奥村先生が青森に出張で、霧隠先生も同じような感じだとかで、不死薬摂取者として義務付けられた定期検診は湯ノ川先生がしました。今日は平日なんですけど青森出張って、奥村先生も大変ですね。奥村くんも一緒らしいですけど、平日に兼業
胸に当てていた聴診器を外して、湯ノ川先生はもう服を整えて良いと言いました。インナーを下ろし、シャツのボタンを止めてスカートの中に入れます。
「後は……怪我とかしてたら書いてってあるんだけど、最近怪我とかした?」
「ええと、ライトニングの教務室で
「うん、一応書いとくね」
制服の上着のボタンも止めて、そしてタイをいつもと違う結び方をします。フェレス卿からのアドバイスでした。私に口先の嘘は無理だから、嘘を本当だと自分で信じ込むように。それでも嘘に飲まれないように、何かを演じていると思えるように“衣装”を整えるように。タイをこうやって結んでいる私は、仕事のために嘘をつく私でした。いわゆる、形から入るというやつです。
お礼を言って医工部を出ます。今日はこの後、しえみちゃんと任務です。待ち合わせていた塾の教室を覗くと、坊に子猫さんに志摩さん、それから神木さんまでいましたが、しえみちゃんはいませんでした。
「皆さんお揃いやん。しえみちゃん見てへん?」
「さっきまでおったけど、今はこの後任務やってお手洗い行っとるよ。先に携帯に連絡してくれればよかったんに」
「あ、携帯壊したんよ。落として踏んでもうて……」
「えっ」
正確にはビルから私ごと落とされたんですけど。
「子猫さん、明日にでも携帯屋さん付き合うたって。そろそろスマホにしたいんやけど全然わからん」
「いや、早よせんと困るやろ? なら、この後ぽんちゃんにおるさかい、任務終わったら顔出したって。携帯屋さん予約とっとくわ」
「ごめん、おおきに」
そしてそのまましえみちゃんを待ちますが、誰も何も言いません。あれ、さっきまで教室から話し声がしてたと思ったんですけど。坊に聞きます。
「……なんやお話しとったんとちゃうんですか?」
「……お前の話やった」
「うぇ!?」
今日未明、理事長のところから寮に帰る時は、理事長の指ぱっちんで一瞬でした。それで私は謎の浴衣を脱いでいつもの寝間着に着替えてからベッドに入ったのですが、朝になって神木さんと朔子ちゃんに昨夜どこに出かけていたのか絞られたのです。どうやら夜中にベッドにいないのを確認されたみたいで。その件でしょう。神木さんが私をじっと見つめてきます。し、視線が痛い……。
「た、確かにちょっと深夜徘徊はしてましたけどぉ……、その、瘴気とか効くかなって確かめたくて……」
「……次からは俺も呼べや」
「も、もう行きませんよ。懲りましたから! ネ、志摩さん!」
「俺!?」
「え、志摩さんなんか知っとるん?」
「あんた、さっきあたしが言った時何も言ってなかったわよね」
実際、もう徘徊するつもりもありませんし、向こうの言いぐさからして狙われるということもないでしょうから問題ないでしょう。矛先が志摩さんに向いたあたりでしえみちゃんが戻ってきて、ありがたく一緒に任務に向かわせてもらいます。しえみちゃんはしていたという話の影響か私の顔を見て一つ頷いて、それから張り切って「行こう!」と言いました。
張り切ってみても、今日の任務は本当にちょっとしたお使いです。電車で隣町に行って、品物を受け取って、深部の浅いところに届けるだけ。この品物というのは、どうやら呪われた振袖らしいのです。既に一度志摩さんと子猫さんが受け取りに行ったそうなのですが、未婚女性しか持てないらしいとかで私たちにお鉢が回ってきました。
とある女性が練炭自殺をし、その際に着ていた振袖。中古で買った、古くても状態の良い品だったそうなのですが、よく見れば裏地には血の染みが有り、安かった値段も相まってこれは呪いの振袖だろうということで騎士團に来ることになったそうなのです。
