目を覚まして、自分がどこにいるのか一瞬わかりませんでした。体を起こしてやっと、自分が昨夜坊の部屋のお世話になったことを思い出しました。携帯で時間を確認すれば早い方とは言え朝。昨夜、というより昨日眠ったのはまだ夕方にならない頃だったはずですから、ずいぶん眠っていたことになります。寝る前何があったか、おおよそ思い出せるのですが、この歳で眠気に負けて坊に甘えたなんて恥ずかしいようなでも得をしたような気がするので深く考えないことにしました。
洗面所で顔を洗って、お化粧をして、歩いていてもまだ誰もいません。廊下に臨時シフトの表が貼ってあって、昨日の昼作られた第4版であると右上に書いてあります。
「蝮ねえさま、鶯花です。起きてはりますか?」
中からは、細い声の返事がありました。入りますえ、ともう一度声をかけて障子を開けます。布団の上に体を起こした蝮ねえさまは、ゼリー菓子の日差しを浴びて、昨日よりは顔色が良く見えました。部屋に入って障子を閉めて、枕元にあった座布団の隣に座ります。
「朝の検診、見学させてもらお思て。ええですか?」
「鶯花は
部屋の中は、朝の忙しさを遠ざかった静けさで満ちていました。どこかで配膳をする音や、早起きの蝉の声や、夏休みの子供の声。その空気にたっぷり浸ってから、慎重に、料理にお塩でも足すかのように口を開きます。
「蝮ねえさまは、頭がええからあかんのです」
「
「せやろか。とにかく、上等な頭と心じゃなくちゃ、あんなこと、できませんて」
「……鶯花」
「はいな」
「あんたは、人を助けられるし人を頼れる子や。昨日も、竜士さまをちゃんと助けたて聞いた。でも、これからは、自分でちったあ考えなあかんよ。それだけが、
あねさまの言い様に、まるで遺言のようだと思ってしまいました。なので、滅多なこと言わんで、と言いかけて、しかしあねさまは決して滅多なことは口にはしていません。湧いた言葉を追いやって、笑って言います。
「あてに出来るやろか。あねさま、ちゃんと見張っといて」
「もうええ年やろ」
そこで、部屋の外から声がかけられました。あねさまを診ていた
「経過良好ですね。あの目玉を体に入れたにしては、上々とも言えます。誰かと一緒でほんの少しなら、歩いてもいいですよ」
そして持ち込んだ薬箱に器具を片付けながら、聖水の入った洗瓶と膿盆とガーゼの眼帯を出して、私にあねさまの目を聖水で洗ってから眼帯をつけるよう指示して出ていかはりました。やり方自体は既に習っていましたので、特に不手際もなく洗います。24年使われて、きっともう明かない目を、いたわりをこめて丁寧に。
すべての仕事が終わって、聖水を受けた膿盆と聖水の洗瓶を返しに行こうと障子を開けました。すると。
「わっ」
柔造兄さんがすぐそこに立っていました。よくみれば、後ろには夜勤明けらしい兄も眠たげな瞳で立っていて、私に片手をあげています。
「柔造兄さんにお兄。おはようございます」
「おはよう。ちょお蝮に用があってな。蝮、体はどないや」
そう言って柔造兄さんは部屋の中を覗き込みました。兄はそのまま眠たそうな顔で突っ立っています。蝮ねえさまは、布団に横になりかけた姿勢で答えました。
「経過良好や言われたわ」
「ちったあ歩けるんか」
「誰かと一緒ならええって」
「ほんならええな。蝮、ちいと顔貸しぃ。着替えは出してもろてきたで」
柔造兄さんは、風呂敷包みを差し出しました。ちらりと風呂敷の隙間から覗くそれは浴衣のようです。蝮ねえさまは片目を眇めて訝しみます。
「何の用なん」
「来ればわかるわ。鶯花、着付け手伝ってやってくれるか」
「これ返してきた後でもええなら、ええですけど……」
「ん?
