時より少しだけ高くなった目線まで上げると、掴んだ本人である楽郎も一様に惑いの乗った色を浮かべていた。

 ──痛ましそうな、困ったような。

 そんな風に表情を崩しているとは思っておらず、虚を衝かれた玲は逃げ出すタイミングを逃してしまう。

 

「あーその……避けられてんだろうなって、気付いてはいるんだけどさ」

「っ、」

「送らせて。辛そうで流石に放っとけない」

 

 手首にかかる圧が僅かばかり強まり、肌を通して伝わる熱は拒む気持ちを封じるように沁み広がる。

 ふつうのおんなのこだったなら。きっともろ手を挙げて喜んだに違いないと、玲は静かに楽郎を見つめる。そして、楽郎越しに駆け寄ってくる女性の姿を捉え、半ば強引に腕を振りほどいた。一度たりとも見せたことのない、完全なる拒絶だ。

 呆気にとられる楽郎に「ほんとうに大丈夫ですから」と告げる声も、理不尽に迫り上がる腹立たしさに余裕を奪われ、些か冷たく落ちた。

 心配してわざわざ追ってくれた友人に対する態度として最低だ。そう頭で理解しても、甘く親しみのこもった声で楽郎と呼ばれる想い人とその恋人が仲睦まじく話すところなど、見たくはない。なにより、耐えられるとは思えなかった。

「どうか彼女さんを大切に」だなんて。心にもないことまで立ち去る前に一方的に言い捨てて、玲はふたりに背を向け駆け出した。変わらず呼んでもらえる名前を背で受けても、振り返り足を止めることはしなかった。

 

 完治させる方法はもうひとつある。

 ────『想い人(陽務楽郎)を心から離すこと』だ。

 

 

 

 

 

 体調が万全であれば或いは抑えきれた吐き気も今の玲には耐え難いもので、キャンパスからほど近い小さな公園へ逃げるように身を潜ませるのがやっとだった。

 入口から丁度死角になるフリースペースを囲むように植えられた低木のそばにしゃがみ、這い蹲るほどに身を縮め何度もえずき、吐き出す。

 

【ライラック】『初恋』

【ヒヤシンス】『変わらぬ愛』

【スイカズラ】『献身的な愛』

【ブッドレア】『あなたを慕う』

【スイセンノウ】『私の愛は不変』

【モナルダ】『燃える想い』

【ヘリオトロープ】『愛よ永遠なれ』

 

 吐瀉花は言葉よりよっぽど雄弁で。

 離れてさえいれば忘れられるなんて、玲を埋め尽くさんとする花たちからすれば『思い上がりも甚だしい』と言ったところだろう。見ないふりをして嘯いたって、玲本人よりもその心の内を識り尽くす花を騙せるはずがない。必死で抑え込むほど、残酷なほど赤裸々に暴かれる。

 好いた人を心から追い出すことは不可能だと、ただ思い知らされるだけだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

「どうか彼女さんを大切に」

 

 ────彼女、とは? いやそんなことよりも。

 振りほどかれ宙に浮いた手に目を落としながら、楽郎は指先から冷えていくような感覚に歯噛みする。思い出すのは、数カ月前に寄越されたメッセージと、ほぼ同時期にまことしやかに囁かれていたひとつの噂だった。

 

 斎賀玲には婚約者がいる。

 

 聞いた瞬間は驚いたものの、斎賀家を知る楽郎からすればそういう事実があってもおかしくないのかもしれないとも思った。ゲームの誘いを断ることのなかった彼女が自ら家の都合で忙しくなると連絡してきたことに加え、一度だけそれらしき男性を見たこともあった。

 親しそうにしていた、とまでは言えないが。大学の裏門付近で年上らしき相手と並んで歩いている姿を目撃した。噂に信憑性をもたせるようなことが立て続けに重なり、何より避けられていることに気付いてしまえば、以前のように気軽に話しかけるのも憚られる。

 玲さん本人が言うなら、家の事情なら仕方がない。そう言い聞かせなるべく距離を置いていたのに。

 依然として視線だけは合うし、まばたき一回ほどであったとて柔く細められる。

 先ほども、呼び止めた瞬間の瞳だけは変わらぬ優しさを孕んでいた。出会って間もない相手ならば勘違いで済ませることもできたかもしれないが、相応に付き合いが長く、何より彼女の表情の変化を楽しみにしていた自分がいた。

 だからこそ余計に、振りほどかれた時の泣きそうな顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。

 

