今年も宜しくお願いします
綱渡りだった。
乱れる呼気。流れる汗。霞む視界。そして、歪む顔。
纏う衣服は切り刻まれ、もはや襤褸に等しい。裂傷負うこと夥しく、流した血もまた同様。
戦いが長引いている――この175日間で最も疲弊した。
追い詰められている? ああその通り。だが宿敵と言える女の疲労もピークを迎えているはず。
体力気力の消耗は少なくとも、呪力量は明白に目減りしていた。
ならまだだ、まだ終わらない。いや、終わらせる。これが最後の攻防だ。
――不規則な軌跡を描き、縦横無尽に中空を疾駆する青い星。
無下限呪術の順転『蒼』だ。強力な引力で万物を吸い寄せ、挽き潰す必殺の呪力弾である。
それが
しかし青い星が二つ、唐突に消滅する。
呪力弾に狙われた標的――式守薫子が神楽の舞踏の如くひらりひらりと華麗に廻り、両腕の妖刀と呪刀で『蒼』の発生の因を捉え、単なる呪力として呆気なく無効化、斬断してのけたのだ。
だが単純に手数が足りない、二つの『蒼』を潰しても三つ残っている。如何に素早く斬ろうとまだ足りない、残り三つの星から齎される引力が、薫子の手脚と胴体を捉え引き裂かんとした。
「『一番、二番、三番部屋』『隔離施錠』」
術式順転。
監禁呪法は結界術の一種だ。名前の通りに、こと閉じ込める面に関しては凶悪な性能を誇る。扉の形をした三対の結界が三つの『蒼』を捉え、挟み込むように閉じ、外界から隔離して封じた。周辺物を掻き回していた引力の星が消えたことで、途端に静寂を取り戻した盆地の中心で青年が口笛を吹く。
「ここで新技かよ。ならコイツはどうだ?」
あの五条悟の『蒼』をこうもあっさり無効化できる存在が、果たして此の世に何人いるか。無法極まる妖刀とは別に、式守薫子が特級呪詛師の名に恥じない、規格外の術師に進化していく過程を見続けてきた悟は、軽薄な口振りとは裏腹に遊びのない殺気を瞳に宿し、懐から三本のメスを抜き取った。
片手の指の間に挟み持ち、投擲するのに合わせ両手を組み印を象る。
「術式反転『赫・遠赤』」
肉眼には視えずとも、六眼なら捉えられる三つの不可視結界へ三本のメスを投じ、内包していた無下限呪術を発露させ赤い斥力弾を形成し収束する。
呪具であるメスは術式行使の触媒としての役割を全うし自壊した。悟が遠隔で生じさせた『赫』と、結界内部に封じられていた『蒼』が衝突して仮想質量『茈』が三つ発生する。
――進化しているのは薫子だけではない。悟は薫子以上に術師としての高みへ上り詰めていた。
悟の進化を後押ししたのは、最強である故に今まで思いつきもしなかった呪具の使用である。
切っ掛けは薫子に贈られた刀を、言われるがまま呪具化させたことだ。癪だったものの、無機物が呪具化した工程を見た悟は着想を得た。果たして悟は無下限呪術を宿した呪具を複数自作し、それらを使い捨てることで、通常なら不可能に近い『蒼』と『赫』の複数同時精製を可能にしたのである。
呪具化した無機物に術式が宿る工程を、六眼ならつぶさに観察してメカニズムの解明を行える。悟は通常なら長い年月を掛けねばならない工程を、たった一日で完了させられるようになった。使い捨てを前提にすれば、日に三つの呪具の作成が可能なのである。つまり、使い惜しむ必要がない。
唐突に発生した三つの『茈』は術者に押し出されず、それぞれが相互に作用し合って極大の『茈』の球体は薫子を巻き込んだ。普通ならこれで死ぬ、此の世に誕生したあらゆる生命の内、これに耐えられる可能性があるのは有史上でもたったの二体。呪いの王、両面宿儺か。あるいは十種影法術の魔虚羅のみ。
しかし悟は微塵も油断せず、気配は感じられずとも経験則の『読み』で背後に振り向きながら『蒼』を打ち出した。果たして悟の読みは的中する。距離という概念を斬って転移した災厄が、忽然と出現したのである。あの『茈』に巻き込まれては死は免れないが故の緊急避難と、勝負を決する為の一手だ。
だが薫子は自身の出現地点に『蒼』を
同時に妖刀を握る右腕も躍動していた。地面を滑って間を詰めながら、流水の如き剣閃が袈裟に振るわれている。交差する二つの斬撃、一方は呪力弾を斬り、もう一方は悟の首に触れた。
寸止め。
悟の首筋に刃を触れさせたまま、全身から汗を噴き出している薫子は苛立たしげに告げる。
「……悟くん、ふざけてるの?」
「何が? 別にふざけちゃいねーよ。殺し厳禁のルールの範囲で、稽古に真剣に取り組んでるぜ。
それより終わんのか? もっとやりてぇし、どうでもいい話はやめてとっとと再開しようぜ」
「……」
へらへらと軽薄に笑う悟に、薫子は不穏な面持ちだった。
さながら夫の不貞を察知した人妻のような圧力。
全く気にもしない悟の様子に反省の色はなく、薫子は淡々と問い詰めた。
「前もそうだったけど、今回もそう。悟くん、私の教えた剣技、全然使わないじゃん」
「ん? そうだっけ? 使ったと思うんだけど?」
「使ってない。術式使用も兼ねた稽古をしたいって言うから前は目を瞑ってたけど、酷いよ」
「えー、そっかぁ? なら師匠が強すぎるのが悪いな。
下手に刀振っても瞬殺されんなら、強い方の手札を切っちまうって」
あくまで軽薄な調子を崩さない悟に、堪えきれなくなったのか薫子はついにヒステリックに叫ぶ。
「……酷いよ。本当に酷い。
何度もデートしたのに、何度も愛を囁いたのに、悟くんはずっとそう!
