花に嵐   作:上枝あかり

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高瀬舟 15

「“火生三昧”は物質界の全てを焼き尽くす。お前のこの魔神の炎であれば、この山膚ごと不浄王を焼き清めることが出来るんぢゃよ」

「ちょっと待て……山膚ごとゴッソリって……ここには人がたくさんいるんだぞ!」

「だったら何ぢゃ、些末なことぢゃ。不浄王の“城”に立ち入ったもの、“手下”に触れたもの、全て汚染されとるんぢゃよ。漏れなく浄化せねばならん! 小さな苗床からも不浄王はまた復活する。だからおい、そこのお前達! 結界を解け! でなければ十分に炎が行き渡らん!」

「くっ……。信じるぞ、奥村! 鶯花、お前も!」

 金剛杭を握っていた手を、坊の手が包み、地から離そうとします。逆らえる力もなくて結界が解けて、手から金剛杭が抜け落ちました。維持するものがなくなって少し意識がはっきりして、顔をあげます。坊は私の手を握ったままこちらを向いて言いました。

「お前は目を閉じてたほうがええかもしれん」

 とりあえず、手を握り返します。大きくて、厚いてのひら。状況はよく飲み込めてませんが、私きっといつだって、これだけで十分なのです。坊の後ろ、(ほど)けて散っていく赤い炎をバックに、青い火球が膨らんでいきます。

「オン・クロダノウ・ウン・ジャク!! 火生三昧!!」

 奥村くんの操る青い特大の火球が、不浄王にぶつかって、そして弾けました。近すぎてこちらに向かってくると思う間もありませんでした。視界一面が青くなって目を瞑ります。

 暖かい風のようでした。ぎゅうっと握った掌の間を暖かい炎がくすぐって、すぐに駆け抜けていきます。肌にへばりついていた菌糸がなくなっていくのを感じます。眩しくて目を開けられなくて、それでも瞼を透かしても見える青。握った手に力を入れると、その手の震えごと包むように坊の手は強く握り返してくれました。息を止めていられなくなって少しだけ吸えば、意外にも苦しいということはなく、炎は気管を洗います。青い炎は水が湧くように溢れ続け、まるで私たちは水底にいるようでした。

 そのうち、青い光がゆるくなっていきました。やがてそれも感じなくなると、今度は他の白い光。目を開けると、太陽がお山の向こうから顔を出していました。夜明けです。見渡せば辺り一面なんにもなくなっていて、青い炎を纏った奥村くんが一人跪いています。不浄王が奥村くんによって倒されたのが、流石にぼんやりしたままの私にもわかりました。

「冬隣、勝呂、立てるか……?」

「はい、俺は……」

「あてはちょお無理かもしれません」

 霧隠先生に返事します。立てても歩ける気がしません。

「まあ、喋れてるならひとまず大丈夫か」

 そこで霧隠先生は奥村くんの方を見ました。立ち上がった奥村くんが剣を鞘に収めると、その背から青い炎が消えます。坊が私の手を握ったまま立ち上がって、そして手を引いて立たせてくれました。そのまま肩を支えられて、ちょっとよりかかりながら奥村くんのいる方に歩いていきます。

「奥村……!」

「勝呂……、鶯花、シュラ……俺……」

 振り向いた奥村くんは、唇をかみしめて、それでも嬉しさを隠せない顔でした。

「や、やった……! 炎操れた……! 細かいとこはまだまだだけど……()()()()()()事には自信ついた!」

 あ、あれだけの化物を倒しておいて第一声これ。……でも、奥村くんの心配はそれです。そのために、子猫さんから避けられたり処刑されかけたりしていたのですから。若干納得していると、少し呆れたような霧隠先生の声。

