披瀝   作:缶ジュース

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 代替わりを三回重ねてなお、スマホにはランニングアプリのバックアップデータが残され続けていた。アプリ自体は一回目の買い替え以降インストールしていなかった。

 

 立入禁止の注意書きを無視しごつごつしたテトラポッドの上に立った私は、そのデータを長押しして削除をタップした。1メガバイトにも満たない記録は呆気なくこの世から消えさった。最初は毎日1km、売れ始めてからは毎日ではなく不定期に、ただ走る距離は1kmよりも伸びていって、最終的にどれだけ走れるようになったんだっけ。自主的に始めたカラダ作りがどこまでエスカレートしていったのかは、もう二度と分からない。1メガバイト、最新のスマホで撮った高精細なツーショット写真の一枚にも満たない容量は、自分を叶えるために見た夢の証だった。ずっと消せなかった。消してしまった。消せてしまえた。

 力が身体に入らなくて、その場にへたり込んだ。消せなかったことと、禁忌を冒したとばかりのこの気持ちは未練じゃない。拘泥、というの。中高生だった頃は知らなかったな。そんな言葉も、こんな心境も、その言葉の意味、ほかの選択肢もあるのに、ひとつのことに必要以上にこだわり囚われる、ってことも。

 アイドルから遠く離れた今の自分のこと、でも、嫌いじゃないの。だって、こういう私になるまでの道のりを遡れば、この今を作ったのは、折々の私のできる、私なりの精一杯の連続だもの。

 きらめく水平線が眩しくて、目を閉じた。

 そんなふうに、心のなかでだけ声高に唱えて主張する。

 中高生だった頃、アイドルに一途で、他の選択肢なんて想像もつかなかった。トップアイドルになれる可能性を、いえ、可能性じゃない、これも知らなかった言葉だけど、蓋然性を、信じてた。

「美化しちゃって」

 テトラポッドへと続いた海辺のコンクリート舗装へ、よろよろしながら引き返し、打ち上げられたクジラみたく仰向けで寝転がった。海と同じカラーをしたVネックワンピース、せっかくのおろしたてが汚れて台無し。まぁいっか。ワンピースの外に曝されてる肌に小石が刺さって痛かった。けど悪くなかった。青と白が七対三の割合で彩る視界いっぱいの空に、飛行機が真新しく白い雲を引いていく。

 海は久しぶりだった。豊洲の765プロライブシアターに通っていていつでも海に行けた頃は、じゃぶじゃぶと水遊びをする同僚のアイドルを嗜めてみたり、巻き込まれて水浸しになってプロデューサーに叱られてみたり、楽しかった。それを偲んで、苦しみとともにこみあげる切なさを抱いてコンクリートに寝っ転がる21歳になってるなんて、夢にも思ってなかった。

 ため息も、敢え無く潮騒に消えた。流れる雲が太陽と重なり、初夏の日差しを遮ってる。とっくに飛行機は視界からフレームアウトして、尾のように引かれていた雲も、最初からそうだったかのように消え去り、もう、何もない。

 目を瞑りしばたいてから、腕を空へ突き出して腰の横をめがけて振った。ふっ、と鼻から息が漏れた。反動で上半身を起こした私は、顔に掛かった髪を払って、汗ばむ肌についた砂の粒も払い落とした。立ち上がって、ミュールをその場に脱ぎ捨てる。両腕を掲げてバランスを取りながら、危なげなくひょいひょいとテトラポッドを乗り移り、最も海に面する、下半分が海水に浸かったテトラポッドに腰を掛けた。ワンピースの裾が浸からないよう太腿までたくし上げ、縁までお尻で移動しそっと爪先から海に足を入れた。ひんやりした微かな抵抗は、たぶん三〇度に迫る今日の気温のせいだけれど、とてつもなく魅力に満ちて感じられて、いっそ飛び込んでしまおうかと考えた。考えるだけ。後ろ手をざらつくテトラポッドにつき、青みがかり透き通る水に素足を遊ばせる。ゆらゆらと波立つ水面とともに揺らいで見える水中の脚は、細く青白い。砂浜でポーズをきめてグラビアを撮ったこともあったな。夏の日差し、ラムネ色、弾けろ青春! 確かそんな、先輩方の楽曲にあやかったようなキャッチコピーが付いて雑誌の巻頭カラーを飾った、と思う。はっきりとは覚えてない。右足に力を込めて海水をかき混ぜてみれば、抵抗は粘つくように重い。一〇代半ばのアイドルだった頃から、脚は太さも白さも変わっていないように見えた。でもハリボテ、だってこんなに水が重いはずないもの。だからもう、ランニングのアプリを手に海辺を駆け回ったりなんかできないし、ましてやステージで歌いながら曲を踊り切るなんて、絶対にムリなのよ。

