翌日の終業式の後、パーティーの準備ではなくフェレス卿の授業に向かいます。またろくでもないようなことを習って、でも授業が終わった後もぐだぐだと質問をしたりして引き伸ばしました。パーティーに向かう踏ん切りがつかなかったのです。しかし結局は私も忙しいと言って部屋から追い出されてしまいました。
仕方なく寮の部屋に戻れば、トナカイの耳をつけた神木さんとすれ違いました。先に旧男子寮に向かう背中を見送って部屋に入ります。そういえば、ドレスコードはクリスマスっぽい格好でしたっけ。……クリスマスっぽい格好って何でしょう。三賢者とか、聖母子とか、馬小屋の馬とかでしょうか。それとも、サンタクロースとか、トナカイとか、クリスマスツリーとか? どれにしろそれっぽい服の在庫はありません。あ、でも赤のワンピースがありましたっけ。もうそれがサンタってことでいいですかね。普段着なのでサンタというにはくすんだ赤ですが、他にないですしね。
そして赤のワンピースにニットのカーディガンを合わせて旧男子寮に向かうと……。
なんだか食堂はとんでもない有様になっていました。
漂う焦げ臭さ、床に溢れた謎の白い泡。きっと豪勢だったろう飾り付けは地に落ちて、逆さまのテーブルや床は焦げていて、それから無残に散らばるお料理や潰れたケーキ。そして、何故かみんな狂ったように笑っています。な、何の悪魔の仕業やろう、あてがしっかりしないと……。
「なんの騒ぎなん……?」
予想以上に怯えたような声が出ました。いやだって、しえみちゃんなんか涙目なのに、こんなひどい有様なのに、なぜ大爆笑……。
「いや、まあ、フヒヒ、見ての通りやって! あかん面白すぎる……!」
「どこが……」
とりあえず悪魔とかそういう物騒な話ではないようですし、掃除用具入れからモップなどを持ち出します。そしてバケツに水を汲んで帰ってくると、だいたいみんな落ち着いて片付けを開始していました。ひっくり返ったごちそうの救済策を奥村くんが立てています。そういえば準備していたはずのツリーもないですね。何かが起こって一気にすべて崩壊して、それが面白かったのでしょうか。蚊帳の外です。そもそも、パーティーの準備に参加できていないのに参加だけさせてもらうのも申し訳ないですね。ひとまずもくもくと食堂の原状回復に務めると、トナカイのきぐるみを来た子猫さんが声をかけてきました。
「あ、そうだこれ鶯花さんのぶん」
「えっおおきに、ごめん……」
「ええよ~、オマケでもろたやつやし気にせんで」
渡されたのはサンタの帽子です。室内で帽子ってどうなんだろうと思いつつ、衣装の一環ですし被ります。その後は奥村くんの立て直したお料理などを六階の奥村兄弟のお部屋に運んで、こたつに皆でぎゅうぎゅうに収まりました。
「じゃ、いきますか! ハッピーメリークリスマスバースデートゥーウィー!」
奥村くんの音頭で乾杯します。奥村くんの若干不安の残る英語力に坊が突っ込んで、でも英語議論になる前に奥村くんが鍋の蓋を開けました。急なことだったはずなのにたいそう美味しそうです。そしてお鍋が全員に行き届いたあたりで、覚えのあるファンシーな爆発が起こりました。フェレス卿が現れたのです。フェレス卿を皮切りに、色んな人がやって来ます。宝くんや、なぜか肩のないサンタモチーフのワンピースを着た霧隠先生、果てはライトニングまで。全員招待状を持っていましたので、しえみちゃんが送ったのでしょうか。お鍋は締めに雑炊をやって、いい加減人数が増えすぎてこたつの収容限界を超えたので未成年はこたつを追い出されてトランプで遊ぶことになりました。どうにもテンションを上げきれず、愛想笑いばかりしている気になります。
「うわ酒呑み出したわ。大丈夫か?」
坊が背後を振り返って言います。フェレス卿が虚空から洋酒と思しき瓶を出してライトニングと霧隠先生に歓迎されていました。全員私達の先生にあたりますが、仮にも教職が未成年主催の会でアルコールを……。
