私と神木さんは同じクラスで同じ塾で同じ部屋なので、実は誰より一緒にいる時間が長いのです。そんな人と喧嘩したら、ねえ。端的に言って針の筵です。坊らにはまた何やあったんかと聞かれました。神木さんと喧嘩したと言ったら、はよ仲直りせえとのこと。でも、私だって、譲れないことの一つや二つあるわけで。色々ぐるぐる考えながら塾の授業を受けます。私、すっかりダンスパーティーに振り回されているような。やっぱりダンスパーティーなど主催したフェレス卿……いやヨハン・ファウスト5世こそ諸悪の根源ってことじゃダメでしょうか。ダメでしょうね。私にだって悪いところはたくさんありましたが、それでも謝るのに踏ん切りがつかない程度には神木さんに怒ってます。でもまだ昨日の今日ですが、これ以上続くなら私達以上に私達の仲に気を配っている朔子ちゃんに悪いと思うし、でも……。……授業に集中しましょう。振り回されすぎてやや日々のルーチンが壊れてます。ちゃんと勉強しないといけません。
そんな決意の直後に終わった授業。何やら面白いハチマキをした奥村くんが宣言します。
「俺はもうダンスパーティーへの未練を断ち、クラスの企画に全力を注ぐ……!」
坊の無言での白い目。今更か、というか、お前それちゃんと本気で言っとるんか、というか。子猫さんは笑って言います。
「へー、1-Dおむすび屋さんなんやねぇ」
「えーーっ!」
大声あげたのは志摩さんです。やめてや急に。
「奥村くん諦めてまうのん!? 仲間やん」
「お前ももういい加減諦めぇや……」
「俺はいざとなったら子猫さんに女装させてでも参加しますよ」
「……は?」
「わ、コワッ」
出ました子猫さんのカスを見る目。日頃の温厚さからのギャップでとてもよく効くやつです。それに志摩さん、子猫さんは……。
「……ちうかずっと言いづらかってんやけど、実は僕……写経愛好会入ってて、そこの部長さんとダンスパーティー行くことに……」
「まさかの!」
声を揃えた志摩さんと奥村くんに、今度は坊がドンと机を叩いて怒鳴りました。
「ええいやかまし! お前ら少しは祓魔の勉強しよるんか! 特に奥村! お前保留なっただけで試験も処刑ものーなったワケやないやろ!!」
「べ……勉強してるよ! 剣技の授業でシュラと技考えたり……」
「何や技て、小学生か!」
「うるせーな」
奥村くんはすねたように言うと、しばらく下を向いてブツブツ言って、今度は現実逃避的にジタバタと暴れはじめました。
「何で俺はモテねーんだ! 何で雪男と勝呂はモテるんだ! 子猫丸だって先輩とイチャつけるのに、俺は……!」
「……そーゆー言い方やめて奥村くん」
子猫さんが顔を赤くしながらもめちゃくちゃ嫌そうな顔で言いました。ていうか未練断ち切ったんとちゃうん。志摩さんも加わって騒ぎ出して、どんどん場は賑やかになっていきます。しかし、私のケータイが震えました。見ればタイマー設定した時間です。
「あ、あて出し物のリハ行ってきまーす。三十分くらいで戻ると思いますけど、みんなここで勉強してかはります?」
「その程度ならおるやろ。勉強するかは怪しいけどな」
「待て鶯花! 出てく前に女子から見たモテの極意置いてけ!」
「は、はあ? え、えーと……お、落ち着き……やろか……」
坊と奥村先生にあって子猫さんにもなくはないけど奥村くんと志摩さんに薄い要素です。男の子って、同じ年の女の子よりガキっぽいって言いますし。坊の男前なところはどっしり構えとるところの気しますし。
「落ち着き!? よくわかんねーよもう一声!」
「構わんでええわとっとと行き」
「じゃあ勝呂様教えてくださいよォ! 俺アイツに負けたくないよォ」
代わりに絡まれた坊の尊い犠牲に見送られて教室を出ます。子猫さんの分のリハは塾の前にあったのですが、私のリハは大道具係の子の部活の出し物準備との兼ね合いや私の塾の兼ね合いでこの時間になったのです。
半分恒例となってしまいましたがまだ慣れずに少しだけびくびくしながら塾の出口に向かうと、人影が一つ見えます。まさかまさか。……私一人なので、ある意味最悪の事態は免れてますけども。