「まぁ、お前、もともと燃やし分けは出来てたよ? 服を燃やしてパンツだけ残すとか」

 それ、どんな状態ですねん。

「ウッセー! でも今回は()()()にだ! 今までの無意識と違う!」

「奥村くん……坊! 鶯花さん!」

 後ろから子猫さんの声がしました。振り向けば子猫さんと志摩さんを先頭に、本隊のみなさんがやってきます。走っているということは、それなりに元気ということでしょうか。

「子猫! 志摩! 無事やったか!」

 坊が子猫さんらを心配して、奥村くんもにこやかに言います。

「子猫丸! 俺、やっと炎操れるようになったぞ! 不浄王以外は燃やさねーようにコントロール出来たんだ!」

「……成程なぁ。いや、ほんま不思議な体験やったわ。炎の中におっても痛くもカユくもない、逆に菌どもは燃え尽きてくんやからなぁ」

「瘴気に中てられた連中は私も含めて皆浄化された。青い炎の中で……! もの凄い炎や……感謝してもしきれへん」

「い……いやあ、そんなにホメられるとテレちゃうってゆうか」

 奥村くんの言葉に子猫さんが返事をする前に、廉造さんと八百造さまが奥村くんを褒めました。その横で子猫さんの顔がみるみるくしゃっと歪んでいきます。

「奥村くん……ありがとう……。ほんま……僕を……ゆるして……!」

「え!? な、な、なんで泣く!? なんかあったっけ!?」

 そしてついに泣き出してしまいました。坊の支えから外れて、子猫さんにポケットから出したハンカチを差し出します。子猫さんはハンカチを受け取って、涙を拭います。奥村くんはそんな子猫さんの頭をシャリシャリ撫でだしました。微笑ましいけど子猫さんそういうの気にしとるからやめたって奥村くん。体力がないのと微笑ましいのでぼーっと眺めていると、奥村くんがこっちを向きました。その隙に子猫さんは奥村くんの手を頭から外します。奥村くんがこっちをジーっと見るので見返して首を傾げると、奥村くんはニカッと笑いました。

「やっと普通に目があったな、鶯花」

「! そうやね、確かに! あんな大きくて熱くもない炎浴びたから、慣れたんやろか」

 最近目を合わせられないか、それか睨むばっかりでした。嬉しくて笑い返すと、大きな声。

「兄さん!!」

 奥村くんは振り向きます。そっちには、奥村先生。ストレスにどっぷり浸かりすぎたような顔をしています。

「おっ、雪男じゃん! お前も無事だったか!」

 驚いたような表情が抜け落ちたような顔の、正直に言えば爆発でもしそうで丁寧に扱いたい雰囲気満載の奥村先生に、奥村くんは双子の気安さ故でしょうか、普通に話しかけます。

「……シュラさん、どうしてここに兄がいるんだ。誰が独居房から出した……?」

「だからそれはほら、謝ったぢゃん」

 霧隠先生は視線をそらしながら唇をとがらせて言います。奥村先生は確か別働隊だとかで一緒に京都には来なかったはずです。いつ合流したか知りませんが、少なくとも独居房に入る羽目になったことは知っていたよう。実兄が処刑されるとなれば冷静な奥村先生でも凄まじいストレスがあったでしょう。それで、あの、奥村くんを独居房から出す話、本当に霧隠先生の独断だったんですか。奥村くんもやけどあてらも大丈夫やろうか。所長の八百造さまは気にしとらんし、結果オーライでなんとかしてくれへんかなぁ。

「どーだ雪男! 俺、ここにいる人達助けたんだ! アゴはずすくらいビックリしたろ! テメーを追い抜く日もそう遠くないな!」

 奥村くんがクククと笑いながら言った言葉に、奥村先生は、つかつかと奥村くんに近づき、そして、その右頬を殴りました。

「ふざけるな! 自分の状況が判ってるのか!?」

 あまりに見事な殴りぬき様に、固まる場。奥村くんは、殴られたままの姿勢で言いました。

「……判ってるよ。やっと判った」

 そして血を吐き出すと、奥村先生の方を見て言います。

「俺は、やっぱり魔神(サタン)の仔で、この(ちから)から逃げる事はできない。ずっと向き合うのが……認めんのが怖かった。でも、それじゃダメだっ、た……んだよな……」

「兄さん!?」

 奥村くんの身体は崩れ落ちていきます。慌てて奥村先生がその身体を抱えました。

「奥村……」

 奥村先生は医工騎士(ドクター)ですので、そのまま診察します。が、すぐに「寝てる……」と呟くと、奥村くんの身体を背負いました。そして私達の方に向き直ると、塾の先生風に言います。

「君達が何故ここにいるのか、何をしていたのかなどについては後で、霧隠先生も交えて聞きます。今はひとまず下山して旅館の方へ。動くのに困る怪我をしている人はいますか?」

