麗らかな日差しに照らされる公園で、朽ちかけのベンチに腰掛ける若い女がいた。
黒いパンツに、白いシャツ。安物の衣服で身を包んだ女は、手にしていた紙袋を横に置き、中から一冊の本を取り出した。可愛らしい女の子のイラストが表示を飾っている、いわゆるラノベだ。
気怠げにページを捲り出す女の足元には、なんでか彼女についてきていた野良の三毛猫。女の足元にすりすりと体を擦り付けて、ベンチに飛び乗ると図々しく女の膝の上で丸くなった。
いやに懐かれている。女は全く知らない野良猫の振る舞いを気にはせず、好きにさせたままラノベを読んでいた。傍に立て掛けた竹刀袋と、ラノベのミスマッチ感はなんだか可笑しく映る。
女は静かな時間を過ごしていた。
小鳥のさえずり、木々の葉が掠れる風の音。元気な子供達の遊びに耽る声。
にゃぁ、と猫が鳴いた。媚びる声だ。片手で器用にラノベを持ち、ページを捲りながら空けた手で猫の体を撫でてやる。尻も軽く叩いてやった。野良猫は早くも喉を鳴らしている。
人懐っこく、警戒心の薄い猫なのもあるだろうが、それにしたって懐かれるのが早すぎる。
女は稀にいる、動物にやたらと好かれるタイプであるようだ。女は格別に動物を好いているわけではないものの、邪険にするほど嫌っているわけでもないようだった。
すみませーん、という少年の声。足元にサッカーボールがころころと転がってきた。視線を上げると元気溌剌とした少年が駆け寄ってきている。ボールを取りに来ているのだろう。
女は猫の首を掴んで脇にどけると、立ち上がってサッカーボールを軽く蹴った。
ボールは少年の足元へ吸い込まれる様に飛んで、少年は驚きながら脚で受けた。すげぇうまいっすねお姉さん! と物怖じせず笑顔を弾けさせる少年へ、女は曖昧に微笑んでベンチに座る。
再びラノベを開くと、猫は懲りずに膝の上へ。
ウザ……鬱陶しそうに呟くも、こういうことには慣れているのか抵抗はしない。
やがて日が傾いていく。女は読破したラノベを袋に入れて、そのまま次を読みはじめていた。
公園から人の気配が消える。ゆーじー! かえろー! おうー! という少年たちの声を気にすることもないまま、女は風景と一体化した影のようにほとんど動かなかった。
そんな折だ。周囲が暗くなり、いつの間にか猫も姿を消した頃。公園の電灯が灯ると、女はラノベを仕舞い竹刀袋を手に取ると立ち上がった。
女の周りを、白い軍服を着込んだ男達が取り囲んでいたのだ。
彼らは女を探していたのだろう。剣呑に、脅しつけるように。あるいは女だからと侮り、下卑た目を向けながら何事かを語りかける。
女はそれへ億劫そうに、暗い声で拒絶を口にしたらしい。男達は苛立ったように殺気を帯びて。
女は、片手で拝むような掌印を模る。
「領域展開。
それで、終わり。
「――ほら、漫画とかでよくあるじゃん? 我流の剣術を興してさ、由緒正しい剣術流派の奴らをギッタンギッタンに叩きのめすの。そういうのってなんだか格好良くて憧れちゃうよねー」
『椅子』に座って、楽しげに囀るのはラフな姿の女だった。
黒いパンツに、白いシャツ。安いからと何着も同じ衣服を揃えたもので、カジュアルを通り越して野暮なスタイルだが、美人が着るとこんなのでも似合ってしまうのだから世の中不公平だ。
しかしボサボサの黒髪を伸ばし、片目を隠した女の風貌は、整っているものの根暗で陰湿な空気を醸し出している。声の調子も只管に湿っぽく、病に冒された末期患者のように弱々しい。
女は美しかった。だが女の佇まいは人のものではなく、怨霊的な恐ろしさを見る者に感じさせる。
「でもそういうのって、現代風に言ったら居酒屋で政治語ってるオジサンが、急に本物の政治の世界に乗り込んで大鉈を振るって、マジで国を良くしてしまうぐらいの無茶なんだよね。
普通は無理だよ、宮本武蔵ぐらいの超天才の化け物でもないとさ。誰にも剣術を習わないで、たとえば新陰流とかの免許皆伝を受けた剣士に正々堂々戦いを挑んで勝っちゃうとか絶対無理。
強さって極論、積み重ねの歴史なんだよ。技という知識、経験という知識を流派として形成して、研究内容を連綿と受け継いでいってるのは、言うならば数百とか数万人規模で積み重ねた集合知の結晶なんだ。たかが一人の人間が短い生涯で導き出した研究成果で、一つの歴史を覆すのは無理なんだよ」
女が座っているのは、人だった。
白い軍服を着た、見るからに堅気ではない男である。
椅子にされているのだ。恥辱に塗れて然るべきなのに、男の顔面は恐怖で歪んで青褪めていた。
それもそのはず。男には、四肢がなかった。両腕、両脚を根本から切断されて、地面に真っ赤な血の絨毯を敷いている。失血死寸前で止血され、朦朧とした意識の中で死に怯えているのだ。屈辱を覚えて憤慨する気力など、血と共に全て流れ出てしまっている。男にあるのはただ一心、死にたくない、だ。
