――反省としては。
結界を宝くんに使ったのが、間違いでした。結界とは、本来無防備な自分の周りに張って邪悪を寄せ付けないもの。応援が来る見込みがあった以上、一対多なら自分の周りに張ったほうが賢明です。歴史上の籠城戦についての本を読んでみたほうがいいでしょうか。勝ったパターンと負けたパターンの分析があるようなものを。きっと、図書館にあるでしょうから。
目を、開けました。吐き気みたいな、喉が詰まったような、熱っぽいような、頭が重いような、でもどれも違った感じで、とにかくぼーっとはしますが、背中以外特に痛いところはありません。ストーブに近づきすぎたみたいな、こたつで寝てしまったような、これが、魂の端っこを燃やされた感覚でしょうか。
「鶯花!」
大きな枕に寝かされた頭を動かせば、すぐに坊が見えました。その声で、隣に座っていた子猫さんが、頭を上げて眼鏡の下の目をこすります。
「起きたか、痛いところ無いんか」
「背中がちぃとで、他は」
「坊、僕
「ああ、頼む。俺らが判るか」
「坊、子猫さん、あて」
指差して言います。見覚えある、学園の医務室でした。ドアを出て行く子猫さんの背中に言います。
「子猫さん堪忍、あて、また身体張ってもうた」
「……鶯花さんに目立った怪我がないから、ええよ」
……さて、これは知ってます。全部終わった後、ってやつです。しかも、私は失敗したようです。医務室に寝ているのは私一人のようでした。天井を見つめてまばたきすれば、マスカラで伸ばしてもらったまつ毛が揺れます。今日は、あんなに、楽しかったのに。
「今、何時です?」
「1時過ぎや」
「夜中まで起こしてしまってすみません」
「いや、ええんや。どうせマトモに寝つけへん」
その言葉で、なんとなく状況がわかったような気がしました。たぶん、私の想像付く範囲では最悪に近いのです。ドアが開いて、子猫さんが困ったような顔で入ってきました。その後ろには理事長。……理事長?
「子猫、
「それが……」
「だいたい出払ってますので、私が冬隣さんを診ます」
「は……? 忙しいんやないんですか」
「下に指示を出したら上は殆ど報告待ちですよ。それにおそらく、今の冬隣さんは並の
「……」
「何ボーッとしてるんですか。女性の診察ですよ? 気を使って部屋を空けなさい」
理事長は子猫さんの空けた椅子に座って、坊と子猫さんを手でシッシと追い払います。……え? 私、部屋を空けなくちゃいけないような診察を、されるんですか? ……本当にそんなのいるんですか? 坊が言いました。
「いや、います」
「何言ってんですか、年頃の娘さんですよ?」
「家族のようなもんです。鶯花もええやろ」
「ええ」
いてもらわないと、逆に不安というか。
「ハァ~? 駄目ですよ、あなた達別に血縁関係も婚姻関係もその予定もないんですよ? 理事長高校生にそんな爛れた関係許しませーん。十秒以内に出なさい。時間無いんですから」
理事長はそのまま、おそらくドイツ語でカウントダウンをはじめました。
「すぐそこにおるから、何かあったらすぐ叫ぶんやぞ」
「鶯花さん今叫べるん……?」
「……防犯ブザーか何かか」
「もー、とっとと出なさい!」
理事長がカウントダウンを終えて指をぱちんと鳴らした途端、坊と子猫さんが覗くドアが閉まりました。ぷりぷり怒りながら理事長は言います。
「全く、この紳士にして教育者……時の王サマエルが何をすると思っているんだか。……いや、単に身内を一人失って、過敏になっているだけか」
そこだけ低くなった声。……一人失って。
「さて、診察を始めますよ。……とはいえあなた、気絶したの黒い炎のせいでしょう?」
「背向けてたんで、いまいちわかりませんけど、たぶん」
「目立つ外傷ありませんでしたし、脳震盪って感じでもありませんでしたからね。記憶ははっきりしていますか? あなたと私の名前は?」
「私は冬隣鶯花。理事長は……メフィスト・フェレス、ヨハン・ファウスト五世、時の王サマエル」
「今日の日付は?」
「もう1時回ってるんでしたっけ。10月4日」
「ハロゲン元素を上げてください」
「ハロゲン……えっと……」
理科で習ったはずなのですが、ええっと、どの語呂合わせだったか。
「おや、A組はもう習ってますよね? ふむ……」
「いえ、ちょっとそれは多分元から覚えてないかと……。塾の授業でお願いします」