 

 深呼吸は反射だった。呼吸は浅かった。

 

 言い切れたら、そう言い切れたらどんなに。試しに踊ってみれば、身体は振り付けをしっかりと覚えていて、しかもまだそれなりに動けてしまう。それを知っていた。その事実にこそ何よりも絶望を感じたの。環境とか、取り巻いてる物事じゃない。いつだってままならないのは結局、自分の心だけなのよ。

 

 道路脇で人目も憚らず、左手に握ったスマホのインカメラで写真を撮ろうとした未来。「ほら、静香ちゃん! こんなの運命だよ! はーやーくー!」直接会うのは約一年半ぶりだというのに、まるで調子の変わらない、街で偶然ばったりと出くわした彼女に、「しょうがないわね」なんて、本当は満更でもないのをお約束のようにそう告げて、呑気に温もりを感じていた私。顔を寄せ、未来のハイチーズで撮った街路樹が背景のツーショット。ほらほら静香ちゃん、やったね! そうはしゃぎながら未来は私にスマホの画面を差し出してくれた。二人揃った画面の笑顔だけを見ていればよかったのに、つい薬指に目がいっちゃったの。きらりと光るエンゲージリングがよく分からなくて、瞬きを数回して、未来の顔を呆然と見た。

「結婚……する、した、の?」

「あっ! ……で、でへへ……実は、そう、する予定なんだぁ~。静香ちゃんも結婚式、ちゃーんと呼ぶからね。絶対来てよね!」

「そう、なの。全然知らなかった。おめでとう未来」

「ありがとう!」

「お相手は、」

 どんな方なの? 私の知ってる人?

 それらともうひとつ、問い掛けは同時に三つ浮かんで、最後に浮かんだ問いの語尾に付いた疑問符を外せばそれが答えだって、目を泳がせ恥ずかしそうに頬を赤らめた未来を見ながら、直感した。未来の口から出る答えを私は分かってた。分かってて避けた。

「どんな、方なの?」

 

 プロデューサーと最後に会った日のことは昨日のことのように焼き付いている。脳裏だけではなく、胸の奥にも。

「語れるほど俺も大層な人間じゃないけど、それでも確信して言えることはある。静香なら大丈夫だ。ずっと見てきたんだ。俺の知ってる静香は、努力家で一途で、人を思いやれる、面倒見の良いまとめ役で、進むべき方向を決して間違えない子だ。自分じゃそうは思ってないかもしれないし、俺の言葉を信じられるかも分からないけど、それでもいい。大丈夫さ。これからも色々絶対にあるし、まだまだ先は長いけど、幸せになれよ。何かあればいつでも相談に乗るからな。なにかなくても、たまには連絡してくれ。これまでも、いつまでも、俺は最上静香の、プロデューサーだからな」

 ぽんと肩へ手を置いたプロデューサーに、私は、目頭の熱さを堪えきれなくて、けど、泣く資格なんか、無かったの。

 中学校を卒業するまでの期間限定。父にそう約束をさせられ取り組んでいた765プロでの活動は、子供のお遊びと否定するには私達ミリオンスターズが結果を出しすぎたために、高校入学後もうやむやなまま許されていた。父の性格上、約束がなかったことになるのはありえない。言葉にされずとも、私の活動に否定的な感情を持ち続けていることは分かっていた。執行猶予が終わりを迎えたのは高校二年生の梅雨の季節だった。夏場の三者面談を目前に呼び出された書斎で、父が自ら作り上げたというアイドルの引退後のキャリアに関するレポートを手渡された。「国公立か、名の通った都内の私学へ進学するように」。765プロでの活動の進退に直接は触れず、ただそれだけを父は私に求めた。言外の意図は十二分に、素振り口ぶりから嫌というほど、察せられた。それと、理解したの。父に……お父さんに、私の好きなものを認めてほしい。私を分かってほしい。心の奥底に秘めていたその願いが、永久に叶わないってこと。