そんなものは騎士團ではなくお寺に持ち込んでお焚きあげしてもらえ、と言いたいところですが、その女性が振袖を買うまでは自殺するような人ではなかったことや、遺体が通常ではありえない程にきれいな状態であったのもあって、騎士團は忙しい中引取を決めたそうです。それに、日本で悪魔歴史学をきちんと習った祓魔師は、まず呪われた振り袖のいい加減な焼却にいい顔しないでしょう。ライトニングあたりはしれっとライターで火を着けそうですが、私たちは
電車を降りて地図を見ながら依頼人の家に向かうと、八百造様と同じような年頃の女性が迎えてくれました。早速上がらせていただくと、仏間に案内されたので、お仏壇にお線香を上げさせてもらいました。そして、女性は部屋にあった桐箪笥を指して言います。
「実は来てもらう前に出しておこうと思ったんだけど、何故かタンスすら開かなくなって……。この間、男の子たちが取りに来てくれたときには開いたのに」
しえみちゃんと顔を見合わせました。あきらかに悪魔絡みで、かつ強力化している証拠です。覚悟して、件の引き出しに手をかけます。しえみちゃんは一応ニーちゃんをぬいぐるみサイズにして準備してくれました。
「よいしょっ! ……あれ?」
引き出しがすっぽ抜ける勢いで軽く開いてしまいました。中には大きな風呂敷包みがありますが、別に開いて襲ってくるようなこともありません。
「な、なんや拍子抜けやねぇ……」
「やっぱり、女の子を選んでるのかな……」
恐る恐る覗き込んで、それを持ってみますが、やっぱり特に何もありません。ならもうとっとと運んでしまうことにして、ご挨拶してお宅を後にしました。
帰りも電車ですが、二人共島根行きに使ったICカードの残高が怪しかったので入金します。私が入金している間は、しえみちゃんが風呂敷を持ってくれました。
「結構重いねえ。全部一式入ってるのかな? ちょっとずつ代わろうか?」
「んー、そう? あて力持ちやし平気やったよ。何ぞあった時、あてよりしえみちゃんの方が対応できそうやし、あて持っとるわ」
そして改札をくぐり、電車に乗ります。午後のまだ帰宅ラッシュというわけではない時間で、二人がけの椅子に座ることが出来ました。何かあったときのため、すぐには出ることの出来ない窓際の方に座り、風呂敷を膝の上に置きます。駅を出た電車は高架を走り出し……建物の間、沿線沿いの公園の地面が目に入った途端、ここが“高いところ”だとわかって。
怖い。クロの背中で揺られるのは別ですが、普通の高いところなんて怖くなかったのに。あの、落ちる時の内臓の浮遊が、その後死んだ事実が、背筋をぞくぞく這い上がってきます。
「鶯花ちゃん?」
「あっ」
しえみちゃんが心配げにこちらを見ていました。
「大丈夫? 気分悪い? 振袖、私が持とうか?」
「ううん……聞かはった思うけど、昨日夜更かししたから、ちょお乗り物酔いかも。ほら、寝不足やとそういうのキツイやん? 行きは平気やったけど、座るとあかんかなあ。いや、その、大丈夫、大丈夫やから、いや、逆に座ってたほうがいいかも……」
やっぱり嘘は苦手でした。どうしても取り繕うために言葉が増えて、自分でボロを出してしまいます。
「じゃあ、ちょっとだけど寝てたほうがいいよ。ちゃんと起こしてあげるから大丈夫。振袖も預かってるね」
しかししえみちゃんはそう言って、私の膝から振袖を持っていきました。しえみちゃんの厚意を受け取るために、窓枠に頬杖をついて目を瞑ります。でも、特に眠れるわけでもありませんでした。
しばらく後、最寄りの駅の名前を聞いて目を開けて、しえみちゃんから振袖を受け取ります。電車を降りて改札に向かおうとすると、しえみちゃんが私の方を見て言いました。
