ピンチと一言で言っても、人にとって様々だろう。
同じ事態が同じ人に起きたとしても、その状況によっても異なる。
例えば、遅刻ギリギリだというのに催してきた時。
例えば、試験当日に熱を出してしまった時。
例えば、浮気現場を彼女に見られた時。
例えば、今にも殺されそうな時。
俺はどうだっただろうか。
ピンチと思ったことは確かに山ほどあった。
後々笑い話になるものから、洒落にならないものまで。
俺の場合、ピンチと言えばやっぱり殺されたことだろうか。
即死じゃなかったから、結構痛かったっけ。
それともアイを殺されたことか。
いずれにせよ、取り返しのつかないことだったが、今となっては終わってしまったことだ。
差し当って、今の俺のピンチはというと、
「……」
「……」
目の前でスマホを構えた養母の指先が110番を押そうとしていることだろうか。
養母の目線が何度も行き来する。
俺ともう一人の存在、ツクヨミとの間を。
「これは、水着が小さいのが問題だと思うんだよ。或いは私が成長期ということであって、決してそれ以上の理由は無いはずだ。なぁ、君も本当はわかってるんだよな?わかっていて意地悪を言ってるんだろう。そうだよね、私は散々君を煽り倒してきた。だから、きっと今君はこう思ってるはずだ、『このガキをデブネタで弄り倒そう』と。本当は可愛らしい範疇で適度に肉付きが良くなっていると思ってるはずなのに、自分の感情を認めるのが癪だからわざとそう意地悪なことを思ってるだけなんだろう。なぁ、そうだろ?ねぇ、そうだよね?本当はデブってないよね?ね?今なら怒らないであげるから正直になった方が君の為だよ。ホント神様を相手に舐めた真似はしない方がいい。痛い目を見てからじゃ遅い。何、私は寛大だから今なら許してあげるからすぐにチャーシュー発言を取り消すんだ、全然太ってっませんって宣言するんだ。してよ。してくれよ。なぁ、私をいい加減怒らせない方がいい。これは君の為に言ってるし、私からの譲歩であるから、そこのところ理解した上でだね…」
俺が今思っていることは『うるさい、黙れ』でしかない。
ツクヨミ…いや、もうクソガキでいい。
このクソメスガキは、あろうことか、見たくもないのに学校指定のスクール水着を着て見せているのだ。
それもパツンパツンの。そりゃあそうだろう。一番育ち盛りの年なんだ、1、2年前のものが余裕で入るというわけでもない。
特に此奴は同年代よりも聊か成長が早い様子だ。
それは水着ではなくもはや可哀想な布だと言ったら、ムキになりだした。
面白くなって紐で縛ったチャーシューだと煽ったら、涙目でポージングをとりだした。
ムチムチなのは真っ当な成長であって、肥えたのではないと、よく見ろと、真っ赤な顔で泣きそうな目で睨み上げてくる姿は実に滑稽で、愉悦の極みだった。
流石は神様、ふくよかな女性がモテる時代の最先端だと褒めてやった。
可愛いぞ子ブタちゃんと囃し立てた。
絶対に女性に対して口にすることなど無い心無い言葉の数々も、こいつ相手なら一切の遠慮も躊躇も無く口にできる。
半泣きだろうが、ガン泣きだろうが、心が痛まない。それどころか、愉悦だし、ご飯が進むくらいだ。
それがいけなかった。
調子にのって、無様を晒すツクヨミを肴に、ロックアイスをがっつり入れたウイスキーで一杯やっていたのがよくなかった。
スモーキーな香りに酔いしれながら、惨めなロリ神を眺めていたのがよくなかった。
前触れも無く養母が来た。
ミヤコさんだ。
合鍵を渡していたのをすっかり忘れていた。
・羞恥に顔を染め(実際は怒りだと思われるが)ながら踊る(MP吸い取られそうな類)スク水姿の幼女
・それを肴に昼間から一杯やっている息子
久々の再会に綻んでいたミヤコさんの表情が、スゥッと感情が消えた。
わぁ、有馬がやらかした時にアイの秘密を暴露した時のルビーのような冷たい表情だ。
親子って血が繋がってなくても似るんだな。
思わず感心してしまった。
ミヤコさんは、スマホをとりだした。
俺の目は確かにとらえた、彼女の親指がキーパッドの「1」をトトンと二連打するのを。
残す数字は「0」しかないだろう。
そこからより可能性が高いとすれば110番か119番。
110番は俺を警察に突き出すため、119番は俺を半殺しにした後に病院に連行もとい搬送するためだ。
11で始まるの3桁の番号は他にも113、115、116、117、118、とあるが、ミヤコさんの美しい顔に氷のような覚悟が浮かんでいる辺り、それらの可能性は限りなく低い。