柔造兄さんは用件を言いませんが、これはもう口を割らないでしょう。蝮ねえさまが追求しないのはそういうことです。しかし、それでも気になって一つ聞きます。
「はあ、ありがとうございます。でも、その服どないしました? 柔造兄さん、昨夜の夜勤でも今日の昼勤でもあらしまへんでしょう」
柔造兄さんは騎士団の制服を着ていました。夏の日差しを吸い込む黒いコートは何の用もなければ着たいものではありません。
「まあ、ちったあ襟元正さんとあかんしな。そんで、身内集まりそうな分だけ集めとるんや。鶯花も出てくれるか」
「あて、今日はもう塾の皆と遊びに行くとか行かんとか言うとるんですけど」
「ああ、すぐ済むで」
「なら大丈夫ですよ」
「準備でき次第雪の間な」
柔造兄さんは私と浴衣の包みと膿盆などを交換して歩いて行きます。まだぼーっと立っている兄に声をかけました。
「お兄、大丈夫?」
「寝れば平気や……」
眠いとどうしようもない感じになるのは兄妹共通です。兄はそんなどうしようもない手をあげて、何をするのかと思えば私の頭の上におきました。
「鶯花、昨日はがんばったんやってな、ようやったな」
「なんやの、もう十分褒められたて」
「そか。で、今日、出かけるんか。みんなで」
「おん、詳しい予定まだ聞いてないけど、たぶん」
「せっかくや、お着物着ていきよし。出してきたるから」
「出してきてくれるなら、着るけど」
兄はかくんと頷きます。兄は、私に限らず女性の服を選ぶのが好きなのです。私は火傷痕のせいもあって肌が隠れること以外に服装にこだわりがないので、ちょっとした反抗期も終えた今では兄孝行も兼ねてよそ行きなどは任せてしまう事が多いです。まだ朝も早いし、と思ったところで気がつきます。
「なあお兄、夜勤ってこない早う終わったっけ」
「柔造兄さんに色々ええからって用も教えられんと連れてこられたねん……金造や錦も一緒や。僕はおまえの顔見よ思てこっちきたけど、皆は雪の間や。ほんま、何なんやろなあ」
「さぁ? 明陀のもんの、僧正家系に声かけてはるんやろか」
「まあ、何にせよ、柔造兄さんなら滅多なことあらへんやろ。僕はもう眠うて考えられん。さっきまで普通に平気やったのに、夜勤終わった思たら一気にきたわ……。着物はあとで持って来たるから、先あねさまの着付け手伝いよし」
言って兄は歩いていきます。あまり足取りがしっかりしていません。良かれと思って着物を頼みましたが、やっぱり止めたほうがよかったでしょうか。
障子を閉めて蝮ねえさまに浴衣を着付けて、その後兄が持ってきた夏着物を着ます。元は祖母のものだという絽の小紋。涼しく着られるようにという配慮でしょう、うそつきと裾よけ、そして半幅帯が添えてあります。鞄用の巾着に、下駄までビニール袋に入れてありました。とっとと着てしまって、浴衣を着せるために上げた蝮ねえさまの髪の毛を、降ろして梳かしてリボンでまとめます。蝮ねえさまは、私の髪の毛も梳かしてまとめてくれました。
そうして私達が雪の間まで来たときには、部屋には宝生から蟒さまと錦ねえさまと青ねえさま、志摩から八百造さまと金造兄さんと柔造兄さん、そして兄と子猫さんがいました。夜勤明けの人もこれから昼勤の人も、皆制服を着ています。夜勤上がりにも昼勤の出勤にも早い、中途半端な朝ごはんの時間でした。
「おお、来たか。蝮、おまえはこっちや」
席次は柔造兄さんが他の皆と向かい合う形でした。柔造兄さんは自分の横の畳を叩き、蝮ねえさまはそこに座ります。私はうとうとした兄と困惑を隠しきれない子猫さんの間に座りました。