「あのね、鶯花ちゃんが悩んでることが、勝呂くんに言えないことなら、私にも言えないかも知れないし、今もういっぱいいっぱいなのかもしれないけど、その、話したかったら話してほしいし、頼ってほしいし……、私、鶯花ちゃんの力になりたいの。皆もそう。大丈夫だよ、一人じゃないよ」
一人じゃない。素敵な言葉でした。でも、一人じゃなくても、それが、私の望む形であるとは、きっと限りません。
「うん。おおきに。あんま心配かけたらあかんね。……でも」
その素敵な言葉も何もかも、私、これから。
「今ね、あて、やらなあかんことがあって。……今は言えへんのやけど、それがあるから、きっと、大丈夫やねん。その“やらなあかんこと”が、もうちょっと固まったら、しえみちゃんにもお願いするかもしれん。その時は、よろしゅう」
「うん!」
しえみちゃんは力強く言いました。心配気な感じをベースに、少しだけ嬉しさのような使命感が滲んだ表情。もう引き返せない所まで来てしまいました。つい昨日、ただの口約束しかしていないのに。それでも今、きっととっても上手に、お友達を騙してしまいました。
駅を出て支部に向かいます。いつか、しえみちゃんと口紅を買いに来たお店の前を通りました。ショーウインドウにはやっぱり色々、きらきらした化粧品が並んでいて、きれいになりたいなあとぼんやり思います。
きれいになりたいなんて、私から一番遠い感情だと思っていました。だって、目指してもしょうがないものでしたし。でもきっと、きれいで損をすることなんてありません。これが私の欲しいものだったのでしょうか。誰だって、きれいなものが好きです。私だって。きっと、坊だって。私が見違えるくらいきれいになったら、坊も、少しくらい、意識してくれるでしょうか。あの、赤い口紅と、それから何かで着飾れば、家族ではなく、女としてみてくれるでしょうか。
ええ、きっと。
しえみちゃんが急に立ち止まりました。
「今、なにか聞こえた……」
「どんな? あて、たぶん聞こえてへん」
「女の人の声だけど、何言ってるかまではわからなくて……。振袖からかな?」
「どうやろ……少なくとも、あては腕の中からは聞いてへん。様子は変わらんけどなあ」
腕の中を見ても風呂敷は依然、固く結ばれたままです。
「そっか……人混みだし、聞き間違いかな?」
「しえみちゃん、ひょっとしたら振袖に目ぇ付けられとるんかもしれん。あても気ぃつけるね」
「うん。後少し、頑張ろう! でも、そういえば今更なんだけど、それ、仮封印? とか、しなくていいのかな? 鶯花ちゃんはどう思う?」
しえみちゃんは言いました。確かに、喋った可能性もある以上、簡単な封印くらいはしたほうが良かったかもしれません。でも。
「うーん、要らんと思う。すぐ使うし」
「……使う?」
「あれ? あかん、間違えた。すぐ深部に渡すし、ええと思う」
なんだか妙な言い間違いをしました。振袖を渡すことを使うとは言えないでしょう。衣服ですし、普通使うというのは着ることでは。
「そっか、鶯花ちゃんがいらないって思うなら、そうだよね」
「信頼されとる……」
「だって、こういうのは鶯花ちゃんが一番だもん」
「あてにとっての一番はお兄なんやけどなあ、あてなんか全然や」
そう、全然で、嫌になってしまいます。任された仕事だって、出来るかどうか。でも、やるしかないですし。もう今更無理ですとは言えません。フェレス卿も、明日から研修を始めると言っていましたし。
そして、支部の中に入ります。守衛さんに挨拶してから深部へのエレベーターの方へ。入り組んだ建物を歩きます。赤い口紅と、それから、きれいな服でもあれば、私、坊に振り向いてもらえるでしょうか。でも、坊は他の可愛い女の子に振り向かない以上、無理なのです。……でも、きっと?