冷たい汗が背筋を伝う。
ねっとりとした汗だ。
嫌な汗だ。
ルビーにも同じような冷たい眼差しを向けられた。
というか、アイの秘密を暴露してからは、氷のような目を向けられるか、無視か舌打ちかのどれかだった。
一人暮らしを始めるまでの最後の1年間に至っては碌に顔も合わせてない。
嫌われる覚悟があったからアレは耐えられた。しかし、今は違う。
予想外の事態に、俺は冷や汗が止まらない。動悸もだ。
何と言えば正解なのか、言葉を探す。
砂の中から小石を探り当てるような作業だ。
しかし、間違える訳にはいかない。
「ミヤコさんも一杯やる?」
間違えた。
・
・
・
「ツクヨミちゃんと暮らしていることくらい知ってるわよ。まったく、本当は貴方から報告があってしかるべきだと思うのよ?」
3杯目のロックを空けると、ミヤコさんがじとりと睨む。
どういう訳か、ツクヨミの同居は親公認のようだ。
こいつに親?と疑問に思いながら横目に見ると、パツンパツンのスクール水着という名の紐から解放されたチャーシューは、オレンジジュースを飲みながら、パチンと得意げにウインクをかましてきた。どうやら、こいつの訳の分からん力らしい。
感謝すべきだろうが、激しくムカつく。イラつく。そのバッサバサのまつ毛をむしり取ってやろうか。
確かな苛立ちと殺意を、ウイスキーごと飲み干す。
切れた口の中が実に痛い。
しこたま殴られたせいだ。誰にって?そりゃあミヤコさんにだ。
「知ってるなら、殴るなよ…痛ぇ…」
「面倒を見てる子にスク水着せて踊らせる子にはお仕置きが必要だと思うのだけど?」
「いや、こいつが勝手にパツンパツンになって、踊りだしたんだよ」
「パツンパツンじゃない。成長期のせいだから」
「はいはい、成長期成長期」
「社長、こいつもっと殴ってやってよ」
チャーシュー、改め、ツクヨミがこめかみをひくひくさせながらミヤコさんに訴える。
おい、やめろ。
「それで、今日はどうしたんだよ」
「あら、一人暮らしの息子の様子を見に来るのはおかしいかしら?」
生ハムを巻いたリンゴを一つ口にすると、ミヤコさんがいたずらっぽく笑う。
この人も昔よりも屈託なく笑うようになった。
長年背負っていた物を随分と降ろせたせいだろうか、昔よりも若返っているような気がする。これじゃあMEMとどっちが年上かわからない。
いや、失言だった、悪いMEM。
「案外と部屋が散らかってるのね。ウチにいた頃の貴方の部屋はもっと片付いてた気がするのだけれど?」
「親の目があるのと無いのとじゃ違うだろう」
「ふふふ、そうね」
「何笑ってるんだよ。そんなにおかしいかよ」
「拗ねない拗ねない。貴方少し変わったかしら?見た目の話じゃないわよ」
「家を出てまだ1年ちょっとだろ?」
「もう1年以上経ったのよ。まったくもう」
ミヤコさんは何故か嬉しそうに笑う。
俺としてはだらしない一人暮らしをしていると思われるようで居心地が悪いやら、恥ずかしいやらなんだが。
「有馬さんの映画のパンフレットにMEMが表紙の雑誌…あら、こっちは黒川さんの舞台のも」
「漁るな漁るな」
「テーブルに積んであるのがいけないんでしょ。こっちの雑誌…ああ、ルビーのインタビューが載ってるから」
「もういいだろ」
「この雑誌のインタビュアーが結構セクハラじみた質問ばかりしてきてね、壱護がカンカンになって『今後一切取材受けない!!』って言ったらインタビュアーが代わって、もう大変だったのよ」
「なんだそれ。即刻クビにすべきだろそんな奴」
「相変わらず過保護ね」
ルビーを可愛いと思うのは当然だし、20歳になって大人の女らしい美しさに磨きが掛かってきたのだから綺麗という評価も当然のことだ。
しかし、いやらしい目で見ることはあってはならない。
ましてや、仕事にかこつけてセクハラをするなど言語道断、万死に値する。
そう憤るのは全世界の妹を持つ兄として当然の気持ちだろう。
ルビーはもう俺のことを兄とは思っていないのだとしても。
自分で言ってて泣けてきた。
「そんなに大切なら、家に帰って来る?」
「あの子がそれを望まないだろ。それに、今更兄貴面なんて出来ない」
「アイのこと?それなら、あの子だってもう事情は分かってるわよきっと」
「それでも俺がルビーを傷つけたことは事実だ。本当なら、一言アイツにだけは言っておくべきだった。どんな理由があるとしても。それをしなかった時点で、俺は兄失格だ」