「ほんで柔兄、なんなん? これ。俺ら夜勤早上がりさせて。そろそろ教えてくれてもええんちゃう?」
金造兄さんが言いました。柔造兄さんはちらと隣に座る蝮ねえさまの顔を見てから、いつもの調子で口を開きます。
「んー。ほんまは
「は」
誰の口からの声だったかは分かりません。しかし複数ではありました。きっと私の口からも出ていたでしょう。……結婚? 子猫さんが立ちあがります。
「僕、
子猫さんは慌ただしく出て行きました。足音も行ってしまって誰も何も言えない中、蟒さまが口を開きます。娘を持つ親としての本能が囁いたのでしょうか。
「柔造さん。……結婚って、誰と誰がや?」
「俺と、蝮が」
「あんさんと、蝮……」
蟒さまは、現状が把握できないとばかりに繰り返します。当事者のはずの蝮ねえさまは、柔造兄さんの方を向いてあっけにとられて口を開けていました。
「……結婚って、籍入れるゆう意味か?」
他に結婚なんて私の知る限りありません。でも、そんなこと聞きたくなる気持ちもわかります。蝮ねえさまは現状を把握して、顔がどんどん赤くなっていきます。少し身体が柔造兄さんの方から引いているようです。廊下を駆ける音がします。柔造兄さんは人好きのする笑みを浮かべてとどめをさしました。
「せやから俺、蝮もらいますわ!」
一同固まってしまいました。う、蟒さまの背中がこわい。柔造兄さんはそのまま語ります。
「そろそろ身ぃ固めな思てたとこやったし、丁度ええやろ」
「な、なに勝手な事……ッ、
いち早く蝮ねえさまが回復して言い返します。少し私達も意識が戻ってきました。
「許可て……。昨日自然な成り行きやったやんか?」
「やめろォ! こ、こ、こんな所でいらん事……ッ、殺してやる!」
し、し、自然な成り行きてなんです、あねさまがこんなところで言ったら怒る結婚に至る自然な成り行きて。いや、その、男女の営みというかその……セックス的な……、や、やめようそういうの想像したない……、特に身内のなんて……、いや、でも、蝮ねえさま魔障者ですえ!?
「お……のれぇ……申め
「ウソやろ柔兄! そんなガリガリのヘビ女……! 柔兄はもっとゴイスーボディの金髪美女と結婚するんやろ!?」
「なんやとォ、この志摩のエロ申、
場外乱闘というか外野が盛り上がってきてしまいました。隣の兄は首がかくんと落ちて完全沈黙してます。ね、寝とる……。いつの間にか背後の廊下には
「やかましい!!」
私達、お寺で色んな人に育ててもらいましたが、怒鳴って叱るのはいつも八百造さまでした。なので一瞬その八百造さまでない声が誰の声なのか判りませんでしたが、中腰のまま振り返って、フシュウと息を吐く様から蟒さまの声であったとわかりました。蟒さまが怒鳴るん、初めて見たかもしれん……。八百造さまがそんな蟒さまを横目に、冷や汗を流しながら話を始めます。
「じゅ、柔造、蝮ちゃんが承服してはるように見えへんぞ。もっとちゃんと話し合てきたらどーや? 大事な事やねんから」
「せやし……話し合たらまとまらへんと思うわ」
「はッ、そうや!
錦ねえさまと青ねえさまが若干苦しそうに高笑いします。柔造兄さんは俯いた蝮ねえさまに声をかけました。
「蝮、俺は本気やで。ほんま嫌か?」
「……あ、……
「それやったらいっそのこと俺との結婚を罰と思たらええやんか? そーゆープレイってことで!」
「こっちはアンタほど
「
