吐瀉物の匂いと共に   作:山田木耳

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前編・後編にしようと思ってたんですが文章量が想定より多くなり、中編が生えてきてしまいました。後編①、後編②みたいなのが出ないように頑張ります。

それと今回、一話あたりの文章量が少し多めです。ご注意ください。




27.『夏の終わりは貴女と共に・中編』

 

 俺と廣井さんがそこに着いた時、タイミング良く雲が移動してくれたお陰で『それ』が月明かりに照らされる。

 

「じゃーん! あそこが私の部屋があるアパートだよ」

 

「あれが……」

 

 廣井さんの示す方向にあったのは……良くいえば年季のある、趣深い家屋。悪く言えば……築何十年も経っている、かなりボロいアパートであった。暗くてもハッキリ『ボロい』と分かるくらいには古くて所々ガタが来てそうなアパートだった。

 

 2階に登る為の階段は踏みしめる度にギシギシと音が鳴るし、窓ガラスをテープで補修した跡がある。蜘蛛が至る所に家を作り、陰鬱とした雰囲気がアパートを中心に蔓延っていた。

 

 そうして廣井さんの部屋だという扉の前まで行くと……その光景に思わずたじろぐ。扉には、長方形の紙が無数に貼り付けられていたのだ。よくよく見るとその紙には非常に達筆で読めないが漢字らしきものが書かれている。

 

 結論から言うと、その長方形の紙の正体は御札だった。創作物(フィクション)の世界でキョンシーとかが額に付けてるあの御札である。

 

 一枚、二枚では無い。両手の指はおろか足の指まで総動員してようやく数え切れそうな量の御札が貼られ、非常におどろおどろしい……別の意味で一般的平均男子高校生がドギマギしそうな部屋がそこにあった。今回の場合、女性の部屋に入らず、速攻自分の家に帰宅するようなタイプのドギマギだが。

 

「……これはまた、随分と独特なところに住んでますね廣井さん」

 

「えへへへへ。いや〜それほどでも?」

 

「別に褒めてないですよ」

 

 何故か照れ始めた廣井さんを適当にあしらいつつ、改めて扉を見てみるが……お手本のような幽霊物件だ。仮に『幽霊物件 扉』とかでネット検索したら1番上に出てくるような怪しげな扉だった。

 

 ──それに、うん……。そうだな……物々しい雰囲気に誤魔化されそうになるが御札に混ざって何かの督促状が貼られているのは気のせいだろうか。

 

 現実逃避しそうになるが残念ながら気のせいではない。

 

(来月からバイト増やそうかな……でも、伊地知に無理するなって言われてるしな……)

 

 俺はそう考えながらも、その扉の様相を見て廣井さんが何を考えているのか察する。

 

「あぁ、なるほど。夏の思い出ってそういう……」

 

 何か企んでいると思っていたが……廣井さんは俺に肝試しを体験させようとしてるのだろう。

 

 確かに夏の思い出として肝試しの類いは定番(ベター)といえる。だがまさか廣井さん(友人)の住む幽霊物件で肝を試すことになるとは思わなんだ。

 

 お陰で先程まで抱いてた緊張が急速に霧散していくのを感じる。行きは緊張してたのに目的が肝試しだと気づいた途端に緊張しなくなるのはおかしいかもしれないが。

 

 ついでに、明らかな幽霊対策の御札よりも督促状の方が肝が冷えるとも思わなかった。本当に。

 

 今思うと常にギリギリで生きてる廣井さんが普通の家に暮らしてるわけが無い。幽霊物件だろうと出来るだけ安いところに暮らしてるのは納得だった。

 

「ん〜〜? 肝試し以外に何だと思ってたの?」

 

「……別になんでもないです。何も考えてないですよ。それよりも合点がいきました。肝試しといえば夜ですもんね」

 

 不思議そうにする廣井さんから目を逸らし、これ以上踏み込まれない為に話題を逸らす。わざわざ夜来たのは熱中症を防ぐという理由以外にも肝試しの雰囲気作りの為でもあったのだろう。