その結果作った映画で、明らかになったのは俺のアイについての解像度の低さだったのだから笑えない。
アイは周りの雑音なんて気にしない、傷つき涙を流すことなど無い強い女性だと思っていた。
自分の思うがままに、自分の才能と輝きを存分に発揮する最強で無敵のアイドルだと心のどこかで思っていた。
『バカかお前。母親がガキの前で泣かないのは当然だろうが』
普通の少女らしく、悩み、傷つき、涙を流すルビーの演技に違和感を抱いていた俺に対して、カントクが心底呆れたように言った一言だった。
俺は人の心がわからないのだと突きつけられたような気がした。
アイは人の感情に疎いと思っていた、けれど本当に疎かったのは俺だったのだ。
自分を心配してくれる人、大切に想ってくれる人、好いてくれる人。
それらの感情をわかった気になって何一つ理解していなかった。
申し訳なさや情けなさ以上に恥ずかしさがこみ上げた。
顔向けできないというのはこのことだろう。
「きっと、俺は俺自身のことを全くわかってなかったんだろうな。そのことをつくづく思い知らされたよ」
「それで、あの子の傍から離れることにしたの?申し訳なくて?」
「それもないとは言わないさ」
ミヤコさんの空いたグラスにロックアイスを一つ入れると、ウイスキーを注ぐ。
俺は氷が溶けて水っぽくなったウイスキーを一気に飲み干す。
胸から喉にかけてボッと熱が灯る。
それでも酔った気がしないのは、あの家を出てから初めて自分の気持ちを言葉にしようとしているからなのかもしれない。
頭の奥がしんしんと冷えているような気さえする。
「ただ、皆から離れるべきだと思った。自分と向き合うには、あそこには色々なものがありすぎる」
良い思い出も、悪い思い出も。
それは一括りにあの時の俺にとっては“雑音”に思えた。
俺という人間と向き合ってみて、俺という人間でいようとするには、しがらみが多すぎた。
けれど、それをミヤコさんに言うのは憚られる気がした。
この人が母親として過ごしてくれた日々を否定したと思われたくないからだ。
「そう…貴方がそう思ったんだったら、私からは何も言わないわ」
両手でグラスを包むようにして傾けると、ミヤコさんは深く息を吐く。
「家を出る時にも言ったでしょ?貴方は自分を蔑ろにしすぎよ。もっと自分の為に自分の時間を使うべきだわ。誰かを支えるとか、誰かを守るとか、誰かの助けになるとか、そんな使命感を貴方くらいの年頃で抱く必要なんてないのよ。もっと、早くに気付くべきだったわ、私こそ」
くしゃりと頭を撫でられた。
久しぶりの柔らかく甘い香り。
懐かしいミヤコさんの香りに胸の奥が締め付けられるような気がした。いい年してホームシックかと自分をなじりたくなる。
ミヤコさんはどこまでも優しく微笑んでいる。
その笑みに鼻の奥がつんとした。
やばい、泣きそうだ。
「ゆっくり、貴方の人生を生きなさい。それで、いつかもし戻って来たくなったら、帰ってらっしゃい。貴方の部屋はちゃんとそのままにしてあるわよ」
「別に物置にでもしてくれればいいのに」
「怒るわよ?」
「悪い」
「あら、素直。やっぱり変わったわね貴方。昔より子供っぽくなったわ」
「ダメじゃねーか」
「褒めてるのよ。無理して、張りつめて、崩れそうだったあの頃よりずっといい顔してる。昔より女の子にモテるでしょ?」
「……そんな話はいいだろ別に」
楽し気にクスクスと笑うと、ミヤコさんは実に美味そうにオリーブを一つ口にして、ゆっくりをグラスを干した。
・
・
・
昨夜は少し飲み過ぎたかもしれない。
けれど、二日酔いは無い。
それどころか気分が良いくらい。
久しぶりに気持ちよくお酒が飲めたからかしら。
カーテンから差し込む日差しが、まだ朝が来たばかりであると告げている。
鰹節と味噌の香ばしい匂いに、眠気が抜けきらない頭が優しく覚醒していく。
匂いのする方へと足を運ぶと、キッチンに立つアクアの姿があった。
未だに見慣れない黒く染めた髪、いつの前にか私の目線よりもずっと高く伸びた背。
手際よくまな板の上を弾む包丁。アクアの隣、グリルの前には小さな女の子。
透き通るような色素の薄い、絹のような髪が風も無いのに微かに靡く。
ため息が出るような、アイやルビーとは異なる美しさを秘めたお人形のような少女。
昔、映画に出演した頃よりも背が伸びて、子供から女の子らしさが増している。
そういえば、壱護がアイをスカウトしてきたばかりの頃があれくらいの年頃だったわね。
壱護が見たらスカウトするんじゃないかしら。
「おい、魚焦がすなよ」