手を握りあって泣く錦ねえさまと青ねえさまの背中に、私もしがみつきました。あ、あねさま女の顔してはる。あねさまはずっとあねさまやったけど、あての中であねさまはあねさまで……、アカン何考えとんのか自分でようわからんくなってきた……。
「柔造さん」
「は!」
少し落ち着いた錦ねえさまと青ねえさまが私を二人の横に入れて手を握る仲間にいれてくれました。新郎未満と新婦父未満は続けます。
「今回の件で蝮は
「はい! 改めて蟒様。蝮を俺にください」
「……く! こちらこそ宜しく頼む!」
「ありがとうございます!」
「
あねさま、ああは言ってますが結婚自体まんざらではないようですし、確かにふたりとも喧嘩するほどなんとやらみたいなところはありましたし、罪悪感と折り合いがついたら、きっと結婚するんやろうな、と思います。
あねさま、結婚してまうんや。
別に、私にとっては同じお寺の宝生さんちから志摩さんちになるだけで蝮ねえさまは蝮ねえさまなので、お家の変わってしまう錦ねえさまや青ねえさまほどのショックはないのですが、それでも。ずっと、あねさまが通った道をあても行くんやろうな、みたいな気持ちがあって、その通りずっとあねさまみたいに初潮を迎えたり中学生になったり正十字に通ったりしてきたのです。きっと、この後は
「
私が考え事している間に、また場はにぎやかになって、錦ねえさまと青ねえさまは蝮ねえさまに言いました。蝮ねえさまは柔造兄さんと睨み合う顔を一瞬こっちに向けて、「ええよ!」と言います。
「ええなあ、あても一緒に寝たい」
「ええよ、鶯花もおいで! 申には指一本触らせへんえ!」
「オー!」と円陣に巻き込まれて手を上げている隙に、蝮ねえさまは
「鶯花さんおはよぉ、めかしとるねえ」
「観光する言うたらお兄が張り切って出してきてん。髪の毛は蝮ねえさまがやってくれたんよぉ」
「よかったやん。あー、出雲ちゃんも和服とか着てくれへんかなあ」
「しえみちゃんは私服着物だけやから着ると思うけど」
「ちゃうねん。いつもと違う格好が見たいんや」
「わからんとは言わんけど……」
庭の方を見れば柔造兄さんは錫杖を持ち出して応戦してます。やっぱり志摩家は錫杖常備なんでしょうか……。ハラハラするのでこのまま朝ごはんまで見ていることにします。この場にいるの廉造さん以外、火と油しかいませんし。廉造さんは何やら金造兄さんと話しています。ズガッとかバキッとか庭に穴を掘ったりしつつあるんですけどやっぱ止めたほうがいいんでしょうか。火に注ぐ油の錦ねえさまと青ねえさまは手を上げて応援してますし、金造兄さんは何やら両手を組んで顎を乗せてぶつぶつ言ってます。って、見ているうちに
ガラガラという石灯籠の崩れる音に縁側の野次馬が顔を上げて固まります。
「……柔兄、蝮姉さん、そろそろ朝ごはん食べいかん?」
「……せやな」
真言を唱えて錫杖を呼び戻した柔造兄さんは、廉造さんの提案に頷いて、錫杖をしまい始めました。少し目眩が来たらしい蝮ねえさまを錦ねえさまと青ねえさまが支えて、二人が喚んだ
「あ、せや。鶯花さんに伝えとらんかった。観光の話な、朝ごはん食べたら虎屋の正面玄関集合ってことになったで」
「はぁい、おおきに」
じゃあ、朝ごはんを食べたら、身支度は済んでるので荷物を持って……。あ。
「あ、あて荷物全部まだ坊の部屋や」
「……エ、鶯花さん坊の部屋で寝たん?」
「おん」
「ヘッ、ヘェ~、そーなん……」
志摩さんは視線をすっと反対の壁に逸しました。……んん?
