「ただいまぁ」
背後で寮の部屋のドアが開いて、お風呂帰りの朴さんが入ってきました。キリの良いところだったので数学の問題集を閉じて、振り返って迎えます。
「おかえりなさい」
言って、問題集を片付けて明日の鞄の支度を始めました。ドライヤーは脱衣室でしか使えないので、朴さんと神木さんが一緒にお風呂に行ってもショートヘアの朴さんだけ先に帰ってくることが時々あります。各部屋で好きにドライヤーを使われたらブレーカーが落ちてしまうかもしれないから、という理由での規則らしいのですが、見た目に気を遣いたい女子高生には少し厄介でもあります。朴さんがリビングスペースの椅子に座って、食堂からもらってきたらしい飲み物片手に話しかけてきました。
「そういえば、冬隣さんは理事長って見たことある?」
「理事長……ヨハン・ファウスト五世?」
「うん。今日、そういえば塾長でもあるのに見たこと無いねって話になって。冬隣さんならお兄さんも正十字卒らしいし見たことあるかなって」
「お兄とは関係ないけど、見たことはある……」
「ほんと? どんなだったの?」
どんな。うーん。あの一度見たら忘れられない見た目を表す言葉を脳内で探します。
「ええーっと……白くて上品な不審者……? 身なりは良かったけど理事長言うよりピエロっぽかったわ」
「どこで見たの?」
「塾……ちょっと長い話になるけど、聞かはる?」
「うん、聞かせて」
言われて、私は準備のできた鞄を閉じてから自分のベッドサイドに置いていたぬいぐるみを持ってきて、朴さんの向かいの椅子に座りました。白い犬のぬいぐるみ、メッフィーランドのマスコットのメッフィー犬です。
「塾の廊下を一人で歩いとったらな、このしぃちゃ……メッフィー犬のぬいぐるみを、もう一回り大きゅうしたようなのが廊下のど真ん中歩いてたんよ。あて、
「冬隣さん結界張れるの?」
「簡単なやつなら、家業みたいなもんやから出来るねん。それで、奥村先生が電話出てくれて、さあ説明しよ思て前向いたら結界は無事なんにメッフィー犬だけおらんの。せやから慌ててそれを説明しようとしたらな、後ろからヒョイってケータイ取られて。真後ろにこう……大きゅうて白うてなんや怪しい男がおってな、そのままケータイの向こうに言うねん。犬の姿で散歩していた私を捕まえてあなたに連絡しようとした
「あはは、すごいね。理事長さんは悪魔の王様だって聞いてたけど、変身まで出来るんだねえ」
「ほんまに……。朴さんも気ぃつけたほうがええよ。犬以外にも変身できるて言うとったから」
手元のしぃちゃんをふにふにします。Sサイズの持ち運びやすさもあるとはいえ、なんだかんだ東京まで連れてくる程度には愛着があるので私にとってこの子はしぃちゃんなのです。
「それにしても、ふふ、ごめんね、お兄さん面白いねえ。妹にぬいぐるみの名前聞かれて、その場で考えちゃったんでしょ?」
「おん……お寺には他にも正十字通っとってメッフィー犬見た兄さん姉さんもおったはずなんやけど、もろた頃はもうぬいぐるみ連れ歩くような年やなかったから誰も教えてくれんかったねん……。閉じた空間の悲劇や……」
閉じた空間と言っても、明陀のお寺自体もそれなりに閉じた空間でしたが。朴さんはふふ、と柔らかく笑うと、そのまましばらく黙って、ちょっと遠くの部屋の笑い声が聞こえるようになってから、はっと思いついたように言いました。
「そういえば、勝呂くんと志摩くんと三輪くんは、冬隣さんと同じお寺の子なんだよね?」
「おん。もうずっと一緒やね」
朴さんはにこっと笑うと、少し近寄ってきて言いました。
「誰か好きだったりするの?」
私が一瞬言葉に詰まった瞬間に、がちゃん。ドアが開いて、神木さんが帰ってきました。
「おかえり出雲ちゃん」
「お、かえりなさい……」
「ただいま。アンタ達喋ってたの?」
「うん。で、どうなの?」
朴さんは神木さんに言うとこっちに向き直ります。私はその分さっと引いて、少し視線を逸らしながら話しました。
「そ、そんな、まあ、まあ友達としては三人共大好きやけど、生まれた頃からずっとおるし、もう家族みたいなもんやねん。えっと、兄弟、そう兄弟とか、そんなん? 志摩さんかて女の子好きやけどあてはもうあの人の妹とか姉さんとおんなじ枠で要はもう恋愛感情とかそういう範囲やないねん」
「その心は?」
「や、ほんま、ほんま、ないもんはない」
「勝呂くんとか。この前
「やめてやめて、あっ、あて夜の筋トレせんとあかん。ねっ!」
自分でも顔が赤いのがわかります。実は、赤面すると化けの皮が剥がれかねないので赤い顔は二重の意味で見せたくないのです。立ってしぃちゃんをベッドサイドに戻すと、すぐに横で腕立て伏せを始めます。これでも、坊を運べる程度には鍛えているのです。いち、に、さん、し。
「しつこくしちゃってごめんね。いつも用意してる豆乳、とってきてあげる」
「きにしとらんから、きにせんといて」
朴さんが私のベッドサイドのスペースを覗き込んで言いました。気にせんといてとは言いましたが、朴さんは共用冷蔵庫に豆乳を取りに行ってくれたようです。豆乳は筋トレの後プロテイン代わりに飲んでいるのですが、いつもなら終わったらすぐ飲めるように用意してから始めるのです。腕立て伏せを終わって腹筋をしようと仰向けになったら、すぐそこに神木さんが立っていました。
「えっ……」
神木さんは、いつもよりほんの少し険しい顔で言いました。
「……アンタのこと、朴がいつも気にしてる。同部屋なのにあまり話さないからハブにしてるみたいで嫌だって。あたしはアンタと馴れ合いたくないから別にいいんだけど。アンタがあたしたちと馴れ合いたくないなら、今言って。あたしから朴に言っておくから」
「べ、別に仲良うしたないわけやないよ……?」
「じゃあ何なの」
「どやって仲良うしたらええのか、わからんの……」
「ハア? 仲良くしたいなら、話したりすればいいんじゃない」
すごむ神木さんが怖くなって、腰が引けてしまいます。
「でも神木さん、自分がきっと、相手に嫌われるやろなってこと隠しとるのに、仲良うおしゃべりなんて上手にできんよ……」
「あっ……」
神木さんはほんの一瞬だけ、虚を衝かれたような顔をして、でもすぐに持ち直しました。その重さに戸惑ったような顔を見て、決して軽くない話題を振ったことを後悔しました。
「とにかく、朴が気にしてるんだから、馴れ合いたくないわけじゃないんだったらもっとどうにかして! あたしたち二人でいじめてるみたいでしょ!?」
「お、おん、気ぃつけるね」
神木さんが踵を返したので私も腹筋を開始して、そう間もない内に朴さんが戻ってきました。朴さんが豆乳のグラスを置いた時に腹筋を中断してお礼を言って、ついでに朴さんに今好きな人はいないのか聞きました。朴さんは笑って、今はいないけどそのうち恋がしたいと言いました。その笑顔には、言われてみればほっとしたものも含まれているような気がしました。ただ生きるだけなのに、傷つかないのも傷つけないのも難しいのは、私達が悪魔でも仏でもない人の身だからでしょうか。無理やりのお世辞のような話題なしに過ごすには、きっと私が弱いのです。