1745年より新たに藩主となった七代目巻照は父である照政の推奨事業を引き継ぎつつ、数年前に亡くなった二代目藩主豊照の遺志を継ぎ、農地の整理を開始
まず寒冷地でもよく育つ稲の改良に成功したことで今までよりも1.2倍ほど収穫量が上がり、100年かけて北海道の沿岸部にはほぼ入植を完了したため、内地へとじわじわと開発が進んでいく
特に畜産の開発が進められ、馬、鹿、豚、牛、鶏を中心に飼育され、蝦夷では本州が儒教の行き過ぎた教えで命を大切にを拡大解釈して動物の殺生が禁止されたりして食肉文化が途絶えてしまう中
「いや、肉食わないと力でないだろ」
というご尤もな意見と
「本場の中華は普通に肉食ってるぞ」
という海外の食生活と比べた意見
「宗教も色々混ざっているからどれを食べてはいけないとかだと各々の宗教的にもまずいから蝦夷藩では特に決めないでおきましょう」
という蝦夷藩の多民族性を現した意見も出たのと
「肥料になるのだから家畜を減らすのはヤバいでしょ」
という生産効率的立場からも意見が出て蝦夷では家畜の繁殖技術が盛んに研究された
これにより馬は外来種と盛んに交配され、日本馬の小型馬ではなく、欧州や大陸系の大型馬と配合した中型馬が主流となっていく
蝦夷馬と呼ばれ、サラブレット程速くはないが、従順で蹄が硬く、蹄鉄を必要とせず、他の日本馬に比べて力強いという特徴を持った馬が出来上がり、主に農耕馬として大量に飼育されていく
また、今まで苫小牧館にて政務を行ってきたが、札幌に拠点を移し、札幌を中心とした街道の整備が始まる
街道はコンクリート製で火山から出た灰や軽石を大量に使い、交通の利便向上を図った
まぁ雪が降るので半年しか機能しないのであるが···
一方1700年代からの安土幕府はというと、貿易で金銀の流出が多く、デフレが発生しており、好景気だった1660年代までに比べて経済成長は鈍化
外国船の入港の大幅な制限を行い、海禁政策から鎖国体制に移行する(薩摩と蝦夷は間接国を利用して密貿易を続けたが)
また幕府の財政再建として東海三国の徳川家当主となり財政の再建に成功した徳川吉宗を幕府の大老に抜擢し、改革を断行
参勤交代の期間短縮、上米による各藩から米の徴収、新田開発、米価操作により米の価格を上げて物価を下げること、貨幣改鋳、裁判の簡略化、効率化、人口調査、地図の作成、年貢の引き上げ、定免法(凶作、豊作問わず一定の年貢にすること)を次々に行い、幕府の財政の立て直しをやった
しかし、人口調査や地図作成は各藩から反対が相次ぎ、頓挫
物価や米価の統制も失敗し、一時的に幕府の財政は好転したが、権力が足りずに一時凌ぎの政策を乱発したため、かえって幕府の権威を落とすことに繋がる
特に鎖国政策は国を植民地時代に日本を守ったと評価される一方、技術を大幅に遅らせる原因として追及され、独自に欧州留学を繰り返していた蝦夷藩と技術格差が開いていくこととなり、特に地図の作成失敗は蝦夷藩の暗躍が激しかったとする説もある
幕府が財政再建に七難八苦している頃、島津、毛利、徳川、北条、伊達の外様5大雄藩と明智、羽柴、柴田、前田、堀、丹羽、滝川の7譜代大名の対立が激しくなり、それぞれ経済戦争や特産物、家の格式等で争うようになり、産業開発や特産品の開発に力を入れていく
特に500石以下であれば造船に制限が無いことからいかに速い船を作るかで建造競争が発生
伊達藩が船体の一部に鉄を用いる木鉄交造船と呼ばれる木鉄船が造られ、それを真似した各藩も鉄の需要が増加
鉄を輸出品としていた蝦夷藩では東源郷にも最新の採掘技術を導入し、高炉を大量に建築して鉄の増産を開始
鉄の供給が蝦夷藩が無いと市民は鉄製品が買えないくらい高騰してしまい、それだけ蝦夷藩に資金が流れ込むことを意味し、その資金を使って開拓や技術開発を行う循環が出来上がる