 

「いや〜〜? 夜でも昼でも関係なく出るから幽霊に会いたいなら別にいつ行っても大丈夫なんだよねぇ」

 

「そうなんですか……?」

 

 それは果たして本当に大丈夫と言えるのだろうか。ひょっとして幽霊の恐怖を紛らわせる為に余計に酒飲んでたりしてるんじゃないだろうか……と心配になる。

 

 ──それならいっそのこと、さらに俺の家で過ごすようにすれば……と思ったが、すぐにその思考を断ち切る。このアイデアは廣井さんの為にやっているというよりは俺の願望な気がしたからだ。

 

 あたかも彼女の為と言いながら、自らの行いを正当化させ、実際は自分の願望を満たすだけに動くような人間にはなりたくない。

 

「ところで健治くんは幽霊信じる? 苦手?」

 

「……今、聞くんですか?」

 

 普通連れてくる前に聞くべきじゃないだろうか? そういうの。

 

 この場に来て、逃げ出してない時点で大体は察してはいるのだろうが、だからといってこの場になんの説明も無しに連れてくるのも酷い話だろう。

 

「別に信じてませんが、仮に居たとしても苦手には思わないですね」

 

 自他ともに認める臆病者の俺だが、別に幽霊は苦手では無い。なぜなら、幽霊が俺に何か危害を加えてきたことは無いからだ。一番最初に『まだ』が付いてないだけかもしれないが。

 

 それでも幽霊に比べたら現実にいる人間の方がよっぽど恐ろしいと思う。バレンタインデーに毛髪入りのチョコを渡してきたあの子、お手洗いで俺が手を拭いたハンカチの匂いを目の前で嗅ぎ始めたあの子、集団で俺の事を囲んでどこかに連れていこうとしたあの人達、そして……俺を置き去りにして全てから逃げていった両親。

 

 あげればキリがないし、これよりも面倒なことを散々やられてきた。今更幽霊なんて恐れることは無い。現実の人間の悪意の方が俺は恐ろしい。

 

 俺がそう思っていると廣井さんが口を開く。

 

「じゃあ肝試しにはならないかなぁ。健治くんがビックリしてくれたら面白かったんだけど」

 

「性格悪いですよ」

 

 だが、廣井さんが俺に夏休み最後の思い出を作らせる為に色々考えてくれてる事に嬉しくなるのは事実だ。例え肝試しが俺に効果が無くても、俺の為を思ってやってくれたことには意味があるだろう。

 

 俺がそう思っていると廣井さんが扉を開く。

 

「はいど〜〜ぞ、入って入って〜」

 

「失礼しま……す?」

 

 そう言って扉をくぐった瞬間……奥から何かの音が鳴ったような気がする。

 

「ん……?」

 

 気になった俺は音のした方を見てみるが……暗くて良く見えない。目を凝らしながらさらに一歩進んでみると……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──寒気が、した。

 

「……ッ!?」

 

 先程進めた一歩が、いつの間にか戻ってきていた。息を飲む音がよく聞こえると思ったら、俺の喉から鳴っていた。今日は確かに夏で、先程まで暑さにうんざりしながら汗を流していたというのに、今は背筋に鳥肌と冷や汗が流れていく。

 

 所謂、虫の知らせというやつだろうか。暗闇によって全貌の見えないその部屋に『ナニカ』が居る……気がする。いや、ひょっとしたら相手は周りが明るくても全貌が見えない輩かもしれないが。

 

 最初は気のせいだと思っていた音は徐々にその存在感を大きくしていく。

 

 それは壁が軋む音だったり、風がないのに窓が揺れる音であったり、隣に部屋など無いのに壁を叩く音が聞こえたり……明らかに普通とは違う異常現象だった。俺の頬に一筋、冷や汗が垂れるのを感じる。

 

