第一次蝦夷征伐の失敗を受け、幕府の威信は大きく揺らぐ結果となった
しかし、あくまで東北諸藩が兵を出して失敗した為、幕府本軍は出陣しなかったので各藩は幕府の本軍が出陣すれば勝てると思っていた
一般的な国力差からして幕府が負けるのはおかしいのである
しかし、欧米各国としては鎖国を続ける日ノ本よりも開国して市場にしたいため、軍艦を使って威圧を開始
1845年、大坂湾(誤字にあらず)にアメリカの黒船が来航開国を迫るが一旦保留にする
1846年、更に軍艦を増やしてアメリカが来航し、幕府老中池田元輝は日米通商修好条約を締結したが、天皇がこれにブチギレ
天皇としては攘夷実行を幕府に求めていたが、それとは逆に開国に向かう事をしているため各地の攘夷主義者に攘夷実行を叫んだ
呼応したのが毛利の長州藩、大砲により威嚇射撃をして外国船を追い払うも反撃にあい砲台が占拠される事件が発生
他にも島津の薩摩藩でもイギリス商人を斬り殺す事件が起こり、報復として薩摩に軍艦が来航し、砲撃で街が火の海になる事件が起こる
攘夷過激派だった雄藩の次々の敗北に各藩の動揺は凄まじく、幕府が全力をもって対処しなければいけない状況だが、幕府内部でも意見が分裂し、いよいよ事態の収拾がつかなくなった時、蝦夷藩が幕府に対して15条の意見書を提出
内容としては幕藩体制を終わらせ、国民国家として身分制度を破棄
天皇を中心とした挙国一致をもって国難に対処すべし
攘夷などもってのほかであり、海外の力を吸収して国力を高めるのが上策
など幕府が求めている事の真逆の意見書を提出した
まぁキレる
そしてこれを見た天皇のキレた
勝手に持ち上げるな、攘夷を実行しろと
天皇は幕府に対して蝦夷征伐の実行を命令し、幕府も承諾
幕府軍12万をもって1850年第二次蝦夷征伐が始まる
この時の第十三代藩主宮永照魔はまだ20歳ながら天才的と称された永米敏行を軍監(参謀総長に当たる)に抜擢
倒幕に呼応する藩を全国で呼びかけると共に幕府に対して先手を打つことに決めた
津軽藩、南部藩侵攻
蝦夷藩は第二次討伐令が出された直後に動員令を発令し、徴兵を開始
混乱はあったものの第一陣に6万人を招集し、装甲艦10隻、フリゲート艦30隻、軍馬1万頭、大砲600門を動員し、第一次蝦夷征伐でのダメージを回復できていない2つの藩は城に籠もり時間を稼ごうとするが、野砲により城壁を崩されたり、城内に砲弾が着弾、城自体が集中砲撃により崩され、津軽藩と南部藩は滅亡
生き残った家臣達は身を潜めるか他の藩に武器を持って逃亡を図るが、別働隊により街道は封鎖され、主要な家臣達には懸賞金をかけ、次々と捕縛の後に処刑されていった
この情報は瞬く間に全国に広がり、蝦夷藩が本気で倒幕を目指して動いていることを知る
幕府軍はまだ関東に入った段階であり、東北到着には1週間近くの時間が必要であった
蝦夷藩の狼藉に幕府軍に志願として各藩から攘夷志士が合流し、15万に膨れ上がり、倒幕を掲げる蝦夷藩を叩き潰し、攘夷実行へと動くのであった
「実に生ぬるい考えだ。時代は50年の間で大きく変化した。再度の鎖国等不可能なのは理解できないのか? そもそも幕府が通商修好条約を結んだのだから矛先は幕府に向けろよ」
永米敏行は軍議の席でそう呟いた
「しかし、この決戦に勝利すれば幕府の求心力は地に落ちます。幕府を見限った各藩がこちらに合流してくることも考えませんと」
参謀の1人が言う
「まずは勝つ。決戦の地は仙台平野、あそこであれば大軍を展開できる」
「道中の藩は」
「1度降伏勧告を行った後に潰せ」
「わかりました」
伊達の仙台藩では大混乱が発生しており、蝦夷藩の侵攻が止まらない
陸と海からの侵攻により北陸の諸藩は壊滅し、仙台目前に迫っていた
もちろん仙台藩も動員できる兵を根こそぎ動員したが、自慢の木鉄船は大砲の集中砲火を受け全て撃沈
捨て身の爆薬を満載した小舟による特攻も突風に煽られて目標に当たる前に転覆してしまった
陸でも滅んだ藩士を吸収して3万の軍勢で迎え撃ったが火縄銃と最新式のボルトアクション式ライフルでは射撃速度も射程距離も違いすぎて瞬時に蜂の巣にされ壊滅してしまった
決戦になってしまったことで大打撃を受けた仙台藩は町民や農民をも動員して空堀を掘ったり、家屋を崩してバリケードを作ったりした
ただ多くの町民や農民は逃げ出してしまい、雄藩としての格はもう保つことは不可能であった
「天狗の天候操作は相変わらず強力だな。仙台藩が爆弾特攻をしてくる対抗策に天狗衆に突風を起こさせるとは」