「しえみちゃん、あのね、お話聞いてほしいんやけどね」
「うん、なあに?」
長い長い廊下には、今ちょうど誰もいません。それでも身を寄せて、小声で話しかけました。
「あてね、坊のこと好きなん。これ、きっと坊困らはるから、内緒な。で、片思いって苦しいんやけど、せやけどね、坊がそれを知って、それであてと付き合うとか言い出したら、耐えられへん。坊が、ほんとうの意味でそれを望んどらんのにそんなん駄目やし、それに、それじゃあ絶対あて、幸せになれへん。でも、それが何でかわからなくて……。あて、自分が何が欲しいのかわからん……」
私の話を聞いたしえみちゃんは、少し驚いたように目を開いていたかと思うと、小声で聞いてきました。
「ごめんね、まず、一番最初のところから聞きたいんだけど、鶯花ちゃんは勝呂くんのこと、恋愛の意味で好きなの?」
「うん、せやねえ。恋愛の意味で好きや。坊以外とは、ダンスパーティー行きたなかったもん」
それを聞いたしえみちゃんは視線を伏せて、立ち止まって言いました。
「……本当にごめんね、せっかく話してくれたんだけど、私、恋愛ってよくわからないの。今鶯花ちゃんが言ったことも、難しくてよくわからない……。勝呂くんも絶対鶯花ちゃんのこと、大好きだよね。今鶯花ちゃんが苦しくて、それを勝呂くんがどうにかしてあげようと思ったら、それは駄目なの?」
「おん」
「どうして?」
どうして、どうしてでしょう。そこにきっと、私の、欲しいものがあると思うんですけれど。どうして、それが嫌なんでしょう。坊が、私のために、私の彼氏さんになってくれたとして、それで……。それから、どうするんでしょう? 手は今までも繋いでいました。ではたとえば、キスなんか。いや、だめなんですけれど、それは坊が望んでいないからで……ああ。
「……たぶんあて、坊に、欲しがってほしいんやろなあ……」
「今も、勝呂くんは鶯花ちゃんのこと大事で、どこか行ってほしくないと思うけどなあ」
「そうやないんよ、きっと……。そういう意味や、ないん。ごめんね、だいぶ、整理ついたわ」
「そう? でも、私、何も出来てない……」
再び歩き出します。欲しがって欲しい。きっとそれは、廊下で話すにはいやらしいことでした。歩きだしてしばらくもしないうちに、しえみちゃんがぽつりとこぼします。
「……あのね、私も内緒にしてほしいんだけどね、燐がね、私のこと、恋愛の意味で、好きなんだって。どうすればいいのかわからないうちに、燐、青森に行っちゃって。燐が青森から帰ってきたら、私、どうすればいいんだろう」
わあ。なんだか急に展開していました。いえ、思えば確かにダンスパーティ前の様子とかからして、時間の問題ではあったんでしょうけども。そして、どうするといっても。
「本当のこと言うたらええと思うけど……」
「本当のこと……? 私、燐のこと好きだよ。大好き。これからも、今までみたいに、友達でいたい」
「……ひょっとしたら、それ、奥村くんには、辛いかもせんねえ」
「どうして?」
相談する人を、間違えた気がしました。しえみちゃんが信用できないとか、頼りにならないわけではなく、ただ、向かないのです。しえみちゃんは坊と同じです。恋愛を、知らない人。でも、そう言えば私、なんでいきなり、廊下でそんな相談しようなんて、思ったんでしょう? しかしとりあえず今は、奥村くんへの同情を隠せません。
「……あても奥村くんやないから言い切れん、っていうか、あてと奥村くんあんま似てへんと思うけど、あてやったら、嫌かなあ。……さっき言ったとおり、あて、絶対片思いしてるって坊に知られたないけど、でも、どうやったってあての欲しい形にならんのやったら、……ずっとこのまま、何にも出来んくらいなら、いっそ、離れたいって思うもん……」
「好きなのに、一緒にいられないの? 恋愛の好きって、友達の好きとそんなに違うのかなあ……」
返事はできませんでした。深部に続くエレベーターの前の受付が見えたからでもあります。軽い手続きをします。私が名簿に連名での名前と目的と持ち込み物を書き込んでいる間、しえみちゃんが振袖を持っていてくれましたが、しえみちゃんは、まるで
「振袖、重くなってない?」
「うん? そんなことあらへんけどなあ」
「ううん、絶対重くなってる……」
書き終わってその手から風呂敷をさらっても、別に重くもなんともありません。振り袖の一式が入っているにしては、軽いものでした。まるで、羽衣のようです。きっと着心地もよいのでしょう。
「ね、しえみちゃんは、死ぬならいつ死にたい?」
「え!?」
「あてね、思うん。あの、不浄王のときに死んどくのが、一番やったんやないかって。確かに幸せやったし、死ねないかもなんて考える必要も、なかったし」
私が死んでも、きっと奥村くんや霧隠先生が坊を助けてくれたでしょう。それにあのときなら、私の恋心もきっと満足して死んでくれました。本当に、惜しいことをしました。
「ど、どうしちゃったの!? そんな事言わないで! ねえ、振袖、私が持つよ。だって、さっきから鶯花ちゃん、なんだかおかしいっていうか……きっとよくないよ!」
「あてが持ちたいねん」
するりと、風呂敷のおもてを撫でました。だって。……だって?