 幻聴だろうか? 奥から地ならしのような音まで聞こえる気がする。

 

 この一連の怪奇現象の数々は軒並み今までの人生で味わったことの無いものばかりだが……この幻聴にだけは覚えがある。喜多さんと話す時に高頻度で彼女の後ろから()()()()()()()()『キターン』だ。極限まで研ぎ澄まされた『雰囲気』は人の耳に幻聴すら届かせるのだろうか。

 

 ──幽霊ならともかく、ただの女子高生である喜多さんがやってるのはおかしいと思うが。

 

 とにかく、こういった異常現象の数々は全て部屋の奥から聞こえている。まるで『この先へ進むな』と何者かが警告でも出してるかのように。十数年程度しか生きてない若輩者の我が身が警鐘を鳴らしていた。

 

「おっと……いかにもって感じですね……実際にこういう現象に出会すのは初めてですが」

 

 俺がそう言って廣井さんを見ると……彼女は怪訝そうな表情をしていた。

 

「……ん〜〜?」

 

「……? あれ、どうかしました?」

 

 何かおかしなことでもあるのか……と聞こうとしたがこの現象自体が『おかしなこと』に当てはまるのでそう聞くのも変な気がする。俺がそう思っていると廣井さんが口を開く。

 

「健治く〜ん、ちょ〜〜と奥に進んでみてくれる〜〜?」

 

 先程の光景を見た後だと少し躊躇うが……それでも彼女に言われるがままに歩を進めると……さらに音は激しくなる。

 

 軋むだけだった壁はもはや割れるような音へと変わり、無風なのにまるで台風でも来たかのように窓が揺れ、壁を叩く音は激しさを増し、加えてどこからか女性の呻き声のようなものまで聞こえてくる。

 

『マジヤベェ!! マジヤベェ!!』

 

『ヤベーノツイテル!! アツヤベェ!!!』

 

『ダメダア!! テイコウデキネェ!! クップクスリュゥゥ!!』

 

 よく聞き取れなかったが、それは何やら苦しんでるようにも聞こえた。まるで強大な『ナニカ』に睨まれて怯える小動物のような雰囲気を廊下の先から伝わり、先程まで感じていた重圧は嘘のように霧散していく。

 

「……これ、大丈夫なんですか?」

 

 思わず俺は言葉が漏れる。幽霊を信じていないとは言ったがここまで来ると信じそうになる。だからといって別に恐怖は無い。寧ろ、幽霊に対する心配が勝つような……? 

 

 自分が抱いた奇妙な感覚に不思議に思っていると、徐々に音は小さくなっていき……やがて何も無かったかのようにピタリと静寂が訪れた。その様子を後ろから見てた廣井さんがパック酒を飲み(キメ)ながら話しかけてくる。

 

「すっごいね〜〜〜ここまで反応したの初めてだよ」

 

「そう、なんですか……?」

 

 普段がどれほどの怪奇現象なのかは分からないが……確かに今のは『尋常ならざる』って感じだった。あんなのが日常茶飯事だったら流石に心配になるのでそうじゃないのなら良かった。

 

 ──だが、普段はこれほどじゃないとすると……今の激しい異常現象の原因が俺にあるということになるのでは無いか? 

 

 特に最後の方の呻き声が『タスケテェ……ユルシエテェ……』みたいに聞こえたのは気のせいだろうか。廣井さんのルームシェア相手(霊体)を強制退去させてしまったかもしれない。廣井さんの部屋どころか現世から。

 

 だとすると最初に扉をくぐった時に感じた圧は自分達を強く見せて俺に退散してもらう為に実行した、幽霊達なりの『威嚇』だったのではないだろうか? 