 当時も、私は疲れていた。学校の同級生たちに置いていかれないようコツコツと勉強をし、毎度やることの違う仕事をいくつも同時並行に捌いて、劇場公演の質も落とさないためにレッスンもキッチリとこなしていた。ちゃんと、やろうとしたの。たぶんそれが、……それ”も”、よくなかった。未来に翼に、可奈に杏奈にひなたに、志保に、尊敬する千早さんやジュリアさんに、みんなに、いつからだろう、置いていかれてると、感じるようになってしまっていた。

 一言で言うと、アイドルは人に好きになってもらう仕事だから、どれだけ人に好かれているかがその実力を可視化する。それはファンレターの枚数だったり、お渡し会の待機列の長さだったり、スケジュールの埋まり具合やソロでの仕事数、それから、テレビ局のディレクターやプロデューサーからの目の掛けられ方だったりした。分かってたの。私には特別な才能もエピソードもない。だから人一倍、ファンやみんなに好かれるよう自分を磨く必要があった。もっと集中するべきだったの。だというのに、学校の成績なんか、大学への進学なんか要らないと割り切れもしない臆病な半端者だった。いつ父にまた否定され、私のすべてを剥奪されるかもわからなくて、怖くて、とても怖くて、焦り続けていた。ずっとアイドルになりたかった。歌って踊るテレビの中のアイドルに。憧れたの。幼い頃からのかけがえのない夢。だから駆け続けた。父に抗うためだけじゃない。765プロの中にも外にも、私より凄い人は大勢いた。私より頑張ってる人は大勢いたから。

 右耳だった。ある平日の昼下り、新曲のレコーディングをしているとき、突然聴こえなくなった。病院へ行けば、突発性内耳障害と診断が下された。原因を明確に示すことはできないものの、今回のケースでは、ストレスと過労が要因ではなかろうかと、医者の見解を聞いた。

 言えなかった。プロデューサーにも、未来を始めとするみんなにも。耳がほとんど聞こえないなんて。原因が、ストレスと過労だなんて。言えるわけがない。それに、言ったところで、どうするというの? 困らせてしまうだけだし、私自身も困るだけ。自己都合でスケジュールに空白を作れば、呆気なくアイドルの私は失われちゃうかもしれない。安静にすれば自然に治ると医者にも告げられていた。だから平気、たいしたことないわ、大丈夫、それより、疲れを溜めないように、もっと効率よくやるべきことをこなせるよう考えなきゃ。

 バカよね。でもいっぱいいっぱいで……。みんなに心配をかけたくないとか、お綺麗な気持ちじゃない。プライド、があったの。同じ活動をしてるのに、みんなは涼しい顔で毎日を楽しんでいて、意味のわからない病気に私一人だけが罹ってた。それから、医者の見解が的外れだと、私は知っていたから。お医者さんは、人の心が覗ける魔法使いか何かとは違う。ストレスと過労は上辺でしかなかった。その奥にある、仲間への強烈な嫉妬こそが、私の耳から気まぐれに聴力を奪い去ったと分かってたから。なんの引け目も枷もなくやりたいことをやれて、私のほうがずっと昔からなりたかったのに、応援をしてくれる家族だっていて、みんなから好かれて私より活躍できて私より……苦しんでいないのに。誰よりも輝いて、隈の色濃い寝顔を事務所のデスクで晒してるプロデューサーに、恩返し、したかった。だからみんなのことが私は、いえ、違うの、みんなのこと大好きなの、私の様子がおかしいことに本当はみんな気づいていたんでしょ、それでも気づかないふりをして、不器用に声をかけてくれて、仕事だってそんな状態だったから失敗だらけだったのに、好意をなんだとあなたは──私は。嫉妬じゃない。聴覚障害は、ぐちゃぐちゃに飽和しきった心で唯一確かな輪郭を帯びた、全部めちゃくちゃに投げ出したいって気持ちの現われ。だって、当時私がもっと凄いアイドルだったのなら、顛末は違った。