「だってね、あて、晴れ着持ってへんの。せやから、こんな素敵な振袖、憧れるわあ」
「……ねえ、そのお着物、どんなお着物だっけ」
「赤い、ええべべやん。地が鹿の子模様で、刺繍の百花とか、裾には箔糸で花の雲が贅沢に入った、綺麗な振袖……半襟付けた襦袢も、金襴緞子の帯も、他の小物もみんな入っとるから、着よう思えばすぐ着れる」
そう、私、こんな制服別に好きじゃないのです。スカートは短すぎるし、襟のピンクもタイの縞もけばけばしい色使いで、えづくろしい。どうせ派手なら、こんな綺麗な振袖を着てみたいものです。こんな素敵な振袖なら、きっと――
「鶯花ちゃん!!」
「……今あて、何て言うた? 中身なん、知らんのに……」
口から勝手に言葉が出ていたつもりでした。しかし、私はこれがどんな振袖か全部言えます。見たことなんてないはずなのに、まるで、自分の振袖のように。
「貸して!!」
血の気の引いたしえみちゃんが風呂敷を私の手から奪おうとしました。待って、それ、
そして、私の手は意志に反して風呂敷を握り、風呂敷は吸い付いたように私の手を離れません。自分の思い通りにならない身体と思考にさっと血の気が引きました。
「あかん……」
「あっそうだ……ニーちゃん!」
しえみちゃんの髪の毛をかき分けて小さなニーちゃんが出てきたかと思うと、あっという間にぬいぐるみサイズに膨らんで、しえみちゃんの腕の中に収まりました。
「
言いながら、しえみちゃんは
「たぶん……コクリコキッキレー!」
まじないを唱えた途端、目がチカチカするくらいに世界がはっきりしました。気づいていなかったけれど、今まで朧がかっていたということです。というかあることないこと平気で口に出したような。エレベーターの隅に向かって風呂敷をアンダースローで投げ捨てて、しえみちゃんにもまじないをかけます。その間にも、風呂敷の結び目はひとりでに解け、美しい振袖が蠱惑的に身を投げ出しました。閉鎖空間の蛍光灯の下、赤い色が毒の花のように床へしなだれます。
「どないしよう。とりあえず着いたら助け呼びに行こか」
「うん! 鶯花ちゃん、結界を張って、それで……鶯花ちゃんが行って! 私、ここで見てる」
「しまいこむなんてひどいわ」
「喋ったぁーーッ!」
異口同音でした。振袖は風もないのに舞い上がって、その姿を見せびらかします。
くらくらするくらいにきれいな振袖でした。口から吐いた言葉の通りの赤い鹿の子地で、裾には箔糸の布で表現された桜花の雲。他を所狭しと埋める刺繍は桜のみと言わず、梅に桃に椿に木蓮、沈丁花に木瓜と何でもありで絢爛でした。そんな爛熟した画面を締めるのは金糸銀糸でぬいとられた風の文様。花に嵐が見事に表現されたその裏地に、元凶の血が染み付いているのがひらめきの合間に見えました。
精神覚醒の呪いをかけたはずですが、今私、花の名前を全て当てました。図案化されていて、言われなくちゃわからないようなものを。まだ影響下にある、というか、きっと私、次の犠牲者として唾をつけられてます。
「着たいでしょう」
「きれいになりたいでしょう」
「愛されたいでしょう」
振袖から三人分の女性の声がしたと思うと、更に声を揃えます。
「あのひとに!」
声が頭の中でわんわん響いて、少し気分が悪くなりました。声が三人分ということは、元凶の血の主以外にも取り込んでしまっているのでしょう。強いはずです。幸い
「しえみちゃん、あかんわ。たぶんこれ、結界で囲んでも一人で対応できるもんやない」
「だよね……。鶯花ちゃんの携帯で塾の先生とか呼べないかな?」
「ごめん、携帯壊れとる……。せやけど、エレベーターの中やしそのうち誰か気づくんやないかな」
