太陽が照らす雪に覆われた山々、その一つの山頂にて行われたデュエルが終わり、僕は精魂尽きたように立つことすらままならず雪の中に背中から倒れこんでしまった。
「………負けた」
雪を背にしながら、僕はつぶやいた。僕はこれまでのデュエルを振り返りながら、敗北の味をかみしめた。真っ青で明るく、どこまでも透き通った空とは違い、今の僕は苦い思いでいっぱいだった。
そして、今しがた行われたデュエルを振り返った。
藤次郎さんとのデュエル、ほとんど完敗と言っていい内容だったと思う。信じられないくらいの強さだった。負けたのなんていつぶりだろう。丸藤さんとのデュエル以来だろうか。
僕の人生において、勝利と敗北を比べたら、勝利の絶対数の方が遥かに多い。正確に数えたことはないが、敗北の数は10に満たないだろう。初心者の頃ならいざ知れず、相応に強くなっている自信があった自分がこのような結果になったことに僕自身、驚くほどに沈んでいた。
「悔しいなあ……」
ポツリと僕は呟いて雪の冷たさに身を委ねた。冷えていく体が敗者となった僕には心地よかったのだ。
そして倒れたまま、顔だけを傾けて僕は藤次郎さんの方向を向いた。
「………」
藤次郎さんは祠の前で静かに手を合わせて祈りを捧げていた。
その姿に先ほどまでの気迫とも言えるオーラはない。
首元に下げているクリスタルも鳴りを潜めていた。
僕はそんな後ろ姿を見ながら藤次郎さんに何故デュエルをしたのかとか、神とはなんだったのかとか色々と聞きたかったが一先ずは藤次郎さんのお祈りが終わるまで空を見上げて待つことにした。
立つこともままならない故に、聞く気力が湧かなかったと言っても間違いではないだろう。
「待たせたねコナミ君。もういいよ」
「…………藤次郎さん」
青空の下、意識が遠のいていたのだろう、藤次郎さんに声をかけられることで目が覚めた。
時計を見るとそこまで時間は経ってはいなかった。
せいぜいが10分ほどか、疲れていたからだろう、10分が1秒ほどの一瞬に感じるほどの刹那の眠りだった。
「藤次郎さん、色々と聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ああ、もちろんだ。何から聞きたい?」
僕は寝ころんでいた態勢をやめて藤次郎さんが用意してくれたのだろう、雪の上に用意してくれたレジャー用の折りたたみ椅子に座って聞くことにした。
山頂に持ってくることを考慮したからだろう。椅子は小さく、腰をかがめて足を延ばすことでようやく楽になれる程度のサイズであった。
簡素な作り故か、僕が座った時にギシリと音を立ててその耐久性のなさを伝えた。
「何から聞いたものか、いっぱいあるんですけど…………そうですね。藤次郎さん、僕に勝って嬉しかったですか?」
僕が初めに聞いたのはデュエルの理由や祠についてなどではなくて僕に勝って嬉しいかどうかだった。
それというのも、藤次郎さんにはデュエルに勝利して嬉しいと言う感情が見受けられなかったからだ。それは一人のデュエリストとしてのプライドに関わる、ショッキングなことだったのだ。
通常どんなデュエリストもデュエル後の勝者はその身に満足感や勝利の喜びを纏っているものだが、彼にはまるでそう言った感情がなかった。それが、僕には大層堪えた事実だった。
ともすればただ敗北するよりも重い。一人のデュエリストとして、最優先で確認しておきたい事柄であった。
「いや、君にはすまないが、あれは勝って当然のデュエルだった。今の君は私にとって脅威足りえなかったからね」
「…………そうですか」
何でもないように、藤次郎さんは答えた。しかしそれは僕には鉛のように重たい言葉であった。藤次郎さんにとって僕は雑魚と呼んで差し支えない相手だったと言うことなのだから。これまで積み上げてきた誇りやらプライドやらが粉々に砕かれたような気分になった。
勝って当然のデュエル。脅威と呼べる相手じゃなかったから、勝つのはわかっていたから、だから嬉しいとも感じない…………か。