 

 そう思っていると『シヌカトオモッタ……イヤ、モウシンデルケド』みたいな苦しそうな女性の呻き声が聞こえた気がした。どうやら現世からの強制退去はしていないらしい。それに冗談を言えるくらいには余裕もありそうだ。

 

 廣井さんも同じような結論に至ってるらしく、あけっらかんとしながら話しかけてくる。

 

「健治くんって何かやばいの憑いてるんじゃない? 後輩にそういうの詳しい子いるから紹介しようか〜〜?」

 

「……遠慮しときます」

 

 自分に何が憑いてるとかは考えたくない。現実の人間関係だけで俺の気力は限界だ。今更、幽霊という新要素(アプデ)に触れて余計に悩みたくない。

 

「そう? まぁ、肝試しは空振りだったけど夏休みの刺客はまだ残ってるからさ! 覚悟しててね〜〜」

 

 廣井さんは俺に夏休み最後の思い出を作らせる為に色々考えてくれているのだろう。そして、その一つは俺が持ってるレジ袋の中にある。

 

 奥に行くと部屋の全貌が明らかになる。

 そこに広がっていたのは畳が敷かれた広間だった。決して広くは無いが一人暮らしには十分なスペースがある。酒の匂いがするし、ゴミ類が乱雑に放置されている様子を見てこの部屋の主が普段通どのような生活をしているかありありと想像出来る。

 

 案の定、平均的男子高校生はガッカリしそうな部屋だったが……別に俺は嫌いではなかった。酒の匂いも乱雑に置かれたゴミ類も我が家の廣井さんの寝室で見慣れた光景だったからだ。

 

 それに、この濡れた犬のような匂いも落ち着く。最近どこかで嗅いだことがあるような気がするのだが何処だっただろうか? 

 

 唯一の懸念は、この前我が家を掃除した時のように服が片付けられておらず、部屋の端の方に積まさっている点だ。上着だけならまだ良いが……前のように上着以外の物が混ざっていると変な空気になりかねない。

 

 パッと見た感じだと、上着しか見えないので大丈夫な筈だが……それはあくまで上着の山の表面しか見えないからだ。そのせいで『もしかしたら見えないだけでこの山の中にあるかもしれない』という思考が頭の片隅をいつまでも占領してしまう。

 

 こういう時、酒があれば手っ取り早く気にしなくなるのかもしれないが、残念ながら俺は未成年。頭の中で念仏でも素数でも何でも数えて必死に考えないようにするしかない。

 

 俺がそう思っていると廣井さんが言葉を紡ぐ。

 

「さ! 座って座って〜〜広げて広げて〜〜」

 

 彼女は羽織っていたスカジャンを脱ぐと、適当にするりと床に落とす。あらわになった肩と薄着すぎる服装を俺の前に晒す。考えないようにした傍から考えさせるようなことをしてくるとは中々鬼畜だ。無自覚なんだろうけど。

 

 俺は廣井さんの身体から目を逸らしながら、言われるがまま、持ってきた物をテーブルに広げる。

 

 俺がピザを並べてる間に、廣井さんはもう待ちきれないと言わんばかりに『プシュッ!』と気持ちの良い音を鳴らしてビールを開ける。そして視線で俺も飲み物を持つように急かしてくる。

 

 俺が買ってきた適当な飲み物を持つと満足そうに頷いてから彼女は口を開く。

 

「それじゃあ、カンパーイ!」

 

「かんぱーい、です」

 

 お互いに手にした缶に口を付け、喉の乾きを癒す。目の前を見ると廣井さんが『ぷはぁ〜〜〜!』と言いながら凄く幸せそうにお酒を飲んでいる。そんなに美味しいんだろうか。

 

 ──こうして飲み会の席に座ると、廣井さんの向かいに座ってお酒を共に飲めないのが少し寂しく感じる。廣井さんは覚えているだろうか、俺と共に酒を飲む約束を。

 

 クリスマスライブよりも更に前に約束したことなので既に忘れているかもしれない。その話をした後に廣井さんは電源が切れたように眠ってしまったし。

 

 どっちにしろ、俺が飲めるようになったら十中八九『健治くん初飲酒記念』とか言い出して酒を飲む理由にしそうなので約束を覚えていようがいまいが関係ない気もするが。

 