ババ抜きの方は奥村くんが長考の体制に入っています。手持ち無沙汰でこたつに残してきたコップを探しに行くと、あれ、間違えたでしょうか。さっきと違って林檎ジュースになっています。しかし、あたりを見渡しても私のと思しきコップはありません。緑茶を入れたつもりでしたけど、ボトルを間違えましたかね。でもこれ、なんだか甘すぎず酸っぱすぎず、よい風味がしてとても美味しいです。どこのメーカーやろう。高いやつかなあ。コップを持って座っていたところに帰ろうと、一番コタツに近かった坊の背後に立つと、何やら志摩さんに電話が来ているようでした。
「もしもし柔兄? ……え? 何の用なん? 今周りうるさくて……」
「柔造さん?」
「あ~……」
廉造さんはスマホを耳から離して、スピーカーフォンにしました。一体何なんでしょう。立ったまま坊の頭越しに覗き込みます。
「柔造! 俺や」
「柔造さん!」
「ご無沙汰してます」
「猫! 鶯花に坊も! 息災でしたか。実は俺、蝮との間に子供が出来まして」
おおっと!?
うっかりコップを取り落としかけました。さらっと何の話ですか。あかんあかん、頭ついてかへん……。
「なにっ、ほんまか!」
「はい」
「はッッや」
「えっなに?」
皆も興味を持ち出します。え、ええ、こ、こども……。廉造さんの言うとおりですよ、はっっや!! いずれはそうなるかなて思ってましたけどぉ! あ、あねさま今妊婦さんなん? お母さんになるん? え、ええー……、その、柔造兄さんとその後も色々あったんですねえとかいうゲスな話はやめて……、あねさまホンマに女の幸せってやつを……。あてもあねさまみたいになるとか思っとった頃がいっそ懐かしい……。もう、私の前にお手本となってくれるような人はいません。
「先日籍入れてきたんですけど、一族集まる正月に虎屋で式挙げさせてもらう運びになりまして……」
正月?
皆が声を揃えておめでとうございますと言っている中、固まってしまいました。正月。つまり、1月1日ですよね。決行は、大晦日、12月31日。
急に口の中が乾いて、ジュースを飲みました。全部飲んでも全然収まらなくて、背後のコタツにおかわりを探したら林檎のラベルの貼ってある瓶があったので、コップに注いでもう一杯。一気に飲み干します。
電話口からは蝮ねえさまの声が聞こえます。心臓がドキドキしてきました。一瞬ためらった坊はライトニングに許可されて、帰省を約束します。子猫さんも帰ると言った所で、坊の肩越しに私も口を開きました。
「あねさま、おめでとうございます。お正月って、1日ですよね? あてはもう帰っとる頃や。ほんっまにお体だけは気ぃつけてくださいね……」
あねさまの返事を聞きながら、もう一杯注いで考えながら飲み干します。どうしましょう。決行は前日です。どんなに少なく見積もっても二日はかかりますし、そもそも身内から裏切り者が出た後に祝言なんて無理です。
「どうかなさいました?」
フェレス卿が、未成年で一人コタツにいる私に声をかけてきました。話は聞こえていたはずです。なら、なぜ私が固まっているのかもわかるでしょう。ライトニングと霧隠先生も私を見ています。霧隠先生は事情を知っているのでしょうか。
「……思春期なんで、実のねえさまみたいに慕ってた人に子供が出来ると、色々考えるんです」
「ふむ。でも、大丈夫ですよ。そういうものです。
「……はい」
うつむきました。と、いうことは、きっと大丈夫なのでしょう。顔を上げてもう一度言います。
「はい」
落ち着いて輪に戻るためにもう一杯干したところで瓶を開けてしまって、隣にあった新しい瓶を開けてコップに注ぎます。だいじょうぶ、大丈夫やから、落ち着かないと。霧隠先生が言いました。
「ところで冬隣……大丈夫か?」
「はい、大丈夫ですよ」