ハネムーンにも連れてってくれないじゃん! 夫の自覚あるの!?
子供もほしいのに! そういう雰囲気作ってくれないし! 稽古も真面目にやってくんない!」
「は? え、なに? ハネムーン? 子供? おいおいやめてくれよ、アンタじゃ勃たねぇよ俺」
「――!! 最っ低! 私とのこと遊びだったの!?」
「なんで俺が悪いみたいに言ってんの? 本格的に壊れ過ぎんだろ……」
薫子の中では既に結婚式は終えている。ついでに愛し合う夫婦で、かつ師弟関係だ。
なのに悟の返事はどこまでいっても冷淡で。薫子は、顔を真っ赤にして怒り狂った。
「最低最低最低――ッ! 私のこと、愛してるって言ったのは嘘なの!?」
(言ってねぇよ……)と心の中で呟く。しかし、悟はここで表情を改めた。
真剣な表情で、悟は言う。
「今更何言っても信じねぇだろ。なら行動で示すしかねぇな」
「何!?」
「目ぇ閉じろ」
「……えっ?」
「いいから」
イケメンな顔と声で真剣に言われ、薫子は別の意味で顔を赤くした。
何を想像したのか。薫子と付きっきりで接してきた中で、彼女の妄想の正体を察していた悟は、それをなんら良心の呵責に苛まれることなく利用する。
無言で距離を詰めると、薫子は思わず妖刀を下ろした。そして、あわあわと慌て。やがて観念したように目を閉じ、乙女の表情で体を弛緩させる。
接吻されると思っているのだ。悟は形容し難い感情を必死に抑えつつ迫る。
ここだ。
―― 一日千秋の想いで、待ちに待った好機が到来した。
五条悟は175日もの間、下水で煮込んだ雑巾を鼻に当てたまま深呼吸し、胃に直接ヘドロを詰め込む心地で壊人を宥め透かし、口八丁手八丁で付きっきりの剣術修行に臨んでいた。
式守薫子は天才にありがちな、指導が感覚的過ぎて分かりづらいなんて欠点を持っていなかった。寧ろ薫子の指導は的確かつ簡潔で、剣術を覚えるつもりなど欠片もなかった悟にすら、あらゆる武術の要訣である運体術を仕込んでしまうほどの教え上手であった。
高専の教師になるつもりの悟が、将来持つだろう教え子への教導の方法で、大いに参考になると認めざるをえなかったといえば、薫子の教え方が如何に熟達していたか伝わるだろう。
しかし根本的に剣術修行にやる気がない悟は、薫子の技のキレを目に焼き付け、隙を晒すのを虎視眈々と狙うことのみに注力している。必然、教え子にして旦那である悟の不真面目さに、薫子は次第に苛立ちを覚えはじめた。常識的に考えて、自分から弟子入りしてきたくせにやる気がない教え子なんて、先生役からすれば甚だ腹立たしい存在である。薫子は忍耐強かった方だろう。
薫子に剣術を教わった時間は決して無駄ではなく、悟の術師としての力量をより高みへと導いた。特に今までは思いつきもしなかった術式の使い方や、呪力を別角度から捉え、呪具を用いることの有用性を実感させてもらえたことは大いなる収穫だと言い切れる。何より『最強』になった悟にとって、明確に自分を殺し得る同等の存在は、善悪の区切りを超えて関心を持てるものだった。
だが悟は決めていた。この女は是が非でも絶対に殺す、と。
告白すると個人的な怨みはない。確かに以前は親友と共に殺され掛けはしたものの、実際に殺されたわけではないのだ。故に怨むどころか個人的には同情しているし、式守薫子の持つ人間性は善だと認めていた。けれど呪霊『妖刀』に憑かれ、ほぼ一体化している今の薫子は、何をどう頑張ったところで呪いという在り方から解放できない。なら殺してやるのが薫子という人間にとってはせめてもの慈悲になる。悟は一人の人間としてそう感じていたし、呪術師としても生きている限り人を殺し続ける呪いを放置する訳にはいかない。
この175日間は、薫子は悟に掛かりっきりで一人も殺していなかった。しかし今後はどうだ。悟も薫子に掛かりきりでいられる身ではない、壊人である薫子をいつまでも口八丁で抑え込めると考えるのは思い上がりである。そして人を殺した分だけ強くなる性質上、やがて薫子は悟ですら手に負えない化け物に進化しかねない可能性があるのだ。まだなんとかできる内に、早急に殺すべきだと考えるのが道理と言えて――故に