「!? や、坊は子猫さんの部屋で寝たえ!? たぶん……」
「あ! やっぱりね! そーゆうね! でもたぶんて何!?」
「あて寝るまで坊ついとってくれたから、本当に坊がどこで寝はったかは知らんの」
「いや坊やしなあ、普通に子猫さんの部屋やろ。あー焦ったぁ変な汗出たわ……。直前にあないな話聞いてもーたから……」
「いや、そういうのはないて……ありえへんて……」
言いながら食堂に入って、朝ごはんをいただきました。朝ごはんを食べたら、言われたとおり正面玄関に集合します。荷物は坊の部屋に取りに行ってから、大きい荷物だけとりあえず番頭部屋に置かせてもらいました。
「やっぱベタがええやろ……。まずは金閣寺さんかいなあ?」
「なんゆーてんの志摩さんは。まずは
志摩さんの提案を、子猫さんはスマホで調べ物をしながらばっさり切りました。観光ガチ勢に行儀よくお返事した志摩さん。ガチ勢の子猫さんは皆に希望を聞きます。皆が無難だったりあまり無難じゃなかったりする要望を言う中、奥村くんが元気よく手を挙げました。
「お・れ・は! 京都タワァー!!」
「言いよった」
「思い直してくれんかったかぁ……」
奥村くんの希望は瀕死の京都人二人に笑われても変わらなかったようです。
「え、京都タワー!? 京都他に見るとこあるよ?」
「ほらな」
子猫さんの渋い反応にも奥村くんはめげず、両手を合わせて頼み込んでます。
「頼む! 来る前から目ェつけてたんだーッ!」
「サタンの息子たっての望みやし聞いてやりぃ。燃やされんで」
「!? 俺まだそんな印象!?」
「わかりました……。サタンの息子さんの仰せのままに……」
「子猫丸まで……」
サタンの息子というか、今回一の功労者の望みですし、普通に聞いてもバチは当たらんでしょうに。子猫さんと奥村先生はスマホとタブレット片手に観光順序を話し合います。
「先生、子猫さん、どない?」
「んー、大丈夫そうや。目的地全部乗り換え楽そうやし。ちぃと店とかは詰めなあかんけど……。鶯花さんおうどん恋しがっとったから、杜山さんの甘味はおやつにしてお昼はおうどんにしよな」
「ほんま? おおきに」
「おん、ええよ。とりあえずまずは東寺さん行こ思うから、鶯花さん皆連れてってくれん?」
「はぁい。みんな、まずは東寺さん行くで、あてについてきたって!」
そう言って少し離れて手を振ると、奥村くんとしえみちゃんは走ってこっちに来ました。その後を話し合い続行中の子猫さんと奥村先生や、神木さんに絡んでる志摩さんやマイペースな宝君がつづいて、しんがりを坊がまとめます。
「鶯花ちゃん、今日おそろいだね!」
「おん、おそろいやぁ。お兄に出してきてもろてん」
袖を振るしえみちゃんに習って、私も袖を振ります。今日はしえみちゃん、兵児帯で涼しげです。奥村くんが言いました。
「それがおそろいになるなら制服もおそろいだよな……」
「! じゃあ私、皆と任務の時はおそろいだったんだ……!」
私は奥村くんの言葉に、何言うとんのやって思ったのですが、しえみちゃんはさすが違います。しえみちゃんすごい。物事は楽しく受け取れたほうがいいに決まってます。ここはこう言っておくべきでしょうか。
「じゃあ、男女の制服はペアルックなんやろか」
「燐! じゃあ私達もペアルックだったよ!」
「そ、まぁ、そーだな! ……しえみと雪男もみんなペアルックだな」
嬉しそうに笑うしえみちゃんに対し、奥村くんはなんだか落ち込んだように言います。……何やろう。ロマンス的な匂いがする気ぃする。今日もうお腹いっぱいなんですけど。
気を取り直して東寺さんに向かいます。門をくぐればいよいよ全貌が見える五重塔。ご飯を食べない方の食堂を拝観してから、売店で有料区域の拝観料を払います。そしてまずは手前の講堂へ。不動明王の像を前に、子猫さんと坊が二人で奥村くんに倶利伽羅剣の話をしました。不動明王の持っている剣が倶利伽羅剣なので、奥村くんの持つ降魔剣はそれにあやかって
