チート一族になりたくて   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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大内継承戦

 もうこの頃になると大内の文官と武官の対立が外部に漏れるくらいヤバくなる

 

 というか隆元宛に陶隆房から年内に決起するから毛利は尼子の睨みを頼むという密書が届くくらいにはヤバい

 

 陶昌信に隆元はこの事を伝えたが、彼は涙を流しながら

 

「父はこの事を予見しておりましたが、力及ばず……大内は滅びるべくして滅びるのです」

 

 と陶隆房の暴走は止められないとし

 

「大内の後継は隆元様以外にあり得ません。大内の民を代表して頼みます」

 

「興昌殿はどうなるのだ」

 

「父は大内義隆に殉じます。いや大内に殉じます。決して陶隆房の傀儡になった大内には尽くすことはないでしょう」

 

「……そうか」

 

 隆元は陶昌信を抱きしめ、胸の中で泣かせるのだった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方大内が内部崩壊をし始めた頃、毛利……いや、宮永家による備後平定作戦が開始されていた

 

 渡された兵は1500名ながら、全兵に狭間中筒と呼ばれる10年で改良された火縄銃を装備し、他に忍び衆を動員、安芸東部の国人衆も参加して3500名まで膨れ上がり、備後で尼子に下っていた国衆を電撃的に攻略していく

 

 1日1城落とすペースで快進撃は続き、尼子に寝返っていた備後守護の山名家を追い出すことに成功し、天文20年(1551年)毛利は安芸だけでなく備後をも支配した

 

 この時照継の軍略は冴え渡り、鉄砲という新兵器の集中運用と鉄砲を改良していたことで鉄砲用に強化されていた防具を貫通

 

 小雨ならば運用できる雨覆いと装填時間を短縮する早合の開発に成功しており、安定して分間2発を実現できていた

 

 鉄砲だけでなく、城を素通りする振りをして城から釣りだして待ち伏せして、敵を壊滅させたり、忍びを使って伝令を片っ端から討ち取り、連絡網を寸断させて連携が全く取れないようにしたのも勝因であった

 

 備後平定を1ヵ月で終えると今度は対岸の四国に橋頭堡を確保するために調略を開始

 

 伊予の海賊衆と海戦となるが、海運こそ肝だと見ていた毛利家が20年かけて育てた毛利水軍と小早川水軍の合同で伊予の海賊衆の拠点の村を次々に降伏させ、伊予の沿岸部を飛び地ながら支配下に置くことに成功

 

 元就の調略で河野家に元就の息子の六男毛利元倶を養子として送り込み、河野家の乗っ取りに成功

 

 伊予の西半分を毛利の勢力に組み込んだ時に遂に陶隆房が動いた

 

 毛利の膨張を危険視し、武断派は毛利の粛清を訴えたが大内義隆は聞く耳をもたなかった為に多くの家臣が大内義隆を見限り、謀反を決行

 

 俗に言う大寧寺の変が発生し、大内義隆やその子供の大内義尊が死亡……するだけでなく大内に身を寄せていた貴族や文官達も粛清、きらびやかだった山口の町は腐敗の象徴とされ徹底的に破壊され、大内の主力商品を作っていた職人達も各地に逃げ出すこととなる

 

 そんな職人達を毛利は多くを保護する

 

 この時殺された貴族の中には正二位と従二位の貴族がおり、現代に当てはめると官房長官と現役大臣が同時に殺害されたという感じ

 

 事件の衝撃は二・二六事件並みであり、この行為に全国の大名は驚愕、皇室も遺憾を示し、将軍家や政権運営をしていた三好家も難色を示した

 

 毛利の動きは早かった

 

 すぐに将軍家に安芸守護の大内義隆が殺されたことで謀反人を討つと大義名分を貰い、三好家も献金して大内家中の問題としてもらった

 

 同時に大内の一族が居る九州の大友に密約を結び、九州の大内領は大友家が、本州の大内領は毛利がという分割を提案し、これを飲ませる

 

 尼子の方でも元就は尼子国久率いる新宮党を煽り、反乱を起こさせて尼子を動けなくさせた

 

 元就の謀略の本領発揮である

 

 大義名分を得た元就は照継に聞く

 

「陶隆房を討てるか?」

 