近づけばやはり、その影は山田くんでした。警備員さんのブラックリストには載ってくれなかったようです。前回の反省か、彼は私の姿を認めても騒ぎません。何も言わず、ただじっと立っています。
……私一人ですので、いっそ、彼を余所に連れ出したほうがいいでしょう。立っているだけの人間をストーカーだから追い出してくれと警備員さんに頼むわけにいきません。山田くんにある程度近づいた所で、私は走り出しました。背後から、知らない声、警備員さんの声がします。
「ハハ、がんばれよ」
笑い事やないんですけど! ……あれ、何だか違和感があります。しかし違和感を捕まえる前に、山田くんが並走してきました。まあ、足で稼げるとは思ってませんでしたし。
「また祓魔塾に行ったんだね」
私が返事せずに走り続けると、彼はそのまま続けます。
「まだリハまで時間があるだろう? 送ってあげるから、歩いていこうよ」
「いらん」
「そう言わずにさ。そういえば、昨日部屋の子と喧嘩したんだって? 部屋の子っていうのは祓魔塾の子だろう。やっぱり気が合わないんじゃないかい?」
「合わんわけやない」
どこから漏れたんですかその話。……そういえば昨日前家さんが連絡とか言っていたような。この人変な所にネットワーク広げてるんですか!? いや、それでも、何か引っかかるような。校舎に入って靴を履き替えて、階段を登って二階の教室に入ります。よその教室に比べるとA組はだいぶ日常感あふれるというか、内装も外装も簡素です。いえ、内装はどうせ電気落としますしいいんですけど。廊下も階段も塗装の換気のために窓が開いて秋の風をたっぷり取り入れていましたが、うちはカーテンから締め切ってやや陰気臭いです。
山田くんは原稿担当としてリハに同席していましたが、お経で鍛えた滑舌で我ながら完璧に台本を読み上げましたので特に何か言われることはありませんでした。入り口役の子がレーザーポインターで星を指すのも大道具の子が星座を動かすのも完璧で、リハは順調に終わります。私達の出番は明後日なので、その時は頑張ろうとみんなで円陣で気合を入れてから、ちょっとは内装を整えようとした事務係さんとそれを手伝う有志のみ残して解散となりました。塾に戻ろうと教室を出ると、山田くんが着いてきます。
「また祓魔塾に?」
返事をしないと、山田くんが続けます。
「まあ、君も塾以外に友だちができたみたいだし、僕も安心して長期戦できるってもんだよ」
長期戦を引き伸ばしてなかったことになりませんかね。さて、どやって撒こう。しえみちゃんや朔子ちゃんのB組の前を通ります。お化け屋敷、だいぶ凝ってますけどこれ原状回復大変じゃないですかね。そんなこと考える私が冷めてるんでしょうか。教室から出てきた、制服のシャツを脱いでTシャツ姿になった男の子。頭にタオルを巻いて、頬には赤い絵の具が着いています。あーあー、ズボンも汚しやしないでしょうか。その子が、こちら、山田くんに気がついて声をかけてきます。
「おー、山田、そっちが言ってたカノジョ?」
……一瞬、理解が及びませんでした。……誰が? ……あたりには、私しか居ませんが。じゃあ、私が? ……誰の? ……山田くんの!?
「あー、うん、そんな感じだよ、はは、さ、行こう」
山田くんは言って、私の手を握ろうとしました。鳥肌が立って振り払って、ネクタイをふんづかんで、とりあえずこの場を離れようと山田くんを引きずって、あてもなく階段を登ります。
「そう怒らないで、方便だったんだ。そういう相手も居ないだろ?」
「いつ、あんたが、あての彼氏になったん」
「いや、理由はあるんだ。前に祓魔塾の前にいた時、警備員に何でこんなところにいるのかって聞かれて、君のためだって言うときに、クラスメイトじゃ弱いから、彼氏を名乗らせてもらってさ。君の情報を集めるために、仕方なく。でもほら、君も最近、話を笑顔で聞いてくれるようになったし」
逃した違和感が繋がりました。前家さんの“こっちの話”、警備員さんの笑いながらの応援。思えば、急に馴れ馴れしくなって、名前で呼んできたのだとか、全部あの日からでした。繋がって完全に理解して、こっちにもちょっと非があったかなと思って、でもその上を怒りが塗りつぶしてカァッと目の前が白くなりました。……汚された。汚された!
