パスポートを貰うまでの間、暇を持て余すことになった薫子は、メル友の羂索に聞いて勧められた観光スポットを練り歩いていた。
とりあえず悪い人の集団であるQの皆さんには組織から抜けると伝えて、餞別代わりにとても綺麗なものを見せてあげたところである。夜空を切り分ける流れ星の軌跡のようで、ますます冴え渡る斬撃の色彩に、とっくに見慣れていたはずの薫子をして見惚れてしまう斬撃だった。Qの皆は薫子の突然の退職に色めき立っていたけど、あれなら満足してくれたはずだ。
「あ」
らんらんと鼻歌を歌いながら歩く女は、突出した美貌で以て男女の別なく自然を吸い寄せる。浮世離れして無垢で、透明な雰囲気を纏う美女は、妖精のように幻想的な魅力を放っているのだ。
さながら誘蛾灯の如し。
息をするより自然に人の善意を引き出してしまうような容貌の持ち主は、定職に就いているわけでもないのに金に苦労したことはない。世の中やはり顔である。文字通りの顔面凶器だ。
そんな薫子は、街中で見知った顔を見かける。
「お兄さん、久しぶり!」
「あ? ……ッ!? テメェは……!」
「おいおい嘘だろ、運悪いなんてもんじゃねぇぞ……!」
ラフな格好でカフェのテラス席にいたのは筋骨隆々の黒髪の偉丈夫だ。もう一人は知らない相手だが特に興味はない。薫子に声を掛けられたその男は、相手の顔を見るなり即座に立ち上がる。
臨戦態勢。
偉丈夫――天与呪縛のフィジカルギフテッド、天与の暴君と謳われる最強の術師殺し、伏黒甚爾だ。もう一人の方は孔時雨、裏社会の仲介人である。
甚爾が突然の邂逅に驚愕し、臨戦態勢となり薫子と対峙するのに、とうの薫子は微塵も気負った様子がない。薫子の性格上、危険だと見做した相手は避ける、一般人としては正常な対応をする。なのに一度は手痛い敗走を喫した相手である甚爾に、自分から近づいていったのは異常事態と言えた。
だが薫子にとって――甚爾はもう、危険な相手ではなかった。
先の戦闘で覚醒したのは五条悟と夏油傑の二人だけではない。薫子の場合は覚醒というより悪化と称するのが妥当とはいえ、彼女の戦闘能力はスワンプマン化の影響もあり跳ね上がっていた。
甚爾は以前まで身体能力の差で天敵に等しかったが、今はもうそうではないのである。薫子の身体能力は呪力強化込みで甚爾に並んでいるのだ、持ち前の剣技とも合わせれば恐ろしくない。
そして薫子の力は先の戦いを遠目に見ていた甚爾も把握している。スワンプマン化して以後の最新の戦力は把握していないが、彼女の気質を知る彼は薫子が近づいてきた意味を理解していた。
「……なんの用だ」
「なんの用も何も……知ってる人がいたから声掛けただけだよ?」
「……」
体内に呑んでいる武器庫の呪霊の口から大刀――釈魂刀をいつでも抜き取れるように身構える甚爾の端的な問いに、薫子は不思議そうな貌で首を傾げた。
メル友を得たことで、友好関係の構築に積極性を持った薫子は、知人を見かけたことで友達になろうとしていたのだ。甚爾からすれば心の底から願い下げの行動である。
そも、甚爾に薫子の思惑など測りようがない。なんたって薫子はイカレている。壊人の意図など伝わる道理はなく、ただただ危険な存在に近寄られたという認識が危機感を煽っているだけだ。
甚爾は孔時雨を一瞥し、さっさと逃げろと視線で告げる。戦う力がない孔時雨は頷き、背中を向けずに後退してこの場から逃げ出そうとした。まるで森で熊に出会ったかのような反応である。
「あれ、どうしたのオジサン?」
「――!」
「帰っちゃうの? 別にいいけど……話ぐらいしてほしかったかも。
まあいいや、バイバイ! また会おうねぇ!」
言いながら、薫子の手には何時の間にか妖刀が握られていた。いつの間に、と甚爾が目を見開いた途端に妖刀が振るわれた。
甚爾は反応できず。刃の間合いにいなかった孔時雨の首が、胴体から切り離されて地面に落ちた。
「一年前のリベンジマッチのつもりかよッ、しかもこんな街中で……!」
瞬間、甚爾は全力で地面を蹴った。
薫子は単に、さっさと離席したオジサンに餞別代わりに綺麗なものを見せただけだ。また会えた時にでも感想が聞きたいな、と。それだけの善意で。
そして甚爾が反応すらできなかったのは、薫子の挙動には全く行動の起こりがなく、斬撃を放つ意思すら見て取れなかったからだ。謂わば無拍子の神速斬撃、否、天然自然の生態斬撃だ。甚爾は自らの動体視力でも視認できなかった原因が、単純な速さだけではなく剣技の技量によるものだと理解していた。なんら利益のない戦闘に踏み込む理由は無い、甚爾が逃走を選ぶのは必然だ。
一度の跳躍だけで大きく薫子から距離を取り、そのまま一気に走り出そうとする。
それを見た薫子は、残念そうに呟いた。
「あれ、帰るの? あーあ、残念。
「――」
脅しでもなんでもない、本心からの興味。
それが。
五感が超人の域にあり、はっきり聞き取ってしまった甚爾の足を止めた。
薫子はメル友の羂索から、日本にいる危険人物のリストを譲ってもらっていて。甚爾に関しては殊更詳細に知らされていた。羂索の思惑に関して深く考えてもいなかった薫子は、昨日まで名前も知らなかった甚爾の存在を認知し、家族の現在についても知ってしまっている。
彼女は子供好きだ。自分の子供も欲しいなと、女性としておかしくない欲求もある。故に子供がいる知人に子供を持った感想を聞きたかっただけだ。
だが、薫子がそれを口にすると、潜在的な危険度は計測不能である。不吉なイメージを連想するのが壊れていない人間の正常な反応だろう。
「ァは、皆どうしたの? 皆も綺麗なの見たいんだ? しょうがないなぁ、特等席で見せたげる」
そして真昼の街中で孔時雨を斬殺したことで、あちこちで悲鳴が上がるのに対し、薫子は
「領域展開」
――巻藁据物斬。
観客は周辺の民間人。逃げた甚爾からは興味は喪失している。
覚醒し悪化した薫子の呪術の力量は、縛りなしでも領域を展開できる域に達していた。故に今の彼女は術式順転を領域でしか使わないという縛りは
広がる生得領域。
地面は血の池に。空は暗黒に。天空の中心には禍々しく美しい満月が。そして、領域に囚われた民間人は全員が柱に拘束されて。
――その中に、伏黒甚爾がいた。
「あれ? お兄さん帰らなかったんだ」
「……」
「ァは。もしかして、一年ぶりに私の斬撃が見たくなったんだ!