もっとも蝦夷藩は蝦夷藩で海外情勢にアンテナを張り巡らせており、イギリスにて経済力が爆発的に上昇していること、ロシアが極東まで勢力を広げたこと等から樺太に兵器工場や造船所を建築、軍事訓練の強化をもってロシアの侵攻を迎撃するとともに、千島列島の入植にも成功
カムチャツカ半島にも進出が検討されたが、国際的にロシア領に組み込まれていることから断念
1781年蝦夷最終地図と呼ばれる蝦夷、千島列島、樺太全体の地図を作成
人口調査の結果蝦夷地には約600万人、樺太王国約50万人、千島列島約1万人の人口が判明
幕府に報告すべきかどうかで藩内で割れたが、秘蔵したままバレる方が問題であり、幕府が全国の地図作製を諦めてない事を知り、更に伊能忠敬という人物が幕命にてすでに蝦夷地の地図の大半を書いているらしいと情報が伝わると幕府に地図を提出
あと半年遅れていたら改易処分もあり得たが、ギリギリ間に合い、蝦夷150万石として幕府に認められた
実際の石高は550万石プラス東源郷の75万石であるが秘匿することに成功し、蝦夷守、北狄総大将、北方探題の地位に見合う国力を手に入れたと他藩は絶賛したが、藩主巻照は泣きたい気持ちでいっぱいであった
特権であった参勤交代の年数が他藩と同じにされるし、船舶の大きさも制限されるしで頭を抱えた
ただでさえロシアの脅威があるため大型船は必須であり、各地に大型船を作れるドックの拡張をしたばっかりだし、蝦夷藩の主流船舶は平均1500石船である
藩が抱えていた船は殆ど樺太王国に移すことで取り壊しは逃れたが、藩の危機感は一層強まる
参勤交代の適応で藩主の隠居ペースが今までは25年から30年で交代だったのに15年に1度ペースに変わり、隠居して蝦夷に滞在できるようになってから藩政に集中する院政を蝦夷藩では敷くこととなる
1790年九代目藩主宮永崇照時代には欧州が大変な事になっていると情報を聞きつけオランダとイギリスに革命で混乱するフランスがどのように混乱を終息させるかを観察するため樺太王国から代表団をそれぞれ200名を派遣
そこで産業革命で急速に発展する蒸気技術をまざまざと見せつけられ、更に銃もアメリカとの独立戦争でイギリスの銃が凄まじい勢いで進化していることを知ると代表団はいかに日ノ本が遅れているかを痛感
造船技術でも蝦夷藩としては最新として作った船がイギリスでは2戦級に分類されていることを知ると欧州との技術格差を実感
技術者に弟子入りして技術を習ったり、金銭で交渉したりしたが、黄色人種故に猿真似だと馬鹿にされながらも一定の技術を習得し、定期的に人員を交換し、約30年間計8回の留学を行い、ナポレオンの大陸制覇から復古王政までを見届け、技術留学を終了し、ナポレオンの軍事技術やイギリスの造船技術、海軍戦術、欧州の最新技術を吸収し、約3000名が時間差はあれど帰国し、蝦夷の各地にで欧州技術の再現を開始
留学した者が各地で企業し、それが既存の蝦夷の資本家の後押しを受け急速に成長し、蝦夷では商家から財閥へと脱皮することに成功し、税を引き下げ更に企業内で設備投資がしやすくすると各企業は爆発的に成長し、巨大な宮永一族の宮永財閥と八雲財閥、原村財閥、龍門財閥といった財閥が出現した
彼らは蝦夷藩の庇護を受けながら蝦夷全体に工場を建築していくこととなる
1800年から1840年の間に反射炉を利用した鋼鉄工場や蒸気機関を利用した各種生産工場(特に綿製品)やニトログリセリンを利用した採掘方法の導入、ライフル銃の導入など技術が一気に進歩し、技術的な遅れを取り戻すため高等教育と研究機関となる大学を開校
遅れながら日ノ本全体に技術が普及していき新たな時代へと繋がっていく