日本は民主政の国だ。象徴として天皇が君臨すれども、建前として支配者はいない。
だが裏に支配者がいた。日本という国の真の支配者は、呪術総監部だ。
呪術師は非術師にはない力と歴史を持ち、中には単独での国家転覆が可能な理外の怪物までいる。呪霊発生のメカニズムが明確な以上、呪術師が呪力の存在を非術師から隠し、効率的に呪霊を狩る仕組みを構築する為にも国の権力を握りに行くのは当然の流れだ。非術師が呪力を認識できない以上、術式などの力で人々を操り、裏から国を支配するのは容易いだろう。
しかしながら、ありとあらゆる場に『窓』という諜報員を潜ませていても、呪術総監部が日本国内の全ての組織に常時、目を光らせられるわけではない。なにせ呪術師は希少なのだ、絶対数がどうしても少ない故に、どこもかしこも人手不足に喘いでいる。国内メディアには呪術の秘匿の為に人員を割いてはいるものの、現代の切り裂きジャックというセンセーショナルな特ダネに湧き、生放送の為に迅速に動く営利団体を掣肘するには及ばなかった。
警察にも同様のことが言える。メディアにより特級呪詛師の情報が拡散し、その火消しに呪術総監部が奔走していても、一度ネット上に流出した情報は決してなくならない。そして件の呪詛師は海外にも怨嗟を振り撒いていたのだ、総監部の手が届かない海外メディア、あるいは政府からの問い合わせが殺到してしまえば、情報封鎖を完璧に行うことなど不可能である。
となれば必然、非術師が件の呪詛師を認知するのを止められる道理はなく、凶悪な殺人鬼に対して警察が動くのを止められるわけもなかった。呪術総監部が真のトップといえど、所詮は裏に潜む魔物でしかないのである。表舞台で大々的に呪いを振りまく対象を、どうにかする術は持ち得ていない。
それでも普通なら、後手に回っても迅速に対処できたはずなのだ。こんな大胆なことを仕出かした愚か者など、『現代最強の呪術師』五条悟を派遣すれば速攻で片がつくはずで。現に今まで人の事情を顧みず、派手に暴れようとした特級呪霊などは一日もしない内に五条悟に祓われていたのだから。
だが――今回は相手が余りに悪すぎた。
特級呪詛師の式守薫子は、五条悟に匹敵する殺傷力の持ち主だったのだ。
悟以外の者では相手にもならず、かといって悟が出向いても『距離を斬って瞬間移動』なんて無法な逃走に打って出られたらどうにもならない。
思えば呪術界は五条悟という『最強』に、何時の間にか依存していたのだろう。表での対応が後手に回り、悟ですら取り逃がしてしまう怪物的な呪いへ、総監部は有効な手を打てなかった。
果たして、惨劇は起こるべくして起こったと言える。
『領域展開。
巻藁据物斬』
――プツリと映像が途絶え、重苦しい沈黙が流れた。
全身を沸騰させたかの如く鳥肌を立たせ、怖気立つ戦慄と強烈な焦燥に空気が焦げる。
テレビを見ろと突然変異呪骸のパンダが急かして設けた場である。東京の呪術高専の視聴覚室で事の一部始終を目撃した面々は、金縛りに遭ったかのように凍りついて動けなくなっていた。
目にしたのは特級呪詛師、式守薫子が齎した惨劇。呪具でもなんでもないテレビカメラという媒体では呪いを映像化することは能わず、展開された領域により薫子を含め、周囲にいた人間は根こそぎ消えていたが、薫子の領域内で行われているであろう、斬首劇の様相は容易に想像できるものだった。
街中で一度、偶然この女と至近距離で接し、介抱した虎杖悠仁と釘崎野薔薇の顔色は悪い。生放送という形で展開された惨劇を恐れたからではない。『あの時この女の正体を知ってさえいれば何かが出来たかもしれない』という、義憤に近い後悔を噛み締めているのだ。
無論、彼我の実力差を鑑みれば、知らなくて良かったことではある。だが自らの力不足を理由に、この憤りから目を逸らす器用さを二人は持っていなかった。
「……おい、これどう考えてもヤベェだろ。どうすんだ……いや、私らはどうするべきだ?」
眼鏡の呪具を掛けた呪術高専東京校二年生の少女、禪院真希が声を震えさせる。男勝り――正確には反骨精神が旺盛――な彼女でも戦慄を隠せていない。事の深刻さを理解している故だ。
彼女は同級生の狗巻棘とパンダを見て。
悠仁と野薔薇を見て。