一人で美味しいものを飲んでいるわけにもいきません。輪に戻れば、坊のコップがちょうど空になったところでした。持ってきた瓶をお見せします。
「坊、おいしい林檎ジュースありますよ」
「ん、ならもらうわ」
坊のところになみなみ注いで、余った分を飲み干した自分のコップに注ぎます。坊が口をつけた所で話しかけました。
「ね、おいしいでしょ?」
「確かにお前は好きそうな味しとるなあ」
「そろそろプレゼント交換しよー!」
しえみちゃんが言い出しました。それぞれ持ち寄ったプレゼントをくじ引きで交換します。しかし、どうもしえみちゃんと子猫さんの様子がおかしいです。顔がずっと赤く、どうもハイテンションで……。
「誰だ酒混ぜたやつ~」
あっ、あれ酔ってるんですか。こわ……。ええと、こういう時はお水でしたっけ。売れ行きの悪かったミネラルウォーターのボトルをしえみちゃんと子猫さんのコップに注いで飲ませます。その甲斐あってか、朔子ちゃんが来て一時的に更にテンションが上がった後のしえみちゃんはだいぶ落ち着いて来ました。子猫さんはまだだめっぽいですけど。しえみちゃんはもうだいぶ頭を重たそうにしています。部屋の隅に連れて行って、もう一杯お水を飲ませます。
「ちょっと休む?」
「うん……」
ずるずると横になりそうだったので、正座を崩してお膝を貸しました。奥村先生が様子を見に来ます。問題がなさそうなことを確認して、ブランケットを出してきてくれました。
その頬にかかった髪の毛をすっと払います。穏やかな顔をしています。いきなりの進路変更といい、絶対何かがあるだろうに、なんにも言ってくれんかったなぁ……。いえ、でも、きっと、地球の裏からだろうと、もししえみちゃんが困ってたら、助けに行きますからね。
ちびちびジュースを飲みながら楽しそうな皆を見ます。神木さんには、心配をかけ通しでした。多分この後もかけるので、ちょっと申し訳ありません。でも、他にやりようがなかったのです。奥村くんは、無事に
子猫さんは、きっと私がろくでもないことをしたらとても心配するでしょう。色んな事に考えを巡らせて、同時にひどく心を痛めそう。そして、私を――どういう形であれ――信じようとして、真相を見つけようと観察するのです。決してぼろを出せない相手です。
志摩さんは、なんとなく大丈夫な気がします。何せ裏切りの先輩ですし。でもそれはそれとしてスパイ稼業は心配ではあります。あの約束は今後も有効だって、思ってくれればいいんですけど。何らかの形で念押しといたほうがいいでしょうか。
そして、坊。うつらうつらしていて、故に隣にいました。きっと、二度と会うことはないでしょう。半端なことではこの人は追ってきます。その確信があります。でも、困ってはったら、助けに行きたいなあ。ずっと一緒だった人たちと離れるのだと思えば寂しくて、少し泣きそうです。まばたきをして涙をちらしていたら、隣で船を漕いでいた坊はついに頭をどんどん下げていきました。……どさくさに紛れて、しえみちゃんと反対の膝に誘導します。坊はしばらくもぞもぞと落ち着く場所を探して頭を動かしていましたが、うまくいったようで深く息を吐きました。
「坊も寝てもうた。……お疲れなんやなあ、ほんま、立派なお師匠様について頑張ってはるんやなァ」
「直接潰したのはきみだと思うなぁ」
ライトニングの方を見ずに言ったのにライトニングから返事がきました。それについてはうすうす気づいてきたのですがノーコメントです。注いで飲ませたのはあてやけど、用意したのはあてちゃうし。今となっては中身のあやしいコップを置いて、下を見れば膝の上にだいすきな二人。嬉しくないはずありません。人間の頭というのは結構重いものですが、幸せの重みです。ふふ、と一人で笑います。これだけでも来た甲斐ありました。あらざらむ、この世のほかの思い出に。顔を上げると様子を伺っていた志摩さんと目があいました。
「……言うてええ?」
「嫌な予感しかせんけどええよ」
