「ママのバカー!!」
母に背を向け、玄関を開け放ち駆け出す。靴を履いていないから転がる石が柔らかい足の裏にめり込み、痛みで涙があふれる。
いや、この涙は痛み以上の意味を持つ。答えられないほどの、あまりに多くの意味を。
星野ルビー、9歳。初めてした親への反抗はとっても些細で、それでもルビーにとってはあまりにも大きな事だった。
【9歳 夏】
その日は雲ひとつない青空だった。これから雨が降るなんて思えないほどに太陽が照りつけている。
そんな日に、私とアクアは露骨に嫌な顔で通学路を歩いていた。何故なら今日は土曜日。本来ならまだ寝ている時間だから。
「帰りた〜い」
「文句言うなよ……俺だって帰りたい」
グロッキーになりつつ、何とか学校の門に辿り着く。他の生徒が特別なのかは知らないが、かなりの人数が親の送迎で登校しているようだ。
「あくあ〜あくあ〜。なんで私達は送ってもらえないの?片親とは言えうちのママは国民的大女優様だよ?」
「そもそも母さん、免許持ってないだろ」
「ミヤコさんは?社長は??やだやだやだ!!!私も車で登校したい!!」
「仕事あるんだから仕方ないだろ!?母さん結構厳しいのなんて分かりきってる事だし、諦めて歩け!!」
「ぶー。じゃあおんぶして?お兄ちゃん」
「はあ?なんで……」
ここぞとばかりの上目遣い。私は知っている。兄がシスコンでマザコンな事を。隠したがるけど、そうはいかないよっ♪
「分かったよ……ほら、乗れ」
「わーい!お兄ちゃん大好き!!」
「小っ恥ずかしいからやめろバカ」
※※※
授業参観には、基本的にミヤコさんが来てくれる。予定が合えばママが来てくれるけど、中々難しいらしい。この前は私のクラスに滑り込みで来てくれて、なかなかの親バカを発揮してくれた。教室に入るなり私を見つけて涙を流してたなあ。
「ルビーが真面目に授業受けてる……!!」
って授業終わって直ぐに抱きしめてくれたことを覚えてる。その日、アクアのとこには顔を出せなかったからアクアは少し拗ねてたっけ。
今日はママは来れないって聞いてる。ミヤコさんも最近忙しいらしいから、ほんとに授業を受けるだけのつまらない日って事だ。
それだから時間の進みがやたらと遅い。午前中に終わるはずなのに、感覚ではもうお昼を過ぎている。時計を睨んでもまだ11:00。
「つまんないなぁ………」
ブツブツと文句を並べても、結局は無慈悲に出される問題と向き合わなければならない。大好きな親が居ないから張りきれない。周囲との温度差で風邪引きそうだ。
なんて授業そっちのけで考えてたら、小刻みにテンポよく鳴らされる足音がこちらに向かってくるのが階段の方向から聞こえた。授業の終わりまであと数分なのに、こちらへ近づいてくる焦りの音。私は横目でその正体を見定めたくて、授業そっちのけで目を凝らした。
「えっと、アクアの教室は……」
止まる足音。微かに聞こえる澄んだ声。でも、先生の声と後ろの保護者のざわめきに掻き消される。
再び足音が鳴り出すと、それはあっという間に私を追い抜いた。
「えっ……」
ついていた頬杖を手放すほどの驚きがはるか遠くを横切った。
ガチガチに固められた変装。それでも隠せないモデルのような体型とオーラ。皆が思わず振り返るその走り姿は……
間違いなく、ママだった。
「ごめんねルビー。前はルビーの方に行ったから今度はアクアって約束してたの」
「いい。怒ってないもん」
「ほらほら〜抱っこしてあげるから」
「むぅ……」
分かってる。分かってるけど、やっぱり嫌なものは嫌。ヤキモチだって、こんなの駄目だって分かってるけど、考えと行動が真逆になってしまう。
「今日はルビーの大好物なんだよ?ほらほら一緒に食べよ〜」
そんなこと知ってる。でも、それだと物に釣られた感じがして余計に嫌なのだ。
「ね?ルビー。今度はルビーのとこ行くから。絶対!約束する」
「……ほんと?」
「ほんとだよ〜。私、ルビーとアクアにだけは絶対に嘘は言わないよ」
約束してくれるなら……と、私はアクアが待つ食卓に行く。もちろん、ママに抱っこしてもらって。
※※※