改めて、内心でその言葉の内容を反芻し、僕はショックで俯かざるを得なかった。そして、その痛みに挫けないための言葉を吐き出した。
「きッついなあ………! 結構、強くなったと思って自信があったんですけどね」
「お世辞に聞こえるかもしれないが、強くなっていたよ。君のデュエルを見たのはまだ小学生の頃だったか。あのころと比べれば雲泥の差だ。だが、まだ私の相手ではなかった。それだけだよ」
藤次郎さんは昔を思い出しているのか空を見上げて目を瞑り、静かに言った。そして強くなっていたと言われても、今の僕にはそれがお世辞にしか聞こえなかった。
そして僕もまた、小学生の頃の自分を思い起こし、今の自分と比べた。
小学生の頃か、たしかにあの頃と比べれば随分と強くなった自信はあった。
アカデミアでも丸藤さんなどの一部の人を除けば負けないと自信を持って言えるレベルにはなったと思っていた。
「正直言うと、プロの世界でもやっていける。そんな風に思っていた自分がいたんですよ」
テレビやDVDでプロのデュエルというものは何度も見たことがある。
それを見て、感じていた。
今の僕でもやっていけそうだと………。最上位の人たちは別としても、そこらのプロの人とは十分勝負できる実力はあると思っていた。
でも、今回僕はプロでもない藤次郎さんにいいようにされて敗けた。
まだまだ未熟。そう思い知らされた気分だ。井の中の蛙大海を知らずというやつだ。そんなつもりはなかったが、増長していたのだろう、情けない限りだった。
「コナミ君はプロを目指していたんだったね。一つ、勘違いをしないでほしいが、単純な力という意味では君はプロの世界でも十分通用するよ。私が保証しようーーただ、まだ相手に読みを悟らせないと言った技術や、相手の策を察する技量は未熟としか言いようがない。誰しも得手不得手はあるが、上を目指すならそう言った部分も磨かねばならない。天性の才能に頼り切っていては上に上がるのは難しいぞ」
藤次郎さんはどうやらプロの世界に造詣が深いらしい。どういった経験をしてきたのか大変気になるが、それよりも次の話題に行きたかった。
まだまだ未熟だと言う事実のショックが過ぎて、その内容から遠ざかりたくなったからだ。
「……あれは、あの祠はなんだったんです? 神とか言ってましたけど」
わざとらしい話題の変更に藤次郎さんは何も言わなかった。僕がこれ以上は聞きたくないと思っているのを悟ったのかもしれない。
ただ、僕を一目見てそれからまた前方へと顔を向けた。その先には僕が聞いた祠があった。
「祠か、そうだね。それについても話さないとね。だが、その前にお湯が沸いた。コーヒーを淹れようか」
「あっ、ありがとうございます。………ズズッ……砂糖ありますか?」
キャンプ用の小さなコンロ。それを使ってお湯を沸かせていた藤次郎さんからお手製のコーヒーをもらいその苦さに顔を顰めながら僕は砂糖をもらった。
「………うん、まあまあだな。祠についてだが、あれはね、お墓なんだ」
「お墓…………ですか」
僕は藤次郎さんから受け取った砂糖が入った袋、スティックシュガーを3袋ほどコップに投入してスプーンでかき混ぜながら聞いた。
「沢山いれるねコナミ君。それ甘すぎないかい?」
「まだブラックは苦すぎてちょっと、これぐらい入れないと飲みづらくて………それで、誰のお墓なんですか」
僕が3袋も入れたことに目を丸くしながら「そうか、まだコナミ君にコーヒーは早かったか」と藤次郎さんは呟いてから藤次郎さん曰くまあまあの出来のコーヒーを一口飲んでから口を開いた。
「あの祠にはね、私の両親の遺灰が入っているのさ」
「…………遺灰」
カードじゃなかったかあと少しだけ肩を落としながら僕は砂糖のおかげで飲みやすくなったコーヒーを一口流し込んだ。
寒空の下で飲む温かいコーヒーががっくりときた心を洗い流してくれるようだった。そして、ご両親が亡くなっていると話した藤次郎さんの前であからさまに肩を落とすのはよくなかったと、僕は悔いた。
「ふふ、そう残念そうにしないでくれ。すまなかったとは思っているんだ、あんな危険な目に合わせてしまったことをね。それにカードが入ってると言うのも嘘ではないんだ」
