毛利は高橋領を攻略したことにより、安芸国の尼子派の国衆は吉川家と武田家のみとなる
この頃の尼子家と大内家はどうなっていたかというと尼子は尼子経久から出来の悪いとされていた塩治興久が真っ向から尼子本家に反乱を起こしていた
塩治興久単体なら尼子ご自慢の新宮党が撫で斬りにして終了なのだが、塩治興久を出雲国衆の半分と伯耆国で尼子に逆らった山名氏、それに従う伯耆の国衆を含めた俗に言う塩治興久の乱……尼子を二分する巨大な反乱が発生していた為尼子経久は反乱鎮圧のために領土拡張が全くできなくなっていた
こうなると石見銀山は大内が完全に掌握し、更に大陸から伝わった灰吹き法により、銀の生産量ははねあがり、まさに大内最盛期の到来である
ただ中国地方が安定していた大内だが、九州地方では滅ぼしたハズの少弐家が龍造寺家を抱き込んで不死鳥の如く蘇り大内から博多奪還を目的に兵をあげていた
この時の龍造寺家兼という武将がまぁ強い
超巨大大名である大内家の大軍約1万と龍造寺軍2500が激突
大内方の指揮官を戦死させる勝利を納めるなどまさかの龍造寺有利で戦局が進んでいた
尼子は国内、大内は九州と安芸国は完全にフリーとなっており、毛利元就は毛利家を更に安芸国における影響力を確実にするために手を打つ
まず臣従した宍戸家との繋がりを更に強めるために元就の次女と宍戸の孫の婚姻を決める
宍戸は手土産として備後の山内家と繋がりを付ける
この山内家は大内家、尼子家両家の真ん中に位置する国衆なのだが、防衛戦のエキスパートで大勢力の両家が手を出したら危険と判断するくらいヤバい勢力である
そんな山内家は毛利元就に会うと友好関係を結ぶことに成功し、毛利、宍戸、山内のラインで行商人の通過を容易にする取り決めを決めた
これにより山内で採れる良質な木材や木炭が毛利領に流れ込み、中間にある宍戸もお零れを貰える、毛利からは余った食糧の売り込み先が増えて三方全て得という状態に持ち込んだ
更に山内家は匿っていた渡辺勝の息子渡辺通を家臣に加えるように持ち掛けた
「渡辺の息子……」
「そう、謀反人の息子だけど僕らがしっかり一人前の武者に育てたから毛利で汚名返上の機会を与えてあげてよ」
「……一度その者を見ないことには」
「ああ、通、入りなさい」
「おう!」
入ってきた若武者は渡辺勝に顔立ちが似ていたが、幾人の人や妖怪を見て目の肥えた元就からしても立派な武士がそこに居た
「なぜ毛利に戻ろうと?」
「例えば俺が別の家で名を挙げた場合、天晴れ謀反により全てを失った渡辺の息子がお家を再興した……て、言われるだろ? 確かにお家は再興したかもしれないが親父のやった謀反人の一族という悪名は一生消えねぇ。それを取り除くには毛利家で活躍するしかねぇからな」
「……死ぬより辛いぞ」
「覚悟の上」
「山内殿、立派な若武者を紹介してくださりありがとうございます」
「なんのなんの、僕は紹介しただけだから。頑張れよ通」
「おう」
元就は渡辺一族の再興を許し、渡辺通は悪名を背負った状態で再出発することとなる
ただ通は勉学に励み、新興家臣達と仲良くなりつつ、武功をもって渡辺一族再興に突き進むこととなる
勿論照継とも会い
天狗や鬼達に稽古を付けて貰ってメキメキと頭角を現していくこととなる
元就は大内を通じて幕府や朝廷に献金を行い官位や官職を貰えるように働きかけを行い、更に48名の主要家臣達に主君と家臣が共に支え合うことを取り決めた約束状を作り、家臣の結束を強めることに成功する
他領土内の諍いの調停に積極的に介入し、領内で仁君という評価を確固たるものにする
で、家臣が纏まれば次にすることは邪魔者の排除である
元就は天狗衆に命じ、政務をボイコットし続ける井上一族の上層部の誅殺を命令
井上家の当主含め17名が誅殺され、井上家の領土は大きく縮小
尼子に通じていた渡辺家、坂家、大内に通じていた井上家を粛清したことによりようやく元就は毛利家の外交チャンネルを掌握に成功する
ちなみに自分の所とパイプがあった部下を殺害したことを大内義隆が怒りそうな気がするが、井上家を義隆は重要視しておらず、元就の方が能力も人柄も信用できるので何も問題視しなかった
