花に嵐   作:上枝あかり

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夜間非行 2

 ヘリコプターで降り立った日本支部で味気ない食事を摂った後、とりあえずカバンに入っていた私服に着替えてお化粧もしてから、医工騎士(ドクター)さん付き添いの元鍵を使ってルーマニアに来てしまいました。日本支部であちこち行かされている時もアウェイ感がすごかったのですが、KRCラボはそもそも時間から違います。窓の外は真っ暗の夜中です。扉一枚鍵一本だったので実感がわきませんでしたが、ここ、外国なのです。私パスポート持ってないんですけど、違法入国とかどうなんでしょう。祓魔権の範囲にそういうのありましたっけ。メジャーなところしか覚えてないんですけど。

 病室のような殺風景で白い部屋に通されて、ここでしばらく待つように言われました。ベッドと、学校のものみたいな机と椅子しかありません。連れてきてくれた医工騎士(ドクター)さんは行ってしまって、しばらく荷解きをします。

 島根に行く支度をそのまま持ってきたので中身は把握しているはずですが、着ていたはずの制服が見当たりませんでした。血などで汚れていたはずなので着替えの時についでに処分してくれたのでしょう。着替えはもう島根に着ていった分しか無いので、洗濯機を借りないといけません。それとも、検査着が支給されるのでしょうか。化粧品は小分けでしか持ってきていませんが、検査ということならお化粧も制限されるでしょう。携帯の充電器もありますが、壁のコンセントは日本と形が違って充電器が使えそうにありません。そもそも、圏外でした。他には、鞄の底に文庫本が一冊だけ入っています。有名だからなんとなく買ったままだった、太宰治のヴィヨンの妻でした。今太宰は、ちょっと洒落にならなさそうなんですけども。それでもこれしか暇つぶしがないので、ひとまずベットヘッドの台に置きます。しばらくって、やっぱり朝まででしょうか。朝までまだだいぶありそうですが、さっきまで昼だったのでいきなり夜に来ても眠れそうにありません。圏外の携帯の写真フォルダを開きました。東京ですら遠いと思っていたのに、私はどこにいるのでしょう。

 ボーッとしていたのはほんの少しで、扉がノックされました。思わず「どうぞ」と声を上げますが、せめて英語で言うべきでした。英語では何と言うのでしょう。ドアを開けようと立ち上がると、ドアが開いて若い女性が入ってきました。少なくともアジア系に見える顔です。

「はじめまして。あたしは君の担当をする井上(より)です。今から今後の予定について説明するから、そこに座って?」

 井上さんは日本語で言いました。指した先にはベッド。井上さんは部屋の隅の机のところから椅子をベッドの脇に持ってきて座ります。

 お話は、まず言われたとおりに今後の予定。一通りの検査をするけれど、私の検査データや()のデータ、研究者の思いつき(なにせ前例のない事なので)によっては検査がどんどん増えるので帰れる時期は未定であること、時差に考慮してなるべく日本時間でも活動する時間に検査を入れるけれど、やはりルーマニア時間に慣れてほしいこと、自分が世話役であるので欲しいもの、困ったことは何でも相談してほしいこと。

 その後、井上さんは自己紹介してくれました。日本の祓魔塾を卒業した日本人だけど、研究畑に入ったのでKRCラボにいること。本来の研究分野は悪魔に汚染された場所や人の浄化についてだけど、同性の日本人で年が近いということで私の世話役を任されたこと。

 私も自己紹介しました。とはいえ、言うほどのことはそうありません。名前と、仏教(ブッディズム)系の候補生(エクスワイア)で、希望称号は詠唱騎士(アリア)医工騎士(ドクター)であること。その程度です。一応明陀宗のものであることは言いましたが、井上さんはそんな宗派も聞き覚えある、というくらいの反応でした。私の肩書なんて、騎士團では所詮そんな程度です。

「自己紹介ありがとう。何か質問ある?」

「……井上博士は、世話役なのにこんな未明に起きてきてくれはったんですか?」

「博士なんて呼ばれると照れちゃうな。別にいきなり起きてきたってわけじゃないから、気を使わないでいいよ。元々攻撃を受けて警戒態勢だったし、君の世話を任されたのは昨日の退勤前だったから、来るだろう時間に合わせて起きていたんだ」