「負けはありえません。既に陶は商人を敵に回しました。取引停止が相次いでいますし、傀儡に立てた大内義長は大内の血を引いていますが大友の血が濃く、能力に疑問が残る、さらに文官を殺したことで税の徴収能力も低下するでしょう。私ならまず周防で大規模な一揆を発生させ、陶隆房を誘き寄せます。そこを一気に叩けば良いかと」

 

「ふむ……その為には周防までの道を切り開かなければならないな……調略を開始しよう。謀多きは勝ちぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 元就はすぐに船で桜尾城に赴き、追腹をしようとしていた陶興昌を説得

 

 陶隆房にどちらが正当な陶か死ぬ前に敵討ちをしてから殉じても良いだろうと説き伏せ、陶興昌は毛利の作戦に乗ることにした

 

 元就が陶興昌を説得してる頃、隆元は安芸国人衆に大内義隆の弔い合戦だとして郡山城に招集をかけた

 

 吉川、小早川、熊谷、平賀、天野、宍戸、香川といった安芸国の国衆が参集し、その場で毛利に吉川家と小早川家が臣従を表明し、他の家も続いた

 

 これは隆元と吉川元春、小早川隆景の共謀であり、これをすれば安芸での立場が固定される

 

 国人ではなく毛利の家臣となることを意味していた

 

 安芸国衆だけでなく宮永党も総動員、陶隆房討伐軍は1万の軍勢に膨れ上がった

 

 更に資金と物資を大量に提供した陶興昌と昌信親子が陶隆房に粛清から逃れた家臣を集め周防で挙兵

 

 反乱は周辺の村を巻き込み、重税に苦しめられていた農民達、宗教を積極的に保護してくれていた大内義隆に恩が有った僧兵も反陶隆房に呼応して反乱は5000名に膨らみ、城が3つも反乱軍に落とされてしまう

 

 慌てた陶隆房は武断派の家臣を動員し、3万の軍勢を集めて反乱鎮圧を指揮

 

 ただ反乱を指揮する陶興昌は歴戦の猛者、臼杵鑑速、吉弘鑑理、立花道雪といった大友3家老(化物集団)相手に戦線を膠着させた実績がある

 

 寡兵ながらに粘り強く戦い、毛利率いる陶隆房討伐軍が来るまで耐えきった

 

 一方元就は散々武田家に苦しめられた銀山城を調略で無血開城

 

 更に石見方面でも吉見という石見銀山の管理を担当していた家は毛利に臣従を表明し、戦わずして石見銀山と石見の国が毛利に転がり込む

 

 また照継の備後攻めを上回る1日4つの城を落城させる離れ業を達成し、安芸の大内拠点を一掃し、周防に攻めいる

 

 更に数日後には貿易で繋がりが深かった大内水軍が陶隆房を見限り、元就に臣従、村上水軍も元就の調略に応じ、堺から博多までの瀬戸内海の制海権を掌握に成功し、海路にて周防の陶興昌、昌信親子に物資の支援ができるようになる

 

 こうして元就が周防攻めを開始して3週間後には陶興昌親子と合流

 

 これに陶隆房は慌てずに

 

「叩くべき敵が一ヶ所に纏まった。好機なり」

 

 と兵を鼓舞、ここに周防の高森城から5キロ南西(現代の美和町生見付近)にて周防決戦と呼ばれる決戦が始まる

 

 

 

 

 

 

 前哨戦として高森城攻略戦が始まる

 

 陶隆房と共同で南部に陣取った毛利軍を攻める予定であった高森城の城兵は自分達が攻める側、相手も寡兵故に攻めてこないと思って油断しており、そこを吉川元春率いる吉川隊2000が奇襲

 

 あっという間に城は落城し、吉川の旗がなびいた

 

 これにより陶隆房が当初考えていた二方面からの毛利軍を挟撃する作戦は取れなくなる

 

 しかし、陶隆房軍は3万と毛利と反乱軍を合わせても2倍居るため力攻めでも勝てると踏んでいた

 

 西国一の侍大将と呼ばれた陶隆房であるが、確かに兵の運用は上手いが、それは5000未満の兵の時のみ

 

 万を超えると指揮系統が統一されていない戦国時代の軍等更に下の下士官の技量も影響してくる

 

 ここに毛利と陶隆房には大きな差があった

 

 毛利は宮永照継が20年以上前から私塾を開き、足軽大将以上は照継かその教え子から『教育』を受けている

 