それどころか元就を幼少期あばら家に住まわせて税の着服をしていた事を知ると悪臣として名指しで罵倒
最も井上家はその後膿を出しきったことにより常識的な範囲で優秀な内政官が多く、井上宗家のボイコット命令が誅殺で撤回されるや否や溜まった仕事を片付け、毛利家を縁の下から支え続けることになる
こうして元就は完全に家臣を毛利家に服従させることに成功し、長女の沙梨姫を照継の嫡子迦具土(かぐつち 美命の長男 半神)に嫁がせ、宮永家を一門に入れ、宮永家の大量にいる女児を照継と元就、志道広良の3名の共謀で外様家臣(平賀家、天野家、熊谷家)や周辺国衆(吉川家、小早川家、村上水軍の3家等)、新興家臣達の息子達に嫁がせ結束を強めると同時に宮永の血をばらまいた
これにより元就は安芸国、備後での外交が容易となり、国衆から戦国大名に脱皮することに成功し、多くの繋がりを作ることになる
「勢力を広めた、血縁関係で周辺の国衆とも関係は良好、照継の広めた農業方法、教育機関、呉の町を原動力に毛利の力は高まった。安芸だけでなく備後にも影響力を持つこともできたし……あとは大内との関係を末永い物とすることか」
天文2年(1533年)
元就は従五位の官位を朝廷から受けとる
これは下級とはいえ貴族位であり、武家は正三位(足利将軍家がここ)までしか成れない(例外大内義興、大内義隆 従二位 武家の慣例を破って将軍よりも上に立ってしまった 大内がいかにヤバいかわかるだろうか ちなみにこの上は関白とか太政大臣とかしかない)
従五位ってこの時代だとどれくらいの格なの?
=国持大名クラス
つまり元就は朝廷から国持ちクラスの力を持っていると認められたことになる
幕府の方にも献金が実り守護奉公という地位を与えられた
幕府から直々に安芸守護である大内義隆を支えよという意味合いもあるが、安芸守護代として機能不全を起こしている武田家を将軍家は見捨てた事を意味し、安芸のNo.2の地位を実質的に手に入れたことになる
権威を得たことにより他所からも安芸国の代表として認知され、ますます京から逃れて来た人が大内領と毛利領に流れ込み、税収が上がり、職人が居着く好循環が発生
大内領で勉強させていた15名の照継の子供達も帰国し、分国法の整備が始まる等して国力を高めていっていた
照継も将来を見据えて動き、四国の仙人狸、筑前の女棟梁河童、佐賀の吸血鬼、豊後の土蜘蛛の勧誘に大内から戻った息子達に金屋子神の宝具を持たせて派遣
各々難題や知恵比べをしたが最終的には連れて帰ってきて東源郷に大妖怪の知恵を借りることに成功した
でここまで動くと流石の大内義隆も毛利家が肥大化し過ぎじゃね? と思うようになるが、嫡男で11歳となった元就の長男太郎を義隆に送り疑念を回避
これは陶興房が元就に忠告文を送った事から発覚し、大内文化に触れた照継の息子達が政治に金策に妖怪退治にと大活躍していたことで元就は人質というよりは留学感覚で太郎を送り出した
「……ズキューン♡」
美男子だった太郎を見た大内義隆はもうメロメロ
「流石元就殿、事の道理と立場をよく理解している。毛利は当家に無くてはならない存在! 故に当家を支えられるように『最高』の教育を施さなくては!」
最高の教育とは大内の嫡男と同じレベルの教育を施す事を意味し、現在義隆が我が子のように愛して止まない一条家からの養子の大内晴持を支えさせられる武将にするために持てる人脈や金を総動員して教育を行う
ちなみに本来の歴史だったら1537年に人質に出されるので約4年早いが、太郎の産まれも2年早まっているので約2年分長く大内の英才教育を受けれることとなる
太郎は人質になって数日後に照継との約束通り義隆が烏帽子親で元服し、義隆の隆の字を与えられて毛利隆元と名乗ることとなる
これにより隆元は毛利からの人質ではなく大内の大切な直臣であり、客将という地位を与えられる
これには他の家臣達が嫉妬しそうであるが、照継の子供達(男子10名)との団結(意味深)により新しい子が来ても殿は新しい子をスパイスに自分達を可愛がってくれるし、いつもより激しく燃え上がるという味を覚えてしまっていた