カードではなかったことを残念そうにした僕に気を悪くした様子もなく、むしろ微笑みさえ浮かべて藤次郎さんは僕に教えてくれた。それは僕が驚くに足る内容だった。
なんでも僕が体験した登山途中の猛吹雪による自然の脅威。
あれは一枚のカードが引き起こしていたことらしかったからだ。
「私の親は信心深く、中々教育熱心な人たちでね。幼い頃から色々と教え込まれたよ。その中で、私が10歳になる頃だったな。一度だけ、そう一度だけ家族みんなで遠出してこの山に来たことがあったんだ」
頭を掻きながら「今と同じで寒くていい天気の冬だったなあ」とこぼしながら藤次郎さんは寂しそうにポツリポツリと過去を思い出しながら語っていった。
「嬉しかったよ。この山に来たことがじゃあないよ。親が初めて私のために私が楽しいと思えることをしてくれたと思ったからね。まあ、実際は違ったんだが」
「何が違ったんですか。話を聞く限り、家族でキャンプに来たいい思い出だと思うんですけど」
僕は内心、そうはならなかったんだろうと確信を持って聞いた。
話をする藤次郎さんの様子に明るい感じはしなかったからだ。
「その日は今日と同じようにいい天気だった。前日は普段粗食であった親が絶対にしない豪勢な食事を用意してくれてね。ちょうど昨日君に出したようにね」
「…………」
僕は藤次郎さんが苦笑しながら語る内容に一瞬、反応できなかった。ここまでの話からなんとなくその後の展開は想像がついたからだ。
恐らく、登ったのだろう。
まだ幼い藤次郎さんを連れて、親子3人で……。
「それで、山頂を目指して吹雪にあったんですね。それが原因でご両親は亡くなられた」
「そう。親はあの山に神がいらっしゃると、迎えに行くのだと言ってね。吹雪にあった時は神からの試練だと言っていたよ。そして結果的に、私だけが山頂に辿り着き、生き残った」
僕も体験したあの吹雪、その中で藤次郎さんだけが生き残ったか……。
藤次郎さんのご両親が山に連れてきたのは神と呼ぶナニカ……或いはカードを手にするため。
もしかしたら前日に振舞われた食事は最後の晩餐的な意味も込められていたのかもしれない。
もし、そのご両親が吹雪に遭うことを知っていたらだが……。
その想像は恣意的に見過ぎかもしれない。だけど、いずれにせよ藤次郎さんの家庭は僕の思い描くような幸せなものではなかったのだろうとは思う。
そこに親から子へと向ける愛情があったなら、きっと、危険とわかっている山に幼い子供を連れて行こうなどしないと僕の認識ではそう告げていたからだ。
無論、親子の在り方など、何の責任も終えぬ僕では理解の及ばぬものなのだろうと知ってはいるのだが。そう思わずにはいられなかった。
「よく、あの吹雪の中藤次郎さんは無事でしたね。とても10歳の子供に耐えれるものではなかったと思うんですが」
「必死だったんだよ。生きるために、何より親に褒めてもらいたくて……だから生きて試練を乗り越えれた」
そう語る藤次郎さんの顔に喜びは感じられない。
当然か、親に褒めてほしくて試練を超えたのに、超えた時には親は死んでいたんだから。
「きっと、私には資格があったのだろう。神が自分を手にすると認める資格が……それが才能なのか、それ以外かは知らないがね。そうでなければ必死だったからと言って子供だった私が生き残れるはずがない」
「才能ですか……それは、なんの才能ですか?」
僕がそう聞くとフッと自嘲するように微かに笑って藤次郎さんは祠に向かいカチャカチャと扉をいじった後、中を開けた。
そして、その中に収められていた物を、カードを僕に渡してきた。
「これは……THE tyrant NEPTUNE。確か意味は………海王星……ですか」
「プラネットシリーズ。その内の1枚だよ。それを神と称して私の親は欲したのさ。ただのカードを神と呼んだ理由は知らないけどね」
藤次郎さんは自分の親を馬鹿な親だと嘲笑うかのように笑った。僕はそれに対して親のことをそんな風に笑うべきではないと良識ぶったことを言おうとしたが、その言葉が口から出ることはなかった。
