チート一族になりたくて   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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照継鳥銃を入手する 阿曽沼・多賀谷の戦い

 大内館で歓迎された照継は男子女子問わず子供達を大内義興に預け、毛利家の家臣の筋とはいえ15名もの人質を送るという常識的にあり得ない行動に義興は笑いながらも応えた

 

 特に息子の大内義隆は照継似かつ良いものを食べさせて、妖怪退治で妖力を纏えるようになっていた子供達を大層可愛がり、男子は寝床に誘って味見をすることも行い、更に大内義隆の愛人(供回り衆とか親衛隊とか言う人達 具体例問田隆房[陶晴賢の別名]とか等の後の大内家の重臣衆)達にも一緒に可愛がられ、帰国する頃には彼らの菊の門は開発されきっていた

 

 この頃の事を書き残した宮永漫は

 

『義隆様に兄弟は代わる代わる可愛がられ、昼は貴族に礼儀を、武官から武芸を、文官から領地の経営学を、商人から貿易や異国の言葉を学び、寝床では愛を囁かれると同時に軍略を問田殿から多く学んだ』

 

『大内館の中には書庫もあり、大内義興様の許可を得て貴重な書物の閲覧も叶った。約5年間学ばせて貰ったが、とても小さな宮永の家、主君である毛利家を支えるには父が言うように兄弟支えあう必要がある』

 

『父宮永照継は神との契り故に正室(美命神)の男児に家長を相続となるが、家長が能力に疑問があれば担ぎ上げ、能力ある者が代行せよとおっしゃっている』

 

『東源郷統治は妖怪蔓延る地故に力無き者では怪異を抑える事足りない』

 

『故に我々宮永一門は常に新しい物を取り入れ、新古融合をし、絆をもって取り組まなければならない』

 

『大内館で学んだ15名の男女の連署で作りし大内家法を参考とした分国法を成果物として父に見せ、少し手直しされたが認められたり』

 

 と書き残され、帰国時に提出された分国法は『宮永国法』と名付けられるものであり、一族の決まり事5項目、税金に関すること10項目、裁判に関すること25項目、宗教に関すること5項目、特殊3項目の48項目で成り立っていた

 

 成り立ちから異質であるが、特筆すべきは商人からの税の明文化、戦死した兵の見舞金の金額の明文化、銭中心の徴税方法であること、10年に1度法を見直すことの明文化だった

 

 特に最後の見直しの制度は法律の陳腐化を防ぐ効果があった

 

 大内の文化と貿易で歴代中華王朝の法制度を知る事ができたゆえの開明的な分国法として残り、それを運用できる文官の育成に彼らは注力していくこととなる

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方息子を預けた照継は嫁達に髪飾り等を贈るためにと商人の繋がりを作っていた

 

 それに大内義興の紹介で貴族と接触することにも成功し、普通では会うことのできない摂家や大臣家にも招待され、黄泉帰りや龍退治の話で盛り上げ、蹴鞠や和歌、貝合、笛吹き、演武をして無学ではない事を伝えると共に本場の教養や礼節の教えを乞い、貴族の館に出入りしている大商人や職人と繋がりを作り、交友関係を広げた

 

 その間にとある商人が明より仕入れた鳥銃という商品を友好の証として紹介してくれた

 

 その商人は

 

「明で買い付けたは良いが戦で使えるような物でも無く、大きな音、煙で場所がバレるし命中率も良くない、火薬の量や清掃が行き届いてないと破裂するガラクタだがな」

 

 と言われたが照継は目を輝かせて商人に言い値で買うと言うと

 

「じゃあ宮永殿の城下で商いをする拠点か場所をいただきたい」

 

 とのことだった

 

 照継は了承し、それどころか幼い息子達に商人のいろはを教えてやってくれと住み込みで働かせる事も決める

 

「おいおい、城持ちの武士が下賎な商人に子供を預けるなんて聞いたこと無いぞ」

 

「下賎? とんでもない、商いが無ければ国は成り立たないのだぞ。それがわからない者が多いことが嘆かわしい」

 

「宮永殿は変わってるな」

 

「まぁ元々農民と変わらない身分ですからな。城近くの一等地に大きな店を構えてくだされ」

 

「是非とも!」

 

「できれば酒を売っていただきたい。こちらも自慢の酒を出します故に」

 

「ほう、酒ですか。良いでしょう。問屋ですから買い付けから小売り商人に卸す本業もさせていただきますぞ」

 

「勿論願ってもないことです」

 

 照継は鳥銃2丁と番頭と奉公人数名を連れて半年に及ぶ大内領での滞在を終え毛利領に帰国するのだった

 

 この時連れ帰ってきた商人は八雲屋と呼ばれ博多から安芸国へと徐々に基盤を移して戦国の時代を生き残ることとなるのだった

 