「……いえ、それでも、ありがとうございます。これからよろしゅうお願いします」

「いいっていいって、もっと気楽にして。他になんかある?」

「……前例のない事や、言うてはりましたけど、ほんなら、あての検査とかは誰が担当してくれはるんですか?」

「ああ、それね。申し訳ないんだけど、やっぱり(グール)屍人(ゾンビ)研究チームが大きく関わってくるみたい。それでも、君は屍人(ゾンビ)じゃないし、不死薬(エリクサー)なんて(グール)チームどころかどこも専門外で未知だから、所長が見るって」

「しょ、所長はん……」

四大騎士(アークナイト)のドラグレスク博士ね。怖い人じゃないから大丈夫。……って、もう、こんなところにいるだけで怖いか。殺風景な部屋ね。花でも用意しましょうか」

「いえ、お気遣いなく」

 その後は、部屋を出て食堂やトイレなど、生活に必要な場所の位置を教えてもらって、日が昇ってから朝ごはんを食べに行きました。メニューはルーマニア語とおぼしきわからない言葉と一緒に英語表記があり、井上博士も訳してくれたので目当てのものが食べられました。その時の会計用に、IDカードを渡されます。

「それね、来客用のID。部屋のキーでもあるし、一日の上限額はあるけど食堂の会計もできるから無くさないで。滞在中の食費は経費で落ちるから好きなだけ食べちゃいな。おすすめはココアプリンね。あと、君の行っていい場所は全部そのカードで開くはずだから、検査室の出入り以外も図書室とか歴史室とか検査の合間に色々見ていいよ」

「はい」

 今日は問診と基礎的なデータの採取らしく、食後、一度部屋に戻って検査着に着替えてから別の部屋に行くように言われました。検査着に着替えて、井上博士の書いてくれた地図を見ながら目的の部屋に行きます。どうしても道に迷ったらIDと地図を見せて近くの人間に頼れと言われましたがちゃんと目当ての部屋に着きました。ノックすると、中からはまた日本語の返事が聞こえます。

「失礼します」

 中は狭い部屋で、机が一つと椅子が二つあり、椅子の片方には、窓を背にして初老の上品な男性が座っていました。

「はじめまして。僕は君の検査を担当するドラク・ドラグレスクです。さあ、そこに座って」

 言われたとおりに腰掛けました。モノクルをはめたその人は、手元にいくらか書類を持っています。

「に、日本語でええんですか」

「ええ、大丈夫です。騎士團はフェレス卿が日本支部にいることから日本語を話せる人間が多い。僕も日本で働いていたことがあります。技師もなるべく日本語が分かる人間にしておくので、何かあったらすぐに言ってくださいね」

「はい。すみません、ありがとうございます」

 問診は、当然当時の状況の聴取から始まりました。分かる範囲で説明した後、私もあまり判っていないと言うと、日本からの報告書を待ってそれに沿ってまた質問するかもしれないと言われました。日本からの報告書とは、奥村先生が書いてくれるのでしょうか。その後、現状について。ただこちらは、怖いほどに違和感がないので、何も言えません。軍荼利(クンダリ)さんについても聞かれましたが、頑張っても召喚されてくれなかったので、このあたりは日本から本来の継承者である蟒さまを呼ぶことになるかもしれないと聞きました。最後に既往症や体質について聞かれて、一応エリクサー摂取前24時間以内に黒い炎に軽く焼かれていることと、おきつね横町のクスリでハイになったことを説明しました。改めて考えると私の体短時間に変なもの摂取しすぎです。また、既往症として青い夜で火傷を負ったことを説明しました。火傷については予想通り、そちらの観察もするために今後化粧は控えるように言われました。

 問診後、私としては夕食に当たる昼食を摂って、身長や体重、視力を測るなど身体測定のようなことをされました。更に細胞の採取のため頬の内側を綿棒でこすられた後はもう眠たくなってしまっていて、仮眠を許されて眠りました。

 そして、感覚的に夜中に叩き起こされて、寝ぼけ眼で夕食を取らされた後、血液を採取されました。

 ただ、これが問題でした。半分寝ながら腕を出していたのですが、しばらくして、採血していた井上博士が、「だめだ」と言ったのです。その言葉の不穏さに目を開けると、井上博士は私の肘から注射針を抜こうと引っ張っているところでした。横にいたらしいドラグレスク博士に、井上博士は言います。