流石に隆元に食指を伸ばすことは陶興房がブロックしたが、Yes ショタNoタッチの精神が芽吹き、隆元は生暖かい目(意味深)で大内家臣達から見られることとなり、そんな色欲まみれの視線を気にすること無く彼は愛想振り撒き、勤勉に教えを乞いた
ちなみにだが後に義隆は元就三男の徳寿丸(小早川隆景)にも元服の際に隆の字を送っている
「兄弟仲良く僕の事を支えてね(意味深)」
という訳だ
さてどのような教育を隆元が受けたかというと教師役は陶興房に元大臣クラスの貴族2名……もうこの時点でおかしい
大臣職をしていた貴族は現代に当てはめると政治家であると同時に超エリート大学の学長クラスの人物である
教養に関しては誰にも文句が言われることがない……というか京のそこらの貴族より能、和歌、茶道、書道、歴史、天文学、占いを教わり、この時代には最先端でハイカラな茶道と様々な物語が詰まった和歌を隆元はこよなく愛した
また武芸や軍略も陶興房や陶家に養子となっていた陶隆房(旧名問田隆房)から代わる代わる教わり苦手ながらも吸収していった
そして隆元が一番才能があったのが商才であり、博多の大商人神田氏(灰吹き法を大陸から持ち込んだ所の一族)や大内義隆本人から経済学を学び
商人達は皆口を揃えて
「大内義隆様の(経済的な)後継者」
とか
「武士でなければ単身で博多や堺の評定衆に成れる才覚」
と言われた
経営学から発展して物流や補給の大切さ、内政学も高い評価を得ることとなる
隆元が大内に熱烈大歓迎を受けている間に時は進み
天文4年(1535年)
照継も41歳となっていた……が、妖力や神力を取り込みまくったこと、毛利領内で崇められていたことで20代後半から姿は変わらずピチピチしていた
志道広良も68歳や元就も38歳になったが超元気
照継は閉経して子供を産めなくなった最初の奥方5名を大切にしつつも新たに若い娘を7名側室に娶り、相変わらず孕ませていた
最年長の子供は24歳となり、東源郷も運営が始まって16年
子供の数は増え続け、人口も1万5000人まで増えていた
まだまだ現役だが想像以上に嫡子の迦具土が優秀だったこと、毛利の姫である沙梨姫と婚約している以上継承させて家の整理をした方が良いと判断し、照継は16歳になった迦具土改め宮永迦具照(かぐてる)に家督を相続、一応隠居という体制となるが、現役はバリバリ続け迦具照を補佐する
迦具照の家臣として高鴨又兵衛の嫡男高鴨山晴(やまはる)と新子十兵衛の嫡男新子誠(まこと)を歳が近いのと迦具照が仲が良い友人だった事から供廻りに抜擢
照継が経営する娼館の数も安芸国20店、石見10店、備後10店と3国に跨がる程に成長させ、情報網を強化
娼婦達百合衆だけでなく、座頭衆、御庭衆を更に中国地方から京都にかけて放ち、逐一情報を収集していた
これに元就の忍び衆である世鬼一族や天狗衆も合わせると毛利家としては5つの忍び衆を抱えており、その諜報能力と防諜能力は他家の頭2つ程に飛び抜けていた
また仙人狸の知恵を借りて黄銅を使った銭の開発に着手
商人達の意見を聞きながら照継自身が大内義隆に自国での銭の必要性を説き、この頃明側が銭を出し渋る動き(明王朝で銅不足が深刻化)が起こっていたので対応策として義隆も許可を出した
天文6年に試作の黄銅銭が造られた天文黄銅銭を見た義隆がビックリするほどの良質な出来映えと黄銅の黄色く輝く美しさに驚き、博多商人達に見せ使えるか確認を取る
「これ宋銭よりも品質が良いんじゃ……」
「この銭ならば宋銭と10対12で(天文黄銅銭の方がレートが高い)交換でも良いですな。是非とも使いたい」
という意見が続出
照継は銭の製法を知る職人を大内に派遣する
義隆は朝廷に連絡を取り、空座となっていた銭の発行官の役職を買い叩き、朝廷が認めたとして天文黄銅銭の量産を開始
銭座を山口の町、博多の町、呉の町に置くことを許し、義隆は毛利家も銭発行の許可を与えた
日明貿易で銭を輸入しなくて良くなった分生糸、綿糸、織物、磁器、書物、染料、香料の輸入量が増加し、大内は更に力と文化レベルを上げることとなる