(誤解がありそうなんでまずはそれを解いてそれから積もりに積もった話を……)

「ら、楽郎……?」

(全力疾走されてちゃ追いつけるかは賭けだが体調かなり悪そうだったし兎に角探すか無理なら家に──)

「楽郎ってば!」

「んあ? 悪いけど今ちょっと構ってる暇ないから他あたって。じゃ!」

「ちょっ、ちょっと!?」

 

 掴まれそうになった腕をさっと躱し、玲の駆けていった方へ向けて走る。

 楽郎には、ひとつだけ心当たりがあった。話をするまで頭から抜け落ちていたくらい薄いアテではあったが、玲さんほど責任感の強い人ならばと少しだけ可能性が増したこと。

 突然席を外す姿、血色の悪い顔色、何より強い花の香り。

 一時期、ネットニュースで取り上げられるほど広まっていた構内の事件と時期が被るのだ。仮にそうだとすれば、辻褄も合う。色々なことがすっきり紐解けるかもしれないこの状況下で、放っておくなど悪手極まりないではないか。

 

 

 

 

 

「見つけた」

「!?」

「……なんというか。まずは名称を改めるべきと思うんだよなぁ」

「っ、ち、近付かないでくだ、さい!」

「断る」

 

 言いながら、楽郎は遠慮なく一歩踏み出す。

 話した時とは比べ物にならないくらいの花の香り、それを放っている大量の花々が玲を囲んでいるのを視界に入れて思ったことは()()()()という確信と、口にした通りの感情。

 楽郎は初めて実物を目にしたが、花屋で見かけるものと遜色ないほど鮮やかで、綺麗だと思った。不謹慎は承知の上で、玲さんに似合うな、とも。

 

 驚きの表情から一変、痛ましく思うほど歪んだ顔はやはり今にも泣きそうで。散らばった花を隠すように、或いは誤って触れてしまわぬようにするためだろうか。かき集めて体で懸命に覆う玲の姿に、それでも楽郎は足を止めず、人ひとり分の距離を空けて静かに腰を下ろした。

 

「い、やです……っ」

「どうして」

「……っら、楽郎君に、だけはっ……」

「俺としては名前呼びに戻してくれただけで来たかいあったけど。玲さん、俺に心配されんのヤなの?」

「ち、ちがいますっ!」

 

 慌てたように上体を起こす玲はいつも以上に眉尻を下げて、口を開けては閉じを数回繰り返したのち漸く「うつしたく、ないんです」と震える声で零した。

 

「見られたくも、なかった……っ、こんな悍ましいも、の」

「全然そんなことないけど、んー……」

「……お願い、です……もう、放ってお──」

 

 聞く気がない。というよりは、話を聞くだけの余裕がない。そんな玲を前に何を言ったところで届きはしない。そう思い至るや否や、楽郎は食い気味に言葉を被せて前のめりに上体を寄せた。

 

 吐瀉花に触れることなど厭いはしないし、恐れもない。

 だってこれは、玲さんが“誰かを好きでい続けた証として咲いた花”なのだ。

 

 花々を握り潰すように握りしめられていた拳の上から手のひらを重ね合わせ、抑え込むのは一瞬。指先に散らばった花弁が触れていることを頭の片隅で些末事と処理しながら、拒絶されるより先に、唇を塞いだ。

 想像したよりもずっと柔らかく、少し冷たい。噎せ返るほどの香りに、頭がくらつく。

 最悪殴り飛ばされることも覚悟の上でそんなことを思っていたが、数秒経っても動きはなく。とは言え暴挙とも言えよう己の行為に後ろめたさを覚えた楽郎は、じわりと湧いた名残り惜しさに蓋をしつつ静かに体を元へ戻す。

 それから──硬直した玲に声をかけるより先に、()()花を吐いた。

 

 数秒前までの心地良さを一瞬でなかったことにするほどの不快感。感覚としては確かにゲロに違いない。彼女はこれを、一体どれほど耐えてきたのだろうか。

 願わくは、今日ですべてにケリがつきますように。ささやかな想いを胸に、楽郎は改めて眼前の玲へと視線を据えた。

 

「俺のこれを治せるの、玲さんだけなんだけど」

「────っ」

「責任とれそ?」

 

 

 

 

 

 後に聞いた赤い花の名──俺が吐いたそのキザな花は【アネモネ】で。

 花吐きが完治の際に吐くという枯れない【白銀の百合】二輪とともに、時折花瓶に添えられた。

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