 あと数年の辛抱ではあるし、急かしたところで時間は早くも遅くもならないのは分かっているがそれでも早くその時が来て欲しいと願わずにはいられない。

 

「あ〜〜! 美味しい〜〜こうすれば機材をぶっ壊したことが頭から抜けてくんだよね〜〜!」

 

 もっとも、お酒を飲んでも周りの迷惑にならない酔い方にするのは当然だが。廣井さんと一緒にお酒を飲みたいが、飲み方だけは絶対に参考にしてはならないと強く感じる。

 

 というか、機材を壊してしまったのだって元はと言えば酒に酔っていたからだろうに。直接そう聞いたわけでは無いが『どうせそうだろう』という確信がある。こんな確信欲しくなかったが。

 

 機材の値段と玄関扉に貼られてた督促状の値段を頭で計算しながら俺は言葉を紡ぐ。

 

「何度も言ってますけど、少しは落ち着いた飲み方をしてくださいよ。折角食べたり飲んだりしてるんですから」

 

 暗に折角食べた物を吐き出さないでくれ、と伝えると廣井さんから抗議が飛んでくる。

 

「言ってくけど前まではこんなに高頻度で吐いてなかったんだからね?」

 

「そうなんですか? なら何故、今みたいな飲み方に」

 

 ひょっとしたらそこに、今みたいな飲み方をやめさせれるヒントがあるのではないだろうか。俺は少しの期待を持ちながら廣井さんに問いかける。

 

「いやー健治くんなら私が吐いたあとに後始末してくれると思ってさぁ〜〜ついついブレーキ踏まずに飲むようになっちゃって……」

 

「めちゃくちゃ他力本願じゃないですか。というかそれって今みたいな飲み方するのは俺のせいってことになりませんか??」

 

「その通りだよ! 責任取ってよね! 私、もうこの飲み方しか出来なくなっちゃった……」

 

「語弊のある言い方しないでくださいよ。絶対俺のせいじゃないですし」

 

 なんて酷い言いがかりだ。そう思いながら呆れていると……自然と俺の顔に笑みが浮かんでるのに気づく。どうやら、俺は俺が思っているよりも、この状況を楽しんでいるらしい。

 

 そうやってしばらく廣井さんと他愛の無い話をしながらピザを味わっていると……唐突に廣井さんが『あっ』と何かを思い出したかのような声を上げる。

 

「そーだ。健治くんに渡すものがあったんだった」

 

「俺に渡すもの……?」

 

 なんだろう。全く身に覚えが無い。

 廣井さんが俺に渡してきそうなものと言えば……と頭を回転させていると……一つだけ心当たりがあった。

 

「ちょっと待ってください。借金の代理人は流石に……印鑑もないですし……」

 

「私の事なんだと思ってるの?? そうじゃなくて、これだよこれ」

 

 どうやら借金の代理人では無いらしい。一番可能性があると思ったのだが。廣井さんは文句を言いながら俺に何かを手渡してくる。見てみると俺の手のひらには小さな鍵が入っていた。

 

「これは……?」

 

「私の部屋の合鍵!」

 

「……それはまた、随分と唐突ですね」

 

「渡そう渡そうって思ってたんだけど持ってくの忘れててね〜〜ちょうど良かった〜〜」

 

 そもそも廣井さんの家に合鍵があるのが驚きだ。仮に合鍵が十個あっても一度酔えば一時間以内に全て無くしそうな人なのに。俺は手元にある鍵を眺めながら言葉を紡ぐ。

 

「……一応聞くんですけど……良いんですか? 俺にこんなの渡しちゃって」

 

「今更……?」

 

 廣井さんが不思議そうな顔をする。どんなに今更なことでも聞かなければならないだろう。合鍵を渡すということは相手に自分のプライベートな空間に侵入することを許すということなのだから。

 

 俺がそう考えていると廣井さんは指で缶を回しながら話を続ける。

 