歩いて京都駅に行き、そこからJRで神木さん希望の伏見稲荷の方へ。本殿でお参りしてから、有名な千本鳥居をくぐります。人が少ないこのあたりで神木さんがお狐さんを喚んで、一緒に歩きました。神木さんにとってはきっと重要なお宮である以上全て見たいかもしれませんが、伏見稲荷のお山全部を登るには体力と時間が要るので、千本鳥居の先の奥社をお参りしたらここで失礼して今度は京阪電車に乗って祇園四条に行き、そろそろお昼時ですのでおうどん屋さんに入ります。
ああ、これを、待っていました。運ばれてきた丼からたちのぼるふくよかなお出汁の匂い。底まで透き通るお
「これが京都のうどんか……」
「せやで。ほんま、これが恋しくて……」
言った奥村くんは、私が空の丼に熱い視線を向けるのに若干引いています。毎日ちゃんと自分で食事を作る人には、やはり伝わらない感覚でしょうか。
「つ、次からはやばくなる前に俺が作ってやるから……」
「ありがとぉ奥村くん……」
京都うどん会は林間合宿からこんな感じに慌ただしくなってしまったうえおうどんが食べられたのでお流れでしょうが、第二回を期待してもいいのでしょうか。その時なら、しえみちゃんも神木さんも朴さんも誘えるでしょう。東京に戻ったら、朴さんにだって火傷を見せようと思っている今なら。思えば、私も春からずいぶん変わったような気がします。
食後はうどんじゃ足りないという男子諸君の胃の期待に答えて錦市場を食べ歩きます。お刺身の串を奥村先生が所望したのが意外でしたが、奥村くんいわく奥村先生はお魚、特にお刺身が好きということ。イメージに違うほどではありませんが、少し完璧超人みたいなイメージのある奥村先生も私達と同じ高1なんだなあと思います。昨日は奥村くんのことを殴り抜いていましたし、ストレスでふらふらしてましたから、あまり先生だからと頼りすぎるのも良くないのかもしれません。私は女の子みんなで抹茶のアイスクリームを買いました。あんこや八つ橋も添えてあって、冷たくて甘くて美味しいです。それに何より、お寺の外の子と買い食いなんて、初めてじゃないでしょうか。なんだか余計に美味しく感じます。
その後は宝くんの舞妓を紹介しろとの要望に答えるべく祇園のあたりをぶらぶらしていましたが、昼間ですし当然たまたま歩く舞妓さんを見ることもなく、結局鴨川に降りて少し涼みました。坊と志摩さんと奥村くんなんかは靴を脱いで川に入ってバシャバシャ遊んでいます。三人は涼しそうですが、私はそこまで涼しくなくてぼーっとしていると、坊が帽子を貸してくれました。少し大きいそれを、サイズ調整せずにそのまま被って三人の背中と流れる水を見ます。そういえば、今日はあんまり坊と話しとらんなあ。
奥村先生が金閣寺方面のバスがもうじき出ると言うので、坊に帽子を返して河川敷から上がりました。バスに揺られて北山、金閣寺。志摩さんの言うとおりベタですが、寺とかわかんねーから京都タワーとか言い出す人にはここを見せねばなりますまい。金きらで見た目についてはわかりやすいことこの上ないでしょう。奥村くんは実際興味を示してくれて、女将さんから借りてきたデジカメを持つ坊に金閣寺をつまんでいる写真を撮ってくれと頼んでいました。横でタブレットで調べた内容を説明する奥村先生の言葉はあまり聞いていないようでしたが、こっちはしえみちゃんや神木さんが聞いていたので大丈夫でしょう。
金閣寺の後は、時間もちょうどいいですし、子猫さんが調べてくれたカフェに入っておやつにします。私は悩んでいたしえみちゃんのためにくずきりを頼んで、あんみつを頼んだしえみちゃんと一口交換することにしました。男の子は軽食のサンドイッチなんかも頼んでいます。くずきりは暑いこの時期でもつるんと入りましたし、一口もらったあんみつも、子猫さんが調べてくれたお店だけあって上品な甘さで美味しかったです。丁度涼しい屋内ですし、この後まだ時間はありますので、どこに行くかという作戦会議をして、やっぱりまたベタがいいだろうということになり次は清水寺に行って、それから京都駅に戻って京都タワーに登って虎屋に帰ることにしました。