 怪我。懐剣で切ったのが二箇所ありますが、治療を要するほどではありません。この場の塾生全員首を横に振ります。

「わかりました。志摩所長、ひとまず塾生たちは僕が引率します。下山の順序はどうなっていますか」

「ああ、今連絡がとれた。行きと同じでバスが来るから、塾生はそちらに。怪我人は怪我の具合に合わせてバスか騎士團の医療車かヘリへ。動けるものはこのまま残って討ち漏らしの確認をする。体力のない者は無理せず旅館へ戻って、そっちで支度を整えるよう。ええな」

 八百造さまが言いました。総員それに返事して、別隊の人に無線で連絡し始めます。奥村先生はこっちをむいて言いました。

「となると、僕は残ったほうがいいでしょうか。皆さん自分で帰れるでしょう。誰か兄を連れて……」

「いや、雪男、お前も戻れ。隊長命令」

 無線でよそに連絡していた霧隠先生が言いました。正直、そっちのほうがいいと思います。

和尚(おとん)と杜山さんらは……」

「ああ、そっちはちゃんと騎士團ヘリの方でピックアップしてもらったみたいだ。全員ひとまず命に別状ないらしい。だからお前らは撤収。雪男先生連れてとっととバス乗って帰れ! ほら下山下山」

 霧隠先生に手で追っ払われて、皆で歩き出します。子猫さんが私に訊きます。

「ところで鶯花さん何でおるん?」

「んー、着いてきたんよぉ」

「えーと、どないして着いてこよう思ったん?」

軍荼利(クンダリ)さんおるから」

「あー、成程なぁ」

 頑張って歩いているつもりなのですが、スタスタ歩く奥村先生の背中がどんどん遠くなります。

「鶯花さん起きとる?」

「んー、起きとるよぉ」

「あかんわこれ半分寝とる……。もうちょい頑張って歩こうな」

 子猫さんが私の手を取って引っ張っていきます。しばらく、焼けてきれいさっぱりなにもないところを歩きます。全然怖くなかったあの炎が、不浄王や木は燃やし尽くしたというのは、不思議です。焦げ気味の森に入って登山道を通り下山して、そしてバスに積まれます。座席に座った後から記憶がなくて、次に目を開けたら子猫さんに揺すられていて、バスは既に虎屋の前でした。起きて虎屋に入ったらまずは塾生全員風呂に放り込まれました。まだ誰もいない浴場で手早く身体と頭を洗います。湯船に浸かるとその間に誰か来そうですし溺れそうなので、浸からずにあがります。髪の毛を乾かすのも肌の保湿も適当にすませて虎屋の浴衣を着たあたりで、脱衣所にしえみちゃんと神木さんが入ってきました。なんでも和尚(おっさま)と一緒に帰ってきたそうです。お互い無事を喜びながらも、何があったのか神木さんなんて制服がぼろぼろになってしまっていたので、二人ともひとまず服を脱ぎます。すぐに一緒のバスで帰ってきた祓魔師(エクソシスト)さん達もわらわら入ってきました。それを横目に、脱衣所の区切られて鏡のある方で懐剣で切った手の甲と頬に絆創膏を貼って、軽くお化粧をして出ます。 ぼーっとしながらとりあえず厨房を覗くと、お盆を押し付けられました。盛られているのはたくさんの虎屋特製おにぎり。中身は壬生菜漬けという説明にかくんと頷いて説明通り大広間に向かうと、お風呂上がりの坊らと奥村先生がそこにいました。奥村くんはまだ寝ていましたが浴衣に着替えていて、奥村先生は坊の頬、奥村くんに殴られた痕にガーゼを貼っていました。私がお盆を持ってきたのに気づくと、みんな朝ごはんを運びに厨房に向かいました。奥村先生は残って私の傷がちゃんと処置されているか見ると、クロにも包帯を巻いていました。大量のおにぎりやら大鍋のお味噌汁を運び終えた頃には、第一陣の祓魔師(エクソシスト)さんやしえみちゃん達もお風呂から帰ってきていて、とりあえずご飯を食べました。ご飯を食べながら、塾の皆で、自分たちが何をしたかについて話しました。一番皆が訊きたがった中心部の話は、しかし語り部になりえる奥村くんは騒がしい広間の隅でもこんこんと眠っていましたし、私は船を漕いで握ったおにぎりを取り落としそうな有様だったので、三人の中では一番マシだった坊がだいたい喋ってくれました。頑張ってお話に相槌やら補足を入れていると、玄関のほうが騒がしくなって、どうやら後始末に残っていた本隊の人たちが帰ってきたようでした。食べ終えた物を片付けつつ、その帰りに第二陣のおにぎりを運ばされていると、帰還した霧隠先生が塾生を広間の端に呼びます。