 

 鈍感なくせに、アイドルの不調にだけは異様に目敏いプロデューサーに見咎められるまで、時間はかからなかった。

「分かってます。だから、言わないでって言ってるでしょう! どうしようもないことを言われたって、どうしようもないじゃない! 不甲斐無い、こんな……出来損ない、失敗作、失敗作よ! 私は! ほんと、ごめんなさいね……ッ!」

 自分を傷つける言葉で、プロデューサーを傷つけた。それから私は……私は、……。

 

 私のアイドルに懸ける想いを直々に私の父へ伝えるため、家まで押しかけてきたあのプロデューサーは、その自分のアイドルが時を経て差し出してきた退職願をいったい、どんな気持ちで受け取ったんだろう。

 父とか進学とか、さも自分ではどうしようもありませんみたいな、裏側の自己防衛が透けて見える薄い言い訳を退職願には並べ立てた。卒業公演すらしないで、ファンにもお世話になった方々にも仲間にも背を向けた、最後の日。手続きのためシアターではなく事務所へ赴いた私に、たまたま居合わせた百合子と杏奈は大粒の涙を浮かべて言葉にはならない引き止めをしてくれた。志保も同じ部屋にいたけど、言葉は交わさなかった。志保は、一瞥もくれずに事務所から出ていったから。その時の志保の後ろ姿が、鮮やかに、私の中に残ってる。

 辞めた日にファンレターを全て処分した。

『好きです(ファンとして)。応援してます!』

『私も静香さんみたいになりたい』

『アライブファクターのデュオで歌声が千早さんと拮抗してて、鳥肌立ちました』

『フェアリースターズのセンター、おめでとうございます!』

『感動しました。これからもずっと好きです』

 耐えられなかった。 

 空を流れる雲のように、私とは無関係かのように、世界は回った。

 後遺症も残らず、元通り聞こえるようになった耳。

 他のことを考えないように黙々と勉強した高校三年生。

 受験科目の点数を高水準に揃えて、埼玉の実家から通学可能な距離にある国公立の大学へ合格を果たした。父は褒めてくれた。母も、安心しているようだった。制服最後の卒業式。スーツを着て臨んだ入学式。講義に出て、単位を取る。挨拶をする程度の知り合いがキャンパス内にできた。サークルや部活には、所属しなかった。友だちと思っていた同学年の男子に告白されて、いい人だと思えたから付き合った。それから、打ちのめされた。その人を恋愛感情で好きになれない自分に。申し訳ないと思っていることが何より申し訳なくて、別れは私から告げた。子供から大人へ年齢が変わった。迎えた成人式で会った未来と翼の振袖姿は、目を伏せそうになるくらい眩しかった。触れあえば、失って離れた距離を体感して、一人で勝手に傷ついてしまうから、遊んだり、メールや電話をしたり、していなかったけれど、二人はまるで会うのが昨日の今日であるかのように私と接してくれた。765プロのみんなは、アイドルを辞めた人はいても、まだ全員が事務所に在籍していて、多方面に渡り芸能界で活躍してると話してくれた。

 表情には出さないよう気をつけたから、バレなかったと思う。アイドルを辞めた人の存在にショックを受けたこと。いつまでも、一〇代半ばのアイドル最上静香から私が一歩も進めていないと、生々しく突きつけられた瞬間だった。

 アイドルは私の中で、全く過去になっていない。

 

 全員がアイドルを辞め、芸能界からも退いて、私自身がもう明らかにアイドルからかけ離れた年齢となって、そうしたら、解放されるのかな。みんなが夢の時間から目覚めたら………、夢から、目覚めたら? なによ、それ。みんながどうこうじゃない。自分の問題でしょう。だいたい、自分から辞めたくせに。全部自業自得なのに。そんなに忘れられないなら、もう一度やればよかったの。やらなかったのは、恥じたから。自分が一番大切なのよ。期待をいくつも裏切って、どういう神経をしていたら自分を憐れめるの? プロデューサーに涙を見せるなんて残酷な真似ができるの?