――顎や! 顎を狙え! 不意打ちで顎しか、お前に勝ち目はあらへん!
――要はな、正面から顎を狙うとテコの原理で脳が揺れるから立てんくなるんや。まだ鶯花には難しいかな。今は顎に頭突したらすぐ逃げるってだけ覚えとき。
脳裏を巡るは懐かしい指導。場所は丁度踊り場。持ったネクタイ、目指すは、そう顎!!
志摩家直伝の頭突きはきれいに山田くんの顎に決まり、山田くんはゆらりと揺れてそのまま座り込むように倒れました。それを見て額の痛みと同時に我に返ります。い、いや何か心の大事なあたりを汚されたって言っても暴力は、その。
「ああ~~やってもうた不殺生戒!! 修行が足らんわ!!」
「いやまだ不殺生戒やないやろ……。
じんじんする額もそのままに、振り向きました。――聞き間違えるはずのない、坊の声。そこにはやはり、坊がいます。塾の教室で奥村くんに絡まれてるはずの、坊です。呆れたような顔で、二階から階段を登ってきます。握ったままだった山田くんのネクタイが手から落ちて、山田くんは完全に崩れ落ちました。
「坊、なんでここに……」
「お前が遅いからやろ。……山田恵慈。ずいぶん鶯花と
踊り場にたどり着いた坊は、うずくまったままの山田くんに言います。恵慈、恵慈って山田くんの下の名前でしょうか。それ、あてすら知らんのですけど。
「し、知っとるんですか」
「お前な、頑張る言うて詰めが甘すぎや。奥村先生に蝮に漆野さん、全員聞いたら喋ってくれたわ。今なら現行犯抑えられるか思ったけど、やっぱりな」
奥村先生には確か、ダンスパーティーに参加したくなくて困っている件を相談しました。蝮ねえさまにはクラスの男の子について困ってる件を。漆野さんに至っては、だいたい全部知っています。彼女らに口止めは、していません。確かに詰めが甘かったのかも。でも。
でも、思わないじゃないですか。奥村先生の持っている、ほんの断片的な情報から、誰に聞くべきか推理するなんて。私が相談したのを見越して、わざわざ京都の、宝生のあねさまにまで電話するなんて。坊とは何の接点もない、顔すら知らないはずの“私の友達”、違うクラスの漆野さんを探し出して、その上人見知りの彼女から色々聞きだすなんて!
完敗でした。私の。でも、最初から、この人に勝とうと思ったのが間違いだったんやないの?
「でも杜山さんには後で謝っとかんとアカンな。話すべきかずいぶん迷っとって、悪いことしたわ。お前も一緒にいくんやで」
それは、目に浮かびます。たしかに悪いことをしました。しかしそれと同時に、山田くんが脳震盪から回復したようで立ち上がって坊を見て言いました。
「……君のこと、知ってるよ。勝呂くんだろう。鶯花のことを誰に聞いても、君の名前が出てくるから。寺の」
「その人に向かって口を開くなぁ!」
怒鳴れば山田くんは面食らったように止まりました。客観的には修羅場ですが、学園祭前のざわめきが青春のばか騒ぎとして飲み込んでしまったのか、階段を通る人は迷惑そうに横をすり抜けるばかりで、不思議と誰も気に留めませんでした。しかし、階段の下の方で女子の声がします。よく見れば、それは前家さんでした。
「うわ、マジだ、マジで山田と彼女さんとゴツイ人が修羅場ってる」
彼女、山田くんの知り合いなんでしょう。えらい野次馬根性です。でも、その言葉、きっと坊にも聞こえたはずで、たまらなくなって否定します。
「ぼん、坊違うんです、あてこんなやつ」
「だから全部判っとるて」
坊がそう言った途端、頭から血の気が引きました。全部。全部、それって。
「全部、て、どこまでですか」
階段側にいる坊から、距離を取ろうと背後に踏み出します。距離をとっても逃げられないと、どこかでわかっているはずなのに、そのままよたよた後退して、背中に窓枠が当たりました。
「ねえ、
「おい」
「冬隣さん」
「寄らんで!」
鋭く言えば二人は固まりました。全部って、全部ってまさか、私があなたを好きなことまで知っているのですか。それを知られたら、私。私。
もう下がれません。この人からは逃げられません。後ろには開いた窓。ここは、二階とはんぶん。
後ろ手に窓枠を握って、右足も窓枠に載せました。
「坊、答えてください。いったい、坊は、どこまで知ったはるの」