 

 

 大永6年(1526年)10月

 

 途中厳島によると陶興昌は完全に回復し、顔色や肌つやも健康的になっていた

 

 興昌は照継に改めて感謝をし、照継も興昌の回復を喜んだ

 

 帰国した照継は8歳の子供達3人を八雲家へ奉公に出し、他の子も金屋子神の鍛冶屋の弟子に出したりして7歳の子供達までどこかに修行させている状態となった

 

 ちなみに今の子供の数はついに100の大台を突破し、男59人女48人の合計107人まで増えていた

 

 現在照継は32歳

 

 身一つで城持ちに出世した彼は神主としての力も持ち、私塾から多くの文官を輩出していたことで毛利家の中で宮永派閥ができそうであるが、元就に絶対の忠誠を誓っていること、元就自身も照継の献身を長年受けており、毛利家の財政を安定化させた手腕から問題視しなかった

 

 問題視しそうな重臣は敵対している井上一族くらいで、坂家と渡辺家は粛清、志道家と桂家、福原家等の毛利一門(庶流とも言われる家臣一族)は照継の農地改革で利益を出していたので逆に照継を守る始末

 

 着々と照継は毛利家の中で地位を高めていっていた

 

 ちなみにだが照継の出世の比較対照として往年のライバルとしても語られる豊臣秀吉だが、秀吉が城主となったのは29から30歳頃なので出世ペースはほぼ互角であった

 

 まぁ片方は子供の数が後々計測不能になるほど産まれ、片や種無し(秀頼も本当に秀吉の子供か怪しい)なのでそこで差が付くのだが……もっともまだ秀吉も産まれてない時代なので比べるのもどうかと思うのだが……

 

 秀吉も照継も農民上がりとして歴史書に乗るから比べられ続けるのであろうが……

 

 閑話休題

 

 また照継が留守の間に大内と尼子の戦が備後で発生しており、それに元就は兵は出さなかったが、僅かな供回りで備後防衛の総指揮を執った陶興房とタッグを組み、ほぼ無限の資金力の大内家の懐事情も合わさり尼子経久自ら備後進行軍の指揮を執ったが、大敗

 

 元就は備後国人衆を寝返らせるだけでなく、城近くの森を燃やすことで城が落ちたと他の城に思わせて降伏を促したり、農民に銭を握らせて尼子の補給部隊を奇襲させたり、尼子の兵糧に毒を盛ったりとやりたい放題

 

 更に大内方は備後守護の山名氏の救援と正当な理由を持っており、片や領土欲からの進行だった尼子軍の士気は上がらずに大敗したという事情もある

 

 元就の知略も備後防衛戦で大内内部で改めて評価され、毛利を味方に引き込んだことを大内義興は

 

「(将棋の)飛龍(宮永照継)と龍馬(毛利元就)を取ったに値する。内の陶、外の毛利で大内は安泰なり」

 

 奇しくも尼子経久が考えていた両軸構想を大内が実現してしまったのだ

 

 尼子の敗戦で安芸国内の尼子派国衆の動揺も大きく、武田家の家臣である熊谷信直が元就に接触

 

 実は熊谷信直は龍退治の後に美人の妹が武田光和の正妻に虐められて逃げ出し、熊谷の居城で匿ったところ取り返しに来た武田光和軍と戦が発生し、事実上武田と決別し、2つの城と3つの砦という勢力で独立

 

 ただこのままでは武田に攻め滅ぼされるのは確実と判断し、照継と仲が良く、知将として名高い元就の軍門に下る判断をしたのだった

 

「これからは同じ君主を担ぐ家臣同士として家を盛り立てましょうぞ信直殿!」

 

「照継殿とこれで正式に仲間となれましたな! 龍退治の指揮を執られた貴殿と共に戦場をかけることができるは望外の喜びです!」

 

 熊谷家を家臣にした元就は阿曽沼家と多賀屋家家臣の調略を本格化させていく

 

 

 

 

 

 

 

 

 ~東源郷~

 

「これが異国の武器か?」

 

「ええ、中華では鳥銃と呼ばれていますが、火縄の銃なので火縄銃と呼んだ方が良いでしょう」

 

「これまたずいぶんと複雑な作りをしているな……ただこれは」

 

「ええ、刀よりも技量を必要とせずに簡単に人を殺せる武器です」

 

「……いや、私は鍛冶屋の神だ。鍛冶を必要とする物であれば選り好みせずに最高の物を作るまで……1丁はバラしても良いか?」

 

「ええ、その為に2丁買ってきたのですから」

 

「おい、お前ら見てろ」

 

 金屋子神が弟子の鬼や鍛冶屋、子供達を呼び寄せ銃の分解を始める

 

