どん、と底につきました。真っ暗ですが、ひとまず床があって生きています。ウエストポーチからライトを取り出して点けると、そこはコンテナのような場所でした。確認しますが、ここには私一人で、落ちてきたパイプはシャッターが閉じており、床にある排水溝は浅すぎます。そして。如何にも怪しい、向かいの柵。ライトを物音のするその向こうに向ければ、そこには、異形の
にく、と唸っているようですが、既に人の姿はとどめていません。人のパーツはあるのに、もう決して人ではありませんでした。巨体には大きすぎる頭部が三つ、頭というよりウミウシのように生えていて、そのあちこちから腕が突き出して無秩序に生えています。下の方には足がびっしりムカデのように生えていて、動きにくそうに足同士をぶつけていました。人間が癒着したともいえない、再生に失敗したとも言えない、いっそ
ひとまず、コンテナの四隅に大きめの金剛杭を設置しました。床に刺さらなかったので置くだけですが、本来目安の部分が大きいため刺さらなくてもひとまず問題はありません。そして、上の結界が一つだけ残っているのでそれを解界します。我ながらあの状態で一つでも残したのはすごいです。そう、きっとすごいので、大丈夫。大丈夫やから。震える手を握り込みます。大丈夫やから。朔子ちゃんが、大丈夫って言っとったから。
「オン・キリキリ・バザラバジリ・ホラマンダマンダ・ウンハッタ」
コンテナの内側に、結界が展開されました。
「オン・ビソホラダラキシャ・バザラハンジャラ・ウンハッタ」
虚空網。結界に網目のような構造が張り巡らされます。これでだいぶ強度は上がりました。
私の怪我は軽微です。右頬と両手の横が少しすりむけて、後頭部と左肩を軽く打っただけのようです。動くのに支障はありません。荷物も全部揃っています。
皆はどこにいるのでしょう。私と同じようにコンテナで
ただ座して待てる状況ではありません。しかし、外の偵察をするような事もできません。なら、出来るのは頭を動かすくらいでしょうか。上の
それにしても、実験とは九尾の憑依実験とばかり思っていましたが、本当にそうでしょうか。観光客という以上悪魔の血の混じっていない普通の人が大半でしょう。九尾だって薬で憎しみなどを忘れた人間に憑くような悪魔ではなかったはずです。そんな成功率の低そうな憑依実験をあんなに繰り返すでしょうか。それに、目の前の異形の
突然、照明がつきました。眩しすぎて目をつぶります。まぶたの血管が見えるような状態から少しずつ落ち着いて目を開けると、ガシャンと音がしました。
柵が、どんどん開いていきます。しかし
しかし、私はいずれここを出ていかなければならないのです。そのためには結界を解く必要があって、つまり
「……試すか」
立ち上がり、ライトを消して鞄に仕舞って、代わりに金剛杭を一本握って
「マ!
結界とは世界に壁を挿し込む
この
そもそも、これでトドメがさせるのでしょうか。生き物は酸素がないと活動できませんから、こんなになっても窒息には弱いはず。再生するにしたって元手が居ると思いたいのですが。
三つ目の口を塞いだ時、二つ目の口の結界がずれました。解いてやりなおしです。あかん、ほんま、集中せんと。もともと窒息させるのに、無駄に苦しませることになります。
「おな、か、すいたぁぁあ! にく、にく、お゛にく!!」
「あ、あてを食ったってあんたは腹一杯にはならんよ!」
そう、そもそもこれ、人なのです。なんで、なんでこんなこと。やっぱり、
「でモほしい゛ぃぃぃ」
……
「っ、せやけど! 何をどんだけ食ってもおんなじや! 残るのはあてを食ってまったって罪と後悔だけ。餓鬼ゆうのは、そうゆうもんやから……」
「おなかすいたタオナかすいたおナカすいだあ゛あ゛あ゛」
「なあ、あんた、もうちょっと大人しゅうできんの。鞄に、チョコレートなら入っとると思うんやけど」
「イ゛けナぁい゛」
「肉は持っとらへんけど、チョコレートならあるし、大人しゅうしてくれれば、どっかで用意だってするえ」
「おながすイダのやだぁあ゛ア゛あ゛」
噛み合うような噛み合わないような会話。結界に体当たりしてきますが、結界はやはりびくともしません。
「今は無理やって、なあ、ほんま……」
「おにぐおにくオ゛ニ゛く」
「もう、喰うことしか、考えられへんの?」
「たべだぃイいいイ」
この後。この後騎士團が、ここを潰して
「恨むなら、あてを恨んでな、ってのも、どうなんやろう」
「おなかすい゛たおなかすい゛たおな゛かすい゛タカナシイ゛かなしい」
「……マ」
喋っていない口を、塞ぎました。続いて、度々呻く口を。最後に、喋る口を。
もがき身を捩るのにあわせて結界を調整します。集中しなくちゃいけないのに、実際、とても集中しているはずなのに、結界の外で蠢く様子を見ていると、ぼーっとします。そのうえ頭の芯は冷えてて、なんだかいやな感じでした。
前に、子猫さんに褒められたことがあります。
