チート一族になりたくて   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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豊照・仁照時代

「とりあえず藩の基盤は作ったから後はお前の自由にやれ。変態どもの相手は疲れた」

 

「親父お疲れ、でも変態達は親父こそが理解者とか守護者だと思っているからたぶん世代交代しても親父が窓口になるから無理だと思うぞ」

 

「ちくしょう……」

 

 1625年家督は天照の六男豊照に継承する

 

 なぜ六男の豊照に継承されたかというと、他の子供達は商売の面白さにのめり込んだり、欧州へ留学に行ったりと結構自由にさせてしまったので豊照にお鉢が回ってきた

 

 幕府は数年前に武家書法度を公布し、大名間での婚姻は幕府に届け出が必要とか新たな城を建築してはならない、石垣が崩れたら修繕に幕府に届け出が必要等の法令が出されたのだが、異民族(アイヌ)と戦闘状態が続く蝦夷藩は身分差がほぼ無いのと東北諸藩からは織田方でも地元から根付いた者でもない異物として見られているので大名間での婚姻は回ってこない

 

 なので自然と庶民と婚約することとなり、産めよ増やせよが家訓みたいなところがあるので相応の子供が産まれるが、純粋な武家出身ではないので豊照の兄達のようにやりたくなかったら逃げることが可能になっていた

 

 石垣はコンクリートを使い石垣に頼らない防壁にしたり、城の建築が禁止なので館や神社や寺を拠点にすることで凌いだ

 

 他大型船保有は大名は制限されたが、商人が持つ分には海外貿易の足枷になるとして決められなかったので、苫小牧にてガレオン船やキャラック船、弁才船が大量に造られ、交易船として活躍することとなる

 

 武家書法度の抜け穴を通りながら開拓を進めてきた天照時代だったが、豊照の代になると

 

「開墾を! 一心不乱の大開墾を!」

 

 と食料生産事情の好転を急いだ

 

 本人は米和神の血が濃く出たらしく、寒冷地に対応した米を作り出し、田畑1枚の面積あたりの収穫量を引き上げつつ、耕作地の増大を厳命

 

 欧州から輸入した大型の農耕馬をも繁殖、活用し、10万石程度だった収穫量を10年で100万石まで引き上げる

 

 この背景には人口の爆発的な増加が関わっており、1家族10~12人ほど子供を産むのが普通になっていたこと、妖怪の血が混ざり幼児が死ににくくなったこと、東源郷から十分な食料と鉄製の道具の供給があったこと、蝦夷藩では刀狩りを行う事をしなかった為武器弾薬が大量に民が持っており、野生動物にしっかり対応できたこと等から人口は上がり続け、天照から豊照の間に2世代の世代交代があったが、蝦夷藩の最初期の人口が10万人以下だったが、豊照の時代には95万人ほどまで増加

 

 それに伴い町の数も増ていくし、教育機関を整備し、藩校を幾つも開校

 

 15万石程度の家格なのに実質石高が東源郷抜きにしても農作物だけで100万石、商売の利益等を含めればもっとの国力となり、その国力をもって全国民に教育を広めた

 

「来てます来てます。流れが来てますよ~」

 

 毎年のように前年比を大きく超える成長率

 

 何でも作れば作るだけ売れる好景気であった

 

 これは蝦夷藩だけでなく全国の藩でそうであり、平和になったことで関所の多くが撤去され、道や橋、城下町の整備などでインフラに投資され、公共事業をもって景気を押し上げていた

 

 また全国的に30年間ほど気候が安定と安芸や備後からじわじわと宮永式農業が全国に広まりをみせ、石高は増加

 

 特に関東の北条家と越後の堀家は農地改革に成功し、大幅な増収となり、2つの藩は米所と呼ばれるようになる

 

 一方蝦夷藩は基本俸禄が金銭による給金だった為全く問題なかったが、他の藩はそうではない

 

 幕府は米や米券を俸禄としていたが為にそれに習った他の藩でも全国的に米価が下がったことを受け、自然と給料も下がるという現象が発生

 

 更に世間では好景気な為に物価がじわじわと上昇しており、藩は豊かになったが武士は困窮するという矛盾が発生

 

 ただまだ初期状態であり、これがより表面化するのは1660年頃からである

 

 一方米の生産量が馬鹿上がりしている蝦夷はどうかというと増加した人口を養うため消化されたり、酒に加工して全国や海外に売ることで需要と供給のバランスを維持していた

 

 また中華では明の崩壊が始まり、社会的混乱で日明貿易は停止、島津、毛利、徳川、北条、伊達といった大大名は独自にイギリスやオランダ、ポルトガル商人と通じて貿易を継続した

 

 幕府も南蛮貿易の規模を拡大することで景気縮小を回避した

 

 また1630年になると将軍は五代目となり、信忠の長男、次男が男子を残さずに死去したため、信忠の三男(武田の松姫との子)の信貞が継承し、大大名の力を削ぐために南蛮商人の幕府の指定する港以外での貿易を禁止したり、安土城下に妻か子を住まわせ、会うために参勤交代令を公布

 

 これにより各大名は格に見合った大名行列や藩邸を用意しなければならず、大きな出費となり、財政を苦しめた

 

 ただアイヌと戦闘中(ということになっている)蝦夷藩は北狄防衛の任務があるからと参勤交代は当主就任の挨拶時の1回のみとされ、さらに安土滞在も半年で良いこととなり特例を受けていた

 