「やっぱり……癒着しています。針を刺してから2分も経っていないのに」

「正確な時間は1分43秒でしたね。……無理矢理抜くしか無いでしょう」

 ドラグレスク博士が、私の腕を押さえつけながらビデオを向け、井上博士が注射針を体を使って周りの皮膚ごと抜きます。痛みと一緒に血の溢れた傷口には、圧迫止血も絆創膏も必要ありませんでした。まばたきする間に塞がってしまったからです。痛みも消えて、そこには血だけが残りました。

「……っ」

 注射は、昔から何度もされたことがあります。最近だと、医工騎士(ドクター)の実習で、お互い刺し合ったりしました。その時には当然、こんなことありませんでした。こんな、見る間に傷口の塞がるようなことは。こんな、こんなの、人間では……。

「大丈夫。これで今日の検査は終わり。お疲れ様、眠たいでしょう? 日本時間では午前3時だ。起こしちゃってごめんね。送っていくから早く寝ましょう」

 井上博士が血を拭って手に触れて言いました。部屋についたら、水をコップ一杯飲まされて、気づかないうちに眠りに落ちました。

 次に目が覚めたのは、まだ窓の外が真っ暗の頃でした。殺風景な部屋を見渡すと、何も置いていなかったはずの机の上に何か置いてあるのが判ります。スリッパも履かずに見に行くと、そこには井上博士の署名入りのメモと本の束が置いてありました。メモには、明日……もう今日でしょうか。今日の予定と、本は私のために見繕ってきた本であるから自由に読むようにということが書いてありました。本は全部日本語で、五冊ありました。簡単なルーマニア語を学ぶ本と、ルーマニア語のフレーズ集、祓魔に関する本が二冊に、少し前に流行ったミステリ小説。祓魔の本は、悪魔への呼びかけについての本と、珍しい魔障の治療法についての本で、どちらも資料集のような感じで一つの項目は長くない、読み物としても読みやすいもののようです。メモによれば検査はルーマニア時間の朝から始まるらしく、ひとまず眺めるつもりで悪魔への呼びかけの本をベッドに持ち込みます。

 血液検査は、ああなることが予想できたから、私が眠たい時間にやったのでしょう。ひょっとしたら、あの水に睡眠導入剤でも一服盛ってあったのかもしれません。とっとと眠ってしまって、少しでもショックが和らぐように。ベッドヘッドのランプを点けてベッドの中で本をめくると、本の中身なんか頭に入ってこなくて、思い出されるのは自分の体のことばかり。私、どうなっちゃったんでしょう。どうなっちゃうんでしょう。傷が治るなら便利だ、なんて喜べません。これじゃあ人でなしです。心の支えにしていた、坊の開けてくれたピアス穴だってなくなってしまいました。もう、耳を触っても落ち着くことはありません。むしろないことを確認して、悲しくなったり不気味に思ったりするばかりです。火傷の痕はまだ体にあり、薄くもなっていません。傷が治るというのなら、消えてくれればいいのに。いえ、今更なくなっても、いっそ、困るのでしょうか。そのまま横になって眠りと目覚めの間をさまよっていたら、朝になってしまいました。

 その日は、午前は学校でやったような体力測定を、午後はCTだのMRIだの画像系の検査をしました。仮眠をしながらルーマニアの時間に体を慣らしました。何人か日本語や簡単な英語で話しかけてきてくれましたが、知らない人が怖くてそんなに話せませんでした。誰ともまともに話していなくて寂しくて、どうしようもなく皆の顔が見たくなって携帯電話を開けましたが、携帯の電池は殆どなくなっていて、写真を数枚見ただけで電源が落ちてしまいました。生徒手帳の間に、廉造さんと学園祭で撮った写真が挟まっていて、それを見ていたら、もう二度と会えないかもしれないことに余計に悲しくなってしまったので、紙とペンをもらって祓魔の本を使って勉強しました。やることのなくなった寝る前には私の殺し損なった屍人(ゾンビ)のことを思い出しました。あれも、ここにいるのでしょうか。まだお腹が空いているのでしょうか。あの体と、私の体、今、どう違うのでしょうか。私もああなるんでしょうか。私も、人を食べたいと思うようになるのでしょうか。