ではお言葉に甘えて。両手でピースサインを作ります。そして……。
「両足に花~~!」
「異議あり! 片方はゴリラや!! 目ぇ覚まして!」
「はいチーズ」
「子猫さん後でその画像送ったってぇ」
「坊にも送ってええ?」
「やめてさしあげて」
ふざけたことを言っていると、眠りが深くなったらしい坊がいびきをかきはじめました。おそらくお酒が入っているせいでしょうか。開いた口元から若干よだれが垂れてきていて、スカートの方にハンカチをそっと添えておきます。坊のいびきで起きてしまったのか、しえみちゃんは目を開け、体を起こしました。そして膝の上の坊を見ると、ぽやーっとしたまま言います。
「勝呂くんだぁ……」
「坊やねぇ」
「杜山さん、お水あるよ」
志摩さんに呼ばれてしえみちゃんはぽてぽてお水をもらいに行きます。その間も響く高いびき。……うーん。
「……結構うるさいわね」
「……まあ、逆に静かなところで寝かせてやりてえよな」
「お開きまでまだ少しあるしね。下に一部屋、掃除して布団もあるはずだよ」
「えっマジで……? 知らなかった」
「ほな、あてが連れてきます」
「お、じゃあちょっと待ってろ」
片手を上げて言うと奥村くんは立ち上がりました。そして諸悪の根源くさい成人組の方に行きます。
「お湯用意してない?」
「この未成年、お湯割を知ってるね?」
「まー、獅郎が育てたしなあ。ほれ」
霧隠先生がいつの間にか用意されていたケトルを奥村くんに渡しました。奥村くんはそれを受け取ってから、お茶の入っていた空のペットボトルを取ると部屋を出て、それに水を半分ほど入れて戻ってきます。そして残りをお湯で満たすと出してきたタオルで包んで言いました。
「湯たんぽ出来たぜ」
そんな奥村くんの首に腕が絡み、奥村くんは悲鳴とともに倒れました。完全にタチの悪い酔っ払いと化した霧隠先生です。
「野暮だな燐! いらねーに決まってるだろ?」
「くっ……、ここは俺に任せて先に行け……!」
奥村くんは何か技が決まってそうな状態から湯たんぽを中空に差し出しました。奥村先生はそんな兄の震える手から簡易湯たんぽを受け取り、私の方を振り向きます。
「先に向かっていてもらえますか?」
「はい」
「雪男やめろ! 二人にしてやれ!」
「そんなこと言ったって、二人どころか寝てる勝呂くんを運ぶ人だって要るじゃないです、か……」
「よいしょっ」
恒例ファイヤーマンズキャリー。物音で振り返った奥村先生は一瞬黙りました。そういえば海で私が坊を抱えて走ってたの、奥村先生は見てませんね。
「……ドアを開ける人は必要でしょう」
「お願いします」
「冬隣、足元、気をつけろよー!」
奥村くんに何かしらのプロレス技をかけていた霧隠先生からの言葉を背に、奥村先生と一緒に階段を降りて行きます。人の多い部屋を出ると、廊下はしんとしていました。暗さと寒さと静けさがすり寄ってくるようでどうにも寂しくて、抱えた体をより強く抱きしめます。階段を降りて、先生が開けた部屋の中には確かに布団が置いてありました。先生は電気をつけて、床に布団を広げると湯たんぽを仕込みます。そこに坊の身体をおろして、掛け布団をかけました。
「良かった、起きなくて。冗談抜きでお疲れみたいや」
「ライトニングに連れ回されている、というあれですか」
枕元のフローリングに座って独り言のように言うと、予想外に奥村先生から話を広げてきました。起こさないような声量で答えます。
「らしいです。この間なんか、平日に連れ出されてたみたいで」
「……具体的には、どんな用事で?」
「いえ、あても機密やって教えてもらえなかったんですけれど」
「機密、ねえ……」
「ほんま、教えられんほど重要なことって、何なんでしょうね」
こちらの気も知らず、坊はすこやかに眠っています。私も坊の気なんて知らないんですけど。なんだか口が軽くって、まだ立っている奥村先生に言いました。窓の外の暗がりは既に私の外套で、すり寄ってきた寂しさはもう肌に馴染んでいました。