「で。君はなんて言ったっけ?」
くるくると手の中で回しているのは、脇差と称するのが妥当な小刀。
部屋を照らす蛍光灯の光を怪しく反射し、風車のように回される様は凶器というより玩具である。
「『呪詛師、式守薫子。我々の組織、Qに加われ。断れば殺す』……って言ったんだよね。ね?」
「……」
「目的は呪術界の転覆だっけ。手段はたしか……まあなんでもいっか」
譫言のように肯定する声は、掠れて聞こえない。
そもそも女は聞く気がなかった。
冷淡な笑みは陰惨で、凄惨だ。己が喜悦のみを追求する、人殺しの貌。
「馬っ鹿だねぇ。君ら程度に覆されるほど、呪術の世界って軽いのかな? 軽いわけないよね。もし軽いんならとっくの昔に廃れて消えてるはずだ。
ねぇ、徒党を組んだ呪詛師の寿命って、かなーり短いんだよ。理由は知ってる? 知らないだろうし教えたげようか。呪詛師ってのは大半が雑魚なのに、群れただけで調子に乗るからだよ。
呪詛師には積み重ねがない。殆どの呪詛師は自分の呪力と術式を自覚し、自分は特別な存在なんだって勘違いした元一般人なんだから当然だね。だから呪術への正しい知識が足りない、見識が狭い。反対に呪術界には御三家を筆頭に、数千年規模で培ってきた知識と技、血がある。呪いの蓄積がある。
比べてみたら簡単だ。一般人に呪いが生えただけの雑魚と、呪い呪われのプロフェッショナル。数も質も頭も武器も、何もかもで劣る素人に負けるプロがどの世界にいるっていうのさ?」
はいグサー、なんて軽く言いながら、小刀の切っ先で男の脇腹を突き刺す。
もはや苦悶の声すら出てこない。血飛沫すらも申し訳程度。
それへ不満を見せるでもなしに、女は楽しげに独り言を続けた。
さながらオタクが好きな分野を語る時のような早口で。
「もちろん例外はあるんだろうけどさ、そういうのは少数派だから例外っていうんだ。いちいち一般論の中に組み込むほどじゃあないね。
で……えーと、なんだっけ? ……ああ、そうそう。君らは馬鹿だから分かんないだろうけど、私もインチキでそういう積み重ねってのを知ってるんだ。
私のこと、自分と同じ呪詛師に過ぎないって侮ってたでしょ? ぶっぶー、不正解! 私には師匠がいるんだなー、これが。師匠から由緒正しい呪術の知識をもらって、剣術と呪術の修行も見てもらってる。だから呪術界に属さないで、徒党なんか組んでもないのに、正しい知識の下で実力を付けてこられた。
ちなみに私の師匠のこと知りたい? 知りたいよね、教えたげる」
呪力の気配。負のエネルギーが女の総身から滲み出る。
悍しく、濃厚な血の臭いがする呪力。実際に血が滴り、けれども衣服は穢さない。
女がどこからか取り出したのは、一振りの刀だった。
朱塗りの鞘に収まったそれは、明らかに特級に分類される呪具。なれども、特級という枠組みに括るのにも迷う、
女はこの妖刀に汚染されていた。故に女の有する呪力の性質は、妖刀がこれまで浴びてきた血を模るようになっている。これに触れた者は呪力による抵抗をしない限り出血してしまうのだ。
非術師にとっては、呪力性質だけで致命傷になるだろう。紛れもなく妖刀である。
「
「……」
「これを生み出したのは君も知ってるだろう刀匠だ。ほら、千と百余年前に、今も知られる日本刀の原型を作ったっていう、サブカルチャーでフリー素材にまでなってる人だよ。
亀の甲より年の功ってヤツ? 私はこの人のお蔭で色んなことを知れた。色んなことができるようにもなった。剣士としても強くなれたよ。だから拡張術式で
女は刀を手にしたまま、ブンブンと腕を振る。自らが椅子にしている呪詛師集団Qの最高戦力、バイエルを見下ろして自慢するように。
「私の監禁呪法は指定したエリアを脱出不能の袋小路にするものなんだけど、解釈を広げると凶悪な武器にも出来る。もう勝負ついてるし、術式の開示ってわけじゃないけど教えたげるね。
私は『閉じ込めたモノ』を『自分の
なら
そう。女は呪詛師達と戦ってなどいなかった。
勧誘を蹴った女を、宣言通り殺しに掛かった呪詛師達は、女の
そして全身を拘束されて身動きを封じられたところを、妖刀で切り裂かれたのである。
「領域展開」
女は嘯く。
「現代のソレって、メチャクチャ難易度高いんだよね。なんたって必中させる上に必殺なんだ、平安時代より遥かに敷居が高くなってて当然だよ。
けど私の領域は平安仕様でね、単に必中ってだけで必殺じゃない。
だから現代のソレよりは簡単に習得できた。師匠のお蔭ではあるし、簡単とは言っても現代の領域に比べたらってだけで、ホントは激ムズだったんだけどさ。ともかく、領域だけで必殺する必要はないってのは体感したよね? 要は当てたらいい。当てさえすれば