藤次郎さんのご両親のことを僕は何も知らない。そんな僕が何を言ったところで、響くことはないとわかったからだ。
僕は言葉を呑み込むようにコーヒーを飲んだ。砂糖を入れてなお、コーヒーは苦かった。それから、僕は手元のカードを見た。
NEPTUNE、まさかプラネットシリーズの1体を藤次郎さんが持っていたなんて、それに藤次郎さんはまだ30代だと聞いている。
だから10歳の頃に見つけたってことは少なくとも20年以上前から存在したってことか。
「藤次郎さんにはデュエルの才能があったってことなんですね」
「恐らくだが、カードが私なら使ってもよいと判断したのだろう。だが、私はそのカードを手に入れこそしたが、これまで終ぞとして使うことはなかった。憎しみさえ抱いていたこともあったからね。まあ、今では自業自得と割り切ってはいるがね」
それはそうだろうと僕は口にこそ出さなかったが内心で同意した。むしろよくこれまで大切に保管していたものだと関心すら覚えたほどだ。
自分の親が死ぬ原因を作ったカード、逆の立場だったらどうしていただろうかわからない。そう共感していた僕は続いて言った藤次郎さんの言葉にその感情が間違いであったことを知った。
「その時は不思議な気分だったよ。親が死んで、間違いなく悲しくてその原因を作ったカードが憎かったのにどこか私は解放されたような気持ちよさもあったんだ」
「解放……ですか。でもどうして……」
「自由を手にしたからさ。面倒ごとは増えたが、それでも私は自由を手に入れた。まあ、そのせいで若い時は色々と荒れたけどね。だから、そのカードには感謝もしている。自由をくれてありがとう……とね」
絶句……藤次郎さんの言葉聞いた僕の反応を表すとしたら間違いなくこの言葉が相応しいだろう。
それは親を殺してくれてありがとうと言っているのも同然の感謝だったからだ。
そして藤次郎さんの清々しい、さっぱりしたという風な心境に共感が持てなかったからだ。
「とは言え、そのカードには思うところがありすぎた。先ほども言ったがどうにもそのカードを使う気にはならなくてね。だから、次に託すことにしたんだ」
「もしかしてそれは…………」
次というのは恐らく、というよりもう十中八九僕のことだろう。
話の流れとこれまでの経緯で聞かなくてもわかる。
そして、その予想は当たった。
「そう、君のことだ。愛理から君がプラネットシリーズを探していることを聞いてね。その1枚がNEPTUNEのことだとすぐにわかったよ。そしてこれは運命だとも思った。私が幼い時、NEPTUNEを手にしたのは世界を救う勇者たる君に託すためだったのだろう…………とね。そして期待通り、君は試練を乗り越えた」
藤次郎さんが受けた試練と同じものを僕は受けた。
荒れ狂う猛吹雪の中、死に物狂いで登頂する。
あれは、危険を冒してでも自分を求めるか、そして自分を扱うに足る存在かをカードが見極める。
そういうものだったのだろう。
「カードを用意したのが藤次郎さんで、その必要があったのもわかりましたけど、それじゃあ、あのデュエルは何だったんですか。僕がカードを手にするだけなら必要なかったと思うんですけど」
試練を超えることがカードに認められる条件だったなら、その後のデュエルは必要なかったはず。
正直、デュエルの内容はともかくとしてあんな疲れた状態でしたくはなかった。
決して、敗けたから不満に思っている訳ではない。
「必要だったんだよ。あれは言わば継承の犠だ。私から君へ、引き継ぐためのね」
「継承、でも僕敗けちゃったんですけど、いいんですかね」
「大丈夫さ。大切なのは形式だよ。君の力と可能性をカードに見せること。それができれば文句もでないさ」
僕は冷えたコーヒーを飲み干して、再びカードに目を落とす。
確かに、こうして僕が持っていても嫌な感じや拒まれていると言った空気は感じない。
長年所有者だった藤次郎さんの言う通り、デュエルをしたことで僕のものになったのだろう。
天候を操るほどのカードだ。