そして最後に特級術師、乙骨憂太へと彷徨っていた視線を帰着させる。
ここにいる面子の中では間違いなく最強だから、憂太の所感を真希は無意識に確かめたのだろう。垢抜けて以前の根暗さが軽減された少年、憂太は冷徹な表情をしていた。
迷いはない。憂太は温度のない目で意思を示す。
「祓おう。こんな奴は、存在しちゃいけない」
「――コイツの相手は俺にしか出来ねぇよ。お前らは出しゃばんな、無駄死にするぜ」
いても立ってもいられない。すぐ現場へ向かおうと立ち上がりかけた時、冷たい殺意を滲ませた憂太の台詞を制したのは、視聴覚室の出入り口に何時の間にか立っていた五条悟だった。
全員が弾かれたように振り返って、驚いた反応を示す。憂太が恩師の登場に思わず声を漏らすのに、悟は不気味なほどいつもどおりの自然体である。彼は足音もなく歩き手近の席に座った。
「ッ……五条先生!」
「久し振り、憂太。急に呼びつけて悪かった。金次は……まだ来てねぇか。
学長と七海、日下部もいねぇ。チッ」
「おいクソサングラス、出しゃばるなってどういうことだ。
こんな奴がのさばってたらヤベェぞ、居場所が分かってるなら殺しに行くべきだろ」
粗暴な口調で憂太を労い、この場の面子を見渡した悟は、限定的状況下なら憂太に勝る実力を発揮できる秤金次の不在を確かめる。
自分が呼べば秤は来る。来なくても無理矢理引っ張って来れると割り切っている悟は、秤の遅刻を気にしていなかった。そんな教師の様子が目に余ったのか、真希は堪らず食って掛かる。
悟は
「真希、オマエさ、俺が指図されなきゃ動かねぇノロマだと思ってんのか?
「ッ……ならなんでだ! まさかアンタでも勝てねぇってのか?」
「いいや? 勝てるぜ。単純な実力勝負なら勝率は七割ってとこだ」
「七割……先生が?」
「おう。最悪、六割まで落ちるかもしれねぇな。
ちなみに接近戦に持ち込まれたら、百パー俺が殺されて終わるぜ」
悠仁がポツリと溢すと、悟はなんてこともないように応じる。
生徒達に改めて戦慄が駆け抜けた。
教え子達のリアクションに、なんらかの反応を見せないまま悟は虚空を見上げる。
「憂太と金次を呼んだのは、アイツを確殺する為。
九十九の婆も呼んだが、
んで。回されてくる仕事を全部蹴ってオマエらを集めてたのは、
確殺する作戦を考える頭は一個でも多い方がいいと思ったからだ。
京都の連中にはもう話を通してるぜ。禪院と加茂にもな」
「確殺……」
「悠仁達には約束しただろ?
俺がアイツを殺しに行かねぇ理由と、アイツの厄介さを術式込みで全部教えてやる。
一回しか言わねぇからよく聞いとけ。後から聞き返されても答えねぇから」
ここにいるのは、五条派と呼ばれる呪術界最強の派閥だ。
特級術師が悟と憂太、それに準じる秤と、一級術師の七海と日下部、夜蛾。外部協力者として元星漿体の特級術師、九十九由基も引き入れている。京都校にも積極的に嘴を突っ込み、大多数を自分側に引き入れていた。五条悟という『最強』の力を背景にした、外野の野次を全て無視した豪腕振りで。
悟がそうまで精力的に動いているのは、式守薫子という脅威に対抗する為ではない。薫子は他人の手を借りたとしても自分が殺すと決めている。彼が家の力も惜しみなく用い、派閥を形成して呪術界の掌握に動いているのは、総監部の腐敗と名前や正体が不明なままの呪詛師が理由だ。
今のまま総監部を放置していてもいいことは何もない。なら自分が無理矢理にでも、夜蛾正道のようなまともな人をトップに据えて、呪術界に革命を齎した方がいい。悟はそう考えたのだ。邪魔をするなら誰が相手でも容赦しない。悟は独裁者として革命を起こし、膿を出し切るつもりでいた。
根底にあるのは、きっと――親友の死。
正体不明の敵に殺されたこと、その敵の捜索を妨害する総監部の一部の者への怒りだ。そして親友が掲げていた弱者生存を、親友の代わりに果たそうとしているのかもしれない。
「……呪霊『妖刀』と、生身を持った呪霊の融合した存在?」
「概念を斬るってイカレ過ぎだろ。どんな拡張の仕方したらそうなるんだ。
日本中から集まる畏怖で強化されてるにしても無法過ぎる」
「シャケ……」
「呪力と無縁の海外の人も、死の瞬間に受けた負荷で脳が変異するんだっけ?