 ある程度の判断ができる頭脳を持っているのだ

 

 上からの命令でしか動けない兵と自身が考え、最良ではないが最悪を常に回避できる能力があったら……先にファンブルするのは陶隆房の方である

 

 総攻撃を開始した陶隆房軍は3万の兵をもって突撃を仕掛けるが、元就は山岳地帯の地形を巧みに使い、3万の軍勢が全員で動けない場所にゆっくりと後退

 

 それを追いかけ陶隆房の軍は谷間に入っていった

 

 バババババン

 

 谷間に入り、隊列が細長くなったところを伏せていた宮永一族率いる鉄砲隊2500名が射撃を開始

 

 頭上から飛んで来る弾丸に防ぎ様が無く、次々と討ち取られていき、陶隆房の軍は大混乱

 

 弓隊や投擲隊も参加し、混乱は治まる気配が無い

 

 更にここで小早川隆景隊が陶隆房の後方にある砦を陥落させて退路を遮断

 

 隆房は撤退の法螺貝を鳴らして僅かな供回りと共に敗走していった……が、山口館に入る前に町を焼かれた山口の民が落武者狩りとして陶隆房を襲い、討ち取られてしまう

 

 こうして周防決戦は陶隆房率いる武断派は悉く討ち死に、3万いた軍勢も1万人が谷間にて亡骸を晒し、その谷間は血ノ谷と名付けられるほど凄惨な場所であった

 

 陶隆房の軍が壊滅したことにより大内の防衛線は崩壊、毛利軍は反乱軍を吸収し、約1万3500名となり、山口の町に侵攻した

 

 

 

 

 

 

 大内義長は何度も兄である大友義鎮に援軍を要請したが、全て黙殺され、挽回は不可能と悟った大内義長は大内館にて自害

 

 その2日後……廃墟となった山口の町に入り、あれだけ栄えた山口の町が京の様になってしまった事を嘆きつつも、元就はそのまま大内義隆が亡くなった寺にて

 

「大内の事はこの毛利元就が引き継ぎます」

 

 と毛利が大内を継承することを宣言

 

 事実一連の流れで大内の血縁は外縁を除くと大友義鎮以外壊滅しており、大友義鎮も大友の主であるため大内の家督を継承することはできない

 

 家督継承者不在の大内を毛利が乗っ取ったことになる

 

 異議を申し立てする者は居らず、ここに毛利家は長門、周防、石見、安芸、備後、伊予半国を有する大大名に成長

 

 しかし、大内の経済力までは継承できなかった

 

 明より大内断絶を受けて貿易の停止、更に密約により博多は大友領になったことで毛利が手に入れたのは石見銀山と大内水軍衆を除くと、陶隆房によって破壊され尽くした大内の町々と疲弊困窮した民、それらを管理していた文官もほぼ全滅しており、立て直しと利益が出るまでに時間がかかってしまうのだった

 

 しかし良いこともある

 

 領土が広がったことで元国人衆達を加増転置することで安芸国を毛利直轄地にすることに成功する

 

 陶興昌、陶昌信親子は長門半国で九州の備えを

 

 残りの長門半国は天野家が

 

 周防半国は熊谷家が東を、西側を平賀家が

 

 吉川家は石見半国と安芸の一部、宍戸家は安芸の一部と備後の一部、小早川家も安芸の一部と備後の一部、それに伊予の一部、毛利家は安芸国の大半を有し、宮永家も東備後半国に加増となった

 

 ただ大内が滅んだことで天文黄銅銭を造れる銭座は安芸の呉のみとなり、商人を味方に引き込んだことと大義があったこと、朝廷と幕府への献金を行ったことで銭の発行官の官職を大内義隆から継承し、全盛期大内ほどではないが石見銀山と合わせてなかなかの国力を有することとなる

 

 一方照継は備後への加増に伴い、船山城を回収され、安芸の所領は東源神社の150石のみとなる

 

 ただ、照継は備後の地に東源神社の分社を作り、結界で東源郷と繋げた

 

 これで一族の力を減らすこと無く新領地の開発が可能となる

 

 大内継承戦とも呼ばれる毛利家の戦いは天文21年(1552年)2月に完了

 

 また宮永照継は備後半国の軍権を掌握

 

 これにより独自の軍事行動を行うことが可能となったのだった

 

 毛利は最初の10年で大内を呑み込んだのだ

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