「……あてね、昔は本当に弱々しくて。ずっと何か悲しいことや辛いことがあって、ほんまに一人じゃよう生きていけなくて。今はそんなことありません。手を繋いでもらわなくたって、どこにでも自分でいけます。何なら、ああやって坊を運べます。……でもね、思うんです。坊の中では私は、ずっと手を繋いであげないといけない子供のままなんだろうなって。だから、何もかもうまく行かなくて辛いのかなって。もっと、もっとあてが強かったら、全部どうにかなってたんじゃないかって。……そんなはずあらへんのになあ。変な話をきかせました。ごめんなさい、忘れてください」
「……いえ。……わかりますよ」
「……えっ」
振り返ると、奥村先生はもうドアノブに手をかけていました。
「しばらくは様子を見ていてあげてください。眠ってしまった酔っぱらいは、万が一もありますから」
「先生?」
「何かあったら呼んでください」
奥村先生はそのまま振り返ることなく出ていきました。坊のいびき以外、もう何も聞こえません。
私は、坊に子供のように見られているから、恋愛対象にもならないし、手放さずにそばに置かれるだろうことが辛いから、ああやって言いました。奥村先生にああ言えば、後で私が騒ぎを起こした時に色々考えてくれそうだからでもあります。果たして、奥村先生は私の話のどこに、あんな言い方でわかりますよなんて言ったんでしょう。
奥村くんが言っていました。奥村先生は昔は身体が弱かったって。そう言いながら、入院した先生のために焼き魚の練習をしていました。ひょっとして、そのことでしょうか。でも今の奥村先生を、奥村くんが子供みたいに思っているはずありません。そりゃあ確かに魚焼いてましたけど、それだけです。でも、あの「わかりますよ」は、ただの相槌には。
……ひょっとして私、今後のための伏線を撒くくらいのつもりで、先生のダークサイドを垣間見てしまったんじゃないでしょうか。
「いやいやいやいやいや、ありえへんありえへん」
頭切り替えていきましょう。これ以上背負ったら潰れます。先生だって高一、少しくらいセンチメンタルでポエミーな気分に同調しちゃうこともあるでしょう、クリスマスですし。だいたい、後ろ暗いところなんてそうそう弱ってもないのに他人に漏らしませんよ。今後の狂言凶行の伏線でもない限り。
「ん……」
坊のまぶたが動きました。私の独り言で起こしてしまったでしょうか。様子を見ていると、坊はそのまま目を開けます。
「……鶯花か」
「はい、鶯花です。坊、寝てまったから、お布団用意してもらったんですよ」
「悪いな……。いま何時や」
「ああ、携帯とか置いてきてまった。でも、まだお開きまではあるはずですよ。眠たくないなら戻ってもいいかもしれません」
「なんや頭わんわんするし、ここおるわ。念仏聞こえてきた……」
「あら、何の」
「稽首正無動尊秘密駝羅尼経」
「
「おまえ、やっぱりええ声しとるなあ」
「はは、嬉しいこと言うてくれはる。でも、ちょっとお水もらってきますね」
部屋を出ました。ええ声だなんて。あんまりそういうこと言われると、色々恋しくなっちゃいそうでやめてほしいんですけれど。602号室の扉を開けると、皆揃ってこっちを向いていました。
「どないしたん?」
「お水もらいに……」
志摩さんがまっさきに言いました。何か話していたはずなのにまた会話が止まっていて、一挙手一投足注目されているみたいで居心地が悪いです。机の近くに居た奥村くんが新しいコップと水のボトルを渡してくれて、それを受け取ります。
「他何か要るものあったっけ……」
「コンビニ行くか?」
「霧隠先生!」
まだ顔の赤い子猫さんが唐突に霧隠先生にキレました。え、何の話……。子猫さんはそのまま続けます。その握ってるコップの中身、もう大丈夫なんですよね?