「――」
「……?」
悟は、無言だ。
薫子の教導で修めた体術を駆使し、薫子の教導で身につけた精神操作で殺気を隠蔽し、一息に無防備な薫子の胸に手刀を突き刺し、貫通させ、心臓をくり抜いた。そして貫手で穿った腕の袖口に隠していた呪具のメスを起動し、薫子の体内に『蒼』を展開。一瞬にして薫子の肉体を収束させ、悟の掌に収まるサイズの肉塊に変える。悟は手の中の肉塊を躊躇なく握り潰した。
薫子がいなくなった。
返り血を貌に浴びた悟は、乱暴にほつれた袖口で拭いつつ辺りを見渡した。
「……」
呪力の反応は無し。
殺した。確実に。呪霊『妖刀』ごと薫子を。
事に及ぶ前から丹念に調べていた。薫子が分身を出していないか、新たな脅威は他にないかを。
自分と互角に戦える相手を騙し討ちにしたことへ慚愧の念はある。
本当なら正面から戦って打倒したかった。だが薫子は余りに危険過ぎる。普通に戦っても殺される可能性は高く、確実に祓えるとは五条悟ですら断言できない。しかも危なくなったら悟でも阻止できない転移方法で逃げられるのだ、私情を出して戦うわけにはいかない。
「……反応も、呪力もないな」
ぽつりと呟く。
虚無感が胸を過ぎった。独り言を、追悼のように溢す。
「我ながらつまんねぇヤり方だな。気分悪ぃわ。それに……どうも、気に食わねぇ」
思い返すのは薫子の姿。言動。
呪いに憑かれ壊れた部分ではなく、元の人格を感じられる振る舞い。
「……いい女だったよ。アンタが呪いじゃなかったら惚れてたかもな。
というか、俺並に強い女とか他にいねぇし、勿体なかったか?」
悟が心にもないことを独白したのは、自覚していない直感が
なんでこんなことを言ってんだ、と内心で悪態を吐き、悟は最後に言う。
「来世があったらまともなアンタと会いてぇかも。そん時は、少しは優しくしてやるかもな」
わぁぁぁん。
わぁぁん。
泣いている。無垢な人型が啼いている。
黒髪の美女が、人目も憚らず泣いていた。
「ひどいよ。ひどいよ。どうしてそんなことするの?
いたいよ。いたいよぉ……カラダがぐちゃぐちゃにされたよぉ。
わたしがきらいなの? ……んーん、わたしのこと、いいおんなって言ってくれた……。
ならどうして……? どうしてなの、さとるくん……」
女は、式守薫子だった。
間違いなく殺されたはずの、呪いだった。
壊人である彼女の言動は一致しない。
たとえ愛する人であっても、怖い人だと思っていた。
だから保険ぐらい用意して接するのが道理だ。
彼女は175日前、旦那に結婚『
もし旦那が危険な人だったら、なんとかして逃げられる用意が必要だったから。
結果として、保険が意味をなした時、新たな本物となった薫子は泣いた。
家庭内暴力に泣き寝入りする薫子ではない。いつか悟の暴力癖を矯正してやればいいと、強い妻として心構えを作っていた。しかしいざ懸念があたって暴力を振るわれると、心が軋む痛みに気が狂いそうになった。だって愛していたのだ、大好きなのだ、愛しい旦那である五条悟が。
わぁぁぁん。
呪いが泣く。悲嘆に暮れる。
「もっといいおんなにならなくちゃ」
今のままでは駄目だ。
薫子は強い自分になって、悟を振り向かせる為に、花嫁修業へ出掛けることにする。
今のすぐ泣いてしまう弱い自分と決別する為。
今はまだ悟と会いたくないから、どこか遠くへと旅に出よう。
呪霊が泣く。呪縛される女が泣く。
酷いよお、嫌だよお、と。なんで殺してくれなかったの――と。
最強の呪術師が、自身を仕留め損なったことに失望している自覚はなく。
特級呪霊カオルコは、ふらふらと何処かへと姿を消した。
悟
酷い遣り方で仕留めようとしたが失敗した
現時点でめちゃ強くなってる
直感的に仕留め損なっていると気づいてる
なんやかんや、イカレ女を垂らし込む手腕が磨かれた模様
薫子
DVで泣かされた
もともとダメンズの素質がある為か、
酷いことされても愛想を尽かさない