左足を窓枠に上げたら、右足は外壁に触りました。知られているくらいなら、それくらいなら。
「冬隣さん!」
山田くんが叫んで走ってくると思って、そっちから身を引いた次の瞬間、坊が目の前にいました。あかん山田くんに気とられすぎた。つい離した両手、重心が後ろに傾く前に、坊は私の脇の下に両腕を入れて窓から引きずり下ろしました。
そのままずるずるずると引っ張られて。踊り場の、安全な所に連れてこられて。どんと肩に両手を置かれて。坊は言いました。
「人は、落ちたら、死ぬ」
「はい」
半分反射で返事をすると、坊は私の肩に手を残したまま、安心したようにため息を付きました。
「あほ。早とちりで死にかける奴がおるか。お前が一体何の心配をしとるのか、俺には皆目見当がつかん。どこまで、って何の話や」
「……あてが、山田くんを好きやない話です」
「なら、俺はお前が山田を好きになるはずないってわかるだけ聞いてきたわ。――なあ、山田。わかるやろ。こいつ、流石に素で窓に登るほど阿呆やないぞ。追い詰められて、やたら短絡的になっとる。誰に、か判っとるんやろな」
「でも、僕は悪いことはしていない。だって、しょうがなかったんだ。冬隣さんを正気に戻すには、そうするしか」
山田くんの、最初と同じ狂信的でまっすぐな目。私が暴力に出ても怒鳴っても死にかけても、少し困って揺れるだけで迷わないそれ。子猫さんの言葉を思い出しました。悪魔はおらんと信じているから、それを、どうにかしなければ。
「……最初からこうするべきやったんかもしれん。トリックとか疑われてもかなわんし、山田くん、どこでもええ、指定して。見世物は勘弁やから人が少ないところがええけど。そこで、あてが正気やって証明したるから」
「……じゃあ、中庭、用具庫の影のベンチ。そこならきっと、人もそうそう見ないだろうから」
三人連れ立って、前家さんの横を抜けて外に向かいます。坊は心配げに私を見てきて、それに微笑で返しました。きっと、うまくやってみせますから。そして、中庭のベンチ。用具庫の影のそこは、確かに色々準備の進む中庭でも誰も通らず、一体何のためにあるのか怪しいくらいです。いえ、ここは、きっとこのために、とでも言っておくべきでしょうか。あの理事長のことですし、人目につかない場所など、わざと用意しているのでしょう。
私はまず、山田くんを一度ベンチに座らせました。よく手品師のやるように、種も仕掛けもないことを確認させるために。そして立たせてから、制服に仕込んであった金剛杭を取り出して、ベンチの周りに4つ打ち込みます。ここで山田くんは怪訝な顔をしましたが無視してベンチに座り、真言を唱えます。
「オン・キリキリ・バザラバジリ・ホラマンダマンダ・ウンハッタ」
山田くんには見えないでしょうが、繰り返した練習通り、少しは積んだ実戦通り、光の壁が出来ました。坊はそれを、少し納得した顔で見ています。
「この手を取った人と、あてはダンスパーティーに行きます」
言って、右手を差し出します。山田くんは、何の疑いもなく手を伸ばしました。
しかし、私には見える壁に阻まれてその手は止まります。
「……え?」
その時の表情の変化を、滑稽と表すことを許されたい気持ちでした。訝しげな、当然のような薄笑いから、少しずつ目を開いていくさまを。口角が下りて少しずつ開いていく口を。狂ったように笑い出さなかったことを、褒められたいくらいでした。
まるでパントマイムのように、彼は結界にべたりと手をつきました。そのまま焦ったように私の四方、ベンチの周りをぐるりと一周し、そこには目に見えない壁があると理解したようです。拳で荒すぎるノックのように叩いていますが、何も音はしません。
「き、強化ガラス……?」
そして口から出たのがこの言葉。吹き出すのは我慢しました。いくらなんでもそういうのはよくありません。代わりによそ行きの笑顔を作って言います。
「それにしては、指紋もつかへんけどねぇ。何なら、そこの用具庫にシャベルか何かあるんちゃう?」
出した右手で指してやると、彼は駆け出して言葉通りシャベルを持ち出してきました。右手を再び、王子様を待つお姫様の手にしてやって、山田くんを眺めます。