「ちゃんとそっちも勉強してくださいよ? では、Ⅱ度の魔障患者に対しては一般に何号の輸液を使いますか?」
「6号を基本に、患者の体格や魔障の種類によっては5号や7号も」
「よろしい。言葉も問題ありませんし、魂の方は大丈夫でしょう。他に怪我は?」
「背中どつかれたくらいです。あ、でも膝も痛い……?」
「倒れてましたからねえ。ちょっと背中見ますか。起きてください」
ベッドから身体を起こすと、理事長は私のドレスの背中のファスナーを降ろしました。……ええんやろうか、これ。
「あ~、痣になってますね。骨は……、背中を意識して肩動かしてみてください。痛いですか?」
「痛くないです」
「じゃ大丈夫でしょう。たぶん。湿布だけ貼ってあげます。私手ずから」
「いや……あて自分で……」
「手届かないでしょう。湿布はどこに……」
理事長は後ろを振り返ると指を軽く振りました。医療品の置いてあるワゴンがするすると引き寄せられます。ブラジャーのホックも火傷も見えるだろうに、羞恥心が働かないのは、理事長が案外真面目だからか、魂が焼かれたせいか、それとも、ちょっと鈍っているのか。理事長は湿布を取って私の方に向き直ると、振り向いていた私に前を向かせてから話し出しました。
「あなたが倒れているところを見つけた勝呂くんが、あなたを抱きかかえましてね。最初はちゃんと気にして、しっかり抱きとめていたのですが、ヘリコプターが飛び立ったあたりで彼、激昂しまして。腕の中のあなたのことを、気にする余裕がなくなってしまったようで」
「……何の話です?」
「まるで、あなたと勝呂くんで、コンチネンタル・タンゴでも踊っているようなシルエットでしたよ」
振り返った理事長は、いかにも悪魔の顔をしていました。きっと大変なときだろうに、この悪魔。そんなからかいのような悪趣味に付き合ってあげられる余裕は、今ありません。なので。
「キャーーーー!!」
叫びました。いまいち声量が出なかったのはやっぱり子猫さんの心配どおりでしょうか。すごい音を立ててドアが開きます。
「鶯花!!」
「嫌ですね湿布貼ってるだけですよ」
坊が足音高く近寄ってきて、しかし私の背中を見て固まりました。子猫さんの声。
「その、痣の形……」
私では見えない背中。しかし突かれた時の感覚や状況からして、あれは錫杖の石突でしょう。それと分かる形の痣で、あったなら。廉造さんが私を攻撃したことが、証拠として残っているでしょう。理事長が痣に湿布を貼ってテープで止めて、それからファスナーを上げます。子猫さんが手伝って寝かせてくれて、私は再びベッドの住人になります。まだ、本調子ではありません。
「さて、じゃあ無事なようですし揃いましたし状況確認しますか。冬隣さん、覚えている限りどうなっていたか話してください」
「……ちょお待ってください。覚えてるんですけど、わからないんです」
……いえ。いえ、わからないなんて、嘘でした。私はきっとわかっていたのです。廉造さんを真言で縛ったその時には。その時には、廉造さんが私と神木さんに危険を及ぼす存在だと、判っていたはずなのです。……誰がなんと言おうと、あの時の私は廉造さんを自分の敵だと判断していました。他ならぬ、同じお寺で育ってきた廉造さんを。
「覚えているならわからなくてもいいので話しなさい」
「……あてが着いた時には、宝くんに、神木さんを抱えた志摩さんがとどめ刺そうとする所で。でも、何か知らんけど、志摩さんと神木さんが吹き飛んで。どうやら、宝くんが神木さんを襲っとったようでした。……そうや、志摩さんが、宝くんは理事長の持ち駒やって」
「ええそうです。しかし神木さんに攻撃を仕掛けたのは、のっぴきならない事情あってのこと。さ、続きを」
のっぴきならない事情とか、ツッコミたい気分もありましたが、今は吐き出して落ち着きたくて。
「それで、神木さんが『助けを呼んでくる』って言うたら、志摩さんが『それはアカン』言うて、……神木さんを気絶させて。宝くんが志摩さんのこと、イルミナティのスパイやって言うて。志摩さんはそんな大袈裟やない言うたけど否定はせんで、降りてくるヘリ見て上役が来た言うて。あてが神木さん渡して、言うても、渡してくれへんくって。なんでって聞いたら、『上役に叱られるから』、上役って誰って、『イルミナティ』って。……そこで、あて、志摩さんのことまじないで縛って神木さん奪って、そしたら宝くんに妨害されて、宝くんに対応してたら、志摩さんに神木さんよこせ言われて、後ずさっとったらヘリから出てきた人に急かされた志摩さんが迫ってきて、逃げ切れなくて、起きたら、今です」