それから、何故だかアクアとママのやり取りが目につくようになった。とにかく何事にもアクアが優先されてるような気がして、そんな事ないと自分に言い聞かせてもやはりモヤモヤは拭い切れなくて。
「ママ、私も上手でしょ」
「ママ!お兄ちゃんより宿題早く終わったよ!!」
「ママ。私もママと一緒に寝る〜」
「ママー!お兄ちゃんが虐める〜〜!!!」
「明日からお休みだよねママ!!」
とにかくママに構って貰うために色々した。気を引こうと苦手な勉強も頑張った。アクア程では無いが、点数も半分より上は取れるようになった。
でも、それでも。やはりアクアが優先されてるという錯覚は私の瞳から拭い去ることは出来ずにいた。
そんな日が何日も続いた。その内にちっぽけなプライドが、ヤキモチが積み重なり、理性の器から溢れそうになる寸前にまで至った。
そして……
「お兄ちゃんのバカー!!ママなんて知らない!!!!」
ほんとに些細なことで、簡単に感情は器から零れ、そのままひっくり返った。
※※※
「………」
「………」
「……反省してる?」
「……はい」
私は家を飛び出した後、宛もなく彷徨った末に1人歩いているとこをたまたまミヤコさんに保護された。
ミヤコさんは事情をしっかり聞いてくれた。その上で物凄く怒られたけど。社長さんが止めに入るくらいに、凄く怒られた。
でも、私は嬉しかった。真正面から私を見て、しっかり怒ってくれたから。
……いや、ママとお兄ちゃんを真正面から見てないのは私か。
「多分すぐ来るから。それまでアイに…お母さんになんて言うか考えときなさい」
そう言うと私に紙とペンを渡し、ミヤコさんは仕事に戻ってしまった。でも、傍にはいてくれたから私は変に気負わずに済んだ。
ミヤコさんの言う通り、ママはすぐに来た。
「ルビー!?」
変装も何もしてない。すっぴんで、髪もぐちゃぐちゃ。何回か転んだのだろう。良い値段がすると思われる服には泥が何ヶ所にも渡って跳ねている。
ママがびしょ濡れになってる様子を見て、初めて外が大雨だということを知った。
ママは私を視界に入れるなり、汚れても綺麗な顔をくしゃりと崩す。私もその涙につられ、涙を流してしまう。今まで抱いていた不安が安心に変わり、涙腺が感情について行かない。何度拭おうと涙は止まらない。
前の人生だと、簡単に涙なんて止めれたのになぁ……
涙の先で、ママは玄関でへたり込んでしまいミヤコさんが慌ててママの元に向かっていた。
「よがったよぉぉぉぉぉぉ!!!!!!うわぁぁぁぁぁぁん!!!!」
ママの涙は初めてでは無い。案外涙脆いママは割とすぐに泣く。でも、ここまで子供のように涙を流すママは初めて見た。ようやく私は自分のした事の大きさを知った。それを自覚したら、身体は勝手に動いていた。
「ごめんなさいぃぃぃぃぃぃ!!!!」
なんの迷いなく、私はママの胸に飛び込んだ。ママは私を優しく抱きしめてくれる。2人とも「ごめんね」「ごめんなさい」を繰り返すだけ。それだけなのに、気持ちの全てが伝わっている気がした。
街頭と街の灯りで星も見えない夜。活気の消えない不夜城のような街を、場違いな私達は歩く。正確には、泣き止まない私をママが抱っこして歩いている。
「泣き止んだ?」
「……まだ」
「アクアもかなり心配してるんだからね。危なっかしくて五反田監督に面倒見てもらってるから迎えに行かなきゃ」
「そーなの?」
「酷かったんだよー?ルビーが出てってからずーっと慌てて家の中歩き回るし。そのせいで小指ぶつけて花瓶割って泣いちゃうし」
「わあ……お兄ちゃんシスコン」
「それだけ大切ってことだよ。私だって似たような感じだったんだから」
「うん、分かってる。だから……」
「もうごめんなさいは無しだよ。他に言うことは?」
「ママ大好き!」
「私もルビーのこと大好きだよ〜!ずーっと愛してるからね」
「私も!!」
五反田監督のとこに行けばアクアが待っているんだろう。瞳を潤ませながら、でも絶対泣かないように強がって。
そうして3人で帰ったら、いつも通り変わらない家が待っている。
……違う。いつも通り、じゃない。
「「「ただいま〜」」」
今目の前に広がる私の家は、いつもより少し、ほんの少しだけ。
【特別】な家だ。