エレベーターは止まり、チンと軽いベルの音がなりましたが、私達が奥にいたので振り袖は入り口を塞ぐようにひらひらしています。外に人の気配はありません。となると、結界で持久戦でしょうか。しかし。
「……あて、心当たりの詠唱が一つあるん。せやけどちょおしんどくなりそうやから、逃さんようにする結界だけしか無理やと思うん。防御、任せられる?」
「うん!」
「おおきに!」
エレベーターの壁を利用して結界を張ります。自分たちを守る結界も張れないと冬隣の名折れですが、心当たりの詠唱はいかんせん難しいうえに、せっかく二人でいるのだから危ない橋を渡る必要はありません。しえみちゃんはニーちゃんを抱っこしたまま言いました。
「ニーちゃん、
「では、
しえみちゃんの茨が私達のいる一角を覆ったのを確認して、詠唱を始めます。息を吸って、朗々と、よく言い聞かせて、
「
「むつかしいことはいらないわ、さあ、袖を通して」
「ねえさまたちが着付けてあげる」
「きれいにしてあげる」
詠唱を開始すれば、振袖がふわふわとこちらに舞うように向かってきます。詠唱を始めた途端に動き出したということは、この詠唱が効くと思っていいでしょうか。しかし振袖は茨に覆いかぶさるも、棘にささることすらありませんでした。
「なぁに、とりつけない。王子様しか通れない、眠り姫の荊の城ってわけね」
「ロマンチックでとっても素敵」
「でも今はとっても小癪ね」
「
そんなロマンチックなものなのでしょうか。不思議に思って詠唱しながらしえみちゃんの方を振り返ると、しえみちゃんは言いました。
「これは花をつけない茨で……、だから、縫い目のない服しか掛からないの。普通の振袖ならきっと近づけないはずだから、安心して」
目に毒なくらいに美しい振袖を隠すように、茨の合間に色んなハーブが茂りました。パセリにセージ、ローズマリーにタイム。なるほど、これはきっとスカボローの市で有名な
「
「でもあなたは思うでしょう、むつかしいことを言うあなたよ」
「きれいになって振り向かせて、愛されたいって思うでしょう」
「その願いをかなえてあげる。きっときれいにしてあげる」
「
ちょうど、お経はそのようなことを説いていました。きれいに着飾るのは、悪いことではない、菩薩の境地である。このお経はちょっと特殊で、男女の愛や五感の欲望や、その、もっと直接的に言うと、セックスを肯定しているところもあるのです。それだけに難しくて、私も完全に理解しているとは言い難いものでした。でも、きっと、この
「それで、きれいに愛されて、死ぬの」
「若い時だけが盛りよ。女子高生なんて、まさにぴったりのいい時代」
「辛いことの前に死んでしまいましょう?」
「
しかし、口ではそんなお経を唱え続けながらも、振袖の言うのはとても魅力的に聞こえました。だからこそ、私はこれに目をつけられてしまったのです。影響されてあることないこと言ったつもりでしたが、そもそもあることしか口には出来ません。もし、もし。もしも、本当に、フェレス卿の話なんかより簡単に、願いを叶えてくれるなら。いけない、そんな、心を惑わされては。
「
耳をふさいで、お経を大声で唱えました。だって、それがかなったら、きっとどんなに素敵でしょう。私はきれいで、坊はそんな私を、そういう意味で欲しがってくれて、不死の身体や親しい人の死とか、そんなこと恐れないうちに死ぬ。それは確かに、私のほんとうに欲しいもののひとつの形でした。なんだか泣きそうです。精神覚醒のまじないは効いているのに、小細工なしの言葉だけがこんなに辛い。
「
赤い糸が、茨とハーブの合間から伸びてきました。通れないと悟った振袖の次の手でしょう。後ろから聞こえるしえみちゃんの息遣いは荒く、
「皆そう。私達もそう。桜だって、そうでしょう」