坊も子猫さんも、拳を握って、俯いていました。私は脱力して、天井ばかり見ていました。
「何が、あったんですか。今、志摩さんは、神木さんは、宝くんは、どこですか。イルミナティとヴァチカンと理事長と、どういうことになっとるんですか」
「そうですね、私が見たものをお話すれば。イルミナティとその総帥、光の王ルシフェルが、正十字騎士團に宣戦布告をしました。魔神サタンを復活させ、
……私、やっぱりまだ頭動いてないんでしょうか。よくわかりません。
「……つまり、志摩さんは今」
「ヘリに乗って、どこぞに消えたわ」
坊が低い声で言いました。言わせてしまったことを後悔する前に、理事長が言います。
「ということで冬隣さん、あなたも
「は、はい……」
「ああ、あと宝くんはあれでも私の雇用した大事な監督役です。救出任務にも一緒に向かってもらいますし、これ以上の衝突はしないように」
「え、でも、待ってください、おかしいですよね、宝くんは神木さんを……」
「おっと、時間だ。私はこれで失礼します。あなたも大事無いとは言え怪我人です。しっかり休んで、明日の出発に備えるように。それでは
背を向けて出ていく理事長に、何も言えませんでした。理事長が完全に医務室を出て、少ししてから坊が言いました。
「もう休み。明日は正十字学園駅に7時45分に集合や。荷造りとかもあるやろ」
「や、一遍寮帰ります……。化粧落としたいし」
「ほな送るわ。もう出れるか」
「はい」
ベッドから起きて靴を捜すと、子猫さんがどこかから出してきてくれました。本部の方に置いていたはずの荷物と、投げた二本の金剛杭は横のカゴに入れてあって、持とうとしたら坊が脇から攫っていきました。それを見た子猫さんが、坊から荷物を受け取ろうとして、金剛杭だけ渡されていました。どちらもそんなに大きくないのですが、ここは大人しく持ってもらうことにします。一歩踏み出そうとして、ちょっと足元がフワついたかな、と思った瞬間坊の腕が背中にきます。
「寝とったほうがええんやないか」
「いや、これたぶん脱水です。……喉乾きました」
「外に自販機あったな」
視線をめちゃくちゃ感じながら建物を出ると、外は明るく、人の気配がしました。あちこちに悪魔の影が見えます。ここ、理事長の結界があるはずなのに。
「宣戦布告の攻撃て……、結界破壊してったん?」
「みたいや。あちこちで爆発があって、
子猫さんが教えてくれて頷いて、今なら理事長の結界の仕組みとか調べやすいんやないのと少しだけ思った謎の職業意識を脇にやっていると、坊がスポーツドリンクを突き出してきました。
「あっ、すんまへん」
「ええから飲め」
蓋も開いています。500mlのそれを飲んでいると、ううん。
「坊、あて穴が空きます」
さっきからずっとそうです。坊こっち見すぎです。あと過保護です。理事長の過敏というのは、きっと洒落でも悪趣味でもなかったのでしょう。
「ほんまに何ともないんか。さっきまで気絶しとったのに、明日から任務やなんて」
「元気ですて。子猫さんかて腕折れたまま任務行ったし、あてもこの状況で留守番は耐えられませんわ」
「……そうか」
坊が背を向けました。私はスポーツドリンクを飲み干して、自販機の脇にあったゴミ箱に捨ててから、また歩き出します。誰も、何も言いませんでした。
イルミナティは、まず、マトモな組織ではありません。サタンの復活だとか言ってることのスケールが大きすぎてよくわかりませんが、大きく危ないこと掲げすぎです。破壊行動もとったようですし、とてもじゃないけど仲良くなれる組織でないのはわかります。大きすぎる目的にどう神木さんが関わるかわかりませんが、了承して連れて行ったわけでない以上よくないでしょう。
フェレス卿とヴァチカンはどうなっているかわかりませんが、どちらもイルミナティを敵としている点では同じようです。しかし、フェレス卿の手先であることをフェレス卿自身も認めた宝くんは神木さんをイルミナティに攫わせる協力をしていたようにしか見えませんでした。