「ここがこう繋がっていて、この部品が回るのか。そして指を引っ掻ける場所を引くと火縄の先端が受け皿に落ちて火薬と接触して爆発、弾が飛ぶのか」

 

「金屋子様、火薬の調合が必要ですな」

 

「忍び衆に火薬の取り扱いに長けた者が居りますから協力をして貰いましょう」

 

「ただこれは刀に比べて相当高価な武器になりますな」

 

 照継が口を挟む

 

「この火縄銃は数を揃えて真価を発揮する。1発で人を絶命させる力を持っているが命中精度に欠ける。故に数を揃えることで安定した戦果を得れるようにする」

 

「戦が変わりますな」

 

「あぁ、あと火薬に硝石と硫黄、木炭を調合することで黒色火薬が精製できるが、硝石は土、野草、蚕の糞を混ぜ合わせ、雨の当たらない家屋の床下で発酵させ、灰汁で抽出する方法は幼い頃から実験していたからできる。ただ5年……いや、量産となると7年はかかるな」

 

「7年ですか」

 

「忍びはヨモギに尿をかけて発酵させ硝石を取ると言われますが」

 

「蚕の糞も同じだ。ある地域ではコウモリの糞が蓄積して硝石となる事もある。要領は同じ」

 

「なるほど」

 

「となると蚕の増産が必要ですな」

 

「東源郷でも蚕を育てていますが」

 

「東源郷の全家庭で蚕の飼育の義務化とそれに適した家屋を作ろう。蚕から取れる絹は金にもなるからな」

 

「ではそのように」

 

「7年後に1000丁の火縄銃を用意し、訓練後10年以内に運用できるようにする。そして東源郷を火縄銃の一大生産地とする」

 

「「「はっ!」」」

 

「お前ら鍛冶屋の力を見せつけるぞ!!」

 

「「「おう!」」」

 

 東源郷にて極秘裏に火縄銃の調達が開始された

 

 火縄銃の伝来が1543年なので照継は約17年近く前に火縄銃の技術習得を目指すのだった

 

 

 

 

 

 

 

 大永7年(1527年)3月

 

 京で将軍が反将軍勢力に負けて京から落ち延びる事件が発生し、せっかく第二の天叢雲剣献上で持ち直した幕府の権威が再び落ちた頃、元就は正式に尼子の臣従から離脱を表明

 

 これに対して尼子経久は歯噛みしながら見守るしかなった

 

 ここで毛利を切れば安芸国人衆が反尼子で結束しかねず、尼子は備後敗戦の動揺を抑えるのがやっとで動くこともできない

 

 大内は約束通り知行の増加を行い、それを見ていた安芸国人衆は毛利が加増をもって許されるなら自分達もと大内に寝返り始める

 

 そんな最中阿曽沼の鳥籠山にて大内派の家臣と尼子派の家臣が城内で斬り合いが発生し、仲裁に入った阿曽沼の当主が逆上した尼子派家臣に斬り殺される事件が発生、阿曽沼家重臣達は事態収拾のために尼子派は武田に、大内派は毛利それぞれ援軍を要請

 

 中野村という地域で両軍合いまみえることとなる

 

 武田軍1500名、毛利軍900名であった

 

 毛利軍の先陣は照継率いる宮永鬼衆100名であり、弓を射たれながらも果敢に突撃を敢行し、真っ正面から突っ込んだ

 

 大暴れする宮永鬼衆に対応するため武田は突出した宮永鬼衆を包囲しようと動くが、元就率いる本隊と熊谷率いる別動隊が混乱する武田軍を挟撃し、武田軍は崩壊

 

 武田光和は取り逃がしたが重臣2名、兜首150含む485人が討ち死に、一方毛利軍の犠牲者は50名以下であり、宮永鬼衆に至っては一番危険な場所を担当したのに死者は15名でありすべて人間だけであり、鬼50人は怪我した者は居れど死者無しと完勝であった

 

 鳥籠山はその日のうちに落城し、城内での内乱であったために阿曽沼家の重臣や一門に大打撃を受け、そのまま毛利家が領地を接収、生き残った家臣団は毛利家に吸収

 

 阿曽沼が落ちたこと、武田が大敗したことで多賀谷は孤立無援となり元就の計略で家臣達が次々に離反、小早川家、平賀家と連携して尼子派の多賀谷氏を1ヵ月で攻め滅ぼし、多賀谷北部を平賀家が、東部を小早川家が、西部を毛利家が吸収

 

 広島湾の制海権を大内が完全掌握と毛利が海を手に入れることに成功したのだった

 

 阿曽沼・多賀谷の戦いにより毛利領の領土は約1万石から3万石まで成長、大内と海上貿易ができるようになったことで税収もはね上がることとなる

 

 

 

 

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