女、式守薫子の生得術式『監禁呪法』は、結界術に限りなく近い。
薫子はそこに着目したのだ。師から伝えられた平安時代の領域展開の技法を元にして、彼女は自らの術式に縛りを設け、己の術式順転は領域展開でしか用いられないようにしている。
用途をたったの一つに絞っての手法は、師に仰ぐ妖刀が人だった頃のものに似ていると言えた。
「理解してくれたようだから、そろそろお返事しよっかな」
女は、狂人だった。
いや狂ってはいない。狂うというより、壊れている。壊人だ。
妖刀に憑かれ、壊れてしまった一人の女である。
薫子は暗い笑みを湛えて言った。
「いいよ、なったげる。君らの仲間にさ」
「……」
「誘いを蹴ったじゃないか、だって? 女心は空模様みたいに気紛れなの。いいこと知れてよかったねー、童貞くん。
って、死んじゃダメだぞ。せっかく仲間になったのに、はじめての仲間が死んじゃったら悲しくて泣いちゃいそうだよ。ほら、頑張って呪力を練って! 反転術式は使える? 使えないの?」
しょうがないなぁ、と薫子は嘆息した。
反転術式は、竜の依頼的なRPG風にいうと回復魔法だ。ベホマである。傷の修復、欠損した四肢の再生もできるがザオリク――死者蘇生はできない。
だがそれを他者に用いるのは至難の業だ。バイエルは反転術式を用いれるような凄腕ではないし、薫子も反転術式のアウトプットは出来ない。
だから、仕方がないのだ。
薫子は飛んできた虫でも叩くように、妖刀を鞘走らせてバイエルの首を刎ねた。助からないなら介錯してあげようという慈悲である。
斯くして呪詛師集団Qは、コークンと最高戦力のバイエルを失った。烏合の衆である、バイエルを失くしたQは離散霧消してしまうだろう。
しかしここには壊人がいた。薫子はバイエルの遺骸から携帯電話を取り出すと、登録してある番号へ手当たり次第に連絡する。そして、いけしゃあしゃあと言い放った。
「あ、呪詛師のQの方ですか? 私、式守薫子っていいます。
実はですねー、貴方がたの仲間に誘われてた件なんですが、喜んで仲間になろうと思います。
バイエルさん? あぁ……
けど安心してください。バイエルさん達を殺した呪術師は、私が斬っときました。控えめに言ってバイエルさんとか弱すぎて話にならなかったんで、私が仲間に入るなら収支はプラスですよ。
じゃ、迎えに来てくださいね。場所は――です。来なかったら
暗く、昏く、闇く。聞く者に呪いを掛けるような、陰鬱とした声。
脅すつもりはない。実際彼女にそのつもりはなかった。ただ単に、仲間にしてくれなきゃ斬るしかないなぁ、と思っているだけで。
通話を切った薫子は、周囲を見渡す。そしてこともなげに言い捨てた。
「五条さん家の悟くんに見つかったら面倒だし、残穢は念入りに消しとこ」
面識はない。単に、呪術界にて最強という噂を知っているだけ。
だがそれで十分だ。薫子は自身の力量を過信していない。自分はいいとこ一級術師程度だろうなと自らを評価しているだけに、特級に分類される術師と相対したいとは思っていなかった。
仮に特級が相手ではなくとも、個人で一つの世界――呪術界に挑む動機もない。
故に彼女は妖刀を振るった。
閃光として奔った刃が、触れてもいないのに薫子の残穢を切り裂き、消滅させる。
――これが呪詛師、式守薫子が危険視される要因である。
彼女は初犯から数百人の非術師を殺傷し、それから六年間も野放しにされている。稀代の殺人鬼はさらなる犠牲者を量産し続けているのにも関わらず、未だ呪術師に捕捉され殺されていない。警察にも、呪術師にも、だ。彼女は徹底して残穢を消し去り、行方を探る為の痕跡を一切残していないのである。いわば現代のジャック・ザ・リッパー、捕捉不能の歩く災害だった。
「ふふふ……いつになっても、斬るのは楽しいなぁ」
だが。
彼女は壊人だ。
動機があれば、キッカケがあれば、保守的な行動を擲ってあっさり斬りにいくだろう。
彼女は無数の死体を放置して立ち去る。返り血は、彼女の刀が啜って綺麗に消えていた。
斬った相手の死体を残そうが、残穢さえ消していたら見つかる恐れはない。彼女は
向かうのはQとの待ち合わせ場所。半日は待つ、待つが、来なかったら殺してしまう気でいた。
顔も名前も知らない相手をどうやって? 情報通のブローカーに、居場所を調べてもらう? 深くは考えていない、いないが……結果として考える必要はなかった。
彼女が待ち合わせ場所についた頃には、とっくに迎えが来ていたからだ。
薫子は陰惨に笑う。笑って、迎えに来た人に言った。
「Qってなんだよ! 名前ダサすぎ、改名したら?」