チート一族になりたくて   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

29 / 35
第一次蝦夷征伐

 ナポレオンという革命から現れた最高の軍司令官に会うことは叶わなったが、その芸術的な戦術や参謀本部などの組織体系は情報を掻き集め、研究を続け、1820年に欧州留学の全員が帰国した際に結論が出る

 

 なぜナポレオンが強かったのか

 

 それはまず徴兵制による人員の確保と愛国精神に満ちあふれていた事

 

 徴兵制により兵士になれる人員を選び、促成の兵隊教育を施すことで上の命令に従う兵士を作り上げ、それが散兵戦術と呼ばれる広範囲に広がって攻撃することが可能となった

 

 今までは密集陣形による集団圧力で兵士の逃亡を防いでいたが、それが愛国心が加わることで逃亡を防ぎ、多方面からの面による攻撃を実現したのがナポレオンの強さと判断した

 

 その複雑な陣形を維持できる下士官の教育、国民全体の識字率の向上による命令伝達手段の確保、大砲や銃の技術的革新

 

 それに優秀な将軍を抱えていた人材の豊富さもフランス軍の強さとした

 

 重要なのは兵隊の速度と火力の集中

 

 命令伝達が早ければ移動も早い

 

 軍馬の質も良ければ大砲や兵士の移動も早くなる

 

 散兵による火力を線から面にすることで相対的な火力の向上

 

 物資の現地調達による補給や兵站の簡略化なども強さの秘訣であり、これらを全て敵の殲滅という目標をしっかりと決めていたことでナポレオンは勝利を積み重ねたと判断した

 

 逆にナポレオンが負けたのは現地調達が不可能なロシアと、度重なる戦争で優秀な人員や下士官の枯渇

 

 それによる命令伝達速度の低下、ナポレオンの戦術を他国も研究し習得したことで戦術面の有利性も低下し、結果ナポレオンは負けた

 

 イギリスがナポレオンに勝ち続けられたのはシーレーン(制海権)を完全に握り続け、反対勢力に支援を送り続けることができたことと、産業革命によりイギリスだけが他国よりも国力が高かった事等が挙げられる

 

 最強だったナポレオンに勝ったロシアが蝦夷には近い···それだけで蝦夷藩は軍備を整える理由がしっかりとある

 

 ナポレオン戦争でしっかりと学習することができた蝦夷藩は近代国家に向けた準備を正確に理解し、武士と商人がゴチャ混ぜという土壌が逆に有利に働くのではないかと理解した

 

 武士だけで戦う時代は終わった

 

 近代戦はいかに相手よりも火力を叩き込み、十分な補給を受けられるか、その戦争に耐えられる国力があるかどうか···

 

 蝦夷藩は他の藩よりも人口を抱えている巨大な藩である

 

 それ故に倒幕、開国、富国強兵、殖産興業の4つをスローガンに改革を推し進めることとなる

 

 

 

 

 

 

 蝦夷藩が産業改革を実行し、実績を上げつつある頃、本州では攘夷運動が盛んに行われていた

 

 特に佐竹の水戸藩では水戸学と呼ばれる国学というかヤバめの思想が全国に飛び火しており、諸外国の船を攻撃する異国船打払令が発令し、いつの間にか締め出されていたオランダ以外の船は攻撃しても良いという激ヤバの法令により長崎の鍋島家の佐賀藩がイギリス商船に砲撃する事件や日本海に現れたロシアの船を新潟の越後藩が沈める事件が発生しており、周辺海域に異国船がうようよ進出してきていた

 

 更に1840年にはアヘン戦争で清が大敗したと知ると幕府は大きくゆらぎ始めていた

 

 

 

 

 

 

 第十二代蝦夷藩藩主となった宮永旭照は1841年、清の支配する沿海地方に侵略することを決定した

 

 戦争の理由は新兵器達の試験運用と対ロシアを見据えてロシアが

 沿海地方を獲得し水軍基地を建築した場合真っ先に蝦夷の沿岸部が危険に晒されるため、防衛上何としてでも確保しなければならなくなっていた

 

 新兵器として蒸気機関を用いたフリゲート艦を樺太王国が製造、他大砲に駐退機を取り付けた物や榴弾の開発に成功しており、他にボルトアクション式の0式小銃が部隊に行き渡っていた

 

 新戦術や新装備で固めた志願兵2000名からなる維新隊は上陸に成功すると火力と機動力で敵を圧倒

 

 100年前の敗北から技術と国力を蓄積し、軍馬の品種改良や蹄鉄、去勢技術の導入等で軍馬を完全にコントロールした蝦夷馬達は兵士達を背に乗せて広い大地を駆け巡った

 

 清の防衛部隊を蹴散らし、増援部隊4000名を加え、清の本拠地である満州に進出し、威嚇と挑発を繰り返すと1万の清国軍が現れ、決戦となり、機動戦をもって圧勝

 

 最新式の小銃の射程距離は清軍の3倍以上の有効射程であり、後装式になったことで射撃速度が段違いに早く、更にゴムタイヤを備えた大砲による榴弾は効率的に敵を攻撃した

 

 清が全盛期であれば10万の大軍が出せたが、国内はアヘンが蔓延り、更にアヘン戦争の後遺症で国威が低下していた為、各地で反乱が発生し、沿海地方に構っている余力がまったくなかった

 

 清は沿海地方の割譲及び蝦夷藩との直接交易を認め、講話を結び、蝦夷藩は大陸に領土を得ることになる

 

 その場所は後にウラジオストクとロシアで呼ばれていた良港も含まれる

 

 

 

 

 新兵器の実戦実験に成功し、これならば今の幕府を倒して新政府にしたほうが良いと判断した蝦夷藩は幕府に国防充実の為と言い兵器工場の新設や500石以上の船の建造に着手

 

 幕府は最初は大目に見ていたが、朝廷に接触したり、開国論を堂々と言うようになると他の藩からも異質に見られるようになり、蝦夷藩が幕命に背き、アメリカの捕鯨船を苫小牧に入れ歓迎したと伝わると幕府は東北諸藩に蝦夷藩討伐命令が出される

 

 幕府からの命令は異国人の引き渡し、蝦夷の鉱山の開発権利を徴収、現在の蝦夷藩の上層部の切腹及び蟄居、隠居

 

 また函館等の渡島半島割譲が要件となっていた

 

 函館には北海道全人口の2%にあたる12万人近くの人口が暮らしており、他にも新設された武器工場等や反射炉や高炉等の重要施設が多数存在する渡島工業地帯が含まれており、絶対に手放すことができなかった

 

 双方交渉は不備に終わり戦争が勃発

 

 津軽海峡付近で海戦が行われるが、欧州までの航海を何度も成功させていた歴戦の船乗り達率いる蝦夷海軍に伊達と最上、上杉中心の水軍衆は大砲の性能差もありボコボコと沈められてしまう

 

 上陸もままならず、蝦夷藩としても武器の蓄積が済んでいない為倒幕にはもうしばらく時間が欲しかった為に4度の海戦の末に幕府側が折れる形で終戦

 

 白紙講話が結ばれたが、以後蝦夷藩は独立国の様に扱われ幕府の命令に従わなくなる

 

 1843年第一次蝦夷征伐は双方の講話で集結する

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。