「何でそんなすぐに下世話な想像するんですかあ!」
「えっ下世話な文脈やったん」
まあ、そうなってもおかしくはないんでしょうか。私だって淑女ですし襲いやしませんよ。何かまくしたてる子猫さんを放置していいものか困っていると、志摩さんが肩を叩いて、口元を隠しながら言いました。
「あかんわこの人ら、子猫さんもやけど酔っ払っとる。坊みたく寝てくれればええのに……。しばらく避難しとったほうがええよ」
見れば、朔子ちゃんとしえみちゃんと話している神木さんも目線でドアの方を指しています。つまり逃げろと。半泣きの子猫さんの後ろをそーっと行きます。やっぱり暗い廊下を通って下の部屋へ。ドアを開ければ、出る時に電気を消したまま部屋の中は暗く、でも目が慣れているから外から入ってくる光だけで十分手元は見えそうです。寝息が聞こえるのでそのまま電気はつけず、暗闇に白く浮いた布団の横に座ります。水やコップを置いて顔を覗き込めば、物音か気配に気がついたのか、坊は薄くまぶたを開けました。コップに水を注いでいる間に坊が体を起こしたのでそのまま手渡します。坊はしばらくそのまま水を飲んでいました。私は窓の外を見ていました。冬の夜の静かの、冷たい肌触り。カタンと音がしました。坊がコップを置いた音でした。
「寒ないか」
「いいえ、別に」
「なあ」
呼ばれて振り向きました。酔漢のくせに案外真面目な顔をしていて、あら、と思いました。
「確かに俺は、寺はもうないって言うたけどな、お前を、放り出したつもりはない」
「いきなり、何の話ですか。わかってますよ」
少し笑ってしまいました。本当、いきなり何なんでしょう。
「誤解させてまった気がして……。お前の居場所は」
「志摩さんの入れ知恵ですね」
合点がいきました。いつか、面倒だったので志摩さんを盾に使った覚えがありますし、その時でしょうか。遮って続けようとした途端、坊が私の手を掴みます。
「鶯花」
「うん、大丈夫、わかってますよ。私の居場所はあなたのところだって」
絶望しちゃうくらい、骨身にしみてますよ。だから、私。手を引こうとすれば、坊は掴む力を更に強くしました。そして、もう片手で肩を掴みます。ぐっと顔を覗き込まれました。
「お前……何があったん」
「何があってほしいですか。それとも、坊はあてにあったこと全部知りたいですか」
「それや!」
「大声出さんでくださいよ、びっくりした」
眉をひそめて非難すれば、坊は静かに続けます。手と肩を逃さないのはこの人の愛情でした。
「それや。……何があった。お前、そんな、そんなこと言わんかったやろ。そんな笑い方、せんかったやろ。何なんや」
すっかり馴染んだ、男をごまかすやり方でした。悪魔仕込みの笑い方でした。良心のような、恋心のようなものが痛みました。私は未だ、その痛みに慣れません。目を見ていられなくなって、視線を伏せました。暗い冬の部屋で、手と肩だけが温かく感じました。
「……たぶん、それは武器なんです」
「何でそんなもの、俺に向けるんや。……なあ、お前今、何がしたいん」
そんなの、私が知りたいくらいでした。
日本支部を出て、この人の元を逃げて、どこに行きたいのか。裏切る私を頼れなんて言って、どう思われたかったのか。雨の中会いに飛び出して、何がしたかったのか。
ぼーっとしているとよく言われます。それではいけないとよく言われます。でも、ぼーっとしているのは、何がしたいかわからないからでした。欲しがって欲しいなんて言えなくて、叶えたくなくて、でも私、幸せになりたい。辛いのは嫌でした。