「寧ろ健治くんが私に合鍵渡してくれたのが意味わかんないよね〜」

 

「そう、ですかね……?」

 

 まぁ、確かに今思うと合鍵渡すのが早かったかもしれないが……より廣井さんと過ごす時間が増えたので俺はさっさと渡して良かったと思う。だが当の廣井さんは言いたいことがあるようで、そのまま言葉を続ける。

 

「そうだよ〜〜! 道端で酔いつぶれて嘔吐してる大人に家の合鍵渡すなんてどうかしてると思うよねぇアハハッ!」

 

「自分で言うんですかそれ」

 

 実際に言葉にされると本当にロクでもない大人である。だが嫌いになれないのだ。時々頼りになったり……かっこよくなったりするからだろうか。廣井さんの場合は見直すような事が起きても、直後の言動で台無しにするのだが。

 

「私に合鍵渡す理由なんて無かったのに……はっ!」

 

 廣井さんが突如、天啓を授かったかのような顔をする。ロクでもないことを思いついてるような気がするが一応『どうかしたんですか?』と続きを促す。廣井さんは推理を披露する名探偵のように顎に手を当てながら神妙そうな顔で言葉を続ける。

 

「……ひょっとして健治くんって……嘔吐フェチ? そういうことなら出してあげた方が良い? 健治くんも男の子だもんね?」

 

「違いますよ。世の男の子をなんだと思ってるんですか」

 

 廣井さんは『冗談、冗談』とケラケラ笑っているが冗談を言ってるようには聞こえなかった。俺がここで『実はそうなんですよ』と肯定していたら本当に出しかねない勢いだった。

 

 彼女は俺が喜んで吐瀉物の処理をしているとでも思っているのだろうか。

 

 別に絶対嫌、見たくもない……とは言わない。だからといって好きなわけが無い。極力吐いて欲しくは無いが吐いたもんは仕方ないので処理してるだけだ。

 

 もし俺が廣井さんの吐瀉物を喜んで処理するような変態になったら即刻関係を切って欲しいものである。

 

「まぁ、とにかく……合鍵ありがとうございます、廣井さん。たまに家に押しかけますよ」

 

 俺の場合は廣井さんと違って、このアパート近辺に特別立ち寄る用事が普段からある訳では無い。だから、合鍵を使ってこの部屋に泊まるなんてことは滅多に無いだろう。

 

 だが、しかし……我が家の鍵しか付いていなかった鍵束に新しい鍵が付くというのは、なんというか、言葉に表せない充足感があった。

 

 いわばこれは自分が廣井さんと親しくなっていることを目に見える形で認識出来る『証拠』のようなものだからかもしれない。

 

 ……そう考えると段々と自分の顔が熱くなっていくのを感じる。合鍵を貰ったこと事態は嬉しいが、それで顔を紅くしてるのを廣井さんに知られたくは無かった。

 

「……ちょっと夜風に当たってきます」

 

「あれ? 暑かった〜? 窓もう少し開けようか?」

 

 廣井さんが不思議そうな顔をしながら聞いてくる。下手に引き止められて今の顔を確認されたくは無い。俺は彼女の方に顔を向けないまま口を開く。

 

「いや、そういう訳では……ただ、外の空気を吸いたくて。この部屋、濡れた犬の匂いがして臭いので」

 

「酷っ!? そんなに独特な匂いする?」

 

 廣井さんが少し不安気な雰囲気を醸し出してる。誤魔化す為に適当に発した言葉だったが、どうやらこの言い方はあまり適切ではなかったようだ。俺は訂正するために再度、口を開く。

 

「冗談ですよ。濡れた犬の匂い、俺は嫌いじゃないです」

 

「臭いの部分が冗談なの!? それ言外にこの部屋から濡れた犬の匂いはするって言ってないかなぁ!? ねぇ!?」

 

 そうして、廣井さんの叫びを背後に受けながら俺は扉の外へと向かうのだった。

 





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