清水寺も舞台や眺めなど、わかりやすく楽しいお寺ですのでみんなでテンション上がってあそこが今日行ったどこだとか、あれが昨日登っていた金剛深山だとかはしゃぎます。他の若い人は境内の地主神社ではしゃいでいるようでしたが、縁結びで有名なそこに食いついたのは志摩さんくらいで皆だいたいスルーで街を眺めているのはどうなのでしょう。いえ、私も軽く頭を下げて後はスルーだったんですけど。別に、特にご縁に困ってませんし。今とってもご縁に恵まれてますので、お礼の意味で頭を下げるくらいはしたのですが。
「坊、坊入れて写真撮りましょうか。坊今日全然映ってへんでしょう」
坊は後からプリントアウトして配るつもりなのか、京都市街も写真に収めていました。しかし、カメラが勝呂家、ひょっとしたら虎屋のものの為かずっとカメラマンをしているのです。しかし坊は「ええ」と言いました。
「俺入りの写真も自分で撮れるわ。鶯花、ちいと寄り」
言って坊は手すりを背にして私を横に並べると、腕を伸ばしてデジカメをこちらに向けてそのままシャッターを切ります。うまいもので、画面で確認すれば坊と私と舞台と京都市街がちゃんと一枚に収まってました。
「わあ、お上手。でも、あては入れんでよかったのに。写真きらいや」
「別に今日はめかしとるんやからええやろ。カメラ見ると逃げるからうちのアルバムにお前の写真だけ少ないてお母が嘆いとったわ」
「んー、じゃあ、その一枚くらいは」
勝呂家アルバムは坊はもちろんですが、坊と同い年の子猫さんや志摩さんや私をはじめ、お寺のいろいろな人が写っています。しかし、私はこんなナリですので写真嫌いでよく逃げたのです。化粧をするくらい大きくなってからは、カメラを出される機会が減りました。よく考えたら、私は写真嫌いですし四人一緒に育ってきたので、坊とのツーショットは生まれて初めてかもしれません。いえ、いえ決して、子猫さんや志摩さんが邪魔というわけではないのですが。ですが一枚くらい、そんな写真を持ってみたいのも、事実です。
その後は、音羽の滝の水を飲んだり、産寧坂でお土産物屋を見て回ったりしてから、ついに最終目的地、京都タワーに行きました。下のビルでチケットを買い、ビルのエレベーターでタワーの下まで行ってからもう一度、今度はタワーのエレベーターで展望台まで登ります。初めて来ましたけど、こんなふうになってるんですね。展望台では京都の街がよく見下ろせました。清水寺と違い、見るための建物だから当然といえば当然なのですが、さっきより眺めがいいです。奥村くんや、奥村くんの鞄に入ったクロははしゃいでいましたが、改めてアレが御所だとかアレが二条城だとか説明しても御所や二条城自体があまりわかっていないようでした。純粋に高いところが楽しいようです。一瞬ことわざが脳裏をよぎりましたが見なかったことにします。その後もはしゃいだテンションのままに奥村くんは土産コーナーでストラップを購入し、そして一緒に写真を撮ってほしいと言いました。遠慮がちにしなくてもいいものを遠慮がちに言うので、皆サタンの息子ネタでいじりますが、結局坊がカメラを係員のお姉さんに渡して皆で写真に写ります。どこに入ろうか迷って、しえみちゃんの隣、坊の手前で座りました。写真撮影後、後ろが吹き出しているので振り返れば、SATANの人文字を作っていました。阿呆なことしとる……。サタンの息子に変わりない奥村先生まで混じっていて、奥村先生の高校一年生っぷりを実感します。坊と同じクラスや言う話やけどクラスではどないしてるんでしょう。
その後は虎屋に帰りました。ちょうど女将さんに見つかって、お仕事を言い付かります。私はしえみちゃんと一緒にリネンの移動を任されました。廊下をシーツを抱えて歩いていたら金造兄さんに捕まって、今晩あるというライブチケットを買わされました。お仕事が終わってからしえみちゃんと二人でどう行くか算段を付けていると、坊や奥村くんらも同じく金造兄さんに泣きつかれたらしく一緒にいくことにします。
金造兄さんのライブに行くのは、初めてではありません。中学の頃うじうじしてた時期に「お前にたりひんのはガッツや。俺のライブで見て学べ」と言われて行ったことがあります。……ガッツが身につく前にぶっ倒れかけたのですが、ハコを埋めるお寺の人に助けてもらい帰りは柔造兄さんと八百造さまに送ってもらいました。ガッツというより、世界の許容範囲の広さみたいなものは学んだ気がします。あ、こんなでも別にええんや、先生とか怒らせても別にちょっとくらいならどうってことないんや、みたいな。