――結局、私の手を握ろうとしない坊の手を、私から握って、私は幸せになれないのです。坊の、いいように。それがいいのです。
いつか確かにそう思いました。前半部分はその通りでした。もし坊から私の手を握るようなことがあったら、その裏にある気遣いに死にたくなるに決まってます。でも、後半は、もう無理でした。違えてしまいました。坊のいいように、と思っていたら、先に私に限界が来て、あれよあれよとこんなところまで来てしまいました。私のいいようにも嫌で、坊のいいようにも嫌で。他に基準も見つからなくて。
「そんな顔すなや……」
「そんな顔って、どんな顔ですか」
坊はそれに答えませんでした。そのかわり、肩を掴んでいた方の手で私の頭をギュッと寄せて、わしゃわしゃ撫でました。
「すまん……いじめたいわけやないん。ただ、俺はもう、お前に何をしたったらええのかわからん」
「いいえ、大丈夫ですよ。あて、一人で、きっとどうにか」
「お前、いま、何が嫌なん。言うてみい、今はまだこんなやけど、俺が立派になって全部何とかしたるから、心配いらん……」
「いいえ、ぼん。あてね、一人でやりたいんです。一人でできるんです、いろんなこと。あてが何とかしますから。坊は心配せんでいいんですから。せやから」
顔を上げれば、坊は私の顔を見つめながら、言葉の続きを待っていました。その顔を見ていたら、全く関係ない言葉が落ちました。
「わたしきっと、あなたに頼られたかった……」
頼られたかった。胸の内を明かされたかった。仕事を任されたかった。役に立ちたかった。どうか降りかかる嫌なものを払わせて欲しかった。素敵な気分のお手伝いがしたかった。
何だ、こんな簡単なことだったのに。こんな簡単なことだったのに、きっと坊が坊で、私が私である以上、絶対に叶わない。
やっと、自分がどうしたかったのかわかりました。同時に、どうしようもないことだってわかりました。欲しがってもらうのも頼ってもらうのも、どっちも出来ません。私はきっと子猫さんにも志摩さんにも頼ってもらえます。しえみちゃんにも神木さんにも、奥村くんや、封印係の人にだって頼ってもらえます。なのに、坊に頼られないことだけがこんなにつらい。ぐすんと鼻をすすると、坊はお布団に倒れ込みながら私の顔を自分のお腹に押し付けて、首の付け根のあたりをさすりました。ファンデーションが着くのに、気にする素振りもありません。子供みたいにぐずって泣くのをとろとろ甘やかされるのは気持ちよくて、でも同時に、いよいよ腹がすわりました。
「俺は、お前が元気でいたらええん」
「元気やったら、何しとってもよろしい?」
「……元気で、危ななくて、楽しいなら」
「……はぁい」
言質はとりました。こんなにつらいなら、私きっといつか壊れてしまう。坊に愛されてるのに、嫉妬に狂ってつらさで壊れてしまう。そんな、坊に殺されるところ、坊に見せられません。
私は、この人と一緒にいられない。
ジュースです。たぶん。どの瓶からジュースでなかったかは、ご想像などにおまかせします。
勝呂くんの寝方については酔いどれ息子やその後の単行本おまけの描写を信じてる感じです。お酒入ると寝方がだらしなくなるタイプかなって先生監修の寝相キーホルダーとのギャップから思ってます。
途中で出てきたお経は酔いどれ息子回で出てきたお経なので出しました。