彼はまず結界の下を掘ろうとして諦めました。次は金剛杭が何か関係しているとわかったのか、金剛杭を狙いましたが、それは境界ですので当然抜けたりなんかするようにはしてありません。ちゃんと金剛杭を結界の境界にすること。基礎です。焦った山田くんはシャベルを振りかざして叩きつけましたが、悪魔の攻撃に耐える結界がそんなものに負けるはずありません。
「ねえ山田くん、あて、強化ガラスなん持ち歩いてないよ」
言ってやると、流石に強化ガラス説の突拍子さに気がついたのか、彼は顔を歪ませました。しかし、負けずに言い返してきます。
「……じゃあ、暗示だ。あの呪文で、僕に暗示をかけて、その杭から先に手が行かないようにしたんだ」
「暗示なら暗示でもええよ、お友達連れてきはったら? 目隠しして耳も塞いで、暗示を受けんようにして、手を伸ばしてって頼んでみたら?」
「いいんだな、本当に連れてくるからな!?」
「ええよ、遠慮せんとどうぞ」
私の返事の途中に、山田くんは走っていってしまいました。その背をゆるりと見送って、そのまま首を動かして坊の険しい顔を見ます。
「ね、あて一人でも大丈夫やったでしょ?」
「……いや、どっこも大丈夫やないからな。お前どんだけイライラしとんねん」
「ホホホ、嫌やわ坊、そこは愛嬌やろ」
「愛嬌で神木と喧嘩するんか?」
「……いけず」
「事実言うただけやろ。……うわ、何やアレ、ちょお手伝ってくる」
そういえばドタドタ音がするので何かと思えば、あの頭にタオルを巻いた男の子が、ネクタイで目を塞がれて、後ろから手で山田くんに耳をふさがれて、せっつかれながら小走りで連れてこられてました。目隠しで後ろから突っつかれて走らされるってどこの人質ですか。坊が近くに寄り、男の子の手を取って介助します。手にはシャベルを握らされて、きっと事情も知らされずに連れてこられたのでしょう。かわいそうに。
山田くんは彼を私の前に陣取らせて、それから耳をふさいだままの手の小指で二度男の子の頬をつつきました。
「え? ここ? なあどこだよ、ほんとにやれってのかよ……ああもう!」
男の子はシャベルを振りかぶって、打ち下ろしましたが、当然壁に阻まれます。
「え? 硬……? なあ、ほんとにお前何やらせてんだよ!? おい!」
男の子は山田くんの手を振り払い、ネクタイをずらしました。当然私が視界に入って、彼は目を見開きます。愛想笑いしてひらひら手を振ってやると、彼は振り返って山田くんに言いました。
「おい、これお前の彼女じゃんか……! お前、ほんとに何を俺にさせようと……!」
「そいつ、山田の彼女やないで。山田が勝手に彼氏名乗っとるだけや」
坊の補足に、男の子はますます焦って、スコップを放り出して言いました。
「山田! 友達として言っといてやるけど、お前、この子に関わりだしてからおかしい!! 彼女の目を覚まさせるとか言ってたけど、お前の目のほうが曇ってきてる! 悪いこと言わないから、この子のためにもお前のためにも早く縁切れよ! まるで、お前……なにかに取り憑かれてるみたいだ!」
そして、私の方に向き直ると言います。
「こんなもん振りかぶったりしてごめんな。当たらなかったからいいけど……、怖がらせただろ。こいつがまた迷惑かけたら俺に言ってくれ。彼女の話とか聞いたやつには、俺から訂正しとくから……」
あら、紳士的。彼は足元のスコップを拾って用具庫に戻しに行きました。立ち尽くす山田くんに、胸ポケットから香合仏を出して開いてみせます。
「これは、あての超能力とかやもちろんのうて、この、孔雀明王さまのお力や。騎士團はこういう山田くんに見えんものを全部悪魔て呼ぶけど、ちぃと乱暴やんなあ。でも、わかったやろ? 山田くんには見えんもんも、この世にはおるよ。現に、あてらには今、そこに壁が見える」
「……そんな」
山田くんは呟きました。
「ん?」
「そんな、ことが本当なら、僕ら暗闇全部に怯えなくちゃいけないじゃないか……」
それは小声で、あまりに弱々しい、私の聞いたことのないものでした。きっと彼も、夜中に一人でトイレに行けない、とても怖がりの、ありふれた子供だったのだろうと、偲ばせるような。おばけなんていないと言い聞かされて、それを信じて夜の廊下を恐れずにいられただけの。