「まあ改めて、任務成功だ。ちょっと無茶振りしちったかなとも思ってたが、アタシの予想よりずっと大きなはたらきをしてくれた。お前ら、よくやった。ということでゴホウビに、明日は全員一日休みだ! 遊んでこい! そんで明後日東京に帰る。以上! 何か質問あるか? なければアタシは風呂に入る」

「先生!」

 坊としえみちゃんがほぼ同時にいいました。二人が顔を見合わせて、坊が口を開きます。

「奥村の処刑は……」

 坊の質問に、しえみちゃんも頷きました。

「あ~、それな、まだ何の音沙汰もなしだ。まあ寝てるしってことでとりあえずどさくさに紛れてお前らの部屋に入れといてやってくれ。何にも言われなかったら明日も遊びに連れ出してくれたりしていいから。って、ああ、部屋! 塾生寝る場所もうないそうだから、お前ら番頭部屋で寝てくれ。荷物はもう運んであるって」

「番頭部屋ですか!? あそこ八畳間ですよ!?」

「だから京都に実家のある奴らは実家帰ってくれ。もういいか? ないな? んじゃ解散。お前らもう寝ていいぞ。アタシは風呂にはいる」

 霧隠先生は「やぁっと風呂だー!」と言いながら廊下を歩いていきます。私達と一緒にお話を聞いていた奥村先生が、ひたすら起きない奥村くんを背負いました。坊が先導して番頭部屋に向かいます。しえみちゃんが話しかけてきました。

「燐、一応は安心なのかな?」

「うん……不浄王倒しはったの、奥村くんやし、これで処刑なんもったいないて、上も思うんやないかなあ」

「そっか……。あれ、ちょっと安心したら、お腹空いてきちゃった……。もうお腹一杯なのにな……」

「……あても、そうかもしれん。眠うてわからんけど……」

 確かに胃の中には物が詰まっているのに、まだお腹が空くような感覚。すると、前を歩く奥村先生が振り返りました。

「悪魔をたくさん使ったという話なので、カロリーを消費しすぎたんでしょう。頭を使う詠唱騎士(アリア)手騎士(テイマー)は戦闘後にそういう症状をよく訴えます。肉体の疲労と違って認識しづらいんですね。点滴を打ちましょう。勝呂くんも。この部屋で待っていて下さい」

 そう言って、奥村先生は番頭部屋に奥村くんを下ろすと点滴の用意を取りに行きました。私たちは隅においてあった布団を敷き始めます。志摩さんが言いました。

「女の子と雑魚寝や~!」

「実家あるやろお前!」

「えー、帰りとうないし~、坊と子猫さんと鶯花さんが部屋帰らはったら十分スペースあるやないですか~。ホラ立って半畳寝て一畳て言うし」

「……あたし、衝立か何か無いか聞いてくる」

「あ、僕も手伝うわ。確かあっちの倉庫にあるよ」

 神木さんが言ったのに、子猫さんがついて番頭部屋を出ていきます。入れ違いくらいで奥村先生が荷物を沢山持って入ってきます。こっちも手伝うべきだったでしょうか。

 虎屋の点滴スタンドはみな布団で受けること前提の高さのないものばかりなので、受けるなら布団で寝るしかありませんでした。なので少し狭いけれど横並びに寝て受けます。坊と私としえみちゃんと、それから奥村くん。衝立があったようでガタガタ運び込んでいるのを横に聞きながら目を閉じます。すると、すぐにすうっと意識が飛びました。

「燐、頑張ったんだねえ」

 しえみちゃんの、優しい声が、隣から、そのさらに隣に向けて聞こえました。

 

 