神木さんは、少なくともイルミナティで良い暮らしをさせてもらえるとは思えません。だからひとまず、それを助けに行けと言う指令には、従えます。
宝くんはフェレス卿の手先で、神木さんをイルミナティに渡すのを協力しているように見えました。その神木さんを助けに行く任務に一緒に行くなんてわけがわかりません。裏切られたらどうするんですか。しかしそもそも、この神木さん救出任務は他ならぬ理事長の命のわけで、……ちょっともうわかんなくなってきました。警戒だけしておきましょう。
そして、廉造さんは。……廉造さんは。イルミナティの、スパイだそうです。本当はイルミナティの人間で、正十字騎士團に潜り込んでいたそうです。つまり、騎士團の、明陀の、私達の敵だそうです。お寺の人がそんなことするはずない、とはもう言えません。お寺はもうなく、私の背中には痣があります。……でも、私、今、生きてるんですよね。
そう、生きてて、坊が過保護だと思えるくらい、明日の任務にも行けそうなくらい元気なのです。サタン復活を掲げる組織が、人殺しを躊躇うとは思えません。廉造さんが人殺しを躊躇ったとしても、廃人にするなり、明日の任務には行けなさそうなくらいの深手を負わせることも、あの
そもそも、やたらめったら大きなスケールの悪そうなことを掲げるような組織に、廉造さんが迎合すると思えません。あの人わりと慎重ですし、大きい目標なんてアホらしいと思ってるタイプです。何か、何か事情があるのではないでしょうか。事情なんて、知りませんけど。でも、いつから、私、廉造さんの全部を知っていると思っていたのか。坊のことだってあんなに、わからなかったのに。……わからないからこそ、あんな思想を本当は持っているかも、わからないんですけど。
でも、私が敵と認識して対峙したのに、廉造さんが私を敵と思っていなかった以上、廉造さんが何を考えていても、廉造さんは私の敵にはなりません。それが敵にもならないという意味だったとしても。仮に神木さんの敵で騎士團の敵であったとしても、私の敵では、ありません。
考え事しているうちに女子寮の前につきました。坊と子猫さんが荷物を返してくれて、おやすみなさいまた明日を言ってから入ります。この時間は施錠されているはずなのに開いているのは、どこかの差し金でしょうか。足音を殺しながら廊下を歩いて部屋のドアを開けると、やはり明かりは消えていて、私はデスクの電灯を着けました。
「鶯花ちゃん」
衣擦れの音。朔子ちゃんがベッドから起き上がりました。
「おかえりなさい。倒れたって聞いたけど、大丈夫?」
「おん、もう平気や。明日には神木さん迎えに行くし、大丈夫やよ」
「そう……」
パジャマの朔子ちゃんは電気をつけました。消灯後、部屋の電気は一括管理で豆球しかつかないようになっているのですが、祓魔塾生の部屋は便宜が図られています。
「じゃあ、ちょおシャワー浴びてくるな。朔子ちゃん、寝とってええよ」
「ううん。何か温かい飲み物でも用意してるね。……実は全然寝付けなくて」
朔子ちゃんは困ったように笑顔を作って言いました。風呂セットを持って、シャワールームに向かいます。消灯後も使えるのは右側、奥から三番目の個室。これも祓魔塾生向けです。もっと大人数で汚れて帰ってきたときは、寮母さんに頼むことになっていますが、今は、一人です。
せっかく貼ってもらった湿布も剥がして、胸の化粧も落として、シャワーを浴びて、ピアスの穴の消毒もして、それから部屋に戻ると、朔子ちゃんはホットミルクを用意してくれていました。新しい湿布を貼ってもらってからミルクに口をつけると、はちみつの甘い香りもします。二人で何も言わないままそれを飲み干して、ふう、と同時に息をつきました。
「だめ、全然眠くならないや」
「あても。もう、明日の荷造りしよ……。朝バタバタするの好かんし……」
「あ、じゃあ、ちょっと荷物のスペース空けてもらえる?」
「
「出雲ちゃんの着替え、私が用意するから……」
旅行かばんを引っ張ってきて、服や色々詰めました。奥村先生からの一斉送信のメールによると、移動は私服になるけどいざ作戦となれば制服で行動するようです。朔子ちゃんは、どこか服屋さんの袋に神木さんの制服一式を入れて、私に託してくれました。