……もしかしたら、心のどこかで、ここに見えない壁があると信じていたから、彼も、友達にスコップを振りかぶらせることが出来たのかもしれません。
「そうならん為に祓魔師がおって、あてらはその為に勉強しとるんや」
「そう……」
山田くんは言って、憑き物の落ちたような顔でうつむきます。憑き物は憑いていないようでしたが、きっと見えない友達の目から見たら、憑かれていてもおかしくない状態ではあったのでしょう。普通の状態の山田くんのことを、私は知りませんが。男の子は用具庫から帰ってきて、山田くんの腕を掴みました。
「ほら山田行くぞ。ほんと、悪かった」
「お気になさらず~」
言って、見送ります。頭を下げる男の子に坊も頷くように一礼して、二人の背中が見えなくなったあたりで私はやっと気が抜けてため息を付きました。
「はぁ~、孔雀明王さまごめんなさい……」
こうやって見せてやれば、きっと一発ではあったのです。しかし、そうそう
さて、もう行きましょうか。そう思って坊の方を見ると、坊は、少し困ったような顔をして、そして言いました。
「なあ、お前、ひょっとして……」
坊は手を私の方に出しました。しかし、私はまだ解界していないので、坊の手は結界に当たります。
その事実に、心臓が止まるくらい驚きました。
坊はたしかに、私によく手を差し出してくれます。でも、その行為には、さっき、私、意味を付けたはずで。
ああ、だって、ここまで話が揃ったら、私が幼児の頃と変わらない愛を向けていると思っている坊だって、思うでしょう。飛び降りそうになるくらい、否定したかったものは何か? と。その話の前には、彼氏だとか彼女だとか、そんなことを言っていたのですから。
「……ひょっとして、何です?」
解界しないまま言いました。その「ひょっとして」に、命のやり取りをしているかのような、それでもとても凪いだような、まるで不浄城でのあの感覚のようなものを感じながら。
「……いや、お前から何もないなら、ええ」
その言葉は、とても嬉しいものでした。もしも見え隠れしていたとしても、坊は、私が言わない限り、見ないことにしてくれるということでしたので。それはきっと、助かることです。
この結界の中には、誰にも入れません。そういう自信があります。いやダメならもっと強い
「……せや、坊、あて今迷っとることがあって」
「何や?」
「スタッフの正装でお化粧する時の、口紅の色、赤とピンクどっちがええやろって」
「唐突やな。……うーん、ピンクがええんちゃうか。赤は、ちょお大人っぽすぎるやろ」
「……はい」
坊の口ぶりは、本当にただ、私に似合う色を考えてくれたものでした。坊はなかなかおしゃれさんなのです。制服でもアクセサリーを色々着けてますし、私の適当な服装についてもたまに、何か言うくらい。ですから、今、志摩さんの言ったことがよぎったのは、本当に私の中だけなのです。でも、プレゼントしてくれたしえみちゃんや、勧めてくれたみんなには悪いけれど、たしかに、赤はまだ早いのでしょう。だってまだ、坊はサタンを倒していないのですから。私は坊以外、好きにはならないんでしょうから。私は、解界して自力で立ち上がりました。
「手間かけさせてすみません。さ、塾行きましょう。きっとみんな、勉強しとるかは知らんけど、待ってくれとるんでしょう」
不瞋恚は一言で言うと怒らないようにしようって言う仏教の言葉です。ただ色々解釈はあるようなので話半分に聞いてください。仏教知識に自信ありませんし、実際夢主も仏弟子としてどうなのってところありますが、明陀宗、特に金造さんとか見てると案外明陀基準ではセーフでは?って思っちゃいます。
山田くんの恵慈という名前は、やっぱりロシア民話「イワンのばか」より、イワンが神の恵みとかそんな由来らしいのでそこです。いえ、民話のイワンはばかはばかでもよいばかなのですが……。
香合仏は要は持ち歩き用仏像です。木製ピルケースの中に小さな仏像が彫ってあるようなのを想像してください。たぶん高校入学にあたってお祝いに贈られて、それを使って夕方におつとめのまねごとなどしているのだと思います。