チート一族になりたくて   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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後世から見た戦国時代の宮永家

 宮永家……宮永照継の二代前の祖父の代に足軽となり、父親の代に足軽大将へと出世した農民出身の一族であり、宮永の性も毛利の殿様が与えられたとされてきたが、実は自称であったことが近年判明した

 

 ただ宮永照継の活躍で宮永の性は定着したため宮永照継が初代と言って良いのは確かである

 

 幼少期の宮永照継は福丸と呼ばれており、うつけと馬鹿にされる日々を送る

 

 ただそのうつけの行為には全て意味があり、肥料作りや火薬の製法にこの時気がついたとされ、ぶっ飛んだ天才であったが故に周りから理解されずにうつけ扱いされていたのだと思われる

 

 照継がまだ10歳もいかない頃に父親が戦死してしまい、強制的に家督を次ぐこととなる

 

 この時照継の一族は文字通り照継しか居らず、照継が頑張らなければお家断絶であった

 

 元服もしていない小童だった照継は初陣にて敵の頭を一騎打ちで討ち取る武功をあげ、それに目を付けた志道広良が烏帽子親をし、元服

 

 宮永照継と名乗るようになる

 

 照継は持ち前の商才と独自の農業理論で金と信頼を得ると私塾を開校

 

 10そこらの小僧が何を教えるのだという感じであるが、この私塾は好評であり、後に毛利を支える文官を多く排出

 

 呉20人衆等有名所もここで学んだ

 

 

 

 

 

 

 この私塾で教鞭を取っていた頃に元就と出会い、元就があばら屋に押し込められているのを知ると、あばら屋を改造して私塾を移動し、元就に照継が色々教えながら民の大切さを説いたとされる

 

 元就はこの頃の事を

 

『あばら屋で乞食と馬鹿にされるなか、人として扱う者は杉の方、(志道)広良と照継のみである』

 

『照継の教鞭誠に見事、覚えることが多く楽しい』

 

 と書き連ねていた

 

 

 

 

 

 

 照継はこの頃忍びを雇うようになり、更に自前の娼館を建て、経営を始める

 

 元服を期に多治比猿掛城城主に返り咲いた毛利元就は照継を領地開発の文官に任命

 

 この時シャベル等の近代的な農具が多く開発されると共に、正条植えと肥料の概念が照継により浸透

 

 他椎茸の栽培もこの頃成功したと見られ、前任の井上が税をピンはねして懐に入れている悪党だっただけに照継は税率を下げたのにも関わらず、多治比猿掛城周辺の石高を大幅に上げることに成功した

 

 労徳勤富という言葉が生まれたのもこの頃だとされる

 

 

 

 

 

 後に毛利に攻め滅ぼされることになるが、最盛期を迎えていた高橋家と毛利の同盟を結ぶ外交官的な役割を担い、これを成功させ、その後に起こった武田との戦いでも武功をあげ、馬に乗ることを許される

 

 この時点で10男5女をもうけており、後々の種牡馬ぶりの片鱗も見せる

 

 養蚕業にもこの頃着手したと見られ、照継が記録した養蚕についての日記帳が残されている

 

 照継は日記をとにかく書く人物だった為農業日記、毛利家の出勤簿、何人と交わったとか回数の性についての日記等々、最低3つ、多い時期だと6つも日記を書いていたため詳細が多く残されている

 

 

 

 

 

 伊豆にいる伊勢宗瑞に会い、見聞を広める旅に出て、その道中で各地の先進的な技術を学んだとされる

 

 特に清酒についての情報を入手し、毛利領に技術を持ち帰っている

 

 この旅の途中に正妻となる美命姫と出会い婚約したとされ、美命姫のすぐ後に貴族である葉子姫を側室に迎えた事から美命姫は更に上位の貴族だった説や美命こそ清酒の技術を教えた者等の様々な仮説があるが、今回は省略とする

 

 帰国後東源神社を建て神主となる

 

 崇めるのは豊穣神米和、鍛冶の神金屋子、そしてイザナミ

 

 分社も含め現代でも宮永家が管理している

 

 

 

 

 

 

 帰国後は小競り合いに駆り出されつつも農地改革を主導し、毛利領全体の収穫領を引き上げている

 

 とある武将は

 

『毛利5000石というが宮永照継の指導により倍以上にまで収穫量は増え、新たに倉が多く建てられた』

 

 とされ、内政官としての非凡さがうかがえる

 

 毛利は尼子や大内従属を行き来しながらなんとか国を保つ

 

 この期間に照継は何らかの理由で宝剣を手に入れ、それを幕府から天皇に送ったことで毛利の地域は大きく向上

 

 宮永照継の発言力も大きくなる

 

 

 

 

 

 

 大内館へ息子や娘を連れて訪れ、息子や娘達に大内流の教育を受けさせる

 

 照継は大内に期待されていると感じ、尼子に対しての戦働きを多く行い、毛利の飛龍と呼ばれるようになる

 

 この時大内領で火縄銃を見つけ、毛利に持ち帰り、複製と改造を行ったと記述が残っている

 

 

 

 

 阿曽沼、多賀谷、高橋といった国人を滅ぼし、海に面したことで呉の開発を開始時、遅れて広島も開発される

 

 

 

 

 黄銅の技術を復活させ、大内主導の天文黄銅銭製造に黄銅の技術を提供

 

 これにより久方ぶりの国内で作られた銭が出回ることとなる

 

 呉でも作られていたことで大内崩壊の時に銭座が全滅するのが避けられ、国内に銭を供給し続けることもできた

 

 

 

 

 

 その後照継は郡山城の戦い、備後平定戦、陶隆房討伐にと転戦し、備後半国を貰い、東に拡張を続け、毛利家に匹敵する大領を得るに至る

 

 足利義昭からの命令で上洛した際には信長と密会し、宮永地図と呼ばれる世界地図(なぜ照継がこの時代に世界地図を書けたのかは不明であり、ルイスフロイスのもたらした世界地図と同程度の精度……製作年数は紙質から1520~40年とされ信長と出会うよりもだいぶ前である)を見せ、世界を語ったとされる

 

 また織田宮永密約と呼ばれる宮永家の蝦夷転封が決まる

 

 織田家としても畿内近くに巨大勢力があるのを良しとせず、宮永も毛利の存続を条件に利害が一致し、後年実行される

 

 この上洛後、照継は本格的に隠居し、表舞台から消える

 

 

 

 

 

 照継最後の仕事は北海道転封後の苫小牧の町の設計とされ、蠣崎氏やアイヌとの戦闘には参加しなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宮永照継は伝説的人物であるが、照継の息子達も幾つか伝説がある

 

 例えば嫡子であり、宮永家二代目家長の宮永迦具照は父をも超える150歳まで生きたとされ、とても老人には見えない、まるで青年の様であり続けたと記録に残っているし、迦具照が井戸を掘ると必ず温泉が湧き出るとされ、迦具照が掘ったとされる温泉が10ヵ所も苫小牧にはある

 

 三代目の宮永照石は山師の才能があり、千歳金山を初め、鉱山を次々に発見し、藩の財政を支えた

 

 そして織田政権が1603年より織田幕府は各地の大名領地を藩と呼ぶ藩政がスタートし、蝦夷藩初代藩主となった宮永天照からなる蝦夷藩政からは後述語っていこう……

 

 ここまでが大まかな戦国期の宮永家である




第一章完
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