 三日目、まだ睡眠が細切れでも少しは時差に少しなれた頃、蟒さまが来たと聞きました。ほんの少しだけど面会させてもらえて、まずまた無断で軍荼利(クンダリ)さんを喚んだことをご報告して、こんなところまでお呼びすることになったのを謝ると、蟒さまは、私が無事なのが何よりだとなぐさめて、コートに縋る私の頭を撫でてくれました。私はその日は、知能検査などを受けました。空き時間に図書室や中庭や、好きなところに行っていいと再び言われましたが、動きたくなくて与えられた部屋から出ませんでした。勉強をすると少しは落ち着きました。食人衝動も体が膨張することもないことに安心すると同時に、食事をしても勉強をしても声を出しても日本が恋しくなりました。日本では皆もう学校と塾に通っているのでしょうか。廉造さんはどうしているのでしょうか。帰りたくてもまだ帰れません。

 四日目には、ほとんど時差に慣れて、朝起きた後の筋トレなど日課を再開させることが出来ました。性格だとか攻撃傾向のテストを受けた後、井上博士が私に、街に出ないか誘ってくれました。検査着しか着ていないので、何かかわいい服を買ったり、ついでにブカレストの街を観光したりしたら、きっと気分が晴れると言われましたが、外に出るほどの元気がなかったし、やっぱりパスポート無しで入国したのが気になって、お断りしました。蟒さまとは食堂でだけお会いしましたが、ほとんど時間が被りませんでした。しかも、今日の夜中に帰るそうです。見送りはいいから寝ているように言われて眠ったら、悪夢を見て夜中に自分の叫び声で起きました。せっかく起きたので、蟒さまのお見送りが出来るかとおもいましたが、もう帰ってしまった後でした。悪夢の内容は覚えていません。でも、たすけてと叫んでいました。

 五日目の朝、井上博士から、帰る見込みが出てきたので、今度は日本の時間に体を慣らしていくと言われました。そして、後で日本と電話をする際に、祓魔塾と繋いでもらえることになったから、クラスメイトと話したらいいと言われました。何を話せばいいかわかりませんでしたが、電話ができると聞いただけで少し涙が出てきて、井上博士に悪かったので頑張って飲み込みました。

 日課となっている検査を終えた後、事務室に連れていってもらって、しばらくソファで待たされて、直に手振りで呼ばれました。知らない人に受話器を差し出されて、受け取ります。

「もしもし」

「もしもし。こんにちは、冬隣さん」

 奥村先生の声でした。私の声は上ずって、めったにないことですがひっくり返っていました。

「先に業務連絡を済ませますね。貴女と話す順番をまだもめているので……ちょ、兄さんうるさい。じゃんけんでもなんでもいいから静かにして……。コホン。ええと、まず、学校の方は塾で休んでいるのと同じ公休扱いになっています。出席日数には関係ないので、安心してください。クラスの方にはちょっとした検査入院と言ってあるそうですので、帰ったらその通り話を合わせてください。補習については学校の方は4月に説明したとおり、公休が一定日数に達したら年度末に補習があります。それまでは自己学習になりますね。塾の方は申請すれば予定を調整次第受けられますが、補修を受けずとも学習できるプリントを各先生が作ってくださっています。それに、皆冬隣さんのぶんのノートを取っているようです。冬隣さんの成績なら、少なくとも塾の方は補修を受けなくても大丈夫だと思いますよ」

「はい。ご丁寧にありがとうございます」

「いいえ。あと二三日はかかると聞いていますが、学業については安心してください。……で、順番決まりました? じゃあ一列に並んでください。最初はしえみさんですか? どうぞ」

「も、もしもし鶯花ちゃん!? も、杜山しえみです!」

 しえみちゃんの声でした。目を閉じて答えます。

「もしもし、冬隣鶯花です」

「わあ、鶯花ちゃんだ、良かった、体はなんともない?」

「おん、調子はええよ」

 奥村先生と話して少し落ち着いたのか、普通に、ゆっくり答えることが出来ました。正直元気とは言い難いですが、顔も見えない距離で心配させても心労が募るだけなのでよくないです。

「良かったぁ……。……えへへ、安心したら何話したらいいかわかんなくなっちゃった。帰ってきたら、一緒にお勉強して、いっぱいお話しようね。待ってるからね」

「あても早よ帰りたいわ」

「うん……。じゃ、じゃあ、代わるね。帰ってきたら、ルーマニアのお土産話、聞かせてね!」

「はぁい」

 しまった、ルーマニアのお土産話なんて一つもありません。少しは明るく過ごさないと。暗く過ごしている自覚はあります。

「……もしもし」

「はいもしもし」

 今度は出雲さんの声です。

「……あたしと三輪で、クラスの授業のノートも取ってるから。あんた、最近成績落ちてるんでしょ。先生が言ってた。朴も部屋掃除してはあんたのこと心配してる。……早く帰ってきなさいよ」