 これは信貞が織田が円滑に政権運営できているのは大領の転封を受け入れた宮永家のおかげと思っており、寒く、米も殆ど採れない(ことになっている)場所で今でも北狄(アイヌ)と戦闘を繰り返していると聞き、優遇しないと藩が潰れると思ったからである

 

 まぁ藩存続の危機が実際に蝦夷藩に降りかかることになる

 

 

 

 

 

 

 

 1640年蝦夷駒ケ岳にて爆発的な噴火が発生

 

 噴火の数ヶ月前に迦具照が苫小牧の屋敷にて火鉢で人生で初めて火傷をしたことで何かが起こると予言し、照石が蝦夷駒ケ岳噴火の前兆を察知

 

 周辺住民8000人を東源郷に避難させたが、一部避難に反対した者はその場に留まった

 

 その数日後に噴火が発生し、内浦湾に土砂が流れ込み大津波が起こり、避難しなかった者達が津波に巻き込まれて2500名が死亡

 

 火山近くの森町、函館は壊滅的被害が発生し、さらに大量の火山灰により冷害が発生

 

 備蓄米を放出し、被害の少ない薩摩芋や馬鈴薯に切り替えることで初年度は乗り切ったが、降り積もる火山灰や津波で塩害が発生する農地と問題は山積み

 

 ただ対処も迅速だったのが蝦夷藩であり、噴火直後に冷害が発生すると判断し、全国各地から米や野菜を購入し、被害に備えたことで被災地であったのにもかかわらず餓死者は発生しなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ全国で噴火により冷夏となり、米の価格が上昇、更に西日本では家畜の疫病が発生し、牛が大量に死亡したことで飢饉が発生

 

 これに藩の財政を傾けるわけにいかないと飢饉対策が不十分だった九州の小藩らは税の取り立てを行い農民の不満が爆発

 

 キリスト教弾圧による反動でキリシタン一揆に拡大し、島原天草一揆という巨大一揆となる

 

 幕府は直ちに討伐を下知したが、先遣隊1万2000は壊滅し、普代家臣である羽柴秀頼が出陣すると九州各地から12万の軍勢に膨れ、一揆は鎮圧された

 

 この一揆によりキリスト教が禁教となり、キリシタン大名達は次々に改易

 

 九州を中心に15藩も改易となり、更にポルトガル船の来航を禁止

 

 照継がやるように言っていた東南アジア侵攻もこの頃には内政に注力した方が良いと頓挫し、大航海時代に取り残されることとなる

 

 

 

 

 

 

 豊照の時代前期は農業が大きく発展した時代であったが、後期は北海道各地で噴火が相次ぎ、農地拡張は頓挫

 

 計画では250万石まで伸ばすハズが、災害復興に予算や人員が取られ前期の100万石に戻すまでに20年近くの年月を有した

 

 ただ人口は増加し続け、1650年には150万人を突破、1665年には220万人にまで増え続ける

 

 ただそれ以降は人口増加ペースは鈍化し、耕作地との釣り合いが取れるようになっていく

 

 家督は1650年に息子の仁照に継承する

 

 

 

 

 

 

 仁照時代、各地の藩では儒教が大流行し、寺院の破壊行為を不思議に感じていた

 

 儒教道徳は大切であるが、それで日本に根付いた仏教を排斥して良いとは思っておらず、更に時代の流れに逆らい神仏習合をした寺社をガンガン増やしていく

 

 また大量に出た火山灰をガラス製品にする取り組みが盛んに行われ、天照時代に海外から移住した職人や芸術家の弟子達に積極的に融資

 

 蝦夷硝子と呼ばれる薄い青色の硝子製品が大量に作られ、全国のみならず中華や東南アジアでも流行

 

 硝子食器に負けじと磁器や陶器の開発も盛んに行われ、工芸品の品質が大きく向上したのがこの時代

 

 1660年の蝦夷藩の輸出品は

 

 農作物 45%

 酒造  10%

 鉄製品 10%

 加工食品5%

 工芸品 5%

 織物  5%

 塩   5%

 造船  5%

 製紙  5%

 その他

 

 となっていた

 

 連続の冷夏やら天候不順とかで1650~1655年は赤字であったがそれを乗り切り、1656年からは黒字に回復

 

 また武器製造にも力を入れ、アイヌとの戦争に勝利し、支配下に置いた

 

 この時開発されたのがマスケット銃であり、火縄ではなく火打石を使った着火法で初期は故障しやすかったが、密集しても使える為に改良が進められる

 

 大砲も長年の研究と欧州留学の成果が着々と出始め、粘土で型を作り、そこに青銅を流し込むことで大砲を造っていたが、硝子細工に耐える高温の高炉を作ったところ製鉄に流用できることがわかり、更に石炭をコークスにして燃料として製鉄できる技術も発見され、青銅から鉄製の大砲へと変化

 

 またドリルで発射口を削り出しをすることで大砲のガス漏れが大幅に削減され、四斤山砲とかナポレオン砲とか言われる物の原型が出来上がった

 

 この兵器は混乱続く明と清双方の勢力に密貿易で売りに出され、多くの外貨(銀)を獲得することとなる

 

 清では和寇砲と呼ばれ、清勝利と清の拡張に大きく貢献した

 

 そして1665年、宮永一族は樺太への移住を開始、樺太王国という名前を付け、清と堂々と貿易を行うようになり、島津の琉球王国の様に、宮永の属国として中間貿易を行い、清との窓口を独自に持つこととなる

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