「醜いところなんて見せないで、潔く死ぬの」
「千年以上この国の人が愛してきた桜のあり方よ」
耳をふさいでも聞こえてくる、素敵な提案。もし本当に、今の私に、そんなことができるなら。それを振り払って、次、いつ、どんな救いが来るっていうんでしょう。カッとなって言っているわけではありません。ハーブの香りに、
「違う! 千年以上愛されてきた桜は、そんな桜じゃない!」
赤い糸が怯みました。しえみちゃんは私の手をとって握って、小指を隠すようにしながら続けます。
「ぱっと咲いて散る染井吉野は、江戸時代につくられたから。皆が愛したのは、山桜! 見た目は染井吉野ほど派手じゃないけど、のんびり咲いて、花が散っても葉っぱが出て生きてくし、さくらんぼだって成って愛されながら種を作るの。でも、染井吉野だって実はなるし、葉っぱを出して生きてく桜だよ! 若い時だけがいいなんて、絶対うそ! そんな、ありえない桜にあこがれて、私のお友達を連れて行こうとしないで!」
後ろから抱きしめるような姿勢でした。私、今死んだら流石にしえみちゃんに申し訳がたちません。悪魔に憑かれて死んだなら、神木さんに合わす顔がありません。そう、みんな悲しむに決まってて、それじゃあ死ぬに死にきれません。それは私の、本当に欲しいものではありません。
「
腹から声を出して詠唱を終えました。すると、赤い糸が溶けるように消えて、茨の外から振袖が床に落ちる音がしました。しえみちゃんがハーブを消して様子をうかがうと、やっぱり振袖は落ちています。そして、結界の外には異変を知って駆けつけてくれたらしい深部の人の姿が見えました。どうやら、切り抜けたようです。茨はニーちゃんの中に戻っていき、私は結界を解きます。駆け寄ってきた深部の人が振袖を包んで封印するのを見ながら、肩から力が抜けてため息をつきました。
「はぁ~……、なんとかなった……」
「うん……。鶯花ちゃんすごいよ、お疲れ様」
「いや、理趣経は難しいお経やねん。実際祓えたわけやないし、しえみちゃんがどうにかしたようなもんや。ほんまおおきに、ありがとぉ」
「ど、どういたしまして……」
しえみちゃんは頬を染めました。それから、深部の人のお仕事を少し手伝います。その後も状況報告やら、精神影響が後から出たら医工部に行くようにだとかで、結構時間を取られてしまい、これは子猫さんと携帯屋さんを待たせてしまっているかもしれません。解散してから地下の支部を地上に向かって歩いている時、しえみちゃんが口を開きました。
「ねえ、……なんで、振袖さんは、取り憑いてた
そういえば、そうですよね。なんで、そんな話にしちゃうんでしょうね。困っちゃいますよね。だって、おかしいですもん。あの振袖の四人目になりそうだった私だってそう思います。えへへ、と笑いました。
「あてにも、わからん」
「難しいねえ」
「ほんまに、ねえ」
かなり強めに趣味をぶち込んだ回です。恒例ですが何も信じないで下さい。
最初のタイの結び方については、しえみちゃんのようにリボン結びにしているなら出雲ちゃんのようなネクタイ結びに、出雲ちゃんのようなネクタイ結びにしているならリボン結びに変えているよ、って感じの意味です。
茨についてはスカボロー・フェアの歌詞の一節に、縫い目のないシャツを作って茨にかけておいてくれという意味の無茶振りがあってそこ由来です。
二人がやたら迂闊なのは既に影響を受けていることにしておいて下さい。たぶん模範解答としては最初タンスを開ける前に精神覚醒の呪いをかけるorタンスを開ける前に封印を考えておくことでしたが、オリ主がまさにカモであっただけで、例えばしえみちゃんと出雲ちゃんであれば作中通りの手はずで良かったはずです。