「誰に言ってるんだい?」
「先日メザシを細長い炭に変えた奴に」
「あれは安物を買ってきた君が悪い。私は悪くない」
「朝食がメザシだけなのは味気ないと言って、ハムを焼けと騒いでたからだろう。共食いか?」
「…今私のことハムって言ったもしかして?」
「チャーシューと言わない俺の優しさに感謝しろ」
「ああ、今なら指先一つどころかウインク一つで消せそうだよ」
「消すならまずその脂身を消すことだ」
「脂身って言った?今脂身っつったか?」
朝から元気に口喧嘩をする凸凹なシルエットに笑みがこぼれる。
言葉こそ、煽り合い罵り合いなのに、二人ともどこか楽しそうで、そして実に自然だと思った。
昨日も二人は仲良く喧嘩していた。
アクアがチャーシューとかバボちゃんとかキッコロとかポムポム〇リンと言って揶揄う度にツクヨミちゃんがムキになって言い返すのがおかしくておかしくて、ずっと笑ってたっけ。
誰がどう見ても、仲の良い兄妹の姿だ。
この部屋を見た時、嬉しくて思わず笑ってしまった。
あの頃の、仕事や勉強に必要な本、マンガや小説も出演するドラマや映画の原作だけで、最低限のものしかない閑散とした部屋と比べて、趣味の本やグッズで散らかった部屋は「一人暮らしを始めて少しだらしなくなった男の子の部屋」という感じがして、胸の奥が温かくなった。
ルビーやあの子がB小町に誘った子達、黒川さんの出ている雑誌や、映画のパンフレットだけではなく、ツクヨミちゃんから番組もチェックしていると教えてもらって、今でも見守り応援し続けているあの子の優しさが嬉しかった。
誰かの為に自分を磨り減らしてきたあの子が、ようやく自分を取り戻そうとしている。
その姿を目にしたら、私には言えなかった。
帰ってきて、と。
アパートを引き払えと言うつもりはない、ただ、少しでもあの子と過ごして欲しいと思った。
けれど、結局言えなかった。
「本当に、随分変わったわね」
ルビーを連れて来なくて正解だった。
あの頃の壊れかけていたアクアと、今の伸び伸びと過ごすアクアのギャップを目の当たりにしなくて済んだのだから。
・斉藤アクア(便宜上)
実年齢よりも遥かに若々しく色っぽい養母とウイスキーを飲んでいると、クラブで呑んでた前世を思い出して少しいけない気持ちになった。
生ハムをリンゴで巻いたのは、単にメロンが無かったからだが、割と好評。
ミヤコと見ていた有馬主演の映画で、思いっきりキスシーンが流れて気まずくなる。
誤魔化しがてら、テレビを付けたら、ドラマであかねのキスシーンが出てきて更に気まずくなる。
3人目の母親を持って、ようやく「親と一緒にドラマ見ていたらラブシーンになって気まずくなる」というイベントを経験する。
1人目、2人目と花火のようにパッと散ったからね、仕方ないね。
「なんだ、濡れ場は無いの?濡れ場は?君の元カノの濡れ場は」
と酔っ払ったオッサンのようなテンションで囃し立てるツクヨミにアイアンクローをかましながらMEMがMCを務めるバラエティー番組に落ち着く。
サンキューMEMちょ。
・斉藤ミヤコ
苺プロダクション社長
アルバイトの壱護君に事務所を任せて息子の様子を見に来た。
スク水を着た幼女を前に酒を傾けている姿を見た時は一瞬本当に卒倒しそうになった。
息子とお酒を一緒に飲むという、密かな夢が叶って超嬉しい。
本当は、母の手料理をと思ったのだが、息子がお隣さんからお裾分けされたミネストローネを一口食べて、自重することにした。
なお、お隣さんが自分を見て、この世の全てに絶望した表情からすべてを察した。
息子がいつか刺されないか少し心配。
最近より若さに磨きがかかったせいか、ルビーと姉妹に間違われる。
なお、壱護との夫婦の営みは無い。理由は推して知るべし。
・ツクヨミ
ポムポムプリン。チャーシュー。
水着を着ていたのは、海に行きたいとねだったところ、「お前着れるの?はちきれるんじゃねwwww」とアクアに挑発されたから。
セクシーポーズという名の不思議な踊り(アクア命名)を踊ったところ、本当にはちきれた。
ミヤコさんは「まぁ」と驚き、アクアは腹を抱えて爆笑した。
まぁ、7~8歳児の水着を12歳でも通用しそうなくらい育ってる子が着たら……ね?
なお、水着を買いに行った際に赤い水着を手に取ったところ、アクアに「明宝ハム?」と言われた。
全力でアクアの脛を蹴り飛ばしたのは言うまでもない。
・お隣さん
少し気になるお隣の年下の男の子に、年上の彼女がいたことに絶望。