その時の記憶で私もしえみちゃんも着物じゃ危ないことに気が付き、一度実家に戻って洋服を取りに行きます。久しぶりの実家は寮よりよほどうちの匂いがしましたが、不思議とホームシックのような感覚は起こりませんでした。着物は脱いで干して、このあたりは悪いけれど兄に後で始末を頼むことになりそうです。箪笥の中の置いていった分の服から、ライブに行けそうな服とライブに行けそうでフリーサイズの服を探します。荷物を運ぶのが面倒で最低限しか服を東京に持っていかなかったのが幸いしました。ライブに行けそうな服は着て、フリーサイズの方は虎屋に戻ってしえみちゃんに貸します。しえみちゃんは最初遠慮していましたが、私がライブは任務以上にやばいと語ると、神妙に頷いて服を受け取ってくれました。
塾の皆や奥村先生の他、兄やら柔造兄さんやら八百造様やら、とにかく皆でライブに行って、金造兄さんのデス声を頭にぶち込みました。坊らは金造兄さんのライブがはじめてだったようで度肝を抜かれていましたが、廉造さん以外は皆楽しめたようでした。廉造さんも、自力脱出できてたので中学時代の私よりは元気そうです。
それから、さっきまでの爆音に対して静かすぎる夜の道を虎屋に帰って、荷物を回収してから朝の約束通り蝮ねえさまの部屋を覗くと、あねさま達は私の布団も用意してくれていました。昨日はあんなでしたし、今日は観光にライブにともうとっても疲れました。お風呂に入ったり寝支度を整えて布団に横たわって、あねさまらのおしゃべりを子守唄代わりにうとうとしていると、部屋の外から声がかかります。柔造兄さんでした。もちろんあねさまらは臨戦態勢になりましたが、私が柔造兄さんに用件を訊けば、結婚についての話がしたいとのこと。大事なことやからな、と穏やかに笑う姿に蝮ねえさまがほだされて、私と錦ねえさまと青ねえさまは一度廊下に出ることになりました。もちろん何かあればすぐに踏み込むという条件付きで。一緒に出てきた蚊遣り豚とともに縁側に座って、少し寂しそうに庭を見る錦ねえさまと青ねえさま。こくりこくりと舟を漕いでいると、青ねえさまが背中を枕に貸してくれました。
「鶯花、眠たいんなら、どこか部屋探してきたろうか」
「んーん、今日は、あねさまらと一緒に寝ます」
聞こえる青ねえさまの鼓動が、ライブの爆音に晒された耳に優しいです。お庭の虫の声に、後ろの部屋からの話し声。話し声は、ずっと細い声で、途切れず聞こえ続けています。
「
「こんなになった今じゃあ、もう
青ねえさまが錦ねえさまと話すたびに、背中は声の振動で揺れました。その心地よい振動に体を預け、……あれ? 後ろの部屋の話し声が、どんどん荒くなります。嫌な予感がして身体を起こすと、錦ねえさまと青ねえさまは同じく異変に気づいて顔を見合わせていました。三人揃って、ひっそり障子に近づいて……。
「せやから嫌や言うとるんや!! お前の魂胆は見えとるぞ!!」
「なんやと蝮お前、言うに事欠いて!!」
障子に近づかずとも聞こえたであろう大声。物騒な物音。錦ねえさまが迷いなく障子を開けると、そこには正面から両手を組み合う蝮ねえさまと柔造兄さん。柔造兄さんのこめかみには既に赤く血が滲んでいます。
「
錦ねえさまと青ねえさまが叫んだ瞬間、蝮ねえさまの手を握っていた……というより拘束していた柔造兄さんの手が緩んだらしく、蝮ねえさまは見事に柔造兄さんの頬をひっかきました。
「ッこの蛇女、お前俺が下手に出てたら……!」
「
……私には、この場を収めるのは、むりです。
東寺の食堂っていうのはごはんを食べるところではなく普通のお堂を指すみたいです。錦市場のくだりは14巻カバー袖の写真からの推測です。地主神社のくだりは描かれなかっただけかとも思いましたが、面子的にスルーしてそうでそっちのほうが面白そうだったのでそんな感じに。今後の展開的に必要があったので書いた部分も多いですが、予想外の字数の多さは私の京都行きたい欲が滲み出た分です。