「あはは、こればっかりはあてが帰りたい言うてもしゃあないからなあ……。でも、おおきに」

「……、……じゃあ、代わるから」

「オレからお前に対して恨み言以外に何か言うことあると思うか?」

 これたぶん宝くんです。出雲さんにしろちゃんと名乗ってくれませんかね。わかりますけど。

「……詳しい事情を知らんので、反省はしとりますが後悔はしとりません」

「帰ったらオレの雇い主から聞け。お前の知りたいようなことは全部、もう知ってもいい頃だ」

「……は? それ、どういう……」

 何だか意味深です。しかし、受話器の向こうからは何も聞こえません。

「……もしもし?」

「もしもし、俺だ俺、奥村燐です」

「ああ、奥村くん」

「ええーー、どうしよう俺が喋りたいようなこと皆言っちまったな。アレは喋っちゃ駄目ってことにしたし、うん、俺もお前が帰ってくるの待ってるからな」

「奥村くん、アレって何?」

「あ、アレはアレだよ。帰ってきてからのオタノシミだよ。今聞いても混乱するだろーしって話になったから、俺しゃべんねーかんな」

 と、言われてしまえば気になります。うーん、少し考えてカマをかけました。

「……廉造さんの話?」

「だっ、だから言わねーって! あ゛ーっ、俺隠し事無理だわ。うん、子猫丸パス! あっ忘れてた、お前帰ってきたらうどん会やるから楽しみにしてろよ!」

 うどん会、ついにやるんですか。それは楽しみです。こっちじゃ和食ありませんし。

「……もしもし、鶯花さん?」

「はぁい」

 子猫さんです。ずっと立ったまま電話していたので、電話の置いてあるデスクの椅子に座りました。

「ちゃんと寝れとる?」

「時差あるから、ちょお難しいかも」

「7時間あるから、確かにきついかもせんねえ。ご飯は食べれとる?」

「おん、食堂の定期券みたいなんもろとるから、色々食べとる。……それに、夕食で上限額にならんと、向こうのおばちゃんが勝手に品増やすねん。ランニングできんし、太るかも」

「良かった、親切にしてもろとるんやね。……寂しない?」

「……そ、れ聞かはるぅ……?」

 もう引っ込んだと思っていた涙が、急に出てきました。電話を取り次いでくれた人が、スッとデスクの上にティッシュの箱を出してきました。

「っ、今もね、ティッシュの箱、出してもろて、めっちゃ、親切にしてもらっとんねん。せやから、ね、大丈夫」

「無理せんでええよ。お見舞い行けんし、はよ帰ってこれるとええね。待っとるよ。……坊に代わるな」

「えっ」

 慌てて受話器を肩に挟んで鼻をかんで涙を拭います。坊、きっと、心配してますから。

「……代わった」

「はい、鶯花です。元気です」

「……そっちでは、どないして過ごしとる」

「どないって、色んな検査ですよ。言うてええんかな。何や、体はもちろんですけど、知能とか性格傾向とかも調べてもらいました。医者でやることと同じみたいです。あ、でも体力測定もしましたね。高校のやつと比べるて言うて。せや、お話聞いとるかな、蟒さまかて来てくれましたよ。ご飯とかも美味しいの食べさせてもろとるし、暇な間には何やちょお珍しい祓魔の本貸してもろて勉強してます。ちゃんとやってますよ」

「……あかんか」

 坊は、少し黙ってから唐突に言いました。目的語がないのではぐらかします。

「えへ、何の話です。大丈夫ですて」

 せやから安心してください、と続けようとして、遮るように坊が言いました。

「俺はあかん」

「え」

 目的語はさっきからずっとありません。でも、言いたいことはなんとなくわかって、受話器を持つ指先に、血が集まりました。坊は続けます。

「多分皆そうや。少なくとも、俺はあかん」

 それは静かで、胸の底から、うつむいて産み落とされるたぐいの声でした。

「お前に会いたい」

 胸が締め付けられて、鼻の奥が痛くなって、我慢することが出来ないくらいに涙が溢れてきました。口を開けば、嗚咽と一緒に飲み込んだ言葉が出てきました。

「……あても、お会いしたいです。もぉ帰りたい。蟒さまにも全然会えへんかった。いややこんなとこ。知らん人ばっかりや。お寺帰りたい。がっこでもええです。帰りたい。坊のとこにかえりたい。子猫さんに会いたい。廉造さんにやって会いたい。出雲さん、後遺症とか出てませんか。しえみちゃんも奥村くんも、引きずってませんか。うぅ、やや、帰りたいです。はよお帰りたいです。お寺帰りたい、おやまの、おてら」