 腕に強く爪を立ててしまっていた。

 緩めずに更に力を込め、皮膚が剥がれそうな強さで引っ掻いた。肌に線が赤く引かれた。血は出なかった。爪痕から海へ視線を戻す。痛みで、少し落ち着く。

『私、未来が羨ましい……。だって未来は、きっといつか凄いアイドルになるもの。私は普通の大人になって、そんな未来をテレビ越しに見るんだわ』

 14歳のとき、中学卒業と同時にアイドルを辞める約束を私が父と交わしていると知り、自分のことのように泣く未来に、そう告げた。

 16歳になり、ミリオンスターズの3周年記念楽曲をみんなと一緒に歌うことができたのは、ひとえにプロデューサーのおかげだった。

 ミライへ繋ぐ夢を歌う私達の曲。ずっと聴けていなかった。でも1小節も忘れてない。覚えてる。

 歌詞の一節。この感動も、愛情も、ミライを彩るミュージック。彩られた今の私を否定したくなかった。いえ、正しくは、否定の烙印を自分によって押された人生を、生きていけはしなそうだった。だから、夢を、信念を、好きなものを、自己愛ってプリズムで屈折させて、自分についた嘘を本当ということに、自分を嫌いじゃないということにして、毎日をここまでこなしてきた。頑張って肯定しなければいけないの、私は私を。じゃないと、ねぇ、そうでしょう、どうして生きていけるの。

 けど、思う。こうして海を見つめてると、もう、いいかなって。偶然出くわした未来と別れたあと、地下鉄に乗った。臨海の寂れた終点駅に辿り着いてしまったのは、中吊り広告で口紅を指につまみ艶やかに笑う、当時にもましてキレイになったかつての同僚のつり目と目が合ったせいだった。メディアに露出し歌い踊った事実が走馬灯のように過って、惨めで、惨めと思う心の醜さが嫌いで仕方なくて、最後には虚しかった。かけがえのなさと呪縛は表裏一体だと知りたくなかった。苦しくてたまらないの。ささやかな蝶の羽ばたきひとつで切り替わったかもしれない、私がアイドルを辞めない可能性の続きが、つまりセピアに染まってくれない夢が。嘘。『そんなものでしょ』と何度も唱えて、順応をもって大人となるプロセスを素直に踏めない幼稚さが、こう嘯いて見せるこの、拘泥が。いつまでもいつまでも、自分で自分を呪い続けて心の均衡を保つしかないようにしているの。そんなに苦しいなら、苦しいの、なら。

 思考に没頭して聴こえなくなっていた潮騒が耳に戻るまで胸元をぎゅっと握り締め続け、手を放した。

 もしあのつり目が、海辺でなんの意味もない陶酔に浸る私を見たら、なんて言うのだろう。冷ややかに、くだらないと吐き捨てる?

 ……きっと、なにも言ってくれないわね。

 最後の日から、志保とは一度も会っていない。シアターの同級生組だったり、ユニット、クレシェンドブルーを組んだりで、話す機会は多い方だったと思うけど、結局仲良くはなれなかった。私は志保のこと、嫌いじゃなかったけど。向こうは、嫌いだったかもしれない。ずっとそりは合わなかった。

 ポケットをまさぐり、スマホを開いた。メッセージアプリの友だちリストに志保の名前はいない。でも、メアドと電話番号は登録されたままになっている。ランニングアプリのバックアップと同じように、使う機会もないのに消せなかった。消そうかな。他にも連絡取ってない人、全員含めて。画面の上で指を右往左往させた。ふいに、私に一瞥もくれなかった後ろ姿が脳裏をよぎった。

 悩んでる内容と180度反対に、指は電話番号をタップしてしまっていた。

 スマホの画面が切り替わる。発信中と表示がされ、私は固唾を飲んだ。発信音がしばらく鳴り、表示が00:00に変わった。1秒、2秒と通話時間が刻まれ始める。……繋がった。恐る恐る、耳に当てた。

「……もしもし?」

「………………………………静香?」

 自分が掛けたのに、スマホからその声の聞こえることが信じられなかった。

「……うん。分かるの?」

「それは、まぁ、分かるけど。随分、久しぶりね」

 まさか、私の電話番号を消していなかったのか。それとも、私の声を忘れてなかったのか。私と分かった理由は、どっちなんだろう。そう考えながら言った、分かるの? は、最上静香を覚えてるの? という意味に捉えられたように思えた。わざわざ、訂正はしなかった。