「鶯花さんはほんまに結界が上手やねえ」
その時は馬鹿の一つ覚えと返しましたが、もし。もし私が結界を張るのが上手いとすれば、その理由はきっと、“隔たれる”という感覚が私に深く根を張っているという、ただ一点のみでしょう。
夏の日でした。他の季節にも同じようなことはあったと思いますが、あの夏を一番覚えています。私は風通しが良くて日の入らないお堂の、一番涼しいところに、蚊帳を張って寝かされていました。幼稚園の頃でしたがもう夏休みで、坊らもあねさま達もお寺で遊んだりお手伝いをしたりしていました。
私は魔神に炙られた内臓の調子が悪かった上に夏バテが重なって、物が食べられなくなってしまい、微熱が出たので、動けませんでした。兄やあねさまらなど皆お堂に会いに来てくれましたが、蚊帳の中には入らず、外から何か欲しいものはないか聞いて、それでまたお手伝いに戻っていきました。蚊帳の中にひとりきりなのが寂しくて悲しくてどうしようもありませんでした。蚊帳は蚊も入りますからそうそう人が出入りするものでないのはわかっていました。皆お手伝いやお仕事で忙しいのも、私が退屈なのだから一緒にいても楽しくなくて、だから一緒にいてくれる人がいたとしても申し訳ないのもわかっていました。わかっていても一人きりに変わりはありません。蚊帳の外では、誰かの遊ぶ声や、足音、蝉の声、読経の声、色々聞こえました。全部、全部遠くにありました。檀家のおばあさんが、お堂の仏様の前にスイカを置いて念仏を上げて、「お下がりは元気になったらお食べ」と、かわいそうなものを見る目で私を見て言いました。絵本を読んだりすると熱が上がるので、蚊帳のてっぺんだけ見ていました。お線香の匂いの中で、ぬるい麦茶だけなめるように飲んでいました。
そのうち、坊と子猫さんと廉造さんが来ました。蚊帳の中に来て、トマトを出してくれました。八百造様の畑からもいで、裏のせせらぎで冷やしてきたとのことでした。坊が「くわんからげんきになれんのや」と言いました。子猫さんは「トマトがあかなると、いしゃがあおうなるいいますしね」と言いました。廉造さんは「かってにもいできたけど、おうかさんもたべるならおとんもゆるしてくれるやろうし、おいしいで」と言いました。私は体を起こしてトマトを食べました。蚊帳の中に三人がいてくれるのが嬉しくてたまりませんでした。三人とも、今日どこで遊んできたとか聞かせてくれたり、お土産に何か欲しいかとか聞いてくれました。
しかし、トマトを四分の三ほど食べたときでしょうか。テンションが上って体調が良くなったように感じていただけで、むしろ朝から体調が悪化する一方であった私は、トマトを戻してしまいました。戻すべきところがなくて、麦茶を入れるように用意してあったコップに吐きました。
三人は慌てて、まず坊が、廉造さんに大人を呼んでくるように言いました。廉造さんが蚊帳から出ていきました。どうしたらいいか焦る二人に、口をゆすぎたいと言うと、今度は子猫さんが、代わりのコップをとりに蚊帳を出ていきました。残った坊が私の額に自分の額を付けて「ねつあるな」と言いました。そして、私の唇にまだ吐瀉物がついているのを見て、ティッシュを取ってくると言いました。
私は「いかんで」と坊の甚平の裾を、戻した後の震える手で掴んだのですが、坊は「すぐもどるで」と蚊帳を出ていきました。蚊帳の中には、私一人になりました。麦茶のピッチャーの載ったお盆と、布団と、私だけ。蚊帳は、薄布でできていて風が吹けば揺れましたが、それでも――。
同じお寺でも、みんなみんな蚊帳の外にいました。皆、別の事情があるのです。出雲さんだって廉造さんだって坊だって子猫さんだって、みんな。皆蚊帳の外で、皆別の事情があって。同じ道は、進めない。
あの時、ティッシュはお堂の反対の端の机の上に置いてありましたから、坊は本当にすぐに戻ってきて、涙目の私の唇についたトマトの皮を拭ってくれました。その後片付けてくれた志摩のお母さんに皆で怒られて、でも夕方の前に、
「別に嫁にいかんでも、ずっと寺におればええやないか」
ねえ、皆違う事情があって、別の道を進んでいても、同じお寺に居ると、思っていいのですか。お寺はもう、焼けてしまったのに。ピアスを触ります。まだ安定しないそれをまわして、それから。
いよいよ動かなくなった
「“仏も昔は凡夫なり 我等も
例によって釈明しきれない量の捏造アンド捏造ですが、もうそういうことということにしてください。チョコレートは雪山救助犬が持ってる酒とチョコ的なあれです。
最後に主人公が口ずさんでいるのは平家物語に登場する今様です。似たものが梁塵秘抄にも収録されています。意味合いとしてはみんな成仏できる身なのに区別するのは悲しい的なそのままの感じなんですが、平家物語中では仏御前という後から来た若い女性に夢中になった偉い人に捨てられた祇王さんが歌います。……流石にこちらの意味は彼女も含んでいないとおもいます。