 自分で言っているうちにどんどん悪化させて、ついに泣き声を抑えられなくなります。

「やっぱあかんのやないか、無理すなや」

「ふううぅ、かえ、かえる、もういやや、かえる、かえる、帰る! うう、かえ、いやや、かえる、おてらかえるぅぅぅ……」

「……なぁ、でもっ……俺もお前も、昔には……」

 坊が、切羽詰ったように、声を低くして言いました。

「寺には、もう、帰れへんぞ……」

「っ」

 帰れへん。帰れへん。なんで、そりゃ確かに、もう、燃えてまったけど、でも。

「坊、サタン倒して、お寺、立て直すのは……」

「……俺がしたかったのは、寺立て直して、皆まとめることやった。でも皆、もう寺以外の居場所を見つけとる。今更昔には、戻れへんのや」

 いや、たぶん、泣きたいのは、坊の方です。坊は、その、廃寺の跡地の真ん中にいて、今や、そこには誰も、私くらいしかいなくて誰も戻ってこなくて、今後どこに行くのかすらわからなくて。だから、私が、泣くことじゃ。

「はい、そ、そうですね……。皆確かに、お寺以外の居場所、見つけてはるから、坊も、自分の、好きなこと、ね、見つけたほうがええですよ、きっと」

 ものわかりの良いようなことを言いました。坊もきっといっぱいいっぱいで、言ってたことは本当にその通りで。だから、それが一番いい、ただしい姿です。何の問題もありません。そうなるべきです。私もそうするべきです。未来に目を向けて思春期らしく自分探しでもするべきです。明陀が騎士團に入ってもう十年も経つのです。お山のお寺だって夏に燃える前からもうぼろぼろでした。今更すぎるくらいです。これが本当の形です。全部間違いありません。でも。――でも!

 ……でも、あなたやないですか。ずっと寺におればええって、あてに言ったのは、他でもない、あなたやないですか!!

 

 その後は、なんだか適当に繋いで会話を終わって、電話を継いでくれた人にルーマニア語でお礼を言って受話器を返しました。私を迎えにきた井上博士は、私の顔を見ると、次の検査まで時間があるから一度部屋でのんびりするように言って、途中の休憩所のコーヒーサーバーからミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーをもらってから部屋に連れてきてくれました。井上博士は仕事があったようで出て行ったので、私は一人ベッドに座って、紙コップのコーヒーを持っていました。

 何か読みたい気分で、ベットヘッドに置いてあった、文庫本を手に取りました。中身は短編集で、今のように気力がなくても読めるでしょう。しかし、頭から読む気になれず、ひとまず表題作から始めることにしました。目次のページからして、そんなに長くないようでしたから。

 表題作は、だめな男の人と、どうしようもないその妻の話でした。そうでした。この作家は、そういうお話で有名なのです。妻の視点の上品な言葉で、明るくもないストーリーがつづきます。子供もいるようですが、それでも、こんな男、縁を切ってしまった方がマシだろうに。そう思いましたが、坊はきっと、私がだめな女でも付き合ってくれそうなので、そういうことなのでしょうか。それとも、この妻は、そんな強さが無いのでしょうか。あの人が、こんな風に苦労しないといいのに。感情移入しきらないままに読み進めたお話の最後は、疲れ切って開き直った妻の、男へのセリフで終わっていました。帰る家を処分して、仕事場に住み込もうという場面のセリフでした。私はそのセリフを、口に出してみました。これだけは、私の口からも言えそうでした。男よりも妻よりも、私に似合う言葉の気がしました。白い部屋に、私の囁く独り言が落ちて、それを誰も、否定も肯定もしませんでした。

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」




 井上さんの名前は下鴨神社の御手洗社の別名“井上社”と糺の森の糺の字義を色々こねくり回した感じです。専門分野もそんな感じです。
 ヴィヨンの妻はかなり恣意的に要約していますが、自分に合わせて解釈するのは読書体験としてはありだと思っています。
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