もぉ、それなら最初から言ってくれたら良かったのに!」
無言で腕を動かし、力づくで拘束を破った甚爾に薫子は首を傾げ、次いで満面の笑みを浮かべる。
武器庫の呪霊を口から吐き出し、釈魂刀を抜き取った甚爾は能面のような無表情だ。
無意識だった。体が勝手に動いて、領域の中に突入してしまった。
馬鹿なことをしている自覚はある。だが甚爾は不思議と凪いだ心持ちで、薫子に問いかける。
「おい。テメェ、俺のガキを知ってんのか」
「え? うん、知ってるよ。ツミキちゃんとメグミくんだよね?
メル友が教えてくれたんだぁ。可愛いよね、子供ってさ」
「……そうか」
ツミキに関しては聞き流し、メグミと聞いた甚爾は瞑目する。再度拘束してくる女の術式を――今は亡き最愛の人の言葉を回想してしまった甚爾は――腕力で引き裂いて開眼した。
何してんだ、俺は。そう呟いて、冷酷な顔つきで薫子を睨み。彼は、宣言した。
「殺す」
「なんで?」
意味分かんないよとでも言いたげな女へ、甚爾は全身全霊を賭して挑み。
――そしてこの日を境に、天与の暴君は消息を断った。
ちょろ過ぎないか、あの娘。
羂索は事の顛末を後から知って、呆れる余りに微妙な貌になった。
薫子に勧めたのは観光スポットなどではない。単に甚爾がいただけの場所である。
六眼と星漿体、天元に繋がる因果を破壊してくれた天与の暴君の存在を、羂索は当然把握していた。
羂索は甚爾に感謝していた。彼のお蔭で計画が大きく前進したから。
甚爾のような天与呪縛の持ち主が誕生することは知っていた。御三家の禪院家にもまた、特別な因果があるからである。――禪院家の相伝術式、十種影法術の持ち主が生まれる前後の歳に、血縁者として因果を超越したフィジカルギフテッドが生まれるという因果が。
十種影法術はその性質上、術式で呼び出した使い魔を使役するには、使い魔を自分の手で調伏する必要がる。だが嘗て六眼と無下限呪術の使い手と相討った最強の使い魔は、術者本人だけで調伏するのは困難を極めた。余りに使い魔が強すぎてほぼ不可能と言ってもいい。
そこで天与呪縛のフィジカルギフテッドに調伏を手伝わせるのだ。そうすることで調伏の儀は恙無く完了する。フィジカルギフテッドは十種影法術を完成させるためのピースなのである。
故に羂索は甚爾に目をつけていた。彼なら天元に纏わる因果を破壊できると知っていたから。
だが首尾よく因果を破壊した今、羂索にとって甚爾は不穏分子でしかない。排除しておくのがマストだが、生憎と羂索と甚爾の相性は宜しくなく、また無駄に危険を犯して倒しに行く意味もほとんどなかった。そこで羂索は薫子を差し向けることで排除してしまおうと画策したのだ。
が、羂索からすれば策略でもない、思いつきの行動は面白いほど思い通りになってしまう。
(……まあいい。確か伏黒恵くんだっけ? 彼は私のスペアボディの候補として保護しておこう)
なんであれ十種影法術の術式を持つ存在は、放っておくにはあまりに魅力的だった。
甚爾が生きている内は手出しする気はなかったが、甚爾は死んだ。であれば禪院家も把握していない相伝術式の持ち主が、市井の中で埋もれているのを見過ごしてやる意味はなかった。
羂索は伏黒恵の確保に動くことにする。だがそれは後回しでもいい。
薫子と甚爾の戦いは派手に街を破壊した。一度薫子の領域を破壊し、外界で斬り結んだ両者の戦いは呪術師達の知るところになるだろう。となれば薫子を追う五条悟と――呪霊操術の使い手、夏油傑も近場にやってくる。今は呪術界の上層部に働き掛け、二人が別の任務で別れた時期であった。二人が合流するよりも先に動けば……あるいは、といったところか。
(カオルコちゃんは適当に誘導しておこう。
どこそこに五条悟が来ると伝えれば、あの娘は勝手に動いてくれる)
拘り過ぎはよくないが、今回こんなに上手く嵌ってしまうと期待もしてしまう。
慎重に、しかし大胆に動こう。
羂索は人知れず嗤い、
呪霊操術を獲りに行く、手伝ってくれ――と。
薫子
特に何も考えてない
孔時雨
死
甚爾
聞き流せなかった
羂索
妖刀使いが予想以上にちょろ過ぎて、
欲張りそうになるのを自制