「久しぶり……えっと」

 いきなり電話をかけてしまっていることを今更に意識してしまう。

「急に、ごめんなさい。たまたま未来と会って、それでちょっと……あの、時間大丈夫? ダメなら全然、切るから」

「ちょうど空いてるから、今は大丈夫。未来と会ったって、何かあったの?」

「あの子………結婚するのね」

 ぽつりと呟いてしまい、即座に後悔した。もしかしたら、事務所内でも回ってない情報だったかもしれない。

 嫌な予感は的中した。

「結婚? 未来が? まだアイドルなのに?」 

 どうしよう。言ってしまったものは覆せない。志保は鋭いし。どうにか、着地点をずらさないと。

「………違うの?」

「知らないわ。あなたが言ったんでしょう」

「そうだけど……志保が知らないなら、勘違いかも。将来自分も結婚したいって意味で、結婚するとかどうとかって言ってたの──」

「プロデューサー」

 話してる途中で被せてきたその言葉に、息を呑んだ。たぶん、息を呑む音は向こうに届いてしまった。

「未来、SNSで呟いてる。たまたま街で親友に会ったって」

 なにも言えずにいる私をよそに、志保は話し続ける。

「結婚すると言っても、先の話よ。最短でもあと2年はかかるわ」

「なによ、それ、知ってたんじゃない!」

「知っていたとして、言うはずないでしょ? あなたがいま何をしているのか、私は知らないし」

 悪びれる様子は声に一ミリもなかった。この可愛げのなさ。物言いの忌憚のなさ。そうよ、これだからそりが合わなかったんだわ。

「私、どこの回し者でもないから。勘違いしないで。今日、未来に会って、本人に直接聞いたの」

「そうみたいね。それで?」

「それで、……」

 続きを促されても、何か考えて電話したわけじゃないし、未来のことだって考えて呟いたわけじゃない。苦し紛れに絞り出す。

「左手、薬指に指輪は、危ないんじゃないかしら」

「……つけてたの?」

「ええ」

 大きなため息が返ってきた。

「芸能生活もそこそこになるのに……。まぁ、未来らしいけど」

 感情の乗らない声で志保はそう言い、「注意しておくわ。伝えてくれて、どうも」と心なしか気だるげに続けた。

「他は? なにか、あるんじゃないの?」

 今度こそ私は黙り込んだ。志保だってそれは……そう思うわよね。未来の件は、なにも5年ぶりに志保に電話しなくても、星梨花や他の仲の良かった子に連絡すればいいわけだし。

 足元の透き通る水面から、青さで見通せないずっと沖合いまで海を辿っていき、また水平線を見据えた。

 志保の淡々とした喋り方が、裏腹に、電話相手の私を慎重に伺っているよう思えたのは、きっと、都合良すぎよね。

「例えば、なんだけど」

 一度言葉を切って、呼吸をした。

「好きで、本気で取り組んでいたことを、全部自分でご破算にしたとするでしょ。それから結構な時間が経った後、まだ後ろ髪を引かれているのって……その……間違えたわ、そうじゃなくて」

 つばを飲み込んだ。止めどない汗で全身がべっとりとしていくのを感じる。上手く言葉が出てこない。言葉にできない。

「なら、やればいいって、思うのは簡単なの。プライドよ、プライドがね、分かるでしょ」

 声が上ずってしまい、プライド、が大きく強調された。後頭部の斜め上の辺りから自分を自分で見下ろす感覚が強烈だった。笑えた。大げさ。恥。幼稚。

「だから何なの? って。あなたは、で? それで? って、そう自分で自分を追い詰めることで、楽になって、湧いて仕方ない憎しみをせせら笑うの。そうして自分を甚振って、いつまでもこう、浸ってるだけ。最近も夢を見たわ。もう5年経ってるのに。未来がいて翼がいて、シアターの控え室で振り付けを確かめあったの。harmony 4 youの。悪夢だった。悪夢って、感じるの。日常、他愛もない、あの頃の、それを。すごく鮮やかだった、何から何まで、サビ終わりの『シアターフォーユー』って歌うとこで首のアイソレーションをピタッと音ハメするのにはどうしたらいいって、夢」