 点滴を外される感覚で目が覚めました。奥村先生が針の跡に絆創膏を貼って、しばらく抑えておくように言います。隣のしえみちゃんはまだぐっすり眠っていて、起こさないようそっと起き上がります。坊は私の横で同じように肘の内側あたりを押さえていました。奥村先生はしえみちゃんと、さらにその隣の奥村くんの点滴も外します。まだ眠りそうなしえみちゃんをちゃんと布団の間から真ん中に動かしてあげてから、私と坊は今度こそお手伝いしようと用済みの点滴台を荷物と一緒に持って立ち上がりました。

 倉庫代わりの部屋に点滴台を戻したら、坊らとはそこで別れて、忘れていた大事な仕事を。懐剣を手入れしなければいけません。鞘に戻す前に血は拭いましたが、色々やらないと。そういえば、降魔剣は今そのあたりどうなのでしょう。抜いたら炎が出ていましたから、炎のおかげでお手入れいらずなんでしょうか。教わったとおりに手入れした後は、蟒さまを探します。旅館の人に聞いた部屋を覗けば、ちょうど書類を前に休憩しているタイミングでしたので、軍荼利(クンダリ)さんを喚んだことをちゃんとご報告します。蟒さまは、ようやったと褒めてくれました。私の力ではなく、軍荼利(クンダリ)さんのお力ですと言うと、蠎さまは、だからこそ、よくやってくれたんやと言いました。つまり、私はあの場で軍荼利(クンダリ)さんを喚んでいたことで、私個人や、冬隣の家のものとしてだけでなく、宝生の名代としても坊をお守りしていたということです。そして、その宝生の名代はきっと、“結果的に不浄王を復活させた宝生”の名代という意味も、あったことでしょう。和尚(おっさま)はともかく、そういうことを気にする人もいます。蠎さまの疲れ方に、作戦行動以上のものを見て、私はいたわり方もわからず、お茶のおかわりを淹れてから、ただ頭を下げて戻りました。

 その後旅館から“借りた”ものを返してから、和尚(おっさま)の顔が見たくて少し探しましたが、見つかりませんでした。臥せておられないということは、少しはお元気なのでしょうか。次に気に掛かる人は流石に部屋を一つもらって休んでいるようでした。私は廊下に荷物をおいて、障子を開けました。

 蝮ねえさまは、部屋の中の布団に横たわって眠っていて、右目の血の滲んだ包帯が痛々しく、顔色も決してよくはありません。横に控えていた医工騎士(ドクター)さんに許可をもらってから、開けた障子の隙間から部屋へ滑り込んで、枕元に座ります。脇には何か食器が置いてありましたが、完食したようで空っぽでした。その解かれた髪の隙間から、おとがいのあたりに触れて、体温と脈を感じます。どちらかといえば低めのあねさまの体温は、いつもよりは高い気がしますが、鼓動は規則正しく、あねさまの好きな雨だれのようにとくりとくりと打っています。いつの間にか止めていた息を吐いて、病院臭い部屋の空気を吸って、あねさまを起こさないように立ち上がります。部屋から出る前にもう一度だけ振り返って医工騎士(ドクター)さんに頭を下げて、そして障子を閉めました。

 廊下に置いておいた鞄の隣に座ります。あねさまはきっとこれでも軽傷なのでしょう。和尚(おっさま)を探しにうろついた時に見た錦ねえさまも青ねえさまも、泣き疲れていました。私もどっと疲れが来たようです。少し寝たはずですが、まだ足りません。でも、家に帰らなくちゃ。もう流石に、番頭部屋はいっぱいです。志摩さん追い出すのも、なんだか悪いですし。でも、まだ歩ける気がしなくて、少し休んでから行きたいような。頭が重くて鞄に寄りかかります。そのまま、うつらうつら、夏の午後のだるさに、意識がとけて。あかんあかん、帰らな。こんなところで寝てられへん。や、でも、立ちとうないなあ……。

「鶯花?」

「ぼん」

 声が降ってきて、そっちを見れば、歩いてくる坊。

「そんなところで何しとるん」

「蝮ねえさまの見舞いの帰りでちょお休憩……」

「そうか、休むなら中で休めばええのに」

 言って、坊は蝮ねえさまの部屋に入ります。中で休むと言っても、病人の部屋に、あまりお邪魔するのも悪いです。きっと休まるものも休まりません。単調な蝉の声に瞼がとろとろ解けたところで、障子が開いて坊が出てきました。