気に入らなければこうして手にすることなんてできるはずがない。
「まあ、こんなところだな。私が君を呼んだのは。どうだい、軽蔑したかい?」
「よく……わかりません。試練のことや親御さんのこと、それを聞いて驚きましたし、理解できない部分もあって………すみませんがそういう気持ちがないとは言えそうにないです」
試練のことはいい、それが必要だからと黙っていたことも、死ぬかもしれないことをしたのも構わない。
でも、親が死んでよかったと、解放されたと語る藤次郎さんを僕は理解できそうになかった。
「ハハハ! 正直だな君は。好きな子の父親相手なんだ。こういう時は、言葉を濁してもいいんだよ」
「すみません。あまり器用じゃなくて、正直であることが僕の美点なんです」
笑いながらも苦笑して僕を見る藤次郎さんに僕も微笑んで冗談交じりに返した。
気を使って軽蔑などしないと言った方が印象はよくなるのかもしれないが、なんとなく正直に言った方がいいような気がしたのだ。
それを藤次郎さんも望んでいると僕は感じた。
「さて、堅苦しい話はここまでにしよう。この祠ももう役目を終えた。もう、終わらせなくてはな」
「…………壊すんですか?」
「ああ、きちんとした墓はあるからね。もう十分さ、私の過去の役目は君に引き継がれた。もう、これは必要ない」
そう言うと藤次郎さんは祠の中に大切に保管していたのだろう遺灰を山頂から風に乗せて振りまいた。
「それ、いいんですか?」
「いいわけがない。ただ、この山は私の私有地だからね。なあに、バレなければいいのさ」
山に遺灰をばら撒く、言い方は悪いが捨てることは禁止されていると思うのだが、まあ藤次郎さんの言う通りバレなければ問題にはならない。
そして当然、僕も言うつもりはない。
「藤次郎さん、コーヒーを一杯淹れてくれませんか」
「ん? ああ構わないよ。砂糖は………3つかい?」
「いえ、ブラックでいきたいです」
「ほうブラックで、ああ……いいとも。うんと濃いのを淹れてあげよう」
僕は藤次郎さんに淹れてもらったとても苦いコーヒーを一緒に飲みながらその味に舌鼓を打った。
僕は幸福な家庭に生まれ、親が死んで嬉しいという感情をとてもではないが理解できない。それでも、理解できないことも共感できないこともあるだろうけれど、好きなこと、好きなものを共に楽しむことはできる。
このコーヒーだって、今の僕には美味しさはわからないが、大人になれば美味しさに共感できるようになるだろう。
「かーっ! きっつー!」
「ははは! 無理なら無理で、飲まなくてもいんだぞ?」
「いえ、頑張ります…………」
僕は一口飲むたびに叫びたくなるコーヒーをちびちびと飲みながら愛理ちゃんのことを思った。
愛理ちゃんは今何をしているだろうか。
僕は君のお父さんのおかげで大変な目にあって、大変苦いものを飲んでいるよ。
「藤次郎さん、これ飲み終わったら帰りましょうか。愛理ちゃんや奥さんが家で藤次郎さんの帰りを待ってるでしょうし」
「そうだね。帰ろうか、私の家族が待つ場所へ」
この山の出来事が藤次郎さんにとってどれほど重要なことだったかを僕に推し量ることはできない。
家族というものに恵まれなかったであろう藤次郎さんにとって、愛理ちゃんや奥さんがどれほどの存在なのかも…………。
でも、今この人が浮かべている優しい笑顔はきっと幸せなもので、素晴らしいものであると僕は思いたい。
──次、またこの山にくるときは誘ってくれませんか。また、あの雄大な景色を見ながらコーヒーが飲みたいです。
──ああ、構わないよ。そうだね、来年か、再来年か。一緒に飲もうか。何なら君のお父さんも誘って3人でコーヒーを飲むのもいいかもしれないね。
冬休み、帰りしなにそんなことを話しながら僕と藤次郎さんは家路についた。
来年、あるいは再来年、僕はこの山に再び登るだろう。
そこで苦いコーヒーを飲むために…………。
何度でも登るだろう。
その時は愛理ちゃんや藤次郎さんの奥さん、僕の家族も一緒だったらいいなと夢想しながら、僕の苦い冬休みは過ぎ去っていくのだった。
次お休み