「我ら妖怪一同は蝦夷藩に忠誠を誓っております。蝦夷藩は我らを差別しなかった。受け入れてくれた。家族として扱ってくれた···恩返しの1つでもしないとバチが当たりますよ」
「では仙台で百鬼夜行を開催しようぞ」
「「「おう」」」
百鬼夜行···照継時代から行われてきた妖怪軍団による夜襲攻撃であり、見る者に恐怖を与え、周辺は血の赤と暗黒に染まる
幻影から始まり、まずは火牛が迫りくるような幻影が見せられ相手を恐慌状態にさせる
次に鬼達が怪力を持って地をならし、天狗達が雷雨を呼び込む
至る所に火がつけられ仙台の街は火の海となる
なぜ仙台の街に火を付けたか歴史家達は様々な検証をしたが、幕府軍との決戦に家屋が邪魔で軍馬を通すために更地にしておく必要があったとされる
火の海となった城下だけでなく、仙台城にも妖怪軍団が襲い掛かり、城門を突破して城内に侵入
至る所で虐殺が起こり、仙台城は炎上のうえ落城
堅城の呆気ない最後に多くの藩士が城と運命を共にして雄藩仙台藩は粉砕された
百鬼夜行終了から2日後幕府軍は仙台に到着し、両軍相まみえる
幕府軍は市街地戦を想定しており、市街地ならば近接戦闘になり、数の多いこちらが有利と思っていたが、市街地は入念に燃やされ、更地となっていた
「···蝦夷の奴らここまでするのか」
そこらに斬り捨てられた人の亡骸が転がっており、幕府軍は勝たなければ自身の藩もこうなると覚悟を決めた
1850年9月3日、11時頃、幕府軍総攻撃を開始
待ち構える蝦夷藩の兵士達は塹壕を掘り、体を隠しながら突撃してきた幕府軍に火砲を集中させた
竹束と呼ばれる竹を纏めた盾を使い弾丸を防ごうとするが、火縄銃の弾丸は防げても先端が鋭利になっており、更にライフリングによる貫通力の向上で竹束は貫通され、鎧も効果が無く、バタバタと損害が出てしまう
更に後方の水戸藩、側面の山形藩に追加動員された兵3万が双方に上陸を仕掛け、沿岸地域の拠点を現れてしまう
そのまま北上、東進して幕府軍を包囲する形となる
幕府軍は武田家が長篠の戦いで退路を絶たれ突撃するしかできない状況と全く同じ状況に陥ってしまう
仲間の死体を盾に括り付けて防御力を増したり、地面に這いつくばって砲弾の雨の中突撃を続け1時間後にようやく塹壕に辿り着き近接戦闘が開始されたが、待ってましたとばかりに鬼達に金棒でミンチに変えていく
心が折れた幕府軍は裏崩れを起こして崩壊
騎馬隊による追撃で幕府軍8万人が戦死、幕府の重臣達も何名も戦死
蝦夷藩はそのまま山形藩を攻め滅ぼし、奥州に防衛戦を構築すると共に札幌にて新政府宣言を発表
フランスの人権宣言を参考に、自由貿易を追加、天皇制の正当化をした新政府宣言は欧米各国に届けられた
日本で内乱の情報を聞きつけた各国は幕府や新政府に武器を供給が開始され、幕府は体制の立て直しを急ぐ
しかし、新政府は各国と修好通商条約を結び、港を開港
各国は幕府よりも新政府の方が話が通じるし、様々な商品を購入するし、輸出品も魅力的と判断し、本命は新政府となっていく
ここで薩摩藩と長州藩は新政府への合流を発表
事前に根回ししていた経緯があるが毛利と薩摩が中央に進出するチャンスと踏んで早期に参加を表明、幕府は2方面作戦となるが、この段階では朝廷としては新政府に参加はしたくないため幕府に対して正統政府の証である錦の旗を渡すが、賊軍になっても新政府軍は止まらない
さらなる増員で15万人まで増えた軍隊に武器弾薬を供給し、1851年3月関東の雄、小田原藩が降伏
新政府の拠点として江戸が選ばれ、関東で小田原の次に栄えていたが拡張性と港に近い利便性から新政府の首都として選ばれる
九州では更に佐賀藩が新政府側に寝返り、長州、薩摩、佐賀3藩による九州平定作戦が実行され、新政府より海上から武器弾薬が支援されたことで九州を制圧
幕府は立て直した軍備を持って長州攻めを敢行したが返り討ちにあい、せっかく輸入した武器弾薬を多く失う
東海道でも激戦が繰り広げられたが半年交戦した後に徳川の東海藩が降伏
滝川の甲斐藩もじわじわと押されていた
踏ん張っている藩もある越後の堀家だ
越後藩はゲリラ戦に主力を維持している状態で突入し、じわりじわりと押されていたが1年以上新政府軍を足止めしていた
しかし、1852年1月に織田幕府発祥の地尾張が陥落すると幕府は遂に新政府に降伏を打診
1852年9月降伏の調印がされ幕府は崩壊
ただ時の天皇は新政府を認めておらず、2年近く新政府の調印をごねた上に憤死してしまい、まだ2歳であった睦仁親王が急遽即位し、明治へと元号が変わる
ただ朝廷は新政府のやり方に不信感を抱いており、これが後々の蝦夷外しへと繋がっていく