「寝るなら番頭部屋で寝え」

「や、寝る場所ないから、家帰らんとあかんのです」

「お前それで帰るて無理やろ……。半分以上寝とるやん」

「せやけど、もう場所あらへん……」

「ええわ、俺の部屋来い。っと、寝る前に化粧落とすんやったっけか。荷物運んどいたるで行ってきい」

「はい……」

 もたれていた荷物が奪われて、ついでに手を引いて立たされます。鞄から洗面道具一式だけ出させてもらって、勝呂家向きの洗面所を借り化粧を落として坊の部屋に行きます。障子を開けたら手招きされたので、荷物のお礼を言ってから「お邪魔します」と坊のベッドに横になりました。坊は私のお腹にタオルケットを掛けて、ベッドサイドに座ります。

「坊と一緒に寝るん、ひさしぶりやあ」

「いや、寝んぞお前とは」

「えー、ややぁ」

 よくよく考えたら、一緒に寝るのって恥ずかしい気もするのですが、眠たくて色々抜け落ちて、単に寝るときも隣におったらうれしいな、としか思えません。横になったら眠りの淵に一気にずり落ちたようです。

「お前ほんま甘えたやな。もう高校生やろ」

「甘やかしたんはだれですかぁ」

「そりゃ俺らやけども」

「そぉです。坊も子猫さんも廉造さんも、おにいちゃんからおっさまから門徒のひとだってみんなみぃんな、あてがカワイソォな子ぉやからって甘やかして。あて、えろう甘えたになってもうた。きっともうひとりで生きていかれへん」

「お前ひとり養うくらいの甲斐性はあるわ。安心せえ」

「なら安心やぁ」

 どうも瞼が重すぎて、開けていたいのに落ちていきます。坊の声変わりの終わったのは、まだ最近のような気がしますが、ずいぶん低くなった声は、すっかり馴染んで砂糖を溶かすように頭のなかに落ちます。

「……でもなぁ、鶯花、お前……。……いや、今日はええわ。もうおやすみ」

「ぼんはどこで寝はるの」

「子猫んとこ行くわ。予備の布団くらいあるやろ」

「じゃああても」

「あかんて」

「何でです、ぼんとこねこさんばっかずるい」

「男女のケジメや」

「ケジメ……」

「そうや」

「かぞくやって、ぼんが言うたのに……」

「お前今日えろうめんどくさいな!?」

 ぼんは、茶化すように言いました。古い扇風機の回る音。

「さみしいんです、甘えたやから」

「元々家帰って寝る予定やったんやろ」

「ぼんのかお見たら、余計に。今日は、ぼんが死にはるかおもたし」

「……しゃあないなァ」

 ためいき。

「寝付くまでおったるわ」

 手に、ぼんの手が重ねられました。私の手を、すっぽり覆ってしまう大きさの手。昔は、ここまで差はなかったように思うのですが。

「夜中におきたらこねこさんの部屋いってええ?」

「起きんわお前疲れとるんやから」

「……ぼん、ごめんなさい」

「何がや」

「命、あずけてまって。おもかったでしょう」

「……早よ寝え」

「ぼん」

「……」

「でもあては、ぼんのです」

「……」

「ぼん、ありがとうございます」

「早よ寝えて」

「いきとってくれて」

「ええから」

「ぼん」

 手に重ねられていた手が、ぺしゃりとまぶたの上に乗りました。まだ傾かない陽光が障子から入ったのが、更に瞼を通り越した薄明るいのを、全部覆って夜にして寝かす手。

「お寺、もえてまった……」

 まだ何か言おうと思っても、もう、唇が動きませんでした。ふわふわ意識が体から浮いて、指も動かせなくなって、感覚だけになっても、坊の手は、私の瞼の上にありました。結局全部眠りに落ちるまでその手は私の瞼にあって、坊は、その時、何を思っていたのでしょうか。




 虎屋帰還あたりのタイムスケジュールというか誰が何してるかはかなり考えてたのですが主人公がうとうとしてるので大体無駄になりました。無念。裏でおっさまが帰ってきたのを風呂に行きかけだった勝呂くんが出迎えに出たり、一緒に帰ってきた女子がちょっとそっちを手伝ったりしてます。
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