 声が震えて、嗚咽が混じって、話すのをやめた。終わったと他人事のように考えた。こんなに消えたい気持ち、初めてかもしれないとも思った。この告白の取り返しのつかなさを意識の片隅が計算していた。計算と平行的に囀った。自分に言及して言及して、疲れた、人と話してても、人を鏡に自分について考えて、疲れたのよ。

 スマホは無音だった。一方的に喋ってる間中、相槌もなかった。

 汗が引いていく、血の気とともに。代わってせり上がるのは、恐怖だった。

 電話を掛ける前、今の自分を晒したら、突き放されると考えた。甘すぎた。遠くに行きたいとか、誰もいないところに、できれば私さえいないところに、消えちゃいたい、だとか、抱えたそういう気持ちへの、きっかけになるかもと、かけた瞬間にしたたかに計算してた。分かってなかった。こんな私を、人はどう思うの? 分かってなかった。胸から心をえぐり出し人に晒すことを全然わかってなかった。私の心は、どこか知らない場所にいる志保の指先にあった。とてつもない恐怖はつまり、さじ加減次第で本当に私、死ぬ。

 

 永遠にも思える静寂が続いた。

 やがて、志保が言った。

「私には、あなたのこと分からないと思う。ただ、」

 呼吸が止まる。海の波も、吹く風の音も。

「体たらくを、死にたいとを考えて慰めるの、わからないわけじゃないわ」

 声に、鼻の奥がツンとしてもう、だめだった。スマホを膝に置いて顔を手で覆った。……どうして、だせるのよ。そんなに優しい声。嘘つき。嘘ばっかり。初めてのソロ曲でも志保が嘘を歌ってたとを思い出し、覚えてることもやりきれなくて、込み上げる嗚咽は抑えようがなくて、拭っても拭っても、抱え込んだ恐るべき重さの感情は、ぽたぽたとこぼれ落ち続けた。

 

 滲んだ視界が戻れば、変わらずに海は凪いでいた。ハンカチをしまい、通話中のままずっと待っていてくれた志保に、そっと尋ねた。

 ミリオンスターズとして私が最後に歌った楽曲、harmony 4 you。ミリオンスターズの4周年を記念した曲だった。中学二年生から高校二年まで4年間、765プロに在籍した。辞めてから今年で、5年が経った。

「最後の日、なんで、何も言ってくれなかったの?」

 一拍だけ間を空けて、志保は応えた。

「尊敬してるからよ」

 …………ずっと、思ってた。あの日、志保の中で私はついに、言葉をかけるにも値しない人間になったんだろうって。

 切なかった。胸が痛かった。向こうに悟られないよう、頬を伝った一筋の涙は静かに袖で拭った。

「テニスとピアノは、もうやっていないの?」

「よく、覚えてるわね。……やってないわ」

「やってみたら?」

 志保の誠実さに、適当な返事はできなかったから、応えなかった。代わりに言った。

「志保はもっと、ドライだったと思う」

「そうね。自分のしたいようにすればいいんじゃない。あなたのことなんかわからないし、知らないから」

「それ、冗談よね? 分かりづらいわよ?」

「言うほど冗談じゃないわ」

 鼻を啜る。くすっと笑ってしまった。志保も電話の向こうで笑ったかもしれない。聞こえなかったけど、そんな雰囲気を感じた。そして何となく、終わりを察した。

「あなたと話せて、よかった」

「そ。どうも。じゃあ、また」

「……ええ、じゃあね」

 画面をタップして、通話を切った。私は腰を上げた。

 趣味だったテニス、特技だったピアノ。アイドルを辞めるとともに、その二つからも離れてしまった。

 力の抜けた手からスマホが落ち、足元のテトラポッドにぶつかって滑って、大した飛沫もあげずに海の中へと消えた。

 水平線を見据えた。

 考えるだけは、おしまい。

 波に浚われてしまっても、それはそれで一歩。今、そう思えるから。

 踵を返し、テトラポッドふたつ分、もと来た方へと戻る。向き直り、そして踏み出した。ホップ・ステップ・ジャンプと裸足でテトラポッドを越え、宙に躍り出て、きらめきと底しれない暗さの同居する深い海へと私は、心のままに飛び込んだ。

 

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