これどこ情報なの? ソースは? ……式守が言ってたぁ?
殺した人の呪力と魂を貯蓄して残機にするってどんだけだよ」
「おまけに分裂すんだっけ。バグじゃん」
「式守が今まで殺してきた人は何人だ?」
「日本だけで千人を超えてる。
呪霊と海外のも足すんなら……最悪、一万は残機があるかも」
「高菜!?」
「一万!? 五条級のバケモンを一万回も殺せるワケねぇ!」
「式守を祓うには、分身を出してない時に殺し切る必要があるみたいね。
ごじょ先の言うことを信じんなら、一度に出せる分身は十体が限度。
ついでに痛いのを嫌がるってんなら、私の術式が刺さりそうね」
「皆、大事なことを忘れてるよ。先生の情報はあくまで九年前のものなんだ。
九年も経ってる今、昔から何も変化してないとは限らないんじゃないかな」
「あ……確かに」
「……」
教え子達が議論を交わす様を無言で眺め、悟は一瞬、自らの青い春を想起してしまった。
彼らの会議でアイデアが浮かばないか思考を廻し、胸中に過ぎった感慨から目を逸らす。
そこへ一人の女がやって来た。
ホットココアを片手にやって来たのは、悟と同期の家入硝子。目の下に隈を拵え、草臥れた雰囲気が染み付いた硝子は、一つ席を挟んで悟の横に座る。
「ほら」
「サンキュー」
差し出されたココアを受け取った悟に、硝子は視線も向けずに言う。
「世間、大変なことになってんじゃん。どうすんの?」
「何を?」
「分かってるくせに惚けんな。非術師が呪力を知るのは時間の問題でしょ。
それをどうすんのかってこと」
「ああ……それね」
悟と硝子の関係は、ただ単に同級生というだけのもの。
仲は悪くないが、特別良くもない。
三人で成り立っていた関係だ。故に一人が欠けて以来、なんとも言えない距離感になっている。
だがそれでも、気心の知れた気安い相手同士ではあった。
硝子の懸念は分かる。これだけ例の呪詛師がやらかした以上、呪術の存在を完璧に隠し通すのは不可能に近い。そうなったら大変だ。対処する為に打てる手は打っておく必要がある。
「ま……なんとかなるんじゃね?」
「あーはいはい、なんにも考えてないんだ。りょーかい、学長にそう伝えとくわ」
「待て待て、一応考えてはいるんだぜ? 考えてるだけでどうすんのかは解んねぇけど。
それに
生徒達を見る悟の横顔を、横目に見た硝子は嘆息する。
楽観的で無責任な台詞だ。しかし――悟が自身に匹敵する術師が現れるのを期待する気持ちを、言葉にして否定する気にはなれなかった。
自分のマグカップに口を付け、コーヒーを飲んだ硝子は呟く。
「……私との約束、忘れんなよ」
現代の呪術師達が意見を交わす様を、
愉快だ。痛快だ。
予想していたとはいえ、かつて手放した刀は惨禍を齎している。
しかも想像していたより遥かに厄介な呪いと化し、より凶悪な呪詛の領域に進んだらしい。
面白い。面白いが……面白がってばかりもいられない。
檻となっている器の身の回りには、良さげなモノは無く。
羂索の動向も、今の状態では知り得る術がない。
一度だけでも、刀をこの手に出来たなら。
こんな檻、斬り破ってやれる。
呪いは虎